蜃気楼の教室

相馬冬

第1話 蜃気楼の少女

 最初に、佐野冬馬さのとうまがおかしいと感じたのは、柚木明里ゆずきあかりが教室に入ってきた時だった。

 柚木は、何のためらいもなく、ごく自然なそぶりで、蜃気楼の少女(と彼が勝手に名づけている)の席に腰を下ろしたのだ。

 高校の入学式がすんだばかりの、まだクラスメイトの顔も名前もはっきりしていない頃のことだ。佐野はクラスメイトの名前は誰一人として知らなかったし、あまり憶える気もない様子だった。

 中学の同級生が誰も受けない高校をわざわざ選び出し、受験したのだ。ようやく得ることのできた、静かで身軽な環境に、彼は心の底から満足している風だった。

 ただ、すぐ前の席にいる蜃気楼のような彼女のことは、なんとなく気になっていた。

 ほとんど後姿しか見ていないのだが、どこか印象的な雰囲気があった。

 いや、印象的という表現もおかしい。彼女は、あまりにも周りの空気に溶け込んでいて、あたかもそこに存在してないかのようだった。

 彼女に、誰かが話しかけるという光景を、佐野はまだ見たことがない。

 それは、佐野の理想とする生き方だった。誰からも干渉されることなく、影響を与えることもなく、ただ空気か道端の石のように生きていく。彼女は、その完璧な実践者だった。

 だが今日、その蜃気楼のような彼女の席に、まったく別人である柚木明里が腰を下ろしたのだ。

 もちろん、柚木明里という名前も、その時は知らなかった。柚木が腰を下ろすと同時に、友人らしい女生徒が寄ってきて声をかけたのだ。

「明里、一週間ぶりで座る自分の席の感触はどう? 今日は体調もいいんでしょう?」

 一週間ぶり?

 佐野は、きょろきょろと周囲を見渡して、自分が間違った教室の間違った席についていないことを確認する。話を聞いていると、柚木は病気で一週間学校を休んでいたらしい。けれど、佐野の前の席が空いたことは、これまで一度としてなかった。昨日、確かに前の席には、蜃気楼の少女が座っていた。相変わらず、手をかざせば透けてしまうのではないかという、ひっそりとした存在感で。

 一昨日も、その前も。

 ただ、一週間前となると、果たして前の席にいたのが、どちらの彼女だったか自信は持てなかった。佐野が、蜃気楼のような雰囲気を持つ女生徒に注意を向け始めたのは、つい最近のことだった。

 柚木明里が横顔を見せ、にっこりしながら話しかけてきた友人に答えている。顔色は冴えないながらも、表情をころころと変えて楽しそうに話す彼女は、佐野の知っている前の席の少女ではなかった。

 雰囲気とかそういうレベルの話ではない。蜃気楼の少女は、おかっぱのような肩で切りそろえられた、さっぱりとした髪型をしていた。だが、柚木明里の髪は、背中の真ん中まであるような見事なまでの長髪だった。

「じゃあね、明里」

 柚木の友人は、そう言って自分の席に戻っていった。

 他のクラスメイトたちも、柚木が教室にいることに違和感を感じている様子は少しもない。佐野だけが、違う世界に迷い込んでしまったかのように、一人、落ち着かない気分を味わっていた。

 これは何なのだろうと、授業中、ずっと考えていた。黒板に注目するふりをしながら、ずっと柚木の長い後ろ髪を見つめていた。

 やはり、昨日まで前の席に座っていた彼女は幻だったのだ。正真正銘の蜃気楼。そう結論を下さざるをえなかった。

 病気か何かで休んでいた柚木の代わりに、教室という景観を損なわないようにと、あるはずのない何かが、そこに座っていただけなのだ。まあ、そういうこともあるかもしれない。古い学校だ。幽霊の一人や二人、住み着いていてもおかしくはない。

 佐野は、蜃気楼のようにつかみ所のない、限りなく透明に近い少女の存在に憧れていた。ああやって、そこに間違いなく存在しながらも、誰の意識にも上らない、そんな生き方が佐野の望みだった。

 だから、彼は友人と楽しそうに話す柚木のことが気に入らなかった。そこは、彼の憧れである蜃気楼の少女が座る席だったのだから。

 誰とも交わらず、染まらず、超然として世界と距離を取り続ける。

 たとえ幽霊だとしても、それは佐野がクラスで唯一興味を持った存在だった。

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