第10話 5年前 その5

  * 五年前


 肩を叩かれたわたしは、自分でもびっくりするくらいの悲鳴を上げて、その場にうずくまった。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」

「ちょっと、しっかりして」

 そういう男の子の声がして、わたしはゆっくりと顔を上げた。

 あっと、声がもれそうになる。彼は、同じクラスの男子だった。

「今、人が落ちたよね。誰が落ちたの?」

 わたしは、震えながら千佳ちゃんの名前を口にする。

 わたしのたった一人の友達。藤森千佳ちゃん。

 そう口にした途端、悲しみが津波のように押し寄せてきて、後から後から涙が湧いた。

 男の子は、わたしの肩から手を離すと、そっと崖の先に行って下を覗き込んだ。

 彼──佐野冬馬君──は、しばらく遥か下に広がる海面を眺めた後、首を振りながらわたしのそばに戻ってきた。

「ダメだ。藤森の姿はどこにも見えない……」

「どうしよう……。どうしよう、佐野君。わたし、人を殺しちゃった。どうしよう。ねえ、どうしよう……」

 わたしは、壊れたテープのように、どうしようどうしようと何度も呟きながら、自分の両肩をきつく握り締めていた。高い熱が出たときのように、身体がガタガタと震えて止まらなかった。

「近くに親戚の家があって、その帰りにここを通ったら君たちが見えたから……。その……、彼女のこと……、わざとやったの?」

 佐野君の言葉に、わたしは必死で首を振った。

 違う!

 ただ、わたしは、千佳ちゃんに嫌われようと思っただけだ。千佳ちゃんが、もうこれ以上、わたしと関わって苛められないように……。

 けれど、何てことだろう。

 やっぱり千佳ちゃんはわたしのせいで死んでしまった。

 何をやっても、わたしは人を不幸にしてしまう。どこまで呪われた人生なんだろう。

 こんな人間なんて、生まれてこない方がよかったんだ……。

「事故だったんだよ」

 わたしと海とを見比べながら、じっと考え込んでいた佐野君は、そう口を開いた。

「藤森は、一人で写生をしに海に来て、足を滑らせて崖から落ちたんだ。だから、君はここにいたらいけない」

 佐野君の言葉の意味を図りかねて、わたしはぽかんと彼の顔を見返すしかなかった。

 だが彼は、意を決したように動き出すと、千佳ちゃんのスケッチブックと絵の具を海に放り投げた。

 それから、わたしの手首をつかんで走り出す。

 わたしは、糸の切れた操り人形のように、ただ佐野君に引かれるまま、足を動かし続けた。

「僕は、ここで見たことを誰にも言わない」

 人目につかない場所まで移動すると、彼は真剣な目をして話し始めた。

「君だって、わざとあんなことをしたんじゃないんだ。だから、僕は誰にも言わない。今日はとりあえず家に帰って寝て、落ち着いたらどうすればいいか、君が決めたらいい。お家の人に言うか、先生に言うか、それとも、ずっと黙ったままにしておくか。……黙っていたからって、僕はそれがひどいことだなんて思わないよ。だって──」

 佐野君はそこで言いよどみ、わたしからそっと目をそらした。

「今まで、君がクラスでひどい目にあっていたのを、僕は黙って見ていたから……。こんなことになってから、助けたって、仕方がないと思うけど……」

 わたしは、佐野君の言葉にどう反応していいのか分からなかった。

 ただ、この恐怖と悲しみから逃げ出したかった。頭は、そのことでいっぱいだった。

 だから、彼が持ってきてくれたスケッチブックを受け取ると、言われるまま、誰も見ていないのを確認してから自転車に乗り、家へ向かった。

 まるで、絵の中を進んでいるように、目に映る景色から現実感が失われていた。何度も、これは夢なのだと自分に言い聞かせた。

 だが、ペダルをこぎ続ければ、道は確かに見知った街路につながり、やがて自分の家が見えてくる。

 何度、目を閉じようとも、首を振ろうとも、この世界が、わたしの前から消え去ることはなかった。


 家に着くと、すぐに部屋に引きこもり、具合が悪いからと夕食の席にも下りて行かなかった。

 ベッドの上で枕に顔を押し付け、どうすれば、この悪夢が終わるのだろうと考える。

 明日になれば、千佳ちゃんの死体が発見されるだろうか。そして事故だと断定されれば、わたしはもう誰からも疑われずにすむのだろうか。

 佐野冬馬君……。

 彼は、今日のことを誰にも言わないとわたしに誓った。だが、それは本当だろうか。

 千佳ちゃん以外のクラスメイトとは壁を作っていたわたしだから、男子のことなど何も分からなかった。佐野君が、どれだけ信頼のおける人なのか……。本当に、一生、このことを黙っていてくれるのだろうか……。

 でも、とわたしは真っ暗な心の中で思う。

 彼が黙っていてくれても、わたしの罪が消えることなんてないのだ。千佳ちゃんをこの手で殺したという事実は、どれだけ時間がたっても、ずっとわたしの中で残り続ける。

 忘れられるはずなんてない。この世で一番大切なものを、わたしは自分の手で壊してしまったのだから──。

 不意に、部屋のドアがノックされた。

 わたしの様子を心配して見に来てくれたお母さんだった。

 毛布にくるまり、背中を向けながら、「大丈夫」と答える。

「そう、さっき、千佳ちゃんのお母さんから電話があったんだけど、あなた、今日、千佳ちゃんを見かけたりしなかった?」

 お母さんの言葉に、胃の底を針で突き刺されるような痛みを感じた。言葉を発しようとすると、空っぽのはずの胃袋から何かが逆流しそうになる。

 本当のお母さんだったら……。

 わたしは、ついそんなことを考えてしまう。わたしは、彼女に自分がしてしまったことを隠さず伝えるだろうか? そして、いっしょになって苦しみを分かち合えただろうか。

 わたしは、ゆっくりと首を振って、今日は会ってない、とだけ答えた。

「そう……」

 お母さんは小さな声でそう言い、そっと部屋のドアを閉めた。

 ごめんなさい。

 わたしは声を殺して泣き続けた。

 わたしを育ててくれている両親に、これ以上、迷惑はかけられなかった。両親のためにも、わたしはこれから先、永遠に自分の罪を隠し通さなくてはいけないのだ。

 もう、何もかも忘れて眠りたかった。目を閉じ、必死に頭を空っぽにしようとする。

 極度の緊張で身体が疲れていたせいだろうか。何度か、意識が、すっと遠のく瞬間があった。だが、そのたびに、ひどい悪夢に襲われて、わたしは無理やり現実世界へと引き戻されるのだった。

 暗い海の底に、たった一人で沈んでいる千佳ちゃんが、スケッチブックにわたしの名前を書き続ける──

 ベッドの下から血まみれの千佳ちゃんの手が伸びてきて、わたしを暗闇の中に引きずり込む──

 朝のホームルームの時に、佐野君が手を上げてみんなの前で発表する。「藤森千佳ちゃんを殺した人を知ってます」──

 わたしは目を覚ますたび、恐怖と後悔の念に貫かれて、ベッドの上をのた打ち回った。


 もう嫌だ。

 もう嫌だ。

 もう嫌だ。


 最初からやり直したい。そう思った。

 生まれたところから、もう一度、人生をやり直すのだ。少なくとも、今よりはマシな人生が送れるはずだから……


 これも、夢なのだ、と自覚していた。

 わたしと千佳ちゃんが教室にいる。なぜか、二人とも今よりも大きくて、高校生みたいな制服に身を包んでいる。

 わたしは、もじもじしながら千佳ちゃんに相談していた。初めてできた好きな人の誕生日に、どうしたら自然にプレゼントを渡せるのかという、それは他愛のない内容だった。


 目を覚ますと朝だった。

 眩しい光が窓から差し込み、今日も暑くなりそうな予感があった。

 時計に目をやると、まだ五時にもなっていない。昨日、早く寝すぎたんだ、と苦笑して、わたしは今日の予定を考える。

 後で慌てないように、宿題に手をつけようか。千佳ちゃんを誘って、写生に出かけるのも悪くない──

「………あ、……あは……」

 わたしは自分の滑稽さと、どうしようもないほどの絶望感に、思わず笑い声をもらしていた。

 何を考えているのだろう。千佳ちゃんなら、昨日、わたしが殺したばかりじゃないか……。

 毎朝、このことを思い出すのだ、と思った。

 どんなに楽しいことがあっても、どんなに幸せな夢を見ても、毎朝、わたしが最初に思うのは、自分が千佳ちゃんを殺したという事実なのだ。

 そんなの無理だった。耐えられるわけがなかった。

 もうこれから先一度だって、こんな朝を迎えられる自信がなかった。

 わたしは、体育で使う縄跳びを取り出して、天井近くにあるロフトの柱からぶら下げてみた。

 縄跳びの先を輪っか状にして固定し、強度を確かめる。わたし一人分の体重なら支えられそうだった。

 イスに乗り、その輪の中に自分の首を通した。

 さっきまで見ていた夢は悪くなかった。

 もし死ぬことが永遠に夢を見続けることなのだとしたら、わたしはあの夢の中にいたいと思った。ほんの少し、ボタンを掛け違えずにいたら、あったかもしれないわたしの未来。間違いなく、いつまでも千佳ちゃんといられる未来だ。

 わたしは笑みを浮かべ、静かにイスを蹴った。

 人の命なんて、実にあっけないものだと思った。

 わたしは十年間の人生に、自分の手で終わりを告げた。

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