少年と少女と物語の終わり
相馬冬
第1話 リバース
本好きな人間なら誰しも、電車で向かい合わせに座った人物が本を読んでいたら、自然と、そのタイトルが気になることだろう。まして、その人物が、文学少女然とした清楚な女子高生となったら、なおさらだ。
制服のスカートから伸びる足をきちんとそろえ、降車ドア近くの座席の端で文庫本を両手で掲げている。やや俯きがちな頬からこぼれる一条の黒髪がなんとも艶やかだ。
ただし、と僕は思わずにはいられない。これで読んでいる本が『家畜人ヤプー』でさえなかったなら、と。
「なんだ、君か」
目の前の吊り革につかまった僕に気づくと、彼女は本から目を離さないまま言う。
「座ったらどうだ。君とわたしの仲じゃないか。隣に座られても、わたしは別に気にしないよ」
「……いや、その本を世間の皆さんの目から隠してやろうとだな」
田舎のローカル線とはいえ、この時間帯は帰宅する学生やらで、それなりに混み合っている。ここはこの僕が、好奇と失望の視線から、彼女を守ってやらなくてはならない。
「いいから座りたまえ。君が女性のつむじを見下ろして、あらぬ妄想するのが趣味というのなら、まあ、わたしはその辱めを耐え忍ぶことにやぶさかではないがね」
そうまで言われては、隣に腰を下ろすしかない。しばらくぶりに言葉を交わす一ノ瀬塔子は、中学時代と何ら変わらない様子だった。
相変わらずひねくれた物言いで、
相変わらず本ばかり読んでいて、
そして、相変わらず一人きりだった。
「──進学校に行ったものだから、本の話で通じ合える仲間の一人くらいできたと思ってたんだがな」
まあ、ゲームやマンガと違い、小説の感想を言い合える仲間というのは、なかなか得がたい存在であると、僕も中学時代から気づいてはいた。趣味が読書というのは、友達がいない奴の代名詞みたいに思われる風潮すらあった。
だからこそ、僕はいつも教室で一人で本を読んでいる一ノ瀬塔子に声をかけてみたのだ。
彼女と違い、僕には人並みに友達がいたが、それでも一番の趣味である、読書の話ができる相手に飢えていたのだ。
しかし、話してみると、塔子は、友達がいないのもさもありなんというひねくれ者だった。僕が読んで面白かったという本を、彼女はほぼ例外なくこき下ろした。そして、それならこっちの方がいいといって貸してくれた本は、悔しいことに確かにどれもがびっくりするくらい面白いのだった。
おそらく塔子がいなかったら、僕は泡坂妻夫やキャロル・オコンネル、ロバート・J・ソウヤーといった作家と出会わないまま、大人になったかもしれない。
というわけで、一ノ瀬塔子は、やっかいだが貴重な読書仲間だった。高校が別々になって、残念に思っていたのはここだけの話。
「まあ、君のような変人は、高校でも希少種というわけさ」
ニヤリといやな笑みを塔子は浮かべる。黒髪でメタルフレームのメガネという、委員長然とした佇まいとは似つかわしい、邪悪な表情だ。
「それに、君のほうこそ相変わらず思慮が足りないままのようだね。もし、高校で新しい友人ができたとしても、この電車に乗って帰宅するのは、我らが中学の同窓生くらいのものだ。いっしょに仲良く下校することはないだろう」
そう言われれば確かにそうだ。こうやって、塔子の揚げ足を取ろうとして、逆にやり込められるのもいつものことだった。
「ん? でも、いつもは帰りの電車で、お互いあまり見かけないよな」
ド田舎のローカル線ゆえ、一時間に一本あるかどうかという便だ。街の高校に通う生徒は、おおよそ登下校の電車がいっしょになるものだ。
「たいてい、図書室で勉強しているか、書店に寄ることが多いからな。この次の電車で帰ることがほとんどだ」
部活動なんて集団生活に縁のない塔子と、同じく帰宅部の僕の下校時間がかち合わなかったのは、そういう理由があったのか。
「でも、だったら、今日はどうして? 早く帰って見たいテレビでもあるとか?」
そんな俗な理由ではないだろうと思いつつ、塔子に対しては、どうしてかこういう聞き方になってしまう。
「わたしにだって、人と約束することがあるのだよ」
得意そうな面持ちで、小さな鼻を上げる。
「君の言う、本を貸し借りするような相手だ」
へえ。僕は素直に驚いた。そして、僕以外に彼女と本について語り合える相手がいることに、いささか寂しさを覚えたりもした。
「……まあ、従姉妹だがな」
言わなくてもいいのに。相手の上からものを言いたがるくせに、隠し事はしたがらない律儀なところが、なんとも憎めない。
「もしかして、その本を貸してくれた人?」
だとすれば、その従姉妹も大概である。
「違う。これは私物だ」
得意げに言い、読みかけのページを山折りにして塔子は本を閉じた。彼女は読書家だが、愛書家ではない。彼女から借りる本のページは、いたるところで折れ目だらけだった。曰く、本は人と同じで見た目や姿形ではなく、中身こそが大切なのだと。
「まあ、自分の本をどれだけぞんざいに扱ってもいいけどさ、せめてカバーくらいはつけてくれよ。女の子が人前で堂々と読んではいけない本というものが、この世にはある」
「それは君の偏見だな。だいたい、『家畜人ヤプー』と聞いて顔をしかめるのは、君のように中途半端に聞きかじった似非読書人だけだぞ。小説に興味のない人間はタイトルを見たところで何も感じないだろうし、既読の知識人なら、これが日本の文学史に残るSFの大傑作であると理解しているからだ」
SFも文学も同列に論じるところが、根っからの本の虫である塔子らしい。だからこそ、彼女の薦める本は信頼できるとも言える。
「カバーと言えば──」
久しぶりの邂逅で、僕は少し浮かれていたのかもしれない。人との会話が途切れても何とも思わない僕が、珍しく饒舌になっていた。
「最近、この帰りの電車でよくいっしょになる女の子も、カバーもかけずに熱心に本を読んでいたな」
「見たまえ。本にカバーなんて邪魔なものをかけるのは、むしろ少数派ということさ」
そして、塔子は、僕の顔を下から覗き込むようにしながら、
「で、その子は何の本を読んでいたのだ? いやらしい君のことだから、必死に目をこらしてその本のタイトルを読み取っていたのだろう?」
「もちろんだとも」
僕は答える。本好きな人間にとっては当然の行為だ。ましてや、相手が人目を惹くような美人なら、なおさらだ。
「けど、残念ながら、その子の手が、タイトルの肝心な部分を隠していて、何の本かはわからなかったんだよね。ただ──」
僕は思い出していた。一ノ瀬塔子には、面白い才能がある。僕が見聞きした出来事や事件に、毎度、思いもよらない「解釈」をつけて、あっと驚かせてくれるのだ。
「その子には、昨日まで三日続けて近くの席になったのだけど、いつも文庫本を読みふけっていた。三日前、手にしていた本は、タイトルは分からなかったが、『下』という文字だけは判別できたから、何かの下巻だったのだろう」
それだけだったら、何も不思議なことはなかった。綺麗な女の子が本を読む姿は、目の保養になるなぁ、くらいの感想だった。
「そして二日前。またしても彼女は文庫本を読んでいた。前日同様、タイトルは分からなかったが、『中』の文字が隅にあったのは見えた。おそらく、三分冊になった長編の中巻だったのに違いない」
ここで、塔子の形のよい眉根が少し寄った。勘のいい彼女は、もう先が読めたのだろう。
「で、昨日のことだ。下校の電車で、またも僕は彼女に会った。そこで彼女が読んでいたのは、何かの本の上巻だった」
「つまり」
塔子は、ちょっと遠くを見るような目をして、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「三日かけて、下巻、中巻、上巻と、本を逆さまの順番で読み進めていた人間がいた、と」
僕は頷く。訳が分からなかった。確かに僕は無知で不勉強だが、目の前で起こっていることの意味が分からなくては平静ではいられない。
「塔子さんなら、何か理由を思いつくんじゃないかなって」
塔子さん──。同級生の名前なんて、呼び捨てなのがデフォな年代にあって、彼女はクラスメイトの誰もから『さん』付けで呼ばれていた。それは畏敬の念からというよりも、高慢で近寄りがたい彼女から距離を取りたいという、よそよそしさからくるものであったが。
僕はふだん、『一ノ瀬』と彼女のことを呼んでいる。これは僕なりの一種の気遣いではあるのだが、彼女を挑発して推理を聞き出したい時などは、あえて他のクラスメイトに倣う時がある。
そして、これはかなり効果的なのだった。
「単純な可能性から考えよう」
塔子は、そっと片方の拳を顎に押し当てる。彼女が、考え事をする時の癖だった。
「タイトルがよく見えなかったと言ったが、それぞれの本に書かれていた『下』『中』『上』は、巻数を表すものではなく、タイトルの末尾一文字だったとは考えられないか。例えば──」
指先で、空中に浮かんでいる本を指し示す様に、
「『車輪の下』、『藪の中』、『ニンジャスレイヤー・ネオサイタマ炎上』」
反射的に本の題名が浮かぶのはさすがだが、最後のタイトルは何だそれ。
「いや、似たような柄の装丁だったし、まったく別々の本だったとは考えられないね」
僕の言葉に、落胆するでもなく、塔子は鼻を鳴らす。
「では、前提をはっきりとさせるために、一つの小説の上中下巻だったとして話を進めよう。人が、遡って前の巻を読むという行為は、本当にあり得ないだろうか」
塔子と違い、読書スピードが決して速いといえない僕は、同じ本を二回繰り返して読むことはまずない。下巻の最後まで読み終えたら、次の新しい小説に手を伸ばすだけだ。
ただし、再読したくなる小説がないわけではない。
「たとえば、ある種の推理小説なら……」
僕の言葉に、塔子も頷く。
「最後の最後にどんでん返しが仕掛けられている推理小説なら、序盤や中盤の何気ない伏線を確認するために、ページを遡ることもあるのではないか。わたしも実際にやったことがある」
塔子なら、伏線のページすべてに折り目を入れるくらいのことはやりそうだ。
「でも、この場合、それは不自然なのだ。伏線の確認なら、まず上巻の冒頭から読み返すのではないか。今回のように、翌日に中巻、その次の日に上巻といった、物語の流れを無視するような再読の仕方はしないはずだ」
まあ、それはそうだろう。二回読まずにはいられないほど、精緻にプロットが組み立てられている小説なら、最初から順を追って再読していかなくては、作者の企みを理解することはできないに違いない。
「じゃあ、そういう読み方を強いるような本なら?」
僕の悪い癖だが、とりあえず思い付きを口にしてみる。
「本自体に仕掛けがある本、というのかな。ほら、前に一ノ瀬からも貸してもらっただろう? 十ページおきくらいに袋とじになっていて、袋とじのまま読むのと、開けて読むのとでは、話の内容がまるで変わってしまうという本。あれみたいに、下巻から読むと、上巻の最後で話の結末が変わってしまうような、もしくは、読み始める巻と読み終わる巻を変えると、ストーリーが変わってしまうような小説は……」
「寡聞にして読んだことはないね」
塔子がそう言うなら、存在しないのだろう。
「じゃあ、あれだ。ゲームブックというんだっけ。章の最後に選択肢があって、右の道を進むなら第十二章へ、左の道へ進むなら第三十三章へ、というように読者の選択によって次に読むページが変わっていく本。あれって、前のページに遡ることもあるんだろう? 大長編で三分冊にもなっているようなゲームブックなら、途中で下巻から中巻へ読む本が変わることもあるんじゃないのか」
「確かにそういう本はある」
あるんだ……。というか、塔子はゲームブックまで読んでいるのか。
「ある、というのは、三部作、四部作といった、大長編ゲームブックがあるという話だ。ぱっと思いつくのは、スティーブ・ジャクソンの『ソーサリー』シリーズとかだな。でも、そのシリーズにしたところで、下巻から中巻のパラグラフへ飛べ、という選択肢はあり得ない。だって、そうだろう、そんな巻数をまたいだ選択肢があるのなら、三部作、四部作を全部をカバンに入れておかなくてはならない」
言われてみればそうか。三部作といった大長編でも、選択肢はその巻の中だけで完結できるように作られているのだろう。上巻をクリアーしたら中巻へ進むといった具合に。つまり、この場合も、下巻から中巻へ遡って読むという行為は不自然というわけだ。
「まあ、本そのものに仕掛けや理由がある、という考え方は、あまりスマートとは言えないな。もし、今、君と会話しているこの場面が、それこそ推理小説の一節なら」
浮世離れした塔子が、ことさら芝居がかった調子で肩をすくめる。
「そういう類の本がある、という専門知識がなければ、読者には解けない問題だからな。アンフェアというやつだ」
現実世界とゲームを混同してしまう昨今の若者をゲーム脳と呼ぶらしいが、さながら塔子のそれは小説脳だ。彼女の行動や判断の基準は、それが小説だった場合、面白いかどうか、らしい。
「まあ、いいや。一ノ瀬がそう言うならその線はなしにしようか。でも、本、そのものに理由がないのだとしたら、彼女は、なんだってそんな読み方をしたんだ?」
塔子はメガネを指先で押し上げると、僕の目を下から覗き込みながら、
「君が、絶賛片想い中である相手のことを、あれこれ推測で話すのは、大変、気が引けるのだが……」
「べ、別に片想いとか、そういうわけでは……」
思わず目をそらしながら口ごもる。
「隠すことはない。たいした興味もない相手が読んでいる本を、そこまで必死に知ろうとは思わないだろう? まあ、分かりやすいのは、君の数少ない美点の一つだがね」
「し、仕方ないだろう」
精一杯、動揺を押し隠しつつ、反撃を試みる。
「昔から、僕の理想の女性のタイプが、メガネを掛けた本好きな女の子だっていうのは、一ノ瀬だってよく知ってることじゃないか」
あれ……?
長い沈黙。
塔子は正面を向いたまま、身動き一つしなくなった。どういうわけか、自分でもまったく予測してなかった効果を彼女に与えてしまったようだ。
「……と、ともかく」
一駅の間、石像のように硬直していた彼女は、スリープ状態のパソコンが復帰するように、唐突に口を開いた。
「その本好きの少女が、下巻から遡って本を読んでいたように見えた理由は、とても単純なことなのですよ」
語尾がおかしい。まだ、完全には復調してないようだ。
いや、おかしかったのは塔子の口調だけではない。台詞それ自体もだった。
「読んでいたように見えた理由、だって?」
「そう、下巻から戻って読む理由がない以上、こう考えるしかない。彼女は、いや、彼女たちは、ちゃんと上巻から、中巻、下巻と順番に読んでいただけなのだ」
「彼女……たち?」
塔子は、いつも推理を述べる際にそうしていたように、すっと人差し指を天井に向けた。
「彼女たちは三つ子だった。読むペースがまちまちだったその子たちを、君は同一人物だと思って、毎日、観察していただけだったのだ」
つまり、こういうことか。
仮に、その三つ子を、A子、B子、C子としよう。A子が読み終わった『長編X』の上巻を、次にB子が読み始める。B子が読み終わった『長編X』の上巻を、次の日にC子が読み始める。
つまり、初日に僕が目撃したのは、『長編X』の下巻まで読み進めたA子。翌日に目撃したのは、次に読み始めて中巻まで到達したB子。三日目に遭遇したのが、『長編X』を読み始めたばかりで上巻を手にしていたC子というわけなのだ。
「おそらく、その三つ子たちは大学生か社会人だろう。なんとなれば、制服を着た高校生の三つ子なんて、我らが同郷の生徒しか乗らないこの列車にいるはずがないからな」
確かに、僕たちと年が近い同窓の生徒の中に、三つ子がいるなんて聞いたこともない。
「……大学生っぽい若い女の人だったよ。赤いフレームのメガネがおしゃれで、私服だったけど、桃色のカーディガンが、なんとなく学生っぽかった」
「──相変わらず」
呆れたのか、しばらくの絶句の後、塔子はゆるゆると首を振った。
「偏見甚だしい女性の観察眼だが、これで三つ子説の信憑性は高まったというわけだな」
塔子は、メガネの奥から、じっとこちらを見据えてくるが、それはどうだろう。現実問題として、三つ子なんて存在は、意外性はあっても、それこそ安っぽい推理小説の中にしかないのではないか。
「不満かね。この三つ子説は」
「リアリティという観点からすると、ちょっとね」
「ふむ、毎日、思慕の念で見つめていた憧れの君が、実は別々の三人だったとは、君も認めたくないというわけだな」
訳知り顔で、塔子は、神妙に頷く。いや、そういうわけでは……、と反論しかけて口をつぐんだ。なんだか、余計にやぶへびになりそうだった。
「では、推理その二」
いとも簡単にそう切り出したので、僕は少なからずびっくりした。
「君が三日間、いやらしい目で眺めていた女性・A子。彼女は一人っ子で、DNAを複製して作られたクローンも、別の時間軸や宇宙からやって来た異次元同位体も、この世界線には存在しなかったと仮定する」
メガネのつるを触りながら、塔子は当たり前の前提を仰々しく宣言した。
「つまり、一日目に『長編X』の下巻を読んでいたA子も、翌日に中巻を読んでいたA子も、三日目に上巻を読んでいたA子も、すべては同一人物だった」
そう、だからこそ不思議で仕方がないと僕は気になってしまったのだ。
「だったら、こう考えるしかない。A子は、本を読むのがとても速い人物だった」
「え?」
僕は首を傾げる。塔子が何を言っているのか理解できない。
「そして、彼女は、読んだ本の内容を憶えていなくて、何度も繰り返し読んでいる」
「ちょっと待ってくれ、一ノ瀬」
僕は眉根をもみながら、懸命に塔子の言葉の意味を汲み取ろうとする。けれど、到底、できそうもない相談だった。本を読むのが速すぎて憶えてないから、何度も繰り返し読んでいる、だって?
「……それは、あれかい? 光の速度を超えて地球を周回すると、時間が逆戻りするとかいう何かSFじみた設定の……」
「ある意味、それに近い」
嘘。まさかA子の読書が、時の流れを逆流させていただなんて!
「君が最初にA子を見かけた日。時間を今と同じ夕方五時だと仮定すると、下巻に差し掛かっていたわけだから、同日の夜には『長編X』を読み終わっていただろう。それを夜の八時としようか。その後、彼女は再び『長編X』を読み始めた」
「え?」
「翌日のお昼過ぎまでには上巻を読み終わり、君が目撃した夕方五時頃には、中巻にさしかかっていた。その後、次の日の午前中には下巻も読み終わり、そして──」
僕のほうを向いた塔子のメガネが、赤く染まった夕日を映していた。
「三日目の夕方五時。君の見ている前で、また『長編X』の上巻を読み始めた」
うーむ。僕は唸りながら腕を組んだ。
つまり、だ。A子は、『長編X』上中下巻を立て続けに三回(もしくはそれ以上?)読んだ、と塔子は言っているのだ。それが、下巻を読み終わるまで、きっちり二十四時間かかっているわけではないため、毎日、夕方に読んでいる姿を目撃するとズレが生じ、あたかも順番通りに巻数を手にしてないように見えたというわけか。
だが、それは、いったい──
「けど、どうして彼女は」
僕は、そう塔子に問わずにはいられない。
「そんな三冊にもわたる長い小説を、間を置かず、何度も読み返したりしてるんだ?」
推理小説とは、トリックが説明できて、はい終わりという単純なものではない。手品の種を暴くことが目的ではない。なぜ、『犯人』は、そんなことをする必要があったのか? 密室を作るために、人を殺すような犯人はいない。
「それは、さっきも言っただろう。彼女が読んだことを忘れているからだよ」
停車駅に着き、乗客の数が一気に減った。我々の下車する終点の田舎駅まで乗るような人間は、ほんの一握りだ。
「ちょっと待ってくれよ」
ドアが閉まり、列車が再び動き始めるまで、僕は塔子の言葉の意味が、まったく理解できなかった。
「読んだことを忘れているだって?」
「正確に言おうか。読んだこと自体は、知っているかもしれない。だが、内容に関しての記憶は一切が失われてしまっている」
もう、夏とも呼んでいい季節になったにもかかわらず、僕の背筋を不可解な冷や汗が流れ落ちた。塔子がこれから披露するであろう説の不吉さを、本能で予感したのかもしれない。
「A子は、新しい記憶を刻み付けることのできない脳の障害を持っている。彼女は、『長編X』を読み終わる程度の時間で記憶がリセットされる。何度読んでも、その内容を憶えていない彼女は、リセットされるたびに、その本を読み始めるというわけなのだ」
前向性健忘症。
何かの小説で、そういう記憶障害のことを聞いたことがある。記憶喪失とは違い、過去の記憶は失っていないのだが、事故の衝撃か何かで脳の機能が壊れ、その事故以降の新しい記憶を維持できなくなる。数時間とか数日とか、症状によって、その期間はまちまちだが、その間に蓄えられた思い出や感情はすべてリセットされ、事故直後の記憶に逆戻りする。完治するまで、時間の牢獄のような世界に、閉じ込められてしまうのだ。
「読んでいた本の巻数のズレから推測するに、一日半くらいで、彼女の記憶はリセットされていたのではないかな。自分の障害をよく知る彼女は、記憶がリセットされた時のために、覚え書きのようなメモを残してあるのだろう。障害を負ってから得た知人や住所、学校等の情報。それに加え、一番好きだった本のタイトルなども」
だから、彼女は、記憶のリセットが起こるたび、自分のメモを信じて、大好きだった本を読み始めるというわけか。
「だけど、そんな深刻な自分の障害を前にして、本を読む気になんてなれるものかな?」
僕だったら、どうだろうか。一日半という、与えられた時間をどうにかして有意義なものにしようとするのではないか。止まってしまった自分の人生を、一歩でも前に進ませるための、何かを探そうとするのではないか。
「それは本人にしか分からない。だが、考えてもみたまえ。彼女は、何百、もしくは何千回と同じリセットを繰り返しているのかもしれない。その記憶がないのだとしても、結局、そうやって積み重ねてきた時間の果てで、彼女が、あの事故からまったく先に進むことができないのだと悟ったならば」
想像してみよう。例えば、今日、頑張ってレベルを9まで上げたゲームがあったとする。翌日、ゲームを起動すると、鍛えたはずの自分のキャラは、またレベル1に戻っている。毎晩、何度、頑張ってもその繰り返し。果たして、僕はそのゲームをクリアーしようと思うだろうか。
「……諦めて、静かに読書を楽しむという選択もあり得るか」
しかも、他でもない自分のお墨付きの本だ。読んでいる間は、間違いなく至福の時を過ごせるのだから。
僕は深くため息をついた。それはとても悲しい人生だ。だが、一方で、どこかで羨ましく感じている自分もいる。本読みの端くれとして、記憶を消してもう一度読んでみたいと思える本はいくつもある。そんな甘美な経験が、一生続くのだとしたら──
「もちろん、これは推理とも呼べないただの仮説だ。それが証拠に、その彼女は、今日は列車に乗っていないのだろう?」
遠い目をした僕が落ち込んだとでも思ったのか、塔子は、珍しく僕を気遣うような表情をする。
「毎日、同じ本を繰り返す読む彼女のことだ。生活パターンも大きく変えることはないだろう。その彼女の姿がないということは」
塔子は言い、どこか自分にも言い聞かせるかのように強く頷いた。
「症状が完治したか、もしくは本を読むだけの人生から踏み出せる、何かを見つけたということではないかな」
終着駅に着き、郵便局と年代ものの喫茶店だけが目に付く寂れた駅前ロータリーで、僕は塔子と別れた。
彼女は、例の本を貸し借りするという従姉妹と、喫茶店で待ち合わせているらしい。
「本当は昨日、待ち合わせするはずだったのだ」としょげた顔で塔子は言った。だが、うっかり図書室での読書に没頭していた彼女はその約束の時間に間に合わず、従姉妹に会えなかったのだそうだ。
大学生の一人暮らしでケータイも持ってない従姉妹と以後、連絡が取れず、念のため、今日も喫茶店に寄ってみるとのことだった。
それくらいの積極さを、中学以来ご無沙汰している僕との連絡に使ってもよかったのではないか。そう思わずにはいられないが、まあ、それはお互い様の話だ。
それにしても一ノ瀬塔子は驚くほど中学時代と変わっていなかった。微笑ましいを通り越して、笑ってしまうのを我慢しなければならないほどだった。相変わらず、よくもまあ、あんな突拍子もない推理を考えられるものだ。
僕は、いつもの帰途である県道からそれ、沢へ降りていく山道へ進路を変える。薄暗くなってきている時間帯とはいえ、前後に目を走らせ、人目がないことを確認するのを怠らない。
三つ子説は、まあ、推理小説の定番だからまだしも、前向性健忘症とは。ライトノベルやマンガじゃあるまいし、そんなドラマチックな事例がそう易々と転がっているものか。
沢を降り切ると、広い沼地に出る。小さな羽虫が寄ってくるのを手で払った。
推理を披露する際の、塔子の真面目な顔つきときたら。思い出すたびに吹き出しそうになる。まったく、少しは答えを知っている者の身にもなって欲しいものだ。
大きな木の根元に小屋がある。明らかに、使われなくなってかなり経っていることが分かる、傾きかけた廃屋だ。僕は、その戸口に手をかけた。
ムワっとする湿気を帯びた熱気。そして昨日までは感じなかった異臭もそこには混じっている。なるほど、これが死臭というものか。
さび尽きた鋤や鍬、木材などが散乱する小屋の隅に、むしろが折り重なって積まれている。それを何枚かはぐると、『彼女』がそこにいた。
塔子流に言うなら『A子』と呼ぶべきか。ピンク色のカーディガンが泥にまみれて台無しだった。
僕は、彼女の傍らに置かれたショルダーバッグに手を伸ばす。中を開けると、筆記用具やノート、メガネや参考書に混じって文庫本が三冊出てくる。上中下巻の長編ものの小説だ。
昨日。僕は、小説を下巻から上巻へ遡って読む彼女の謎が気になってたまらず、ついに彼女を呼び止めて真相を聞き出そうとした。そう、塔子に話した本を読む少女の謎は、間違いなく僕の実体験だった。
僕は、不可思議な謎があると、その真相を知らないままではいられない。
塔子に出会ってから、その性向はより強まった。これは、謎の真相が気になるというよりも、塔子に話して、どれだけ解答から的を外れた奇想天外な推理が出てくるか聞き出してやりたいという、いわば話のネタとして知っておきたいという欲望に他ならない。さも答えがわからないふりをして、彼女から突拍子もない推理を聞きだす。何にも代えがたい、僕だけの愉しみだった。
しかし、塔子と別々の高校になって、彼女と話す機会も失われてしまった。あえてこちらから声をかけるには、何か新しいネタが欲しい。だから、僕はA子が駅前の喫茶店に入ろうとしていたところを、後ろから呼び止めた。そして、何の本を読んでいたのか聞いてみたのだ。
僕は極めて紳士的に、かつにこやかに話しかけたつもりだった。だが、失礼なことに、彼女は明らかに怯えた表情を浮かべ、黙ってその場を立ち去ろうとしたのだ。
当然、僕は、何度も話しかけながら彼女の後を追った。彼女は、年下の高校生に舐められてはならないというつもりなのか、足を速めることもなく、淡々と道を進んでいく。そして、沢へ降りていく山道へ入る、この近くへ差し掛かった。
もちろん、僕は暴力を振るうつもりも、彼女をどうこうしようというつもりも毛頭なかった。ただ、例の本の謎が知りたかっただけなのだ。それで、勢いをつけて走り出し、彼女の前に立ちはだかった。
彼女は驚いた。驚いた表情のまま、後ずさり、そして足を踏み外して沢に落ちた。
僕は山道を下り、彼女が落ちた場所を探した。浅い沼地に低木が折り重なるように生えており、その一つに強打したのか、頭から出血をしていた。
僕は、彼女を手にしていたバッグごと抱えると、とにかく、落ち着いて状況を判断できる場所がないか探した。そして、この小屋に行き着いたというわけだ。
小屋に入ると、彼女をむしろに寝かせて、まずはバッグの中を開いてみた。もちろん、彼女に断りを入れたが、返事は戻ってこなかった。
今、その時と同じように、バッグの中にあった三冊の文庫本を手にしている。そして、昨日と同じように、その、あまりに単純で呆気ない真相に笑いをこらえることができなかった。
塔子が言ったように、三冊は同じタイトルの長編の上中下巻だった。
タイトルは『峠』。今まではあまり興味のないジャンルの時代小説だった。
何のことはない。A子は、順番に三冊を読んでいただけだったのだ。たまたま、初日に目にしたのが、彼女の指の隙間から見える『峠』という漢字の「下」という部分。これを、僕は下巻の「下」だと勘違いしたというわけだ。
二日目は、中巻の「中」という漢字を、そのまま見たのだろう。三日目、今度は『峠』の「上」という部分を目撃したと、こういう真相なのだった。
馬鹿馬鹿しいといえば、これほど馬鹿馬鹿しい真相もない。笑いと共に、胸のつかえがスッと取れた後に、僕はA子が死んでいることに気づいたのだった。
僕は考えた。A子は大学生だろう。何日か帰らなくても、さほど家人は心配しないのではないか。一人暮らしという可能性もある。バッグを探ったところ、ケータイも持ってないようだし、連絡がつかなくなってすぐに騒ぎになることもないのではないか。
A子を追った際、誰ともすれ違わなかった。これは、田舎町に住んでいたことに感謝しなくてはならない。加えて、この小屋は誰も立ち入らない沢の奥にある。事件が発覚することはないだろう。万が一、死体が発見されたとしても、A子と僕を結びつけて考える人間はいない。だって、完全なる赤の他人なのだから。
昨日と同じように、僕は、A子の死体の傍らで、パラパラと文庫本をめくる。時代小説は興味がなかったが、これを期に読んでみようか。そんなことを考えながら、ページをめくる僕の指が止まった。
よく見ると、この本のページには、いたるところに折り目が付けられている。上巻だけではなく、残りの二冊も同様だ。ものぐさな読み手が、しおりを挟むのも面倒とばかりに印をつけたようなそれは──
羽虫の音が耳をかすめる。いや、そもそもおかしな点はそれ以前にある。どうして、長編の文庫本を三冊まとめてバッグに入れているのだ。この分量を一日で読みきるのは不可能だし、そもそも持ち運びに不便だから、三冊に分冊されているのではないか。大長編ゲームブックと同様に。
それを、一度に全部カバンに入れている理由。それは、誰かに貸すか、返す時だろう。
今になってようやく気づいた。A子は、塔子の従姉妹だ。そして昨日、喫茶店で塔子と待ち合わせて、この本を彼女に返す予定だったのだ。
だとしたら。僕は分からなくなる。僕が列車で話した時点で、塔子はA子が従姉妹だとすぐに気づいたはずだ。もちろん、読んでいた本が『峠』だということにも、すぐに思いが至ったに違いない。なのに、どうして彼女は、あんな的外れな推理を繰り返したのか。
……真相を口にするのが怖かったから? 真相とは何か。僕が、従姉妹の失踪と何らかのかかわりを持っていることか。
いや、失踪といっても、ただ昨日の約束に現れなかっただけだ。塔子は従姉妹が死んでいるとまでは思っていまい。
それはそうだろう。昨日、僕が彼女を列車で目撃したところまでは真実の話だし、そこに、彼女の死を匂わすような要素は何もなかったはずだ。たとえ、従姉妹の死体が見つかったところで、列車を下りた以後のことは、誰にも目撃されていないのだから、僕が疑われる理由は何一つない。
なのに、塔子は、ひたすらに真相を解明することを拒んだ。それは何故だ。
僕は、まだ何か見落としがないか、彼女のバッグを漁った。朽ちかけた窓から差し込むわずかな夕陽を頼りに、薄暗い小屋の中で作業をすすめる。
あるのは、やはり筆記用具にノート類。そして、赤いフレームのメガネ。塔子には、A子がこのメガネをしている風体で説明したが、実際は、僕は彼女がこのメガネを掛けている姿を見たことはない。昨日、バッグを開けて持っているのを知ったから、容姿の描写に脚色して説明しただけだ。本を読む際に、メガネを掛けるのは、何ら不自然なことではないはずだ。
では、何だ。僕の話の中に、何か塔子に疑念を抱かせる失言が含まれていたというのか。
分からない。分からないことに、僕は我慢がならない。何だ、いったい何なのだ。手に力が入り、握り締めていたままの彼女のメガネがギリリと音を立てる。
僕は、不穏な思いを胸に抱えながら立ち上がった。バッグとA子の死体を、むしろで覆い隠し、戸口から外に人がいないことを確認しつつ、小屋を出た。
県道へと戻る山道を上りながら、僕は考えた。塔子が分かりきった推理を口にしなかったのは、僕が犯罪に関わっていることを見抜いて、庇おうとしてくれたからだろうか。
いや、だとしても、彼女の数少ない理解者である従姉妹に関することだ。従姉妹に何かあったとすれば、到底、僕を許したり、庇ったりなどという考えになることはないであろう。
「──間違いであってほしかった。わたしの、思い過ごしであればよかった」
県道に戻ったとたん、不意にそう声をかけられた。街灯の明かりの元で、小さな影が佇んでいる。一ノ瀬塔子だった。
「君は、自分が抜け目なく賢い人間だと思っているようだが、それは大きな間違いだと言っておく」
見られた。僕は、塔子の影に見据えられて身動きが取れなくなった。どう言い逃れる? こんな時間に、人気のない山道から現れた言い訳を、思いつかなくてはならない。
「君が考えるほど、世界は、甘くはできていない。警察や、わたしも含めてね」
落ち着け。僕は自分に言い聞かせる。大丈夫だ。塔子は、僕が従姉妹を殺したことまでは知りようがない。
「残念だよ。今まで、君の出すクイズに、どのような別解が考えられるか。それを楽しんで、君と会話を続けてきた。君の意表を突く解釈で、君の驚いた顔を見るのが好きだった」
まさか。そんなことは信じられない。彼女は、僕が真相を知っていた上で彼女に謎を提示していたのを見抜いていたというのか。そして、さらにそこから、いかに真相から遠い推理を披露できるか、それだけを考えていたというのか。
「A子──、いや、わたしの従姉妹は、メガネをしていない」
やはりそこか。僕は塔子の言葉に身構える。僕の話したA子が彼女の従姉妹だったこと。そして、巻数を遡って読む本のタイトルが『峠』だったこと。ここまでは、塔子も確実に理解した上で話している。
「……言っただろう。僕は本を読むメガネの女の子が好きだと。だから、話をする上で脚色してそういう女の子だということにしたのさ」
そう、別に僕の話したことが、すべて真実である必要はない。今までだって、見聞きした謎を、すべてそのままの形で彼女に伝えたことなんてなかった。
「だが、君は、赤いメガネとまで言った。従姉妹は、普段、メガネをしていないが、赤いフレームのメガネは持っている」
「だったら……」
そう、A子は確かにバッグに赤いメガネを持っていた。だからこそ、僕は脚色にそれを使ったのだ。
「君が知らないだけで、本を読む際には掛けていたのかもしれないだろう? まったく使わないメガネを持っていることのほうが不自然だ」
「サングラスを読書に使う人間はいない」
あっと僕は叫びそうになった。なんてことだ。あれはサングラスだったのか。暗い小屋の中では、レンズの濃度までは見落としていた。
「あれは、クルマの免許を取っているという彼女に、わたしがプレゼントしたドライブ用のものだ。まだ仮免許中だという話だから、実際に使ったことはないに違いない。仮に掛けたことがあるにしても、列車の中や、日の落ちた夕方以降に掛けることはないだろう。君が、従姉妹と会った時間帯には、ということだ」
それでも、塔子からのプレゼントだから、バッグにはいつも入れて持ち歩いていたということか。
「君は、本の謎を知った上で、わたしにあの話をした。従姉妹が、おそらくはバッグの中か自分の部屋にしか置いていないであろうサングラスのことを、君は知っていた。サングラスであることに気づかなかったくらいだから、どこか不自然な暗がりの中でということだ」
塔子が、僕に近づき、街灯の明かりの下に立った。白く、透き通るようだった彼女の頬は青ざめ、スカートから覗く細い足は小刻みに震えていた。
「従姉妹をどうした。彼女は、この下にいるのか」
僕の前を横切り、沢へ降りていく山道へと、塔子は近づいた。
僕は、判断を迫られている。
周囲には誰もいない。
そして塔子の背中をひと押しすれば、彼女は従姉妹と同じように、沢へとまっ逆さまに落下していくことだろう。
「君のその目」
不意に、塔子が振り返った。背伸びをするようにじっと僕の瞳を覗き込む。そして、両手で僕の顔を包み込んだ。
「すごく冷静だ。二人目だから、もう慣れているという目だ」
急に身体から力が抜け、僕はその場に膝をついてしまった。終わった、と思った。
塔子を殺すことはできない。今日、列車の中で、僕が塔子といっしょにいるところを、何人もの生徒が目撃しているだろう。もし、彼女が行方不明になれば、僕との関連性を考える人間は、きっと出てくる。
「──幸い、わたしは、君との付き合いの中で、真相から掛け離れた推理や解釈を作り上げるのに慣れている。思えば、それは、この日のためにあったのかもしれないな」
塔子の表情からは、悲しみも、恐れも、何も読み取れなかった。ただ、目の前にいる僕だけを見つめている。
「わたしなら、君と従姉妹との間にあったことを捻じ曲げて、世界を騙し通すことができる。無論、君が望めばだが」
どうして。その言葉が喉に張り付いて出てこない。僕は、君の従姉妹を殺したんだ。それなのに、その僕を許すどころか、助けてくれるというのか。
どうして──。
彼女は、まっすぐに僕の目を見つめてくる。その頬が、熱にでも浮かされているように真っ赤に上気していた。
分からなかった。
僕には、塔子の意図がどうしても分からなかった。
「……僕を助けてくれ、塔子さん」
ようやく搾り出したその言葉に、塔子は何とも言えない顔をした。泣き出しそうな、嬉しそうな、複雑な想いを噛み締めた表情だった。
「いいよ」
塔子は言い、地面についた僕の手をそっと取った。
その刹那、彼女との出会いから今までのシーンが、映画の逆回しでも観ているかのように、僕の脳裏に浮かんでは消えていった。
少年と少女と物語の終わり 相馬冬 @soumatou
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