第9話 兆候

 週が明けて、佐野のいつもの一週間が始まった。

 いつも通りに戻るはずだった。孤独だが平穏な、単調だが安定した毎日に。

 あの海岸での告白の後、佐野と麻生は無言のままバスに乗り込み、無言のまま別れた。柚木は、一度も目を覚まさなかった。

 偽善でも気休めでもいい。柚木には、佐野が殺人者だなどという話を聞かせなくてよかった。


 教室に入り、自分の前の席に、まず目を向けた。

 そこには、髪を短くカットした、幽霊のような表情の女子がいる。蜃気楼の少女。「偽柚木」だ。

 見慣れた光景、ほっとする眺めであるはずだった。憧れであり、こうなりたいと願った蜃気楼のような少女。

 しかし、佐野の目はこの場にない何ものかを捜し求めていた。

 授業が始まっても、彼はまったく落ち着かない様子だった。


 昼休みになり、佐野は息苦しさから逃れるように席を立った。

 廊下に出ようとして、その際に前の席の彼女の腕に軽くぶつかってしまった。

 硬直。

 佐野は、心底驚いた表情をした。あるはずのない障害物に接触してしまったような、信じられない思いで目を見開いている。

 ぱさり、とノートが床に落ちた。今まで、「偽柚木」の手にあったノートだ。

 目が覚めたように、佐野は反射的な動作でそれを拾い上げた。そして、ふとノートの表面に目を走らせる。

 ──「藤森」

 ノートには、そう名前が記されていた。

 思わず息が止まる。

「柚木明里」ではない。

 それは当たり前だった。しかし、なぜ「藤森」なのか。彼女は蜃気楼ではないのか。なぜ、名前なんて持っているのだ。

 佐野は、ほとんど投げ出すようにノートを机の上に置き、わき目も振らず廊下へ駆け出した。混乱し、動転し、不必要なまでの狼狽振りを周囲に印象付けながら。

 裏口を抜け、吹きさらしの非常階段の上で空を見上げた。

 一昨日まであった青空は覆い隠され、確かに嗅いだはずの潮の香りはまるで感じられなくなっていた。

 あの席は柚木の席だ。間違っても「藤森」のものではない。

 早く戻って来い。そう願った。

 さもないと、あの席が「藤森」のものになってしまう。そんな気がしていた。

「藤森……?」

 佐野は、うつむきながら、そうポツリと言葉を漏らした。

 ぶつぶつと何事かを呟きながら、懸命に何かを思い出そうとしていた。


 翌日も、教室に柚木明里の姿はなかった。

 麻生晴香も見当たらなかった。風邪ひとつひきそうにない彼女まで病気で休んでいるとは考えにくい。

 もしかして麻生は別のクラスの生徒だったのだろうか。佐野は覚束ない表情で宙を睨んでいた。

 ふと視線をおろすと、「藤森」だけは、しっかりと佐野の前に座っている。身じろぎもせず、石造のようにひっそりとしていたが、もはや蜃気楼とは思えなかった。透明だった彼女の体に、少しずつ色がつき始めた、そんな錯覚すら感じる。


 昼休み。

 廊下をうろついていれば、麻生に会えるかもしれない。

 弁当を広げる生徒たちで賑わう教室の中、佐野は一人立ち上がってあたりを見渡した。

「藤森さん、いっしょにお弁当食べない?」

 数人の女生徒たちが、弁当を胸に抱いて「藤森」の周囲に集まっていた。

 その様子を、佐野はぽかんとした顔で眺めている。

「藤森」は困ったようにうつむきながら、それでも彼女たちの輪の中に入っていった。

 見えているのだ。「藤森」が見えているのは佐野だけではない。

 いや、佐野以外にも見え始めたというべきなのか。

 書き割りの背景だった彼女は、絵の中からすっと抜け出し、こちらの世界の住人として息づき始めた。そういうことなのだろうか──?

 では柚木は? 柚木の居場所はどうなる?

 佐野は廊下に足を進めながらも、クラスメイトたちに話しかけられている「藤森」から目が離せなかった。

 首を振り、廊下に出ようと前を向いた瞬間──

「藤森」が、佐野の方を振り返って……


 にやり、


 と笑ったような気がした。


 逃げるように、佐野は生徒玄関まで移動していた。

 息を整えながら、何事かを思いついたという顔で、ロッカーに近づいていった。

 自分のクラスのロッカーを、順に指で確認していく。そして、「藤森」のロッカーの前で、佐野の目はぴたりと止まった。

 ロッカーに貼られたネームプレート。

「藤森」のロッカー。

 そこには、「藤森千佳」というフルネームが記されている。


  藤森千佳。


 その名前に、胸の奥が悲鳴に似たような音を立てて軋みだす。

「そうだったのか……」

 佐野は呟くと、午後の授業があるにも関わらず靴を履き替えた。そのまま、校舎を後にする。

 過去と、もう一度、向き合う時が来たのを感じていた。

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