第一章 4 珍獣を名づける

「はあ? 溶岩の池を泳いでいたんだと……」

「おまえら、気はたしかか」

「受けをねらってるなら、もっとましな嘘をつきな」

 捕鯨船の乗組員は、だれひとりとしてまともに取り合ってくれなかった。


 それも当然で、実際にその場面に遭遇したリョウマとおいらでさえ、まだあそこで起こった出来事に半信半疑だった。

 だが、厳然とした事実である証拠が、ちゃんとおいらの肩に乗っている。


「いや、まあ、無理に起こさなくてもいいだろうと……」

 岩場でおいらが気がついたとき、リョウマはモゴモゴと口ごもった。


 あいつはごまかすのがへたで、とくにおいらにはほとんど通用しない。

 溶岩の池から這い上がってきた不気味な生き物がおいらの身体の上に居座っているので、起こそうにも恐ろしくて手を出せなかったにちがいない。


 そのくせ好奇心はひとの何倍もある男だから、気絶したおいらをほっぽらかして、ずっとその生き物を観察していたというわけだ。

 危険がないらしいとわかると、だんだん調子に乗ってきて、何度も手を出して誘いかけてみたらしい。

 だが、生き物はおいらの上からいっこうに動こうとしない。だからおいらを起こせなかったのだろう。


 やっと眼が覚めると、そいつは気絶した瞬間と同じ場所でおいらを見つめていた。

 びっくりしてもう一度気絶しかけたが、なんとかそれはまぬがれた。

 そいつがペロリとおいらのほっぺたをなめたのだ。


 生まれたばかりだからかもしれないが、その生き物の見た目はとても愛らしかった。

 大きさは、大人なら両手でなんとか包みこめるくらい。

 捕鯨船に巣食っているネズミでも、もっと大きいものを見たことがある。

 格好もネズミに似ていなくもないが、おいらはむしろ、花の都パレの中心にほど近いベルローニュの森を散策していたときに見かけたことがあるリスを思い出した。


 顔は下ぶくれでおちょぼ口をしており、フサフサした暖かそうな薄茶色の毛で全身がおおわれている。

 ピンと立った長い耳はウサギにも似ていたが、身体と同じくらい大きな尻尾はやはりリスを思わせた。

 そのどちらともはっきりちがうのは、背骨にそってカメの甲羅かカブト虫の硬い羽のようなものに育ちそうな黒くて硬い突起があることだった。


「連れて帰っていいか?」

 リョウマにたずねると、ちょっと考えてからうなずいた。

 迷っていたのではないらしい。

 この生き物がいかに驚くべき存在か、あらためて考えてみたにちがいない。


 それはそうだろう。


 どろどろの溶岩溜まりを焼けこげもせずに平然と泳ぎ渡ったのだ。

 毛には汚れひとつなく、身体は熱すぎもしなかった。

 どう見てもリスやウサギの同類なのに、卵から生まれたというのも信じられない。

 だいいち、一本の草も木もない絶海の孤島で、どうやってこんな動物が棲息していられるのだろう。

 危険な火口近くに卵を産んでいたというのも、まったく理解できない。


「なあに、変な生き物なら世界中にいるさ」


 船にもどって船員たちに見せると、七つの海をめぐって珍しいものや奇怪なものをさんざん眼にしてきた彼らは、拍子抜けするような反応しか示さなかった。

「おれはクラーケンを見たことがある。あいつは体長二五〇フィート――八〇メートルはあったぞ」

 とか、自慢げにホラ話を始める者もいた。


 後でリョウマが教えてくれたところによると、クラーケンというのは北ユーロピアの伝承にある怪物で、大型帆船を海の中に引きずりこむほどの化け物だという。

 その正体はダイオウイカという生き物で、実際には大きくてもその半分がいいとこらしい。

 それでもすごい巨大さだと思うが、地球最大の生物であるクジラを毎日追いかけている捕鯨船の乗組員にしてみれば、さほど驚くべきことではないのだろう。


 難しいことを考えるのになれていない船員たちは、リョウマとおいらの変わり者ぶりをからかうネタにしてその場を楽しんでしまうと、後はときどきペットをかまうようにその生き物をのぞきにくるだけになった。


「そいつに名前をつけてやれ」

 島を離れる日に、リョウマにそういわれた。

 これからは旅の道連れになるわけだから、それは当然必要なことだった。


「リョウマはおいらの名前をつけてくれたんだろ。どんなことを考えてつけたんだ?」


 日ノ本ヒノモトの港を出るとき、見送りの人間からおいらを託されたのだという。

 これから外国へ渡航しようという者に、餞別として乳飲み子を渡すというのはおかしな話だし、その名前を聞き忘れるというのは、いくらリョウマでもそそっかしいにもほどがある。


 見送りの人間がだれで、どういう理由で預かったのか、おいらが聞くたびにリョウマは不愉快そうに顔をしかめ、めんどくさそうに言葉をにごした。

 だから近頃は、もう問いただすのをなかばあきらめている。


 だが、リョウマ自身が代わりにつけた名前の由来なら、聞いてもかまわないだろう。


「ああ、それはなあ――」

 案のじょう、リョウマは得々として語りだした。


「あらゆるものごとの始めは何だかわかるか?」

「知らん」

「チェッ。ちったあ考えてから答えるもんじゃ。……いいか、いくらはっきりとそのものが眼の前に見え、色、形、大きさ、重さ、機能、そういうものが認識できたとしても、それだけではそのものがわかったことにはならん。そうじゃろ?」

 おいらはうなずき、生き物を指さした。

「こいつがどういう生き物かわからないのと同じじゃな」

「おお、よくわかったな。そのものがそのもの以外のものでないと言い切るためには、まず名づけなければならん。それがあらゆるものごとの始めじゃ。色も、形も、大きさも、それらを表すためにはまたそれぞれを区別する名前が必要となる」

「そうか。名前というのは、つまり言葉じゃ。言葉がまずなければ、何かがあってもそれをいい表せない。いい表せなければ、そのものがないのと同じだってことか」


 リョウマはますますうれしそうな顔になった。

「さすがはわしの……いや、わしが丹精こめて教えこんできただけのことはある。わしはな、おまえにはものごとの根本の意味、根本の大切さをわかる人間になってほしかった。だから、それを名前にしたんじゃ。それに、珍しい名じゃから、まず他人に同名はおらん。なのに、だれもが知っとって、だれでも書ける文字じゃ。憶えやすくて忘れられる心配もない。どうじゃ、いい名じゃろうが」


 おいらはうなずいた。

 たしかにそう思うが、リョウマがせっかくつけたその名前を呼んでくれることはほとんどない。

 説明を聞いて、おいらの名前を忘れているわけではないことがわかってホッとしたというのがほんとうのところだった。


 その生き物の名前は、おいらが丸一日考えて『ボコイ』とつけた。


「なんじゃあ、その妙に間の抜けた名は」

 リョウマは、最初は眼を点のようにしてあきれ、それからそいつを頭上に差し上げてボコイ、ボコイと何度もくり返し呼びかけた。

 ボコイはきょとんとしている。そのとぼけた顔を見ているうちに、リョウマは腹をかかえてげらげら笑いだした。


「まさにぴったりな名前じゃ」


 そう名づけた理由はかんたんだ。


 そいつはたいがいおいらの肩に乗っていて、ときどき小さな声を発した。

「ぼこ……ぼくぃ……ぽこ……ぱこ……ぷふぃ……ぼこい」

 そんな風に聞こえる。

 声はおいらにしか届かない。

 それは、おいらだけに語りかけようとしている大事な言葉であるかもしれない。

 だから、その中からいちばん耳に残った言葉を選んだのだ。


「ボコイ」


 あらためてつぶやいてみると、世界と自分の間に一本の確かなきずなが生まれたような、なんともいえない不思議な気持ちになった。

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