第5話 片想い
昨日は厄日だったのに違いない。
翌朝、佐野は目覚めると、そう呟き、いつもの調子を取り戻して学校へ行く支度を始めた。
何ということはない。
前の席に誰が座っていようと、関係ないことではないか。蜃気楼の少女も、もうどうでもいい。柚木だろうが麻生だろうが、ただのクラスメイトにすぎない。
恐れることは、何もないのだ。
だが、教室に入った佐野は、軽いめまいを覚えたように、蒼白な顔色になって立ち止まった。
彼の前の席。そこにいたのは、柚木明里ではなかった。
例の、蜃気楼の少女。
短い髪なのに、俯いているせいか、その表情は見えない。
彼女の脇を通って自分の席に着くと、佐野の額から、どっと汗が吹き出してきた。落ち着こう。カバンからこぼれ落ちた教科書を拾い上げながら、佐野は一つ深呼吸をした。
つまり、柚木は今日、休みなのだ。だからまた、この幽霊が、柚木の代わりに前の席に座っている。
幽霊というより、この「偽柚木」は、学校の精霊みたいなものなのだろう。教室に欠席者が出ると現れ、その隙間を埋めるように席に着く。それで、その欠席者のことをよく知らない人間には、あたかもそこにクラスの一生徒が自然な形で座っているように見えたりするのだろう。たまたま、幽霊に憧れる佐野だから、それに気づいただけのことなのだ。
佐野は、けれど深く考えまいとするように頭を振った。
解釈などどうでもいい。自分に関係さえなければ、幽霊だろうと宇宙人だろうと、存在して一向に構わないというのが佐野の考えだ。
変に疑問を覚えて首を突っ込んだりすると、またあの麻生みたいな侵略者に平穏を乱されることになる。それだけは、是が非でも避けて通らなくてはいけない道だった。
佐野の努力もあってか、その日は平和なまま一日が終わった。
翌日も、前の席には「偽柚木」が座り、佐野は誰に邪魔されることもなく、無事帰りの電車に乗ることができた。
週明けの月曜日。その日は朝から嫌な胸騒ぎがしていた。
教室に入ると、本物の柚木明里の姿が席にあった。
「…………」
いっしょに麻生晴香の姿も見えたので、佐野は始業時間ぎりぎりまで廊下で時間を潰してから教室に入った。
慎重の上にも慎重を重ねる。休憩時間は、寝ている振りをしてすごしていた。
とにかくこの二人に関わってはいけない。
放課後。
佐野は一刻も早く学校から逃げ出そうと、鞄を手に立ち上がった。わき目も振らずに廊下を突き進み、生徒玄関を目指す。
が、その先で佐野は信じられないものを見る表情で、ぽかんと立ち尽くすことになる。ロッカーの前に、麻生晴香が涼しい顔をして立っていた。
きっと、彼女の席は教室の出入り口付近にあるのだろう。それで、終礼が終わるや真っ先に飛び出して、佐野の先回りをしたのだ。
まったく、なんという無駄な労力を使う奴。
「無視しなくてもいいんじゃない」
フェイントを使って脇をすり抜けようとした佐野の前に、あっさり回りこみながら麻生は言う。
「今日は、せっかく、君に素敵なプレゼントがあるんだけどね。意地っ張りは損をすることになるよ」
努力して誰からの干渉も受けない静かな世界を手に入れたのだ。佐野は、それを守るためなら、どんな冷淡な態度でも取る自信があった。
「プ、プレゼント?」
思わず聞き返してしまう佐野。
麻生は、悪戯っぽい笑みを浮かべ、佐野の胸元へ指を伸ばした。どぎまぎして後ずさりする佐野を、おかしそうに眺めている。
「それ、確かに渡したからね」
「え?」
麻生は、佐野の制服の胸ポケットを指差していた。いつの間にか、二つに折りたたんだ紙切れが押し込まれている。
「明里のお家の地図よ」
「はい?」
「学校を休んだ時、佐野君にお見舞いに来てもらえたら、きっと明里は喜ぶと思うわ。だって、その──」
麻生は声をひそめて言った。
「ここだけの話、明里も君のこと好きみたいだから。いや、実際に明里に聞いたわけではないけど、そこはそれ。あの子、何でもすぐに顔に出るタイプだから」
佐野の顔から見る見る血の気が引いていった。思わず膝から崩れ落ちそうになる。目が完全に泳いでいた。今、取り出した靴を、また下駄箱に入れたりしている。
完全なるパニック状態。
それはそうだろう。よりにもよって、そんな最悪に鬱陶しい事態を引き寄せてしまうとは。
彼の、今までの努力をふいにする最も恐れるべき事態だ。
「いや、ちょっと待って」
佐野は冷静さを取り戻すように言った。
「それは、おかしい。だって、柚木さん、入学してから休んでばっかりだったんだろう? 僕と話をしたこともなければ、顔を合わせたことすらほとんどないというのに」
「一目ぼれっていうものでしょ。私には理解できないけどね」
つまらなそうな口調で言って麻生は目をそらした。佐野冬馬なんていう男のどこに惹かれるのか理解できない、とその顔は言いたげだった。
「私は、あなたのこと認めたわけじゃないけど……。明里のためなら仕方がないわ。協力できることがあったら言って」
頼むから、もう僕の前に現れないでくれ。
うんざりとした顔の佐野はそう言いたげだった。
けれど、麻生はとても真剣なのだった。真剣に友達の柚木のために行動している。無愛想で人嫌いの佐野に話しかけてまで。
麗しいお友達ごっこ。
結構なことだ。ただ、そんなものは佐野の関係ないところでやって欲しかった。
佐野は無言のまま、半死人のような有様で校舎から出ようとした。
その時、あることを思いついたように、麻生の方を振り返って言う。
「柚木さんって、髪長いよね? おかっぱ頭とかじゃなくて」
麻生は、呆れたような、哀れむような顔で佐野を見た。
「当たり前じゃない。あの綺麗で長い髪が目に入らないわけ?」
確認しただけだ。
佐野は言って、そのまま校舎を出た。
確認したところで、事態が少しもよくなるわけではなかったが。
次の日は、「偽柚木」が登校する番の日だった。
その蜃気楼のような少女の、おかっぱの襟足を眺めながら思う。
相変わらず狐にでも化かされている気分だが、まあ「偽柚木」なら蜃気楼のようにそこにいるだけで、佐野に何らかかわってくるわけでもない。柚木のいない日の佐野は、顔色からして調子がよさそうだった。
次の日も、佐野の前に座っているのは「偽柚木」だった。
その次の日も。
また、その次の日も。
そうこうするうちに、一週間、本物の柚木を見ずにすごしていた。
病気とやらが悪化したのだろうか。
いや、そんなのはいらぬ考えだ、と佐野は平穏な日常を堪能しようと努める。麻生を探して聞いてみればはっきりすることだが、そんな行為は佐野のポリシーに反する。
断じてしてはいけないことだった。
翌日。久々に教室に柚木明里の姿があった。
彼女のそばを通り、席に着くまでが、いやに長く感じられた。
手のひらに変な汗をかいている。麻生があることないこと言うものだから、どうにも柚木の方を意識せずにはいられなくなっているようだった。
意識するというのは、佐野にとっては、別に柚木が好意を持っているとか、そういうことを期待してのことではない。まったく逆で、もし万が一間違って告白でもされたら、どう言って断ろうか、それを考えるのが憂鬱なのである。
しかも、そんな杞憂に踊らされて自分の生活のリズムを狂わされているのが、何より腹立たしいのだ。
席に着く直前、ちらりと柚木の横顔を窺った。
思ったよりも元気そうだ。多分、今の佐野よりも健康的な肌の色をしている。まあ、この様子なら、偽者に席を占拠される日も少なくなるだろう。
(…………)
すべては、どうでもいいことだが。
佐野の生活が平和でありさえすれば、それでいい。前の席が、本物の柚木であろうとなかろうと。
始業のベルが鳴り、佐野は落ち着きを取り戻した風で、ノートを開いた。黒板の文字をひたすら書き写していく作業は、佐野の心を静めていくようだった。写経のようなもので、もやもやとした邪念がいつの間にか、消え去っていくのかもしれない。
だが、今日はそんな無我の境地も長続きができずにいた。
柚木が、さっきからごそごそとせわしなく机やカバンを探っていて、目障りでしかたがない。何をしているんだろう、と様子を見ていると、どうやら筆記用具を忘れてきて往生しているらしい。
隣の女子にでも言って借りればいい、と思うのだが、柚木にはどうやらそういう考えが頭にないらしい。まあ、休んでばかりでクラスに馴染んでいないから、他人に声をかけづらいのかもしれないが。いずれにせよ、前の席で、ごそごそされるのは佐野ならずとも、非常に気に障ることだった。
佐野は、世の中の、すべての呪いの言葉をかみ殺したような表情をすると、ペンケースの中から、使っていないシャーペンを一本取り出した。それから、ペンの頭で、柚木のしょげ返った肩を、トントンと叩く。
すると、こっちがギョッとするくらいの勢いで、彼女の肩が飛び上がった。
「……これ、落としたよ」
恐る恐るといった体で振り向いた彼女にシャーペンを差し出すと、小声でそれだけ言って、佐野はまた教科書に目を落とした。
後は完全無視。
程なく、佐野の指からシャーペンが彼女の手へと渡る気配がした。
しばらくして佐野が目を上げると、すらすらとノートを書き写している柚木の後姿が確認できた。これで鬱陶しい思いに悩まされずにすむ。
……はずであったが、佐野は心ここにあらずといった体で頭をかいていた。何かとんでもなく余計なことをしたのではと、ひどく後悔しているような面持ちだった。
結局その日一日、授業にほとんど集中できないまま、気づくと放課後を迎えていた。
休み時間も、寝たふりや用足しなどで、極力、柚木と顔を合わせないようにしていたが、最も危険なのは放課後だった。佐野は、他の誰よりも真っ先に席を立つと、玄関と逆の方向を目指し、ただひたすらに足を進めた。
裏口の、非常階段を伝って外に出るつもりだった。そのための外履きを、休み時間に階段の下に隠しておいてある。これなら、麻生に先回りされる恐れもなかった。
「待って!」
廊下の突き当りから外に出て、吹きさらしの階段を駆け下りる。あと少しで地面にたどり着くというところで、後ろからその声に追いつかれた。
ぎくりとして振り返ると、柚木明里が、危なっかしい足取りで、追いかけてくるところだった。
構わず振り切って逃げようとする佐野。
その背後で、どたりと何かが倒れる派手な音がした。
思わず振り返ると、柚木が、一つ上の踊り場で胸を押さえながらうずくまっていた。乱れた黒髪に覆われ、表情は見えなかったが、なかなか起き上がる気配がない。
人気のない裏口を逃走ルートに選んだことがアダになった。ここでは、佐野以外に彼女を助け起こすことのできる人物が現れる可能性は極めて低い。
佐野はため息をつくと、天を仰いだ。
何をどこで間違えたのか。夢見ていた理想の高校生活は見事なまでに綻び始めていた。
重い足を引きずるように、階段を駆け上がる。
柚木は青い顔をして、両手で抱えるように胸を押さえていた。額からは、幾筋も汗が流れている。
柚木が学校を休んでいるのは、心臓が悪いからではないのか? そう思いが至って、佐野の方まで顔が青ざめた。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
柚木は顔を上げると、ゆっくりと頷いた。その表情は、どう見ても大丈夫とは思えない。
「今、先生を呼んでくるから、ここで少し待っていて──」
「いいの。すぐに治まるから」
そう言って、柚木は少しずつ上体を起こしていた。
背中でもさすってやった方がいいのだろうか。
たとえそう思っても、ただ黙ってそこに突っ立っているのが佐野という人間だ。
「ごめんなさい。びっくりさせて」
柚木は言って、ようやく笑みを浮かべた。弱々しい笑顔だったが、様子はずいぶん落ち着いたようだった。
「小さい頃から心臓が悪くて。本当は、こんな風に走ったりしちゃいけないんですけど」
「そう、走る必要なんてなかったのに……」
彼女は乱れた髪を直すと、制服のポケットからシャープペンシルを取り出した。
佐野は慌てて目をそらす。忘れたことにしたい品だった。
「ありがとう、これ。わたし、あの、体が弱くて学校も休んでばっかりだから、晴香ちゃん以外に友達もいなくて……。それで、知らない人から親切にされたことなんてなかったから、びっくりして感動しちゃって……」
「大げさだよ」
とぼけた顔をして佐野は言う。
「それに、それは柚木さんが落としたんでしょう? 僕はただ拾っただけだ」
すると、柚木は黙ってシャーペンの柄を指差した。「佐野」という名前がしっかりと刻まれている。中学の卒業のとき、学校から贈られた品だった。
もはやどうあがいても言い逃れは不可能だったが、認めることは、佐野の生き方を否定することだった。だから、そこだけはどうしても譲れなかった。
佐野が頑としてシャーペンを受け取らないと、柚木はクスっと笑って、それを大事そうに両手で握り締めた。
ありがとう──。
その言葉も、佐野は聞こえない振りをした。
踊り場の上を、夏の香りがする風が吹き抜けた。学校の、一つ山向こうは海だった。その匂いがしたのかもしれない。
柚木は階段の手すりに頭をもたれさせながら、気持ちよさそうな表情で目を細めていた。
「わたし、いつも部屋で寝てばかりだから、外に出て風に当たることもあまりなくて。こうしていると、生き返るなあっていう気分になるんです。わたしも、空気とか太陽とか、この世界の中の一つなんだな、って思える」
柚木は独り言のように呟いた。
佐野は相槌を打つこともなく、それをただ聞いている。
佐野は、その逆だった。気持ちのいい風とか、美しい花とか、人々の楽しそうな笑い声とか、そういったものに囲まれていると息苦しくなってくる。
何を見ても、聞いても、全然、心に響かない。お前は人間ではないのだよ、と言われているようなものだった。生きている価値もない、死んだも同然の存在なのだ、と。
どれくらい経っただろうか。
不意に柚木が立ち上がった。スカートの汚れを手で払うと、思い切り背を伸ばして深呼吸をした。日差しを浴びた彼女の黒髪はやけに眩しかった。
「それじゃあ、佐野君。毎日は無理だけど、また教室で。本当に、今日はありがとうでした」
にっこりと笑うと、そう言って柚木は踊り場から廊下へ姿を消した。
「…………」
呆けたように柚木の消えたドアを眺めていた佐野だったが、彼女が見えなくなると、緊張の糸が切れたように、すとんとその場に腰を落とした。
久しぶりに人とまともな会話をしたせいか、その頬は上気していたものの、明らかにがっくりと肩を落としている。
こんなはずではなかった。冴えないその表情はそう物語っているようだった。
佐野は疲れきった表情で、階段を下り始めた。
一刻も早く帰って、すべてを忘れ、眠ってしまおう。もはや夢の中にしか、佐野の平穏は残されていないように思えた。
そして、隠しておいた外履きを取り出そうとして、靴が盗まれていることに気づいた。
「…………」
明日はきっといいことがある。少なくとも、今日よりはましな一日であるに違いない。
……そう信じたかった。
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