第3話 静かな世界

 放課後になると、クラブ活動など行うつもりのない佐野冬馬は、帰りの電車の時間まで暇を持て余すことになる。

 都会と違って、一時間に一本あるかないかという電車だ。たいていは、図書室にこもって、目に付いた小説の最後の一ページを読んでみたりする。そして、その小説がどんな話なのか想像してみる。佐野は、なんでも結末の分からない話は楽しめないのだった。

 その日も、佐野はいつもの特等席に陣取り、犯人の分かった推理小説を安心しながら読みふけっていた。

 図書室は、受験を控えた三年生の姿がちらほら見えるくらいで、佐野のような一年生が放課後にやって来る場所ではない。だから、心ゆくまで一人の時間を満喫できるはずであった。

「佐野君」

 隣で声がした。

 心臓が飛び出るほどに驚いた佐野だったが、気づかない振りをして小説を読み続ける。憂鬱そうなその顔は、どうして自分はあの蜃気楼の少女のように、存在感を消して生きていけないのだろうと嘆いているようだった。

「佐野君。佐野冬馬君」

 声の主は、そう言いながら佐野の読んでいる本を取り上げた。

 佐野はため息をつく。さすがにこれでは顔を上げないわけにはいかなかった。

 クラスで見た顔だった。女子にしては背が高い。後ろ髪をポニーテールでまとめていて、活動的な印象を受けるが、銀縁のいかにも生真面目然としたメガネをかけている。

 もちろん名前など記憶の片隅にもなかったが、それでも思い出す振りだけはしてみせた。

「ああ、ええと──」

「麻生。麻生あそう晴香はるかです。……やっぱりね。クラスメイトの名前なんて憶えてないんだと思ってたけど」

 麻生は言って、立ったまま佐野を値踏みするように見下ろした。

「佐野君、いつも放課後、ここにいるけど、本が好きなの?」

「……別に。本を読んでいれば、普通は話しかけられないものだと思うから」

 麻生は、その応えにむっとしたような顔で口を尖らせた。

 本を取り上げられた佐野は、手持ち無沙汰になって、さも大儀そうに立ち上がると再び書架の方へと向かった。ぽかんと呆気に取られた様子の麻生だったが、気を取り直したように、肩をいからせて佐野の後ろからついてくる。

 腕組みをしながら本を選ぶ。

 麻生が、黙ったまま佐野の横顔にじっと視線を注いでいる。

「…………」

「…………」

 無言の圧力に耐えられなくなった佐野は、仕方なく、今思い出したというようにポンと手を打った。

「ああ、そうか。麻生さん、僕の前の席にいる──彼女の友達の」

 見たことがあるのも道理だった。今朝、一週間ぶりに登校したという彼女に話しかけていたのが麻生だ。

「柚木明里。憶えてあげて。あなたの前の席の彼女はそういう名前なのよ」

 諭すような口調で言う麻生は、使命感に燃える、新任の女教師といった印象だった。

「……分からないわね」

 麻生も腕を組み、ポニーテールを左右に振りながら一人呟くように言った。

「佐野君のその態度は何なわけ? ハードボイルドの探偵でも気取っているの?」

 佐野は思ってもみないことを言われたというように肩をすくめた。

「かっこつけてるつもりかもしれないけどね、みんな、あなたのことを何て言って噂していると思う?」

 噂になっているのか? 佐野は忌々しげに首を振った。噂になっている時点で、あの蜃気楼の少女に遠く及んでいない。

「幽霊君……よ」

「──それは光栄だ」

 微かに笑って佐野は言った。

 ある意味、佐野にとってそのあだ名は最高の褒め言葉だった。

「あ、ちょっと待って!」

 怒らせたと思ったのか、背を向け、書架の間から抜け出そうとした佐野に、麻生は慌てて言った。

「佐野君て、明里のこと好きなんでしょう?」

 佐野はものの見事にその場で引っくり返った。

「な、な、な、何だって!?」

 思わず大声を出した佐野に、図書室にいる生徒たちの怪訝そうな、非難がましい視線が向けられる。 赤面した佐野は、裾の汚れを払いながら声をひそめて麻生に向き直る。

「な、何を藪から棒に。いったい、どこをどう見たら、そんな結論が出るっていうんだ」

「あら、だって佐野君、授業中に、ぼーっと明里の方ばかり見てるでしょう?」

 佐野の反応に気をよくしたのか、麻生は余裕のある笑みを浮かべて続ける。

「ごまかしても無駄。わたし、こういうのには敏感なのよ」

 反論しようとする佐野を手で制して、

「けどね、私は明里の親友だから。明里に相応しい人かどうか、それを判断させてもらうわ。しばらく、あなたのことを観察させてもらいます」

 それだけ言うと、麻生は呆然として固まっている佐野を残して図書室から出て行った。

 何なのだ、あの女は。

 言葉にならない思いを噛み締めながら、佐野は情けない面持ちで、ゆるゆると首を振った。

 目の奥に、麻生のポニーテールの後姿が残像のようにいつまでも焼きついていた。

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