第10話

 トウジの自宅からおよそ7km先にあるその森は標高140m程度。森というよりむしろ小山といった方が適切かもしれない。 


 トウジはうららと会うときは決まってその森で会うことにしている。

 うららに修行をつけてもらうスペースに困らないというのも理由の一つだが、うららが人目に触れるのを好まないというのが最大の理由だ。


 30分ほどで目的地に着くとふもとのスペースにケッタルーを止めて森へと足を踏み入れた。今までここに入っていく人を一度も見たことがないのでうららと会うのにはおあつらえ向きの場所なのだが、その分草木が生い茂っており道という道がないのが欠点だ。


 トウジは転がっていた木の枝を拾いそれを使って邪魔な草木や蜘蛛の巣をかき分けながらゆっくりと頂上付近へと向かって足を進める。


 陽気な木漏れ日が降り注いで春の訪れを知らせる暖かな風が優しく吹くと森特有の土や木々の香りがトウジの鼻をくすぐった。耳を澄ませば風に吹かれた草木のこすれ合う音や虫の鳴く声、鳥たちの囀りや動物たちの動く気配が聞こえてくる。トウジは道なき道を歩みながら自然を全身で楽しんでいた。


 森という壮大な自然に囲まれてちっぽけな自分を再発見するという行為がトウジは好きなのだ。自然の持つ偉大な包容力に身を委ねていると自分がどれほど小さな存在なのかを思い知ることができる。そして自然の前では人という存在が本当に無力であることを感じる事ができる。


 その無力感は不思議と心地のいい無力感だ。誰しもが平等に無力。

 圧倒的な公平さは自分の無力さが無条件に許されているような気持ちにさせた。トウジは見方によっては残酷ともいえるその自然の優しさを好んでいるのだった。




 無力感と向き合うというのはトウジにとって大切なことだった。

 無力感と向き合うことで強くなりたいという気持ちを維持することができるからだ。


 トウジは身元不明の摂食チャイルドに目の前で両親の命を奪われている。それは夏休みに家族でキャンプに出掛けた帰り道の出来事だった。家族全員が乗る自動車の前に現れた野生化した摂食チャイルドに襲われてしまったのだ。


 そのせいでトウジは強い無力感に苛んだ時期があった。

 わずか9歳だった少年に何かができたわけではない。起こってしまった以上は仕方のない出来事であり、トウジに過失や責任があるわけではなかった。

 しかし過失や責任がないからといって、あの場に居合わせた以上は簡単に割り切れるような話ではない。


 トウジが純血種の身でありながら案内人になったのも、あの時の無力感が大きく影響している。万が一あの時と同じような事態に遭遇した場合、何があってもサキを守りたいという想いがトウジを無力なままにさせなかったのだ。


 きっと今と同じくらいの力があれば両親だってあの悲劇から守れただろうにとトウジはたまに考えることがある。そんなことを考えても仕方がないことなのだが、あり得たかも知れない別の可能性を考えずにはいられないのだ。


 結局、あの時トウジとサキを救い出したのはうららだった。

 圧倒的な力量でその摂食チャイルドを撃退したうえ、うららは瀕死の重傷を負ったトウジを治療してくれた。そして彼女は安全が確保されるまで二人を保護してくれたのだ。


 それ以降たびたびうららはこの兄妹のことを気にかけてくれておりトウジの良き相談相手になってくれている。


 そんな返しても返しきれない恩があるトウジの師匠は頂上付近の川のほとりで大胆にも全裸で水浴びをしているところだった。


 シルクのように白くきめ細かい肌は赤ちゃんのように瑞々しく、膨らみかけたつつましげな胸は今にも咲き誇らんとする花の蕾を思わせた。川の水で濡れた美しくも深淵を思わせるほどに黒いその髪はトウジの持つ太刀と全く同じ色と質感をしている。


 一見して十二歳前後の少女だがその幼さの残る肢体からはえもいえぬ妖艶さがにじみ出ていた。少女はトウジと目が合うとニコっと笑いかけた。


「よく来たの。そんなところでぼさっと立っておらんでこっちに来るがよい」


 自分が全裸であることなど気にもしていないようすでトウジを手招きした。トウジは師匠の悪戯好きにも困ったものだ、と半ば呆れつつも慣れたようすでうららの方へと近づいていった。


「師匠、思春期の男の子にその恰好はちょっと刺激が強いんじゃないですか?」


「そうかの? こんな子供みたいな身体に興奮するなんてトウジの方こそ健全な男子とは言い難いんじゃないか?」


 意地悪そうな流し目を寄こしてうららは言った。


「あのですね。俺、まだ義務教育を終えたばかりの年齢なんですけど」


「知っとるぞ、トウジみたいなのをロリコンっていうのだろ?」


「違います」


 トウジはきっぱりと否定した。

 うららの裸体を素直に美しいとは思うがそれは高尚な芸術的作品を見ている時と同じような気持ちになるのだ。


 もっと自分にとってストライクなタイプというのはだな、なんていうかアオイ姉さんみたいな…… 想像があらぬ方向へと行ってしまいそうになってトウジは思考を停止させた。


 いかん、俺としたことが。

 トウジは頭を振って邪な妄想を振り払う。


「ふむ、トウジはバインバインのボインボインが好きなんだったか。御望みとあらばナイスバディの大人の女になってやらんこともないが」


「結構ですって。あまりからかわないでくださいよ」


「くくくっ。分かった分かった。そんな可愛い真っ赤な顔でお願いされては仕方がないの」


 遊ばれているのが癪ではあったが顔が赤くなっている自覚はあったのでそれは否定しない。一見して子供とはいえ余裕のある女の子に手のひらの上で転がされている感覚にトウジはある種の背徳的な悦びすら芽生えさせていた。


 トウジは昔から女の子の意地悪な目つきが好きなのだ。

 それも一見して息が止まりそうなほど綺麗な女の子のものなら尚更だった。


 きっと、それもこれも全部アオイ姉さんのせいに違いない、とトウジは自分の性癖を棚に上げて心の中で責任転嫁をした。


「ところで新しい服を用意してくれていると聞いたんだがな」


「ええ、こちらに」


 トウジは背負っていたリュックの中から紙袋を取り出してそこに手を突っ込む。そしてまずは新しい服ではなくバスタオルをうららに手渡した。


「どうぞ」


「ほう、用意が良いの」


「師匠の事ですから水浴びでもしているんじゃないかと思ってましたよ」


「なるほど、我の裸体を期待していたというわけだ」


「いえ、別に」


「ロリコンだからの」


「だから違いますって」


「くくくっ、そうやってムキになるところが相変わらず可愛いの」


 うららは一通りトウジをからかって満足をしたのか、バスタオルで身体をふき取ると服を寄こすようにトウジに指示をした。トウジはうららから背を向けるようにして紙袋を渡す。その数秒後にうららの喜びいっぱいの声が耳に届いた。


「いやぁ、これは可愛いの。青のTシャツとこのピンク色のパーカーは合いそうだの。こちらのデニムのスキニーパンツも良い感じではないか。ところでトウジよ」


「なんでしょう」


「チョコレートはどこかの?」


「大丈夫、持ってきましたよ。はい、ここに」


 トウジはリュックから取り出した板チョコを手渡した。

 うららは目を輝かせながらそれを受け取ると早速、袋を開けて端っこに食いついた。


「おいっしぃぃぃぃぃ」


 うららは頬を手に当てて幸せそうな笑みを浮かべる。

 大好物のチョコレートを食べるときのうららは本当に美味しそうなリアクションをするので、見ているこっちが幸せな気持ちになる。


「ところでトウジよ」


「はい、なんでしょう?」


「この下着一式はトウジが買ってきたのかの?」


「いえ流石にそれはサキに用意させました。というか服も全部サキに選んでもらいました」


「なんだつまらんの。我はてっきりこういうフワフワした可愛らしい下着がトウジの趣味かと思ったのに」


「いえ、俺はもっと大人っぽいのが趣味ですよ。ロリコンではないので」


「なら次はトウジの趣味で頼むよ。今度はお主が買ってきてくれい」


「全力でお断りします」


 師匠が下着姿を見せてくれるのなら、という言葉をトウジはどうにか飲み込んだ。トウジがそう言うのならうららは喜んで見せてくれるに違いないが、幸か不幸かトウジはその程度の羞恥心と理性は持ち合わせていた。少々惜しい事をしたと思ってしまう思春期の男心を苦々しく思いつつトウジは平静を装ってうららに尋ねた。


「ところで新品の服を着たまま修行をつけるつもりではないでしょうね。一応、師匠のジャージも用意しているのですが」


「ん~。トウジが我の身体に一太刀でも触れる可能性は少ないと思うがの」


「師匠は新品の服が俺の返り血で汚れてもいいんですかね」


「くくく、そんな偉そうに言う言葉でもなかろうに。あい分かった。今はジャージの方に着替えるとしよう。たしかにこの服では罰ゲームもできんからの」


 うららが着替え終えたことを告げると、振り向いたトウジの目に赤茶色のジャージに身を包んだ可愛らしい少女の姿が飛び込んできた。なんだか着せ替え人形みたいだな、などとトウジは思ったがもちろん口に出しては言わない。


「それでは、いつでもかかってくるがよい」


 トウジは黒く輝く太刀を鞘から抜くと正眼で構えた。

 対峙したうららは両手をだらんと垂らしたまま手のひらをトウジに向けており、一見して隙だらけだ。その構えでは頭部ががら空きであり一歩踏み出せば飛び込んで頭を斬ることができる、ように見える。


 しかし、うららには全く隙がないことをトウジは良く知っていた。

 トウジは太刀を揺らしながら間合いを測り、相手の隙を作り出すためうららの頭に向かって太刀を振り下ろした。瞬間、ガキィッ!と大きな音をたてて漆黒の太刀が受け止められる。


 もしもその光景を一般人が見ていたら腰を抜かしただろう。

 うららはトウジの太刀を平然と受け止めていた。手を使ってではなくもちろん足を使ってでもなく、その太刀と同じ色をした彼女の長い髪の毛で、だ。


 鉄ですらやすやす斬ることのできるトウジの太刀を少女はその場から一歩も動かず真正面から髪の毛だけで防ぎきっていた。ありえない光景だったがトウジは今更驚かない。もともとトウジの太刀そのものがうららの髪の毛でできているのだ。彼女の髪の毛に太刀と同等の強度があるのは当たり前だった。


 太刀が防がれた瞬間、うららの髪の毛の一部がピクリと震えるのをトウジは見てとった。刹那、トウジの頬に血がタラリと流れる。見えなかった、とトウジは愕然とした。

 これが実戦だったらトウジは既に死んでいただろう。うららがその気になれば頬を掠める程度ではなく心臓を貫くことだってできたのだ。


「なかなかいい一太刀だったの」


 うららは上機嫌といったようすでトウジの攻撃を褒めると一度髪の毛を背中の後ろに戻してから間合いをとった。


「それではこちらから攻撃することにするかの」


 うららがそう言うとトウジの方に向かって髪の毛が三つ又に分かれ槍のように伸びてきた。凄まじい速さだったがトウジは即座にその攻撃に反応して一本目を太刀で薙ぎ払った。一撃目の軌道を追う形で続く二本目をトウジは体勢を横にずらして紙一重でよける。そして上体を仰け反らすことで三本目の攻撃を回避すると、トウジは全ての攻撃を退けたと判断してうららに向かって突っ込んでいこうとした。


 しかし三歩だけ進んでトウジの動きが完全に停止する。


「よく三つとも退けたが、まだまだ甘いの」


 瞬間、トウジの身体はピクリとも動かせなくなる。気が付けばうららの髪の毛がトウジの両手首と両足首に巻き付いていた。勝負ありだった。これもうららがその気になれば手足と両足をそのまま切断してしまうことができるのだ。


「髪の毛は槍や鞭ではないからの。一度退けられてもそこから軌道修正は可能というわけだよ。まぁ、そういうわけだから負けたトウジには罰ゲームだの」


 うららが意地悪そうな笑みを浮かべると、トウジの身体が宙に浮いた。そして手足を巻き付く髪の毛に引っ張られて身体は凄まじいスピードでうららの方へと向かっていった。ドンという衝撃と共に身体をうららに受け止められると、トウジの鼻孔を甘い香りがくすぐった。


「よしよし。ん~相変わらず可愛いのぉ。しかしトウジは以前よりもずいぶん強くなったじゃないか。この様子なら第三世代の小型くらいまでなら単独撃破いけるんじゃないかの」


 トウジはうららに抱きすくめられされるがままに頭を撫でられている。


「師匠、その罰ゲームはそうとう恥ずかしいので止めてください」


「何を言う。敗者は勝者に逆らえぬのが世の定め。大人しく愛でさせるがよい。それにお主だって我みたいな美少女に頭を撫でられて嬉しいのではないかの?」


「嫌とか嬉しい以前に、恥ずかしすぎますってば」


 うららの腕のなかで身を捩って顔を真っ赤にしながらトウジは抗議するが実際のところ嫌がっているふりであり、むしろご褒美です、などと思っていることは口が裂けても言えない。


 実のところ、うららはトウジの内心の喜びを見透かしているのだがあまりからかうと本気でトウジが嫌がるのでうららもトウジの嫌がっている振りに付き合っているのだった。そして当のトウジ自身もうららが嫌がっている振りに付き合っている事を知っていてされるがままになっているのである。


 全くもってどちらも良い性格をしていると言わざるを得ない。


 結局、修行が終わるまでにトウジは36回も頭を撫でられたうえに罰ゲームという名のご褒美以外ではうららに触れる事すらできなかったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

美しき侵略者よ 天ノ川源十郎 @hiro2531

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ