第11話 真実

 午後の授業をサボり、学校を飛び出した佐野は、駅前を目指して歩いていた。

 ぼんやりとした視線のまま、学生服の胸元に手を伸ばす。胸ポケットから取り出したのは、以前、麻生が柚木の自宅の地図だと言っていた紙片だった。

 五年前。

 あの海での事件から、佐野は動くことをやめていた。時間も、世界も、彼は自分の身体の中だけに閉じ込めて、その中で生きてきた。あれほどの悲劇に関わって、佐野は変わらざるを得なかったのだ。

 自分では、正しいことをしたつもりだった。悲劇に見舞われた少女を、救ってやったつもりだった。

 だが、結果、少女は自責の念に耐えられなくなって首を吊って死んでしまった。

 佐野は、自分がその少女を殺したのだと思っている。だから、自分だけがのうのうと人並みの生活を送っていくことに耐えられなかったのだ。

 バスに乗り、麻生からもらった地図を頼りに柚木の家を目指した。

 見知らぬ街に降り立ち、改めてその地図とにらめっこをする。もう少し分かりやすい地図を描いてくれてもよさそうなものだ。

 佐野はここぞとばかりに麻生に悪態をつき、目的地に向かって足を進めた。

 夏の日差しは強く、坂道が多いこともあって、歩くだけで汗が目に入ってきた。

 心臓の悪い柚木に、この通学路は酷過ぎるように思えた。彼女も、長い坂に息を切らしながら、それでも傍らの小川に気を休め、一歩一歩家路をたどったのであろうか。

 今、この場にいる佐野と同じ空気を吸いながら。

 古い日本家屋が立ち並ぶ一画に、佐野はたどり着いていた。

 目の前の門柱に、「柚木」の文字。

 佐野は、まさか見つけることができるとは思わなかったという表情で、しばらくぼんやり立ち尽くしていた。

 門から小さな庭を抜け、玄関の前に立った。芝生や植木の手入れの具合は、お世辞にも行き届いているとは言えなかった。

 呼び鈴を押す手が寸前で止まる。佐野が、今までの自分の生き方と決別する瞬間だった。

 他人の人生に干渉することがどういう結果をもたらすのか。それは厭というくらいに思い知っている。だが、佐野はもう、柚木と麻生という二人の少女と関わってしまった。どんなに目を塞ぎ耳を閉ざしていても、意味はなかった。彼女たちと会い、今、ここに立っているのは、五年前のあの時にすでに決められていたことなのだ。

 あの事件で、佐野は終わったのではない。

 あの事件から、佐野は始まったのだ。

 彼が、ベルを押す瞬間を待っていたように、玄関が開いて一人の女性が顔を出した。髪がところどころほつれ、目の下に深い皺が刻まれている。

 二人は驚いた表情で、しばらく無言のまま向かい合っていた。

「ああ、あの……」

 おそらく、柚木の母親だろうと見当をつけた佐野が口を開く。しかし、その後をどう続けていいものか、すっかり困惑しきって、再び佐野は沈黙することとなった。

「ああ、明里のお友達だった方ね」

 そう言い、目の前の女性はゆっくりと笑顔になった。

「どうぞ、上がって、あの娘に会っていってあげてください」

 母親にそう言われ、佐野はおずおずと玄関に入って靴を脱いだ。

 柚木明里の家。彼女が、おそらく人生の大部分をすごした場所。

 だが、床や壁は、ただ冷たい影を家の中に落としているだけで、そこから柚木のあの屈託のない笑顔を想像することは困難だった。

 ここに来るまでに、ある予感が胸の中に芽生えていた。

 そして先ほどからの母親の口ぶりや表情で、その不吉な予感は確信に変わりつつある。

 今から引き返したほうがいいのではないか。そんな気がして仕方がなかった。

 母親に案内されて、佐野は奥の和室に通された。

 そこには、小さな仏壇があった。

 仏壇に、写真立てが置かれている。佐野は、吸い寄せられるように、その前に膝をついた。

 枠の中に、つい先日、彼に笑顔を見せていた柚木の顔があった。

 まったく思考停止の状態だった。

 彼女と海に行ったのは、何日前のことだ? それが、まったくなかったかのように、柚木は、薄っぺらな小さな写真の中に納まって佐野を見返している。

「あの娘のお友達が来てくれるなんて、いつ以来でしょう。 産まれてから病気ばかりで、ほとんどお友達もいなかったから……」

 佐野は、母親の言葉が聞こえないかのように、写真に見入っていた。

 柚木ともう一人、いっしょになって映っている人物がいる。

「たった一人のお友達だった晴香ちゃんも、いっしょに亡くなってしまって──。あれからもう一年になるのね」

 母親は、薄っすらと涙を浮かべながら、仏壇に向かって微笑みかけた。

「でも、こうして忘れずに来てくれる人がいたなんて、あの子たちも、きっと喜んでいるに違いないわ」

 写真の中の柚木。

 彼女に寄り添うように立っているのは麻生晴香だった。

 まったく気づくのが遅いんだから──。

 写真から、麻生の皮肉そうな声が聞こえてくる気がした。


 母親は、二人についての話をゆっくりと語って聞かせてくれた。

 一年前。

 柚木と麻生が、佐野と同じように高校一年生だった頃。

 柚木は高校に合格してこそいたものの、病状はかなり悪化していて、もってあと一年の命だったという。

 そんな時、不幸な事故が起きた。横断歩道を歩いていた柚木に、信号無視のトラックが突っ込んできたのだ。

 それを見ていた麻生が、彼女を助けようと飛び出したが、間に合わず、二人ともトラックに轢かれて命を落としてしまったという。

「……晴香ちゃんには、本当に申し訳なくて、でも、そこまで明里のことを想ってくれたことが嬉しくて……。今も、二人でいっしょにいるのでしょうね。そう思うことで、少しだけ救われるような気がします」


 帰り道。

 佐野は唇を噛み締めながら、黙々と歩いた。

 多分、もうあの二人には会えないだろう、と思った。

 彼女たちが、幽霊であることを知ってしまったから……。

 だったら、今日、柚木の家など訪ねない方がよかったのではないか。幽霊と友達になれる人間など、佐野くらいしかいないのだから。

(後悔してる……?)

 そんな、麻生晴香の声が聞こえる気がする。

「……後悔なんてしてない」

 佐野は、見えない相手に答えるように呟く。

「ただ……、悔しいよ。悔しくて、情けなくて、腹立たしくて、やっぱり僕は、こんな世界なんて受け入れられないよ。でも──」

 佐野は、柚木と約束した。

 彼女のことを忘れない、と。柚木と、麻生と、三人で見たあの海を忘れない。

 だから、佐野はこれからも生き続けるだろう。

 彼なりのペースで。

 未練たらしく、何度も過去を振り返りながら。


 翌日。

 何の変哲もない、いつも通りの朝。

 ただ、電車に乗り、駅を出ても、麻生が横に並んで話しかけてくることはなかった。

 教室には、藤森千佳がいた。

 あるべきものが、あるべき場所に収まっている。何の違和感もそこには感じなかった。

 自分の席に座る際、ちらりと藤森と目が合った。

 佐野は、ぼそりと「おはよう」と呟く。

 藤森が、目を丸くしているのが分かった。


 放課後、佐野は久しぶりに図書室にいた。

 相変わらず人の姿はほとんどない。

 ぼんやりとしばらく窓の外を見つめていたが、ふと思い出したように、カバンから一通の封筒を取り出した。

「佐野冬馬君へ」とだけ宛名が書かれている。今朝、机の中に入れられていたのを見つけたのだ。

 中の便箋を取り出し、目を通した。


  *


 佐野君へ。


 あんまり気持ちのいい別れ方じゃなかったけど、君に何か言えるのは、これが最後みたいだから、一応書いておきます。まあ、こんなことをするのは私の柄ではないんだけどね。

 もう、ばれてしまったみたいだけど、そう、私と明里は死んでしまっているんだ。

 じゃあ、君に会っていた私たちは何なのかというと、それは私たちにもよく分からない。一般的に言う、幽霊というものなのかもしれない。

 まあ、未練があったんだろうね。あんな死に方をして。

 君が言っていた通り、この世に意味なんてないのかもしれない。けど、私たちの死に方は、あまりに馬鹿馬鹿しかった。文字通り、死んでも死に切れなかったんだろう。

 で、私たちはどうしたかというと、いつも学校の中をうろついていた。

 明里が、あまり学校生活を送れずにいたからね。最後の思い出にと思って。

 それで、明里と同じような病気なのか、頻繁に欠席する生徒がいるのに気づいた。明里は、よくそこに座って授業を受けていた。真面目に、ちゃんとノートを取ってね。

 私は、後ろからそんな明里の様子を眺めているだけだったけど、どうも君が明里のことを見えているのではないかと思うようになった。

 これにはびっくりしたね。今まで、幽霊になった私たちのことが見える人なんていなかったから。

 そこで、まあ始めは悪戯半分だったんだけど、君に、明里の初恋の相手になってもらおうと思った。

 君は根暗だし、見た目もぱっとしないし、それこそ幽霊みたいに存在感のない奴だったけど、この際、それは明里に我慢してもらおうと思った。

 とにかく、私は普通の高校生のような生活を、少しでもいいので経験してもらいたかったんだ。

 けど、デートはやっぱりうまくいかなかった。

 まあ、自販機でジュースも買えない私たちが、君に誕生日プレゼントをあげようなんて、端から無理だったんだよね。明里はそれを、本当に申し訳なく思っていたよ。

 君に無理なお願いをしたことに関しては、私も申し訳なかったと思ってる。

 君も色々あったみたいだから。

 けど、これだけは言っておくと、明里は君のこと、かなり気に入っていたよ。ちょっと私が嫉妬するくらいにはね。


 最後に。

 君は、私が明里に関わって後悔していると言ったけど、それは断じて違うんだ。

 なぜって、クラスに馴染めず、一人だった私に最初に友達になってくれたのが、明里だったんだ。

 だから、私は明里に感謝している。感謝なんて言葉では足りないくらい。明里は、私の恩人なんだ。

 それなのに、明里は君と同じようなことを言い出したんだ。

 自分と関わっているとろくなことはない。自分のことは忘れて、ちゃんとした高校生らしい生活を送れってね。

 それで、私たちはケンカしてしまった。

 あのトラックに轢かれた事故は、そのすぐ後のことだったんだ。

 私は、恩人である明里を助けることもできなかった。本当に、意味なんてない世界だよね。

 でも、最後に少しだけ時間をもらえて、明里と仲直りできたことが本当に嬉しい。

 そして、ささやかだけど同じ思い出が作れたことが、何にも代えがたく幸せなんだ。

 だから、君にも感謝している。もっと長く君の近くにいて、その困ったような顔を見ていたかったよ。


 けれど、もう私たちは行かなくてはならない。

 ここは、私たちのいてもいい世界じゃないからね。

 まあ、最後になってしまったけど、どうもありがとう。


 そう、それから。

 君の後ろに、小さな女の子がいるのに気づいているかな?

 多分、君の言っていた昔の事件に関係のある女の子だと思うんだけど。

 その子が、君に近づくと怖い目で睨むものだから、ついついぞんざいな対応になってしまったんだ。

 

  ──麻生晴香


  *


 佐野は、手紙を読み終え、力なく息を吐き出した。

 もしかすると、笑ったのかもしれない。

 それから、後ろを振り返り……、の方を見ながら言った。

「気づいていたよ」

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