第7話 誕生日

 翌日、眠気の抜けきらないぼんやりとした頭で駅から出ると、後ろから唐突に名前を呼ばれた。

「おはよう、佐野君。相変わらず一人みたいね」

 麻生晴香だった。そう言いながら、佐野の横にぴったり並んで歩き出す。

 妙に姿勢がいい歩き方だ。背も高いので、彼女と並んでいると目立つことこの上ない。佐野は周りを気にしながら、やはり迷惑そうな顔をした

「麻生さんだって一人のようだけど。登下校は柚木さんと一緒じゃないの?」

「いつも明里とくっついているわけではないわ。家は逆方向なのよ」

 それからしばらく無言で歩いた。

 歩く速さには自信がある佐野だったが、麻生も平気な様子でぴったり彼に並んでくる。ポニーテールの髪型とあいまって、まるで機敏な駿馬を見ているようだ。

「明里から電話で昨日のこと聞いたわ。見かけによらず、気障なことするのね」

 信号待ちの間にそう告げられ、佐野は、ぐっと喉を詰まらせた。今の彼には、最も触れてはいけない話題だった。

「……関係ないだろ。放っておいてくれないかな」

「あら、褒めてるのに。いいところもあるって」

 そう言って佐野の方を向く麻生の目には、明らかに面白がっている色が浮かんでいる。柚木も、もうちょっと友達を選んだ方がいい、と思った。

「それでね、明里がぜひ正式にお礼がしたいって。明日、土曜日でしょう? ちょうど誕生日だし、プレゼントをしたいそうよ」

「え? 誕生日?」

「まさか、自分の誕生日も忘れていたって言うんじゃないでしょうね」

 忘れていた、と佐野の顔は答えていた。

 そもそも、佐野にとっては、自分の誕生日など無意味以外の何ものでもない要素なのだろう。

 佐野は腕を組み、恐ろしく難しい顔をしたまま空を睨んでいた。

 誕生日は、おそらく名簿か何かで知ったのだろうが、ちゃんとチェックしているということは、本当に佐野に気があるということのようだ。事態は思っていたよりも深刻らしい。

「だから、明日、正午ちょうどにここの駅に来てちょうだい。必ずよ。明里の好意を裏切ったりしたら、私が許さないから」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。そんな一方的に決められても……」

「あの子、珍しく最近体の調子がいいみたいなの。休みの日に出歩けるなんて、今度いつになるか分からないし」

 佐野の表情が、見るからに情けなさそうに曇る。ここまでくると、まるで脅迫ではないか。

「じゃあね! よい休日を」

 言うだけ言って、麻生は行ってしまった。

 誰が、そんな約束を守るというのだ……。

 歩道のブロックを見つめながら、佐野はとても週末を迎える学生とは思えない、人生に疲れた中年サラリーマンのような溜息を漏らした。


 翌日は皮肉なほどによい天気だった。

 空はどこまでも澄み渡り、風は優しく朝の空気を部屋に運び込み、佐野の顔をますます憂鬱なものに変えていった。

 本当に駅まで出かけるつもりなのか、と何度も問いかけを繰り返す。

 無視すればいい。約束を破って、人にどう思われようとも、佐野は平気な人間のはずだった。

 それでも、彼は家を出ると、電車で揺られて約束の駅へと立っていた。

 ホールの柱に寄りかかり、腕時計を見る。落ち着きがないのは、人と待ち合わせることに、まったくといっていいほど慣れていないからだ。

「こんにちは」

 待ち合わせに慣れていない佐野は、待っていた人を探すのにも慣れていない。いつの間にか横に来ていた柚木明里に声をかけられ、飛び上がらんばかりに驚くことになった。

「本当に来てくれるとは思わなかったです。ありがとう。無理なことお願いしちゃって」

 柚木は、にこにこと本当に嬉しそうに、頬を上気させていた。

 佐野は、そんな彼女の様子を、罪悪感を覚えるような顔で眺めていた。

「あ、そうだ。お誕生日、おめでとうございます」

 ぺこりと、柚木は頭を下げた。

「この前のお礼に、ぜひ何かお誕生日プレゼントを上げたかったんですけど──」

 この前? ととぼける佐野は、あからさまに白々しかった。

「でも、私、男の人って、どんなものもらったら嬉しいのか、全然分からなくて。だから、何か欲しいものがあったら、遠慮なく言ってください。それは、まあ、ちょっとだけ私のお財布の中身も考えてもらうと助かるんですけど」

 そう言って、ぺろりと舌を出した。そんな彼女は、とても心臓を患っているとは思えない、どこにでもいそうな、ごく普通の女の子だった。

 それにしても、と考えずにはいられない。

 理解はできないが、まあ佐野のことが好きなんだとしよう。それでも、シャーペンを貸してもらっただけのことで、二人で街に出てプレゼントを買ってあげようなどと、普通、思うものだろうか。正直なところを言えば、そんな彼女の押し付けがましい行為に、ちょっと狂気にも似た怖さを感じる。

 そもそも、二人は教室で会話らしい会話すらしたことがないのだ。恋人どころか友達ですらない。

 まあ、佐野にそんなつもりはないのだが、もっと段階を踏んで親密になったとすれば、もしかしたら、こういうシチュエーションも受け入れられたのかもしれない。

 何を急いでいるのだろう。まるで、彼女にはもう残された時間がないというようではないか。

 佐野は、はっと気づいたように柚木の顔を見返した。

 そうか。そうなのか。

 それで、麻生もあれほど無理やりに佐野を連れ出そうとしていたのか。

 これが、最後のチャンスかもしれないから。最後の思い出になるかもしれないから。

 どうして、そんなやっかいな人生ばかりを引き寄せるのだろう。それが嫌だから、佐野は周囲との関係を絶って一人で生きていこうとしているのに。

 最後。

 佐野にとっても、他人の人生とかかわる、これが最後だとすれば……。

 佐野は、諦めたような、腹をくくったような、複雑な表情を見せた。

 世界に対して、最低限の務め、義務を果たしてもいいのではないか。何より、ここで帰ったりしたら、後でまた麻生に何を言われるか分かったものではない。

「……実は、前から観たい映画があったんだ」

 長い沈黙の後、ようやく佐野はそう口を開いた。

「誕生日に、それを観ることができたら、きっと僕は嬉しいと思う」

 佐野の、下手な翻訳小説みたいな台詞に、柚木は顔を輝かせて頷いた。

「分かりました! さあ、行きましょう!」


 映画館に着くと、佐野は上映時間の書かれたパネルの前で、難しい顔をしながら観る作品を選び始めた。明らかに、観たい映画など何もないという表情だった。

「どれが観たかったんですか?」

「え、うん、そう……これ……かな?」

 柚木に聞かれ、反射的に指差したタイトルを見て、佐野は引きつったような表情になった。ホラー映画だった。

「分かりました。すみません、ちょっと始まる前にお手洗いに行ってきますね」

 それでも、嫌な顔一つしない柚木に、佐野は苦笑いで頭をかく。つくづく、デートには向いていない男だった。

 せめてもの償いに、というわけでもないだろうが、柚木がトイレに行っている間に、佐野は二人分のチケットを買って待っていた。

「あ、そんな悪いです! 佐野君の誕生日なのに……」

 戻ってきた柚木は、佐野が渡そうとしたチケットを見て、ぱたぱたと手を振った。

「いや、その、さすがにこういう場合は、男の方がお金を出すという昔からのしきたりがあってね……」

「……本当に?」

「…………うん」

 すみません、と柚木は情けなさそうに肩を落とした。

 彼女が世間知らずで、何とか佐野の面目は保たれたようだ。

 問題のホラー映画は、幽霊が見えるという少年を描いた、予想してよりは大人しい内容で、佐野は、ほっと胸をなで下ろした。何より、佐野にとっては、実に身につまされるテーマで、最後までスクリーンから目が離せなかった。隣で、柚木が可愛らしく悲鳴を上げたり、感動的な場面で目を潤ませたりしていたのも、おそらく気づかなかったに違いない。

 映画館を出て、アーケードを歩きながら、当たり障りのない映画の感想を述べ合った。

 柚木は、映画館で映画を観るのは初めてで、とても面白かったと言った。

「ごめんなさい。佐野君の誕生日をだしにして、何だか私がとっても楽しんでしまっているみたいです」

 柚木が、あまりにもあっけらかんと言うので、佐野はびっくりした。

「楽しんでいる? 本当に?」

「本当ですよ。だって、休みの日に街に出ているだけでワクワクして仕方がないのに、好きな人と一緒にいるんですから」

 言った柚木の方が、今度はびっくりした顔になり、佐野は悪い病気にでもかかったかのように赤面していた。

「あ、ごめんなさい! 変なことを言ってしまって」

 柚木は手をひらひらさせながら、慌てて打ち消そうとした。

「でも楽しいのは本当です。こんなこと、生まれて今まで経験したことがなかったから……。私、今日のこと、絶対に忘れませんから」

 初めてのデートの思い出が、こんなものでいいと言うのだろうか。むすっとして黙ったままの男と、ホラー映画を観て街を歩いただけ。

 しかし、確かに柚木の表情は満ち足りていた。もう、思い残すことはないと言うように。

 アーケードから見上げると、陽はまだ高く、青空は一点の不安もにじませずにどこまでも続いている。

「……いい天気だね」

「ええ、本当です」

「暑くも寒くもないし」

「お散歩しているだけでいい気分ですねー」

 明らかに、佐野は何事か言いあぐねて言葉を探している風だった。

「……柚木さんは、どこへ行ってみたい?」

 佐野が言うと、柚木は目をぱちくりとさせた。

「行きたい場所があったら、言ってみて。まだ時間は大丈夫でしょう?」

 柚木は放心したように佐野の顔を見返していた。何を言われたのか、理解できないという表情だった。

「そんな……、私のために……、本当にいいんですか?」

 無理やりにだろうが、偽りのものであろうが、柚木は、人生でたった一度だけ、デートの真似事をしてみたかったのだろう。佐野がどう思おうが、その内容が楽しかろうが退屈であろうが、そんなものは関係なかったのだ。ただデートをしたという、形のある思い出が欲しかっただけ。

 だから、佐野の申し出に面食らっている。これでは、本当のデートになってしまうのではないか。

 今更ながらに、柚木は顔を赤らめて佐野の方を直視できなくなっていた。

「……晴香ちゃんと、話したことがあったんです。いつか、私の体の調子がいい時に、海を見に行けたらいいなって」

 海、と聞いて佐野は一瞬だけ顔をしかめた。

 だが、目の前にちらつく過去を振り払うように、彼は勢いよくきびすを返すと、迷いなく足をバス停に向けた。

「よし、じゃあ、出発しよう」

 と、その視線が一箇所にとどまる。アーケードの柱の陰。大きな麦わら帽子をかぶった少女が、さっとそこに身を隠すのが見えていた。

「こんなところで会うとは偶然だね、──麻生さん。これから海に行こうと思うんだけど、一緒にどう?」

 柱の陰から姿を現した麻生晴香は、まるで尾行相手に見つかった女スパイのような、苦々しい面持ちをした。


「本当に馬鹿だね、君は」

 海に向かうバスの中で、麻生晴香は憤懣やるかたないといった様子で佐野を睨んでいた。

「君のような馬鹿にはお目にかかったことがない。もう、本当に呆れて物も言えない」

 柚木明里は、久々の外出で疲れたのか、バスの座席ですうすうと寝息を立てていた。佐野と麻生は、吊り革につかまりながら海へ抜ける山道を眺めている。

「……いったい、いつから気づいていたのよ、私のこと」

「映画館に入るあたりかな」

 佐野の言葉に、麻生はがっくりと肩を落とした。変装と尾行には相当自信を持っていたらしい。

 それからも、くどくどと恨み言を続ける麻生だったが、佐野は涼しい顔で聞き流していた。

「明里はデートがしたかったのよ。なのに、どうして私を誘ったりするかな。もう、すっかり台無しじゃないの」

「柚木さんはさ、海に麻生さんと行きたがっていたんだよ。やっぱり大切な思い出には、麻生さんがいてあげた方がいいんだ」

「──何よ、それは」

「それに、映画館でもアーケードでも、何だか寂しそうな顔してたからね、麻生さん」

 何よ、馬鹿じゃないの。

 そう言うと、麻生は目を伏せて黙り込んだ。


 シーズン前の浜辺は、海の家なども当然のように閉まっていて、ゴーストタウンのようにひっそりと静まり返っていた。ただ、日差しだけは地面に強く降りそそいでいるので、余計に人がいないことに違和感を覚える。

「わあ!」

 柚木明里は、海が見えると子供のような歓声を上げて走り出した。

 佐野と麻生が注意する間もなかった。麻生から借りた大きな帽子を片手で押さえながら、砂浜へ続く石段をとっとと駆け下りていく。

 波打ち際まで走っていった柚木は、そこで電池が切れたようにぴたりと立ち止まった。

 すわ、また発作でも出たか、と色めきたって駆け寄った佐野たちだったが、彼女は水平線の迫力に圧倒されて目を丸くしているだけだった。

「……凄い。景色に果てがないんですよ」

「まさか、海を見るのが初めてっていうわけじゃないんでしょう?」

 佐野が聞くと、柚木は目をぱちぱちと瞬かせながら、

「幼い頃に一度だけ。でも、忘れちゃってました。海は、本当はこんな色をしているんだとか、こんな匂いなんだとか、こんなに広いんだとか」

 にこりと悪戯っ子のような顔をして笑った柚木は、ぽんぽんと靴を脱ぎ捨て、水の中へ足を踏み入れた。

 麻生が驚いたように手を伸ばしかけたが、あまりにも柚木が楽しそうな表情をしていたためであろう、やれやれといった調子で肩をすくめた。

「──あんなに生き生きしている明里、初めて見た」

 麻生は複雑な表情で、水の上を跳ね回る柚木を見ていた。

「いつも、笑顔を絶やさない子だけど、どこか無理して笑っているのが私には分かった。きっと、私に気を使っていたんでしょうね。明里とは、小さい頃から本当の姉妹以上の親友だと思っていたけど、私がそう思っていただけだったのかもしれない」

 柚木が、スカートの裾をつかんで、足で思い切り水をすくい上げていた。水滴が、きらきらと日の光を散らして、麻生の横顔にいくつもの小さな影を落とす。

「明里は、ずっと一人で病気と戦ってきたのよ。私は、力になってあげているつもりで、明里が、本当にして欲しいことや、分かって欲しいことを、一つも理解してあげなかった気がする」

 麻生は、傍らにあった流木に腰を下ろし、そう自嘲気味に呟いた。

 私なんて、いてもいなくてもよかったんだ──。

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

 佐野は、いつもの無感動な面持ちで言った。

 麻生は苦笑する。

「そうよね。こんなこと、君に言ったって仕方がないのに……」

 その時、水滴が飛んできて佐野と麻生の顔をしたたかに濡らした。

 柚木の足がこちらに向いている。彼女は、お腹を抱えてさもおかしそうに笑っていた。

「こら、明里、調子に乗りすぎ!」

 立ち上がった麻生は、脱いだ靴を振り上げて柚木を追いかけ始めた。

 野うさぎがチーターに狙われたようなものだ。柚木はあっという間に捕まり、麻生の手の中でじたばたとくすぐったそうにもがいていた。二人は水しぶきを上げながら、長い間、その場でじゃれあっていた。波の合間から、彼女たちの笑い声が響いてくる。

 佐野は飽きることなく、その情景を眺めていた。


 太陽が水平線に近くなった。

 柚木明里は、さも楽しんだという体で、流木に腰掛けながら満足げな吐息を漏らした。横にいる佐野に、長い髪の毛を海風に揺らしながら笑いかける。

 佐野は、なんだか落ち着かなくなった。

「あれ、麻生さんは?」

「ジュース買ってくるって言って、自販機を探しに行きました」

 この期に及んで、まだ佐野と柚木を二人だけにしようというのだろうか。佐野は観念したような渋い顔で肩をすくめた。

「思い出って、いつまで残るものなんだろう」

 柚木が、感無量といった表情で水平線に目をはせる。

「明日になっても、あさってになっても、目を閉じると今のこの幸せな瞬間が思い出せるのかな?」

「未来は長いからね」

 佐野は、さもうんざりとしたように答えた。

「それはもう、嫌になるくらい、まだまだ続くんだ。今日みたいな一日なんて、きっと思い出のどこにあるか分からなくなってしまうんじゃないかな。忘れるっていうのは、ある意味、幸せだからできることだと思うよ」

 柚木は、そんなこと思ってもみなかったという表情でうつむいた。

 それから、そうかもですね、と儚げな笑顔を見せて言った。

「でも、一つだけ、お願いを聞いてもらってもいいですか。何か、我がままばっかり言っている気もしますけど」

「……どうぞ」

「今日のこと、ほんの少しだけでもいいから、憶えていてくれますか。私と、晴香ちゃんと、こうして海を見ていたっていう思い出を、どんなに小さくてもいいので、佐野君の心のどこかにしまっておいてくれますか」

 佐野は、海に目をやったまま、「うん」と声に出して頷いた。

 それを見て、柚木は本当に嬉しそうに、いや嬉しいというよりも、心底安心したというような笑顔を浮かべた。

「いい雰囲気のところ悪いんだけど、もうそろそろ、帰りのバスの時間だから」

 背後から、突然降って沸いた麻生の声に、二人は雷で撃たれたかのように、びくりと背筋を震わせた。

「は、早かったね、麻生さん……。ジュースを買いに行ったんじゃないの?」

「自販機はあったけど、壊れてるみたいで買えなかったわ」

 手ぶらの麻生は、ぶっきらぼうな口調で答えた。

 佐野と柚木は顔を見合わせ、仲間はずれにされてふて腐れているような麻生の様子に笑い合った。

 すっかり赤く染まった空を見上げながら、三人は長く伸びる自分たちの影を追いかけるようにバス停へと歩き出した。

 その途中、柚木が、麻生の肩に寄りかかったまま、動かなくなった。

 はっと顔色を変えた佐野だったが、どうやら疲れてただ眠くなっただけらしい。麻生の腕の中で、すーすーと気持ちよさそうに寝息を立てている。

「その……、僕が、彼女を担ごうか?」

「結構よ」

 佐野が、勇気を振り絞ってかけた言葉を、麻生はきっぱりと断る。それから、さすがに気まずいと思ったのか、柚木を背負いながら、声を和らげて言った。

「いいの。これは……、私の役目だから。明里は、私に担がせて」

 麻生は歩きながら、背中の柚木に呆れたような顔を向けて言った。

「何だか、すっかり満足しちゃっているみたいね、この子は。これじゃあ、私と二人で遊びに行ったのとちっとも変わらないのに」

「だから満足なんじゃないかな。僕の方が、いてもいなくても変わらなかったんだよ」

「そんなことは……」

 と言いかけて、麻生は言葉を濁した。

「ま、まあ、次はもっとうまくやりなさいよね。私は、もう邪魔したりしないから」

 麻生の言葉に、佐野は立ち止まった。

 うつむいた顔は陰になっており、どんな表情をしているのかは分からない。

「次なんてないよ。今日でおしまい。もう僕とは関わらない方がいい」

「そんなこと言わないでよ」

 麻生は、呟くように言った。

「明里に、悔いを残させたくはないの。私にできることは、何だってしてあげたい。けど、私一人の力では、限界があるって分かった。だから──」

「だから、僕を利用しようと考えた。僕の考えや気持ちなんてお構いなしに」

 麻生は黙り込んだ。その顔が、悔しそうに歪む。

「僕は誰の人生にも関わらずに生きていくと決めたんだ。幽霊のように何にも触れず、誰の意識にも上らないように。今日、こんなこと、するんじゃなかった。柚木さんや麻生さんといっしょの時間をすごして、こんな生き方もあるんだって思ってしまった。けれど、間違いなんだ。きっと、君たちだって後悔するに違いないんだ」

「……分からないわよ。君の言っている意味が」

「意味なんてないよ。ない方がいいんだ」

 麻生は、下唇をぐっとかみ締め、佐野の横顔をにらみつけた。頼りない残光のせいか、佐野の姿は、微動だにせず立ちすくむ麻生の影のようにも思えた。

「麻生さん、君だって、もう後悔しているんだよ。柚木さんと会ったことをね。彼女と友達にならなければ、もっと他の仲間たちと楽しく週末を過ごせたんだ。病気とか苦しみとか、そんな高校生らしくない思いを共有せずにもすんだ」

「ふざけないで。どうして、私がそんなことを──」

「麻生さんも、きっとこれを聞いたら、僕と関わったことを後悔するから」

 風が、二人の間を吹きぬけた。

 世界が、こちらと向こう側に音を立てて分かれ始めたのを感じる。

 佐野は歩き出し、麻生の近くを通り過ぎる際、低い声で呟いた。


「僕は、人を殺したことがあるんだ……」

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