第6話 5年前 その3

  * 五年前


 千佳ちゃんと、帰宅後に遊ぶことがなくなって一週間が過ぎた。

 その間、千佳ちゃんは学校には来ていたし、病気になっているというわけでもないようだった。

 でも、だとしたらどうして遊びに来ないのだろう。

 彼女の口から、ちゃんとした理由を聞きたかった。だが、わたしは学校で千佳ちゃんと話をすることは控えていたし、彼女の方も、必要以上にわたしを避けているように感じられた。

 他人から見れば、何の変わり映えもない日常だった。千佳ちゃんは、相変わらず愛らしい笑顔を振りまいてクラスの中心にいたし、わたしは、隠された上履きを探して教室の中をウロウロしている。

 いつもの、見慣れた教室の風景。

 ただ、わたしと千佳ちゃんの二人の時間がなくなっただけだ。

 わたしにとって、大切な、宝物以上の時間が。

 何度か、わたしの方から千佳ちゃんの家を訪ねて行ったこともあった。

 だが、そのたびに、千佳ちゃんは塾に行って留守だという返事を聞かされるだけだった。そう説明する千佳ちゃんのお母さんは、何か隠し事でもしているかのように、わたしからそっと目をそらすのだった。

 いつか、こういう日が来ると思っていた。

 親切で優しかった千佳ちゃんも、ついにわたしに愛想が尽きたのだ。気の利いた受け答え一つできず、学校でみんなからいじめを受けているようなわたしなど、千佳ちゃんには、到底、釣り合わない。

 分かっていたことだった。けれど、わたしは千佳ちゃんの優しさにつけ込んで甘えてしまっていたのだ。

 もう、やめよう。彼女に迷惑になることはやめよう。

 大好きだった千佳ちゃん。

 だからこそ、わたしはもう彼女と遊んだりしてはいけないのだ。千佳ちゃんは、彼女に相応しい、綺麗で明るい友達たちに囲まれているのが、きっと幸せなのだから。

 ……そう思っても──

 涙を止めることはできなかった。

 せっかく見つけた自分の居場所。もう二度と見つけることのない大切な場所。

 夢でも、幻でもよかった。わたしにもそういう場所がある。そう錯覚して生きていけるだけで、わたしは充分幸せだったのに…


 さようなら、千佳ちゃん……


 それからの一ヶ月間は、自分でもよく憶えていない。

 機械仕掛けの人形のように、ただ家と学校を往復しているだけの毎日。

 できるだけ他人とかかわらないようにして、心を閉ざして何も感じないようにする。それが、わたしに残された、この世界での生き方だった

 一学期最後の日。

 わたしは、明日から始まる長い休みを想像して、ほっと心が軽くなるような気分だった。

 しばらくは、誰とも会わなくてすむ。いじめに怯えて、教室の隅で震えることもない。家も、決して心休まる空間ではなかったが、それでも教室よりはましだった。わたしに無関心で、干渉してこない両親が、むしろ今はありがたかった。

 他人に頼ったり、期待したりすることは、後々、自分を傷つける結果しか招かない。だから……、最初から一人でいる方がいいのだ。

 その日の給食時間。

 これさえ終われば、後はもう帰るだけだった。待ち焦がれた、夏休みの始まり。

 なのに、よりにもよって、わたしの大の苦手なシチューがメニューの中にあった。シチューは、わたしが本当の両親と最後に食べた食事だった。そのせいか、以来、どうしても、その料理が喉を通ってくれないのだった。

「……なに、グズグズしてんのよ。あんたが食べ終わらないから、給食当番が迷惑してるでしょう?」

 後ろから、声を投げつけられた。

 顔を見なくても分かる。千佳ちゃんのグループにいる女の子だ。

 クラスの方針として、給食は残さず食べなくてはいけない。食べ終わるまでは、昼休みに入ることも許されなかった。

「そんなに嫌いなら、わたしたちが食べやすいようにしてあげましょうよ」

 机に落ちる影で、何人かに囲まれているのが分かった。

 わたしはうつむき、皆が飽きて立ち去るのを、ただじっと待つ。

 だが、この日は、夏休み前という開放感からか、わたしをいじめる皆の調子は、いつになくしつこかった。

 背中が、嫌な予感に打ち震えていた。

 誰かが、掃除用具入れから、午前中の大掃除で使ったばかりの汚れた雑巾を持ってきた。それを、わたしの目の前で力いっぱい絞る。

 どす黒い液体が、音を立ててシチューの中へと落ちていった。

「美味しそうじゃない。遠慮せずに食べなよ」

 誰かがわたしの後ろ頭をつかみ、顔を強引に皿へ押し付けた。目から、鼻からシチューが浸入し、わたしは溺れかけたようになって、惨めな声で悲鳴を上げる。ケタケタという乾いた笑いが教室に響き渡った。

「お行儀が悪いわね。誰か、そいつに飲みかたを教えてあげなよ」

 わたしは後ろ髪をつかまれ、シチューまみれになった顔を上げさせられた。クラスメイトの一人が、黒く変色したシチューを、口元にゆっくりと近づけてくる。

(助けて!)

 わたしは心の中で叫んでいた。

 誰でもいいから。

 もう、これで終わりにするから。

 誰ともかかわらずに一人で生きていくから。

 だから、今だけ助けて!


「いい加減にしなよ」


 凛とした声に、教室の中が一瞬で静まり返った。

 わたしを抑えていた、みんなの力が緩む。

「馬鹿なことをして。みんな、恥ずかしいとは思わないの?」

 にじんだ目をこすると、声の主が、そっとわたしの顔を覗きこんできた。

「大丈夫?」

 わたしはびっくりして声も出なかった。

 その、優しい眼差しが、とても懐かしく思えて、涙が出そうになった。千佳ちゃんが、きれいなハンカチを取り出して、わたしの顔を拭ってくれていた。

「……千佳、あんた、何してるのよ……」

 千佳ちゃんは、周りの友達の声には応えず、ただ、わたしの顔や髪についたシチューを丁寧に拭ってくれていた。

「なに一人でいい子ぶってるのよ。今まで、いっしょになってこいつのこと笑っていたのに、今になってみんなを裏切る気?」

 わたしは力なく首を横に振った。

 ダメだよ、千佳ちゃん。

 わたしの味方なんかをしてはダメだ。

 千佳ちゃんはみんなの人気者なんだから。

 わたしなんかに、かかわってはいけないんだから。

「千佳、ちょっといい加減に──」

「うるさい!」

 そう言って、初めて千佳ちゃんは友達の方を振り返った。皆、その剣幕に気圧されたように息を飲んだ。

「この子も、わたしの大切な友達なんだ」

 わたしは信じられない言葉を聞くように、千佳ちゃんの整った横顔を見上げた。

 と、その顔が、苦痛に歪み、千佳ちゃんは胸を押さえてその場に倒れこんでしまった。

「千佳ちゃん!」

 わたしは慌てて彼女のそばに膝をつき、助け起こそうとした。

 千佳ちゃんは青い顔をして、ひどく苦しそうに呻いている。

 何度も何度も彼女の名前を呼ぶ。わたしのことを友達だと言ってくれた、千佳ちゃんの名前を呼ぶ。けれど、千佳ちゃんは胸を押さえたまま、ぴくりとも動こうとしなかった。

 私は立ち上がると、周りを囲んでいたクラスメイトを押しのけ、教室を飛び出そうとした。

 先生を呼んでこよう。

 震えて思うように動かない足を、必死で動かす。もう、千佳ちゃんを失うことなんて考えられなかった。千佳ちゃんのいない世界なら、今すぐ終わってしまったって構わないとさえ思った。


 千佳ちゃんは、先生たちの手で保健室に運ばれた。

 その後、救急車もやって来て、お医者さんたちが、千佳ちゃんの容態を見ているようだった。

 わたしは、保健室の前で、膝を抱えながらいつまでも待ち続けた。

 わたしのせいだ、と思った。

 やっぱり、千佳ちゃんは、わたしなんかに関わってはいけなかったのだ。わたしは、近くにいる人間をみんな不幸にしてしまうのだから。両親が事故で死んだのも、きっとわたしのせいなのだ。

 それでも……。

 わたしは、千佳ちゃんの言葉を何度でも思い出す。

 みんなの前で友達だと言ってくれたことが、何より嬉しかった。それだけで、今まで生きてきた甲斐があったと思った。だから、もう一度、千佳ちゃんに会って、ありがとうと言いたかった。


 どれくらいたっただろう。

 保健室から、お医者さんたちが出てきて、その後に、先生と千佳ちゃんも姿を見せた。千佳ちゃんは、わたしがいることに驚き、それからにっこりと微笑みかけてくれた。

「びっくりさせてごめんね。わたし、心臓が悪くて、最近、よく病院に行っていたりしたんだ」

 それで、このところ、放課後にあまり遊べなくなってしまったのだと、千佳ちゃんは言った。心配かけるのが嫌で、家の人に頼んで、わたしには塾に行っていることにしていたらしい。

「さっきみたいな発作は、本当にたまにしか出ないんだ。けれど、少し横になればよくなるから、もう大丈夫」

 先生は、わたしに千佳ちゃんを家まで送っていくようにと言った。

 わたしは頷く。その対応からも、千佳ちゃんの容態は、さほど心配がいらないということなのだろう。

 わたしは、心の底から安堵し、彼女の手をぎゅっと握り締めた。

 びっくりした表情の千佳ちゃんだったが、黙って、その手を優しく握り返してくれた。


 帰り道、わたしと千佳ちゃんは、そのまま手をつないで歩いた。

「ごめんね。今まで助けてあげられなくて……」

 千佳ちゃんの言葉に、わたしは首を振った。

 謝りたいのはわたしの方だった。わたしのせいで、千佳ちゃんは、ひどい思いをすることになったのだから。

「本当は、わたし、逃げようかと思ってたの。あなたを庇って、わたしまで苛められたりしたら、大変だからって……。放課後も、何度もあなたと遊ぶのはやめようと思っていた」

 千佳ちゃんは、わたしから目をそらし、地面に視線を落としながら続けた。

「でも、あなたは何も悪くない。あなたは、わたしと本当に楽しそうに遊んでくれたのに、わたしは、あなたのこと嫌いになろうと思ってた……」

 ごめんね……。

 そう言い、うつむいた千佳ちゃんの目から、涙がこぼれた。

「助けてくれて、ありがとう」

 わたしは言った。

 千佳ちゃんは、真っ赤になった目を上げて、わたしの方を見た。わたしは、恥ずかしくなって、正面を向きながら繰り返した。

「ありがとう。友達って言ってくれて、本当に嬉しかった」

 びっくりした。

 こんなに、すんなり自分の思っていることが、言葉にできたことは今までなかった。

 隣で、千佳ちゃんは声を上げて泣き始めた。

 わたしは、夕陽で長く伸びる二つの影を眺めながら、この先何があろうとも、今日という日のことを絶対に忘れないと、心に誓った。

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