地球獣ボコイ
松枝蔵人
[放 浪 篇]
序 章 The Lord Must Be in Pares 屋根裏部屋の隣人
序 章 屋根裏部屋の隣人
〝彼〟は、どの時代でも、どんな場所にもいた。
〝彼〟は、自分の手で創り出したものがどのような運命をたどり、どれほどのことを成しとげてまた死滅していくのかを、いつも憂愁に満ちた無表情で見守りつづけている。
永い時の流れの中では、〝彼〟をいたずらに崇拝したり、救いを求めようと無益な祈りをささげる者が後を絶たなかった。
その姿を見たと声高に主張する者たちもさまざまに存在するが、ほとんどは人違いか、あまりに強い願望が見せた幻影にすぎない。
〝彼〟のほうも、目立たぬように、気づかれぬようにと注意深く気づかいながら、ひっそりと人々やあらゆる生き物たちの間に潜んでいた。
その日、〝彼〟の姿はフランセの都パレの街角にあった。
あてもなく散策していて、一人の若い画家に出会った。
画家は、石畳の坂道でスケッチをしている学生と激しく芸術論を戦わせていた。
画家が大事そうに脇に抱えている絵を〝彼〟がぜひ見せてほしいと頼むと、画家はおずおずと包みを開いた。
自信作らしいが、それだけに見知らぬ他人の評価の眼がひどく気になるようだった。
「これは、日の出の光景を描いたものだね」
「わかりますか? でも、だれもが夕暮れにしか見えないと茶化すのです」
ぼんやりとした色使いのもやを通してオレンジ色の太陽が見え、その光が手前の水面に映っており、横にシルエットになった小舟が浮かんでいる。
荒々しいというのではないが、絵筆のタッチがそのまま無造作に残っていて、見方によっては仕上げを途中で投げ出してしまったかのようにとられるかもしれなかった。
「いや、それはこの絵の本質を見損なっているのだよ。何という題だね?」
「『ル・アーヴェルの眺め』と名づけようかと……」
「なら、『印象』としたまえ。それだけで君がこの絵で表現しようとしたことのすべてをいいつくせる」
「あっ……そ、そうか。なるほど、まさにそのとおりですね!」
若い画家は、みるみる確信に満ちた表情になってうなずき、クロード・モニと名乗って何度も何度も感謝の言葉を述べた。
これから数年のうちに、モニを中心とする革新的な若い世代の画家たちが一つのめざましい潮流を作り出し、他の芸術にまで大きな影響をあたえる運動をになっていくことになる。
それが『印象派』と呼ばれるのは、この絵のタイトルがきっかけとなるのである。
〝彼〟は差し出がましいことをするつもりはなかった。
その人物の未来にどのような可能性が待ち受けているかを予知できるからといって、世界を自分の思うがままに誘導したいというのでもない。
しかし、時代を推し進めようという情熱に燃えた才気ある若者がときに見せるわずかなためらいや自信のなさに接すると、ついそっと背中を押してやりたくなるのだった。
はるかな昔、大洪水の襲来を前にノラという家族思いの青年に巨大な方舟を作らせたり、一〇〇年にもおよぶ長い戦争を終わらせたいと願うジョンヌという名の少女に剣を取らせたように。
〝彼〟は小さな満足を覚えながら、この時代の隠れ家の一つにしている安宿へもどった。
疑ぐり深い眼をした管理人の老婆からいつものようにケチ臭く切りつめたロウソクを受け取り、火をともしてもらってきしむ階段を昇った。
彼の部屋は物置とまちがえそうな屋根裏部屋だ。
そこにつづくさらに狭くて暗い急な階段に足をかけると、最上段に腰かけていた小さな人影があわてて立ち上がった。
手前の部屋のドアを開けようとするが、建てつけの悪い扉は子どもの力ではかんたんに開きそうもない。中からは豪快なイビキが聞えている。
「待ちなさい。眠っている人を起こしては気の毒だよ」
〝彼〟が呼びかけた声がおだやかだったためか、子どもはノブを回す手を止めておずおずとふり返った。
無造作に切った黒い髪をしていて、同じくくりっとした印象的な黒い瞳で〝彼〟をまっすぐ見つめてくる。
「君は、どこから来たんだね?」
東洋人の子どもはキョトンとしている。
ためしにイグランド語で尋ねるとようやく子どもの表情が反応した。
「うーんと……たぶん、ヒノモトってところ」
〝彼〟はすぐさま流暢な
「自分が生まれた国のことを知らないのかい?」
「ずっとラメリカやイグランドをほうろうしちょった。これからはユーロピアじゅうを見て歩くんじゃ。ヒノモトのことはちっともおぼえとらん」
(この子はいったい……?)
〝彼〟は不審に思い、子どもをやさしくあやすようにそっと頭に手を置いた。
たちまち〝彼〟の中に、その子が目撃してきた数々の驚くべき印象的な光景の記憶が流れこんできた。
〝彼〟には食事をとる必要はなく、眠ることもない。
固い粗末なベッドに横たわり、隣の部屋の子どもがこれまで見聞してきた場面を、画集を一枚一枚くるようにして心に浮かべながらその夜を過ごした。
まるで、地球上の隅々まで知りつくしている〝彼〟自身の膨大な記憶のひな形を見るかのようだった。
しかもそれらはどれも、新鮮な感動と驚きにせいいっぱい見開かれた幼い眼差しによってとらえられたものだ。
子どもの豊かな感性が対象をいっそうあざやかなものにしていて、〝彼〟でさえ心がときめくほどだった。
気がつくとロウソクはとっくに燃えつき、初夏のパレの上にさわやかな朝焼けが広がっていた。
すると、隣の部屋から興奮気味の男の声が発する日ノ本語が、薄い壁板ごしにもれ聞えてきた。
「旅はええもんじゃな。わしは毎朝、起きるたびに生まれ変わっちょる。新しい街で、新しい自分になるんじゃ」
幼い声がそれに応えて明るい声で何かいっている。
どうやら男が子どもを抱き上げて、高い位置にある明かりとりの小さな窓から外の風景を見せてやっているらしい。
その二人連れは、〝彼〟が若い画家と会っている間に、イグランドから到着してこの宿にやって来たばかりの旅人だった。
新しい隣人たちにあらためて強い興味をひかれた。
〝彼〟にとっては壁も関係なければ、言葉はもちろんのこと、時空のへだたりさえたいした障壁ではない。
(そうか、この二人は……)
彼らがこの先遭遇していくことになる大きな運命の変転を見通すと、〝彼〟は小さくため息をついた。
昨日若い画家にあのようなことをしたばかりだったから、〝彼〟にしてはめずらしくわずかなためらいがあった。
しかし、迷いを振り切るようにして、すっと虚空に手をさしのべた。
つぎの瞬間、手のひらの上に白っぽい楕円形の球体が現れた。
「頼むぞ」
〝彼〟は球体にささやきかけるようにいうと、粗末な固いベッドから立ち上がった。
そして、おもむろに時と空間の狭間に腕を差し入れ、この地球上のどことも知れない彼方へと球体を送り出した。
それは、何もかもが劇的な変化をとげていく時代を象徴するようににぎわう花の都パレにあって、いちばん高い場所に位置するモンマルテルの丘で、だれにも知られずに起こった出来事である。
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