第8話 5年前 その4
* 五年前
「海に絵を描きに行こう!」
千佳ちゃんがそう言ったのは、夏休みに入ってから三日目のことだった。
図工の宿題の一つに、風景の写生があった。夏休みの宿題は、お盆が終わってから一気に片付けるものだと思っていたわたしは、その申し出に面食らったが、すぐに同意して頷いた。
宿題なんていうのは、ただの口実だった。二人だけで遊びに行こうと、そう千佳ちゃんは言っているのだ。
海までは、自転車で十五分ほど走ればたどり着けたが、問題は途中にある坂道だった。
千佳ちゃんに、無理な運動をさせても大丈夫なのだろうか。
だが、彼女は、心配いらないからと、麦わら帽子に水筒という、準備万端のいでたちで、家からわたしを引っ張り出した。わたしは苦笑しながら、彼女の後ろについて自転車をこいだ。
途中、教室にスケッチブックを忘れてきたという千佳ちゃんのために学校へ寄り、そこから海を目指した。
いつもは、学校へ近寄るだけで気分が重くなるわたしも、今日はウキウキと胸が弾んでいた。誰にも邪魔されない、わたしと千佳ちゃん、二人だけの時間が始まるのだ。
海水浴場を避け、わたしたちは、人気のない海岸を選んで自転車を止めた。
小高い丘を登り、見晴らしのよいポイントを探す。場所を決め、芝生の上に腰を下ろすと、まずは途中のコンビニで買ってきたお菓子の袋を開けた。
頬にあたる風が気持ちいい。わたしたちは、海を眺めなら、とりとめのない話に花を咲かせた。
数日前までが嘘のように、満ち足りた気分だった。
目の前にはどこまでも広い世界が続き、横には千佳ちゃんがいる。二人で同じ風に包まれながら、同じ景色を見ている。これ以上の幸せは、これから先もないのではとさえ思えた。
「──そう言えば、写生しに来たんだったね」
どれくらいお喋りを続けていただろうか。千佳ちゃんは、苦笑しながら言ってスケッチブックを取り出した。
そこからさらに海に近づき、岸壁のようになった突端に腰を下ろす。高所恐怖症のわたしは、四つんばいのような格好で後ろに続き、気丈な千佳ちゃんに笑われることとなった。
くすくす笑いながらスケッチブックを開く千佳ちゃん。
と、その顔が凍りつき、見る見る真っ青になった。
隣で、彼女のスケッチブックを覗き込んだわたしも言葉を失ってしまった。
それには、思いつく限りの千佳ちゃんへの悪口で埋め尽くされていた。
思わず目を背けたくなるような、悪意と敵意に満ちた、まがまがしい文字で、スケッチブックは数ページにわたり、黒く塗りつぶされていた。
おそらく一学期最後の日、彼女がわたしを庇って倒れた後、クラスメイトたちによって書かれたものなのだろう。
千佳ちゃんは唇を震わせながら、今まで見たこともない悲しげな色を瞳に浮かべていた。
これが、わたしに関わることなのだ、と思った。
わたしは、誰であろうと、近くにいる人間を必ず不幸にしてしまう。
どんなに好きな相手でも。
どんなに大切な相手でも……。
千佳ちゃんがいなくては生きていけないなんて、わたしの勝手な思い上がりだった。わたしの、一方的なわがままだった。
現に、千佳ちゃんはこんなにも悲しみ、苦しんでいる。
これだって、ほんの序の口だろう。夏休みが終われば、千佳ちゃんにも地獄のような毎日がやってくるのだ。
わたしの幸せのために、千佳ちゃんを苦しめていいわけがない。
「千佳ちゃん」
わたしは、精一杯の笑顔を浮かべ、青い顔をしたままの彼女に語りかけた。
「今までありがとう。たくさん、楽しい思い出をありがとう。もう充分だから。いっぱい幸せになったから。だから……、だから、もう会うのはやめにしよう」
「どうして……」
千佳ちゃんの目が大きく見開かれた。
「どうしてそんなこと言うの? 私、あなたを助けられなかった自分の弱さが嫌いだった。大好きな友達を助けられない自分が恥ずかしかった。だから、もう絶対に逃げないと決めたの」
わたしは、千佳ちゃんのその言葉に嬉しくて涙が出そうになった。
だからこそ……、わたしは千佳ちゃんから離れなくてはならない。彼女の、強さと優しさに甘えてはいけない。千佳ちゃんのような人が、わたしと同じように悲しんだり苦しんだりしてはいけないのだ。
「絶対、離れないから!」
千佳ちゃんはそう言い、両手でわたしの手をしっかりと握り締めた。
わたしは、懸命に涙をこらえながら首を左右に振る。
どうしよう。どうしたら、千佳ちゃんは分かってくれるのだろう。わたしといっしょにいてはいけないことを。このままでは、彼女の人生が台無しになってしまうことを。
方法が一つだけある。それは、とてもつらくて悲しい方法だ。
わたしが、千佳ちゃんに嫌われればいい。
顔も見たくないほどに嫌われれば、もう彼女はわたしに近づくこともなくなるだろう。それが……、おそらく一番いい方法なのだ。
「……そ、そんないい子ぶらないでよ!」
わたしは声を荒げ、乱暴に千佳ちゃんの手を振り払った。
「千佳ちゃんだって、わたしのこと、のろまでネクラだと思っているくせに。気持ち悪いと思っているくせに。無理して、友達になってくれなくてもいいんだから!」
傷ついた千佳ちゃんの表情を見たくなくて、わたしは顔を伏せた。
「無理してるのは、私じゃないよ……」
そんな、わたしの肩に手を置いた千佳ちゃんの声は優しかった。
「あなたは、そんなこと言えるような人じゃないの、私、よく分かっているから。私のために、そんな無理しなくていいんだよ」
ダメだよ、千佳ちゃん。
ダメだよ、ダメだよ……。
わたしは何度も胸の内で繰り返した。
わたしのことを嫌いにならなくてはいけないのに。憎んで、軽蔑して、そしてわたしのことを記憶から完全に消し去ってしまわなくてはならないのに。
「やめて! 近寄らないで!」
わたしは耳を押さえながら頭を振った。
胸が張り裂けそうなほど苦しかった。
気が狂いそうになるほど悲しかった。
それでも、わたしは言わなくてはならない。
「千佳ちゃんなんか……、千佳ちゃんなんか……、大嫌い!」
言葉だけじゃ足りない。
そう思ったわたしは、彼女を思い切り……
突き飛ばした。
自分が何をしたのか、頭で理解していなかった。
苦しまぎれに、思わず手が出てしまったのだ。わたしたちが、どこにいるのかも忘れて。
ただ、千佳ちゃんに嫌われようと、それしか考えていなくて……。
目を開けると、千佳ちゃんが消えていた。
突き出した形のわたしの手の向こうには、崖の切っ先があり、そこにいるはずの千佳ちゃんの姿はどこにも見えなかった。
指先に、かすかに千佳ちゃんの体温が残っている。耳の奥で、次第に遠ざかる彼女の悲鳴がいつまでもこだましている。
千佳ちゃんを、殺してしまった……。
千佳ちゃんを、殺してしまった……。
千佳ちゃんを、殺してしまった……。
「……あ、あぁぁ……。あ、あ、あぁ……」
わたしは尻餅をついた格好のまま、声にならないうめきを上げて、じりじりと崖から後ずさりした。
どうしたらいいのか、まるで分からなかった。助けを呼ぶとか、崖の下を確認するとか、やらなくてはいけないことが少しも頭に浮かばなかった。
ただ怖かった。怖くて怖くて仕方がなかった。
それで……、逃げようと思った。
少しでも、この崖から遠くへ離れたかった。
崖を向いたまま、まるで力の入らない膝に手をあてて、立ち上がろうとしたわたしの肩を──
──誰かが叩いた。
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