第2話 5年前 その1

  * 五年前


 十歳の誕生日に、わたしは家出をしようと決めていた。

 幼い頃に両親を事故で亡くしていたわたしは、遠い親戚の家へ預けられていた。

 子供心にも、そこで歓迎されていないことだけは分かっていた。新しい両親は優しかった。けれど、わたしが何をしても、怒ることもしない代わりに褒めてくれることもなかった。

 わたしと多くを語ろうとはしたがらなかった。わたしは、うまく喋れない子供だった。はっきりと言葉を発音することができず、どもったりすることもしばしばだった。

 学校でも、わたしには話し相手がいなかった。わたしと話している相手は、たいていイライラするか不機嫌になり、逃げるように他のクラスメイトへ話題を振るのだった。

 ここに、わたしの居場所はない。

 十歳になった日の夕方、わたしは持てるだけの荷物とお金を抱えて、小さな駅の小さなホームで、北へ向かう列車を待っていた。

 明確な目的地があったわけではない。ただ、どこかに自分のことを待っている人がいるような気がしていた。

 その人に、会いたかった。

(もし、いなかったら……)

 その時は、本当の両親の所へ行こう。そう思っていた。

 だが、なかなか列車に乗る勇気が出なかった。ホームでぽつんと立ち尽くしたまま、さほど本数の多くない下り列車が発車していくのを、ただ眺めている。

 次こそは、次の列車こそ、自分を迎えにきてくれた列車なのだ。そう言い聞かせても、一人で見知らぬ土地へ旅立つ恐怖に足が動かなかった。

 また、目の前で列車が出発して行った。

 情けない気分で目の前が真っ暗になる。思わず伏せたまぶたの裏から、涙が零れ落ちた。

 世界は、わたしだけを置き去りにして、どこまでも進んでいく。お前の乗る列車は、どこにもない。お前の居場所など、どこにもないのだ。

 絶望で耳すら塞ぎたくなったその時、誰かがわたしの名前を呼んだ。

 空耳だろうか……?

 驚いて顔を上げたわたしの目の前に、彼女は立っていた。

 薄暗いホームの上で外灯の光を浴び、大げさでなく、その時のわたしには彼女が天使か何かに見えた。

「どうしたの? 大丈夫……?」

 そう言って、私の顔を覗き込んでくるのは、同じクラスの藤森千佳ふじもりちかちゃんだった。わたしと違い、素直で快活なクラスの人気者の千佳ちゃん……

「おうちの人のお出迎え?」

 わたしはうまく言葉にできず、曖昧に頷いた。

 優等生で、みんなから愛され、間違いなく自分の居場所というものを持っている彼女。わたしは、そんな千佳ちゃんが眩しくて、いつも、まともに目も合わせられないでいた。

 思わず顔を伏せる。

 彼女は塾の帰りだろうか。可愛らしい手提げかばんと、そして赤い表紙の綺麗な本を持っていた。

「…………」

 友達のいない人間の例に漏れず、わたしは本を読むのが好きだった。千佳ちゃんが手にしている本は、わたしがずっと読みたいと思っていて、けれど高くて手が出ないでいたものだった。

「あ、この本?」

 わたしの視線に気づいたのか、千佳ちゃんは笑いながら言った。

「とっても面白かったの。よかったら貸してあげようか?」

 驚いて呆然としているわたしの手のひらに、彼女はその本を乗せてにっこりとした。

「あなたも本読むの好きだもんね。きっと気に入ると思うよ」

 千佳ちゃんはそう言うと、手を振りながら改札を出て行った。

 わたしは言葉もなく立ち尽くしながら、けれどしっかりとその本を胸に抱いていた。

 まるで目立たなく、いつも教室の隅にいるようなわたしにも、彼女は他の友達と同じ様に声をかけてくれた。それだけでなく、わたしがいつも本を読んでいる姿を、ちゃんと見ていてくれていた。

 この本は、返さなくてはいけない。そう思った。大切に読んで、千佳ちゃんに返して、そして本の内容について語り合いたい。

 だから、帰らなくては。

 わたしは、急用ができて戻らなくてはならなくなったと、駅員さんに切符を精算してもらい、駅を出た。

 すっかり日は傾き、帰り道は薄闇の中にあったが、わたしの心は明るかった。

 こんな温かい気持ちになったのは、両親が死んでから初めてのことだった。

 わたしは重い荷物を肩にかけ直し、家へ向かって走り始めた。

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