第一章 3 溶岩の池に浮かぶもの

 嵐はその晩もずっとつづいたが、入江に投錨した捕鯨船はほとんど揺れもせず、久しぶりにゆっくりと安眠することができた。


 翌朝は、嘘のような青天が頭上に広がった。

 船は、傷んだ個所を修理するために数日ここに停泊するという。

 リョウマは手漕ぎボートを借り、島を探検することにした。


 岸は波打ちぎわまでゴツゴツした黒い岩でできていて、砂地もなければ波でけずられた形跡もほとんどない。

 岩場を登りはじめてからも草一本生えていなかった。


「こりゃ、島そのものができたばかりなのかもしれんな。船長に聞いたが、こんな島は海図に載ってないといっちょった」


 おいらは驚いて周囲を見渡した。


「こんなでかい島がかい?」


「ちっぽけなわしら人間から見ればでかく見えるというだけじゃ。できたばかりといっても、もう何年もたってるのかもしれん。自然の営みの時間や空間は、人間の尺度や知識じゃとうてい計りきれんものなのさ」


 リョウマは笑っていった。


「ここは北窮海ホッキュウカイへの関門、アリョーシャン列島じゃ。アルジア大陸とラメリカ大陸のいちばん接近しているところをつなぐように、飛び石みたいに点々と小さな島が連なっちょる。どれも火山島だ。海の底から湧き出してきた溶岩が、どんどん積みかさなってできたものだ。これくらいの大きさの島なら、ほんの数日で噴煙とともに海の上に出現して、またある日忽然と消えてしまうこともあるというぞ」

「へえ」


 リョウマは何にでも興味を示すだけあって、いろいろなことにやたらと詳しい。


玖州キュウシュウ桐島山キリシマヤマという火山に登ったことがある。ここと同じで立木一本生えちょらんハゲちょろぴの山でな、てっぺんにはクモ逆鉾サカホコという青銅の剣が刺さっちょった。大昔に神さまが下界に降りてきた印だという言い伝えがあるそうじゃ。いたずら心でひっこ抜いてみた。さいわいバチは当たらなかったな。……いや、バチが当たっちまったから、おまえとこんなところまで来ちょるのか」


 リョウマの声にかすかに神妙な響きがまじった。


「どうしてわざわざそんなところまで行ったんだい?」

 おいらはたずねてみた。


 リョウマは何でも教えてくれるから、日ノ本ヒノモトの地理はだいたい頭に入っている。

 玖州は、古い都や今は首都になっているという東亰トウキョウからもずいぶん遠く離れた土地のはずだ。


「ウム……いや、ただの温泉旅行さ」


 めずらしくリョウマが口ごもり、表情が曇った。

 リョウマにもたまにいいにくいことがあるのだ。

 おいらは気をつかって話題を変えた。


「ところで、〝おんせん〟て何だ?」

「おお、そいつが目当てで島に上陸したんじゃ。地熱で温ったまったお湯が湧き出している場所のことさ。運がよければ旅のあか……いや、塩を流してさっぱりできるぞ」


 リョウマはとたんに元気づき、たなびく白煙を目指してさらに上へと向かった。


 分水嶺に立つと後にしてきた道筋が一望できた。

 島は中央からせり上がる斜面がぐるりととり巻くすり鉢状をした地形だと、手に取るようにわかる。

 その円い底に海水が入りこんで湾をなしており、薄汚れた捕鯨船がぽつんとオモチャのように浮かんでいた。


 おいらの視線をたどって、リョウマはいった。

「この湾が最初の噴火口の跡だ。大爆発を起こしながら海の中からずんずん盛り上がってきて、何百丈もの空の高みまで煙を噴き上げたことじゃろう」


 とても想像できる光景ではなかった。

 ワハイ諸島にはもうもうと煙を上げる山が見えたが、この島もいつかあんなにどでかくなるのだろうか。


「こっちはずいぶん印象がちごうちょる」


 リョウマが分水嶺の反対側を指さした。

 捕鯨船があやうく衝突しかけたのはそちらのほうだ。

 火口の外側に当たる。大人の腕でもかかえきれないほどの大きさの岩が、ごろごろと積み重なって山肌をなしており、それが急角度で海へとなだれ込んでいた。


「気をつけろよ。ここから転げ落ちたら一巻の終わりじゃ」


 リョウマはおいらの手を引き、弧を描く分水嶺にそって回りこんでいった。

 煙に近づくにつれ、鼻を刺すような強烈な匂いが漂いはじめた。


「イオウの匂いじゃ。吸い込みすぎると頭がクラクラきて、最後は気を失っちまう。こいつで鼻と口をおおっとこう」

 自分とおいらの分を一本ずつ持ってきたタウルを手渡していった。

 アウストリアからアルポス山脈をはるばる越えてミュッヒェンのホテルに泊まったとき、滞在の記念にこっそり拝借してきたものだ。

 フカフカして気持ちよかったが、今はもう洗いざらしてゴワゴワになっている。

 それでも大切にしているのは、布地に街はずれの山の上に見えた白亜のきれいなお城が刺繍されているからだ。

 その絵柄を見るたびになつかしくなる。


「温泉はあるかいのう」


 タウルで覆面をしたリョウマは、煙をもろに浴びないように慎重に風上に回りながら、大きな奇岩と奇岩の間を降りていく。


 ひときわ巨大な岩を越えると、斜面がごっそり落ちくぼんだ場所に出た。

 煙がもくもくと出ているのは上方の割れ目からで、姿勢を低くしていれば巻かれる心配はなさそうだった。

 手を置く岩からぬくもりが伝わってきて、海風の冷たさを忘れさせてくれた。


「おおっ。見ろ、新しい火口じゃ!」

 リョウマが興奮して叫んだ。


 血がにじんだように赤く輝く水溜まりのようなものが見えた。

 表面に黒いカスかゴミのようなのものがいっぱい浮かんでいるが、底からボコボコとねばり気のある新たな液体が湧いてきて広がると、またあざやかな朱色を取りもどす。

 黒く見えるのは、空気に触れた表面が冷えるためらしいとわかった。


「あそこに入るのか?」

 おいらは思わずブルッと身を震わせながらたずねた。


「べこのかあをいうな。あれは溶岩だぞ。岩石がとんでもない高熱でとろけた液体じゃ。あれが冷えて固まるとこういう黒い岩になる。あの中に飛び込んだりしたら、たちまち火を吹いて黒こげになっちまう」

 リョウマは眼をつり上げ、叱りつけるようにいった。


〝べこのかあ〟とはリョウマの故郷の土左トサの方言で、「バカ」という意味だ。

 だが、本人は完全に溶岩の池に眼がくぎづけになっていて、意味のよくわからないうす笑いを浮かべたりしている。

 まったく、どっちが子どもかわからなくなる。


 池の周りの岩には黄色い粉のようなものがびっしり付着していて、黒い岩と赤い溶岩とともに毒々しい対照をなしていた。


「あれ、何じゃろう……?」

 おいらの眼が、奇妙な形をしたものに引きつけられた。

「どれ」

「あれじゃ。あの丸っこいやつ」

「ウム。卵か……いや、まさかな。あんな場所に」


 それは一〇センチほどの楕円形をしていて、溶岩の表面からわずか数メートル上の岩の出っぱりの上にちょこんとのっている。

 丸い形は偶然にできたものと思えなくもないが、その白っぽい色は周囲からくっきり際立っていた。


 リョウマに説明を求めなくても、こんなひどい匂いのする毒の煙が充満する場所に、海鳥がわざわざ卵を産みつけにくるとは思えない。

 壊れやすい卵がどこかから転がってきたなどということは、さらにありえないことだろう。


 おいらとリョウマは、キツネにつままれたようなおももちでそれを眺めた。


「ん?」

 リョウマがのどの奥で小さな声を発した。


 おいらも気がついた。

 卵がかすかに震えた――いや、動いたのだ。


 風の強いひと吹きでもあったのか、岩の出っぱりからそれはあきらかにせり出してきていた。

 そしてゆっくり傾くと、ついにころりと転げ落ちた。


 あっと思う間もなかった。

 卵は下の溶岩溜まりへポトリと落下した。


 たちまちボウッと炎が上がり、湯気とも煙ともつかない気体がシュウシュウとそれを包みこんだ。

 溶岩の高熱の前に小さな塊はあっけなく燃え尽き、池の表面はまたすぐに元の状態にもどった。


 ところが――

 そこに何かが浮かんでいた。


「あっ」

「な、なんだあ!」

 おいらとリョウマは同時に声を上げていた。


 どう見ても〝それ〟は灼熱した溶岩の上に浮かんでいる。

 そいつがブルッとひとつ身ぶるいすると、赤い液体のしずくが周囲に飛び散った。


 すると、二人の声がよっぽど大きかったのか、そいつがクルッと小さな頭を回してふり返った。


 つぶらな瞳が二つ、まっすぐこちらを見つめてきた。


「に、逃げろ!」

 リョウマが腰を浮かせ、うわずった声で怒鳴った。


 いわれなくてもそうする。

 なんと、その動物が溶岩の池を横切ってこっちにむかってぐんぐん泳ぎ渡りはじめたのだ。


「早く行けよ!」

「ちょいと待て。こいつが……」


 先に立ったリョウマが、あわてたために岩の角にマントのすそを引っかけてしまった。

 力まかせに抜き取ろうとすればするほど、厚い布地が頑強に岩にしがみつく。


 最後の手段とばかり、おいらはベルトからナイフを引き抜いた。


「よせ。ミラナ製の高級品だぞ。高かったんじゃ」

「いってるばあいかよ!」


 おいらはしゃがみこみ、海水をさんざん吸って塩を吹いているマントに切りつけた。


 背中をくすぐったい感触が這いのぼってきたのは、まさにそのときだ。


 ギョッとしてふり返ろうとしかけ、そこでおいらは眼を丸くした。

 肩の上にいる奇妙な動物と、数センチの距離で眼が合ったのだ。


 生まれて初めて、気を失っていく瞬間をはっきりと自覚した。

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