列車

海野夏

第1話

 ピーっと汽笛が鳴る。ガタガタと揺れて、ゆっくり列車は動き始める。

 走り出した列車はもうこのホームに戻ることはない。二度と同じ時に、同じ人の騒めく場所に戻ることは出来ない。


 前の座席に座る子供たちは、初めて列車に乗るらしい。

「うわぁ、動いた!」

「しゅっぱーつ!」

 目を輝かせ、キョロキョロと物珍しそうに辺りを見回している。

 対する私はどうだ。荒んだ心に子供たちの純粋さが沁みる。恋人の浮気を咎め、逆に捨てられてしまった哀れな人間。どうしてこうなったのか、何が悪かったのか、どうすれば良かったのか、私にはもう分からないのだ。彼と一緒に暮らしていたアパートを追い出された私は、行く当てもなく、ふと思いつきでこの列車に乗った。

 きゃっきゃと楽しそうな子供たちの隣に座る、彼女は母親だろうか。申し訳なさそうに頭を下げたから、私は笑顔で席を立った。


 どこか遠くまで行こう。席の話ではなくて、いや席もだけど、もうこの町に私の居場所はないから。

 暮らしてきた町がスピードを上げて遠ざかっていった。


 列車の中は案外興味深い。

 訳の分からない外国語の本を読む人。香水の甘い匂いをを暴力的に振り撒いている人。どこへ行くのか子供たちばかりの騒々しい集団。酒を片手に景色を肴に一人旅を満喫している人。何を考えているのか、どこへ行くのか。きっと、彼らが私のことを知らないように、彼らのことは私に分かりはしないのだ。


 長い旅だからいつまでも経っているのは疲れるし、空いていた一人掛けの席を見つけ、そこに腰掛けた。その間もガタゴトと、私たちを乗せてただひたすらに列車は進む。

 もう二度とあの人に会うことはない。彼の浮気を見咎めた夜、この面倒な自尊心が邪魔をして、私はあの人にすがることも出来なかった。そんな私を、あの人は鼻で笑って捨てたのだ。

 列車は速度を上げ、景色は飛んでいく。もうあの町は見えなくなっていた。町を遠ざかる列車は、まるで私とあの人の心のよう……などとドラマチックな感傷に浸ってみる。楽しかった綺麗な思い出さえもガラガラと崩れていった、あの夜を思い出して目を閉じた。


 賑やかな声が聞こえて、目を開けると、乗客の顔ぶれが変わっていた。しばらく眠っていたようだが、まだ先は長い。

 修学旅行生か、学生の集団が集まって、わいわい話している。

「京都と言ったら団子だろ!」

「何言っているの、新撰組でしょ! 池田屋見に行きたい!」

「清水寺と八坂神社は外せないよね」

「八ツ橋食べたい」

 京都か。どこへ行こう、何を食べよう。楽しそうで何より。


 変わって、通路を挟んで隣の座席の若い男女は、しんみりとした雰囲気を醸し出している。手を繋いで、肩を寄せ合って、近くないか。もう夏も近いのに、暑くないのか。

「もう旅行も終わりか。あっという間だな」

「ずっとこうして二人でいられたらいいのにね……」

「ごめんな、寂しい思いさせて。俺が遠くの学校を選んだから……」

「ううん。良いの。……また、電話するね」

「あぁ、待ってる」

 なるほど。どうやら、この旅行が終わったら、また遠距離恋愛らしい。悲しまないで、恋人たち。本当に互いを想っているのなら、きっとまだ大丈夫だから。今は存分にくっついていると良い。


 離れた席では、軽薄そうな男が若い女性に声をかけている。

「君可愛いね、どこかで会ったことない?」

 陳腐で使い古された台詞。口から出るのは薄っぺらな言葉ばかり。よくもそんなに恥ずかしげもなく言い連ねられるなと、むしろ感心してしまう。言い寄られている女性の方は初心なようで、顔を真っ赤にして固まっている。

 これは悪い男に引っ掛かってしまうかな。

 そう思った時、彼女はぴしゃりと男の横っ面を張って、さっさと別の車両へ行ってしまった。どうやら、恥ずかしがっているのではなく、怒っていたようだ。頬を押さえて、唖然とする男。心なしか、朱に染まった顔が恍惚としているのは、私の気のせいだろうか。他人の新たな性癖発見の場面なんて見たくないし、興味もない。


 甘い香りを残して去っていった、先程の女性。彼女が横を通り過ぎた時、思わず、顔をしかめてしまった。彼女とは初対面だけれど、あの香りには覚えがあった。

 あの人の浮気相手の女の香水。あの女も同じ香りを纏っていた。忘れもしない。あの人の腕に自らの腕を絡ませ、私を嘲って勝ち誇った笑みを浮かべていた。一発殴ってやれば良かった。……どうせできないけど。

 お荷物のようなプライドが邪魔をして、素直な感情を出せなくなる。これは私の悪い病気。あの場でも、余計なことにその力を発揮した。


「やっと見つけた。……その女、誰?」

「あれ、ひょっとして追いかけてきたのかい? やだなぁ勝手にストーキングしないでくれよ、まぁ良いけど」


「紹介するよ。僕の新しい恋人」

「初めまして、彼女さん。あぁ、違ったわね。この人の恋人はもうアタシだものね。間違えちゃったわ、ごめんなさい」

「浮気してたの?」

「浮気? 人聞き悪いなぁ。浮気なんかじゃないよ。僕が彼女を好きになった時点で、君はただの同居人。僕は誠実な人間だから、二股なんてしないのさ。もしかして無様に嫉妬なんてしているのかい? 元恋人で今はただの同居人のくせに?」

「……はは、まさか。丁度良かった。実は、あなたに飽きてきた頃だったの。だからもう良いわ、さよなら」


 精一杯の虚勢。平気な振りをして、清々したような態度を取って。全然平気じゃないじゃないか。心はこんなに血を流しているのに。長い付き合いだから、きっとあの人は、私の言葉が嘘だと分かっていた。けれど、鼻で笑って、そう、とだけ言った。

 そういえば、私はあの人のことを少ししか知らなかった。それに気付いたのは、アパートの私物をまとめている時だった。借りていた部屋はすでに解約され、あの人の私物は綺麗さっぱりなくなっていた。馬鹿なんじゃないか、こうなると一人で部屋を片付けるのも惨めに思えてくる。だから必要最低限のものだけを鞄に詰めて、あとは全て捨てた。


 本当は好きだった。頭の隅に「結婚」という文字が浮かぶくらいには、あの人を愛していた。だから、ずっと尽くしてきた。自分がどんな人間かもよく思い出せないくらい、あの人の好みに合う人間を演じた。

 穏やかで、聞き分けが良くて、大人しくて、程々に見目が良くて。趣味は料理で、家事が得意。慎み深く、口答えせず、褒めて媚びて縋って、あの人がいなければ何も出来ない。生きていけない。そういう人間。あの人の自尊心を満たすための恋人。

 本当の私は何が好きで何が嫌いで、趣味は、特技は、性格は。作った自分と混ざり合って、今では本物が分からない。

 それなのに、あの女は! 私とはまるで違う、あの人の好みの女とも違った。派手で、自信に満ち溢れていて、あの人の性格にとてもよく似ている。

 

 あぁ、そうか。今になって気付いてしまった。結局、あの人は鏡写しの自分に恋するように、自分そっくりなあの女を選んだのか。つまりは自分が一番好きだったのだ。

 馬鹿馬鹿しい。尽くしたことも全て無駄。簡単なことだ。どうせ私も付属品、おまけ、アクセサリー! だから簡単にゴミのように捨てられた。笑える。

 何て素晴らしい!


 本当の私は。

 あの人の影から外れた、本物は。

 ……そう、本物の私は、他人なんかに合わせるような人間じゃなかった。他人を巻き込んで振り回すぐらいの人間だった。他人に合わせるのも、妥協するのも、感情を抑えるのも、我慢するのも! 協調性がないって言われたって関係ない、本当は大嫌いだったんだ。いつからか型にはめられ、自由を奪われていた。あの人の言いなり。感情のない無個性に成り果てていた。

 他人に合わせろ? 他人が合わせろ!

 堅苦しいのはもう終わりよ。


 夢の中で、あの人を見た。

 小さな寂れた駅で、一人たたずむ私と、向かいのホームにいるあの人。その傍らにはあの女。あの人は、いつもと変わらぬ笑顔で、こちらに手を差し伸べる。

「どうせ、一人じゃ、どこにも行けないだろう?」

 期待なんてしない。きっと手を伸ばしても、届かない。その手を取っても、いつかその女を連れて、反対方向の列車に乗って、私を置いていくんでしょ。

「馬鹿にしないで。お断りよ」

 貴方のことが好きな私は、ここで殺していくわ。大好きだった顔、髪、その姿、仕草、二人の思い出、全てを目に焼き付けて。

「さようなら」

 もう思い出すことはない。

 滑り込んできた列車の前に、身を投げた。


 携帯電話の音で目が覚めた。外はもう暗かった。結構な時間眠っていたらしい。

 着信は、あの人だった。

「やっと出た。今どこにいるんだい? まぁ、君がどこにいようが、何をしていようが、僕には関係ないしどうでも良いのだけれど。あ、そうそう、元気?」

「……何か用かしら?」

「やだなぁ、君には用はないよ、相変わらず自意識過剰だね。まぁ良いや。一応君にも報告しておこうと思ってね。実は僕と彼女、結婚するんだ。めでたいだろう?」

「……そう。で?」

「何だい? それで祝っているつもりかい? 折角僕が元恋人だからって報告してあげているんだよ? もっと感謝しなよ」

「用件は?」

「何? もしかして機嫌悪いの? はぁ、君って勝手だよね。八つ当たりは良くないよ。気を付けた方が良い。……それでね、盛大なパーティを企画しているのだけれど、少しお金が足りないのさ。だから、今まで君のためにかけていたお金を返してほしいんだ。あぁ、一部で良いよ、二十万もあれば充分だから。遅くても、今月末には返してくれよ」

 何を言っているのか、理解出来ない。何だ? つまり用があるのは私じゃなくて、私のお金か。浮気されて、捨てられて、その上お金を要求されて。しかも、それが元恋人とその浮気相手の結婚パーティの資金ときた。

 電話の向こうの声は浮れていて、自分の要求が拒否されるとは全く思っていない、自信に満ちた声。こいつは本当に……。

「私には関係ないわ」

「え? 酷いなぁ。元恋人の僕が困っているんだから、助けてくれて当然じゃないか。何を言っているんだい?」

 それはこちらの台詞だ。

 あぁ、こいつは駄目な人間だ。怒りを通り越して呆れる。なぜこんな人が好きだったのだろう。

 小さい頃、私の両親は離婚した。母は私によく言った。

『男は結婚すると変わるのよ』

 結婚前は夢の中。結婚すると現実を目の当たりにする。ずっとお姫様気分で、王子様と結婚しいつまでも幸せに暮らしました、なんてあり得ない。私は一足先に目覚めてしまった。最早失望すら感じない。

 こんな男、熨し付けてくれてやるわ。

「私は私の好きに生きる。アンタは一人で幸せになってれば?」

 返事も聞かないで電話を切り、着信拒否にして番号も消した。あの人のことは、もう思い出さえも捨てることにする。だってあの人は、私にとって毒でしかなかったのだから。

 でも、感謝もしているのよ。本当に。本物で確かな私を見つけられたのは、あの人のお陰なんだから。もう見失うことはない。

 今は何もかもすがすがしい気分だった。


 もう二度とあそこに戻ることはない。

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列車 海野夏 @penguin_blue

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