第一章 New Born Beast 怪異の誕生
第一章 1 リョウマという男
リョウマはいつもぐちっている。
「おまえさえいなかったらなァ」と。
本気でそう思ってるんだろうか?
あいつは口が軽くて気まぐれな男だ。
涙眼で心底腹立たしげにいうときもあれば、ニヤニヤしながらからかうようにいうこともあった。
だからリョウマの本心はよくわからないのだが、おいらにはとうていそうは思えない。
もしもおいらがそばについていなかったら、あいつは一日だってまともにやっていけるはずがないのだ。
それに、リョウマがいうほどあいつ自身がえらい人物だとも思えなかった。
何かにつけて、「わしはこうやったもんじゃ」とか「あれくらいならわしにもできた」とか自慢げにいうが、リョウマが得々として語る出来事や手柄話は、どれも遠い故国で起こった夢のような物語ばかりだ。
おもしろくはあってもそのままうのみにする気にはとてもなれないしろものだったし、リョウマの見た目は、同伴者のおいらから見てもみすぼらしい東洋人、周囲から完全に浮いた珍妙な異人種にすぎなかった。
「おまえさえいなけりゃなあ」
リョウマは、そのときも波に洗われる捕鯨船のへさきで大声でぐちっていた。
おおかた、ナンタケール島の港で捕鯨船に乗る二人分の船賃の交渉をするのに苦労したときのこととか、ヒスペニアの都マルドリードで若い娼婦に子連れなのを理由にすげなくされたときのことでも思い出していたんだろう。
そのセリフをそばで聞かされるおいらとしては、まったくたまったものじゃない。
逃げようにも、おいらを守るためだといって、命綱でおたがいの身体を結んでかたわらからいっときも離そうとしないのだから。
聞かずにいられる道理もなかった。
水しぶきを頭から浴びてずぶ濡れになりながら、リョウマは「わしは先頭を切るのが好きなんじゃ」とかわけのわからないことをいって、どんな悪天候のときでも凶暴な面つきの捕鯨砲がすえられたへさきに陣取っていた。
ナンタケール島を出港してから、すでに一年近くたつ。
大海アトラスをずっと南下し、赤道を越えてとうとう南ラメリカ大陸の最南端まで達した。
海とはなんと広大なことだろう。
その中を、捕鯨船はいったいどこまで行くつもりなのか。
「クジラがいっぱいいるところに決まってるさ」
荒くれ者ぞろいの鯨捕りたちに説明を求めても、ぜんぜん要領をえなかった。
アトラス海と
捕鯨船はひたすらクジラを追い求め、こんどは何十日も北上をつづけた。
こんな航路をとっていると、日付からだけでは季節がさっぱりわからない。
最後に寄港した常夏の島ワハイも、はるか彼方に遠ざかってしまった。
この数日は波をかぶるたびに震えがくるようになり、リョウマはイタレアのミラナで思いきって買った厚手の長マントで二人の身体をくるみこんでいた。
羅針盤の見方も星の位置を読むすべも知らないおいらには、ここがどこなのかも見当がつかない。
だが、何かに近づきつつあるという予感のようなものが、しだいに強くなるのを感じていた。
おいらとリョウマがこの船で向かうことにしたそもそもの目的地ではなく、何か別のものが待っている気がしたのだ。
真っ平らな海の茫漠とした広がりばかり眺めていると、ついついそんな妄想にとりつかれるのかもしれなかったが……。
遠まわりしているというより、それはむしろあてもなくさ迷っている感覚だった。
世界全体の形や位置関係がおぼろげながら定まってきて、主要な拠点と拠点がようやく細い線で結ばれたばかりの時代だ。
目先の利益や勢力争いが最優先で、未知の領域が広大に残されていた。
いったんその道をそれたら、世界はまだまだ信じられないような驚異と謎に満ちている。
クジラという巨獣を捕らえて大きな富をつかむ夢想と欲望にとりつかれた男たちは、平気で細道を踏み外してクジラの後を追っていく。
行き当たりばったりで、漁のしかたは荒っぽく、毎日が命がけの財宝探しや冒険と変わらない。
途中でどんな恐怖と遭遇し、どれほどの危難に見舞われようが、それがまさに〝捕鯨〟というものだった。
だからかもしれない。
あの奇妙なものとの出会いは、起こるべくして起こったことのような気がする。
おいらのほかにもう一人――というか、もう一匹の奇妙なものが旅の仲間に加わることになったのだ。
リョウマの例の口ぐせは、そのとき以前とそれ以降では、意味合いが微妙に変わってしまった。
あの出来事を境にして、あいつにとってはさらに矛盾にみちた悩ましいものになっていった。
そいつがおいらとリョウマの間に入りこんできたことで、二人の意思を超えたところで切り離すことのできない関係ができあがってしまったのだ。
まずはその出会いの顛末から話さなければならない。
※ ※ ※
もうずっと何日も、ぶあつい雲が頭の上におおいかぶさっていた。
船は大波に乗り上げたり滑り落ちたりをくり返し、平らなはずの甲板をよつんばいにならないと移動できないくらいひどいシケがつづいた。
とくに前の夜から海は大荒れになり、船はキーキー、ギーギーとひどい断末魔の悲鳴を上げ、さすがにおいらも、これでリョウマとのくされ縁もおしまいかと覚悟した。
「島だ! 島が見えるぞ!」
いきなりリョウマが叫びだしたときには、こいつとうとう気がふれたなと思った。
イグランド語などろくに話せないリョウマは、もちろんおいら以外に理解できない
「アイランド!」
島影はまぼろしではなかった。
しかも、吹きすさぶ強風が船を島のほうへとどんどん追いやっていたから、すぐにだれの眼にもくっきりと見えてきた。
「やっほー!」
リョウマは命綱を解いて踊りださんばかりに喜んだ。
だが、おいらにはイヤな予感がしていた。
リョウマがはしゃぐときにはろくなことが起こらない。
怒り狂ったときも同じようなものだが、とにかく上下の振幅の激しいリョウマの機嫌は、どちらに振れても危険信号にきまっている。
島に接近しているとわかると、とたんに船じゅうに緊張が走った。
エイブラハム船長がしわがれた大声をふりしぼって「帆を全部おろせ!」と怒鳴る。
このままでは、島の岸壁に正面から衝突してしまうのだ。
乗組員が総動員され、甲板を右往左往しはじめた。
航海士と操舵手は、まるで大ゲンカしているかのようにわめき合い、右へ左へ舵をぐるぐる回転させている。
帆をたたむのが間に合いそうにないとわかると、最後の帆はマストごとノコギリで切り離された。
ちぎれた帆が白い悪魔のようにバタバタと虚空を舞い、いずこともなく飛び去っていった。
船は突き出した岬の見上げるばかりの岩塊の鼻先をぎりぎりのところですり抜け、息も絶え絶えになって風をよけるために島の後ろへと回りこんだ。
さいわいなことに、島のそちら側には大きく内陸にえぐれた入江があった。
狭い湾口と岩礁に難渋しながらも、なんとかその中に入りこむと、つい先刻までの大荒れが嘘のように穏やかな水面が待っていた。
「こうなるって、わしにはわかっていたぜよ」
リョウマは、まるで自分の手で難局を乗り切ったかのように高笑いした。
おいらには、あいつが何度も小便をちびらせたのがわかっていたし、恐怖に眼を血走らせ、もじゃもじゃ頭をかかえるのも見た。
それでもいちばん危険なへさきから動こうとしなかったのは立派なものだが、そんなことさえ思いつかないくらい気が動転してしまっていたにきまってる。
……いや、ちがう。そうじゃない。
リョウマという男は、どんなに自分が絶体絶命の危機におちいっても、迫りくる剣や弾丸から眼を離すことができないのだ。
まったく信じがたいことだが、あいつはどれほどの危険や恐怖を感じたとしても、最後の最後まで心の奥のどこかでその状況をおもしろがっているにちがいない。
それくらいあきれたやつなんだ、リョウマというやつは。
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