「戦国流転」

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第1話

戦国時代の武士たちの真実と何か、生き抜くためにどのように戦ったのか?


『戦国流転』

                       清水太郎

  はじめに

関東の戦国乱世は、亨徳三年(一四一五)の乱がきっかけで始まる。その原因は鎌倉公方にあった。足利尊氏の二男の基氏―氏満―満兼―持氏―成氏と続いたが、次第に京に登り将軍になりたいと思うようになった。特に持氏は足利義教が籤で将軍職を継ぐと不満を隠しきれなかった。鎌倉公方を補佐する立場の関東管領、上杉憲実は将軍の命に抗しきれずに持氏を殺してしまった。永享の乱(一四三八)である。遺児の春王丸・安王丸も結城合戦で(一四四〇)捕らえられ美濃で殺害された。残され成長してようやく鎌倉公方となった成氏は関東管領の上杉憲忠(憲実の嫡子)を謀殺した。これを契機に、足利方と上杉方とのたたかいが関東の中央部を舞台に展開された(享徳の乱)。それより十三年後の応仁元年(一四六七)の大乱が「応仁の乱」である。それは足利将軍家の相続問題から端を発し、東軍細川勝元と西軍山名宗全とが、それぞれ諸大名をひきいれて京都を中心に対抗した大乱で、京都は戦乱の巷となり多くの文化財が失われた。以後、威令行われず全国的な戦国乱世となる。この乱が収束したのちも、京の秩序と治安は回復されず「田舎」と呼ばれた地方も同様であった。『日本史史料⑵中世』にある次の史料がこの乱の虚しさを次のように良くあらわしている。

不計(はからざりき)、万歳期セシ花ノ都、今何ゾ、狐狼ノ臥土(ふせど)トナラントハ。適(たまたま)残ル東寺((1))・北野サへ灰土トナルヲ、古ニモ治乱興亡ノナラヒアリトイへドモ、応仁ノ一変ハ王法仏法トモニ破滅シ、諸宗皆悉ク絶ハテヌルヲ、不堪感歎、飯尾彦六左衛門尉((2))、一首ノ歌ヲ詠ジケル。

 汝ヤシル、都ハ野辺ノ夕雲雀(ひばり)、アガルヲ見テモ落ツルナミダハ  〔応仁記〕

(1) 東寺は文明十八年に焼失。

(2) 飯尾彦六左衛門尉 幕府奉奉行人飯尾氏の一族と思われるが具体的には不明。

1、 「一揆」「惣村」「戦国時代」「戦国大名」の四つのキーワード

 戦国乱世の戦国時代は、豊臣秀吉による統一が完成した天正十八年(一五九〇)まで続いたとの見方が一般的である。この間、没落した武士階級や離散を余儀なくされた民衆がどれほどいたであろうか。この時代を理解するキーワードは四つある。「一揆」「惣村」「戦国時代」「戦国大名」である。次に角川『日本史辞典』等を参考にして述べておきたい。


【一揆】目的・方法などを同一にする人々の結合とその行動を云う『孟子』の「揆(道・方法)を一にする」が語源である。中世では寺院における僧衆、中小武士の戦闘集団、村落農民の闘争など多様な一揆が存在した。多くの場合、一味神水といって神仏を招き寄せて起請文を書いて誓約し、それを灰にして飲み交わすことによって成立する。南北朝・室町期の関東では、武蔵七党の系譜をひく武蔵・上野の白旗一揆、秩父系武士の平一揆などが活躍。時代が下るにしたがい同族団的性格から上州一揆・武州一揆という地縁集団に変化していった。このような中小武士の一揆は国人一揆といわれ、畿内とその近国では十五世紀後半以降、国一揆(惣国一揆・郡中惣)という形で国人と土豪(地侍)が特定の地域内で結集、守護の支配を排除して自治的政治支配を行うことが頻発した。山城国一揆・乙訓郡一揆などは有名である。一方農村では、荘園・公領ごとに年貢・公事の減免や非法代官改替などをめぐって荘家の一揆がおこり、徳政要求をかかげた徳政一揆も京都・奈良を中心におこった。中世末の一向一揆は強大であり、戦国大名や織田政権と武力抗争を展開した。

【惣村】 惣を軸にした自治的な村落。鎌倉末ころから、畿内や周辺地域に広くみられるようになる。山野や用水を共同利用するなど成員相互の結合を強くし,惣掟などの固有の法を定め、乙名を中心に自治的な運営を行った。年貢減免をもとめて団結し、地下請を実現するなど政治的な力を強めていった。内部には名主・小百姓・下人などの階層があったが、ことがおこれば惣村の成員が参加して寄合を開き、一味神水して土一揆を形成した。『日本史史料⑵中世』は「東国の惣村」として〔牛込武雄氏所蔵文書〕天正七年(一五七九)六月二〇日北条家裁許朱印状。〔吉野家文書〕天正十八年(一五九〇)二月十日高城氏黒印状を載せている。

【戦国時代】中世の時代区分の一つ。十六世紀ごろの戦乱がつづいた時代をさす。室町幕府が衰微し北条早雲らが台頭した十五世紀末から、豊臣秀吉による統一が完成した天正十八年(一五九〇)までの約百年間をさすのが一般的だが、織田信長上洛の永禄十一年(一五六八)以後を織豊時代(安土桃山時代)と区分する場合もある。幕府の衰微に伴い各地の地域権力が自立の動きを強め、広大な領国を支配する戦国大名が出現した。畿内などでは国人や土豪が郡規模で結集し、国一揆・郡中惣などの支配組織を作り上げた。加賀のように、一向宗門徒中心の一揆(一向一揆)が広域支配を行った場合もあった。これらの地域権力はこの時代に確立した惣村に対抗しながら支配を強化し、荘園公領制にかわる支配体制を模索した。こうして地域権力が分立していったが、結局は信長・秀吉による天下統一のもとに再編成され、幕府の全国支配のもとに分権的な藩が存在する幕藩体制という形になった。戦乱が続いたが、産業の発展は著しく、西洋の文化も流入し、文化的には活気のある時代であった。

【戦国大名】戦国期に広域の領土を一円的に支配した大名。東国では伊豆・相模・武蔵を制した後北条氏、駿河・遠江・三河の今川氏、甲斐から信濃に侵攻した武田氏、越後を拠点に上野や北信濃に侵攻した上杉氏といった強大な戦国大名が同盟と争闘を展開した。中国地方では大内氏・尼子氏が活躍し、のちにこれを滅ぼした毛利氏が広大な領国を得た。九州では大友氏・島津氏に竜造寺氏が加わり、戦国末期には四国の長宗我部氏や奥羽の伊達氏が急成長をとげた。彼らは家臣たちの知行地と知行高を定めてこれに応じた軍役を課し、戦争を行いながら家臣団の統制と強化に努めた。また検地などの方法で村と領民の掌握を進め、家臣や領民の紛争を処理するため分国法を制定した。大名は支配領域を国と称し、分権が完成するかに見えたが、織田信長・豊臣秀吉の全国統一の過程で滅亡と服従の選択にせまられ、自立性を弱められて江戸幕府の支配化に組み込まれた。


  二、 戦国乱世の展開

戦国乱世は「町人」「地下人」など一般民衆の地位が向上躍進した時代といわれる。長い歴史の流れを大所高所から俯瞰した場合、たしかにこの指摘はまちがっていない。しかし民衆の具体的生活からみれば、乱世とは殺害、略奪、放火の危険にさらされた無法地帯に生きる時代なのである。

 中世は旱魃、冷害、大雨、疫病の流行などの災害が頻発した時代であり、その結果生じる飢饉の頻発した時代でもあった。藤木久志氏の研究によると、乱世の深まってゆく十五世紀半ばから十六世紀末までの一五〇年間は、ほとんど毎年のように下作、飢饉、疫病の流行ないしその原因となる旱魃、風水害、地震など災害があり例外は十年に満たない(神田千里『日本の中世11 戦国を生きる力』)。

 戦国乱世は「流動の時代」である。また「戦いに熱中し、流浪する時代」であった。この時代に費やされた、人々の膨大なエネルギーは何処から来たのだろうか。彼らを突き動かしていた「熱狂的な衝動」と源は何処かから沸きあがったのかと考えるとき、今までにない乱世の争いを示しているように思われる。(藤木久志著『雑兵たちの戦場』)。

 雑兵となった人々は他国で略奪した品物を生活の糧とした。戦場での秩序など無視で「乱取り」に狂っていた彼らの背景には、そのようにすることによってようやく生き延び、富貴になれるという事情があった。上杉謙信や武田信玄が、他国を侵略し続けた原因も此のあたりにあったと思われる。砂漠を放浪する民にとって略奪が、彼らの生産であったのと同じである。

上杉家軍役帳は天正初年頃(一五七三)のものと思われているが、その構成人数中に「手明」と記された人々が多数いる。上杉謙信の動員兵力は武将三十九名、槍三千六百九丁、手明六百五十人、鉄砲三百十六丁、大小旗三百六十八本、馬上五百六十六騎の五千五百五十三名であつた(『上越市史』資料編3古代・中世)。しかし、これに記載されていない武将もいることから、上杉軍団「麾下八千」であったろう。この「手明」こそが「乱取り」の主体であったと私は思う。


   三、 戦国流転

 戦国大名は、自らの領土を守り強大化する為にあらゆる能力を駆使し、蓄積した富を戦場で費やす。国人や土豪達は一揆を結びやがて、戦国大名の家臣となるか、没落の道をたどる。没落した武士たちは諸国を流浪する事になる。時代は遡るが、徳川家康の祖も大久保彦左衛門忠教の『三河物語』によれば、時宗の僧であり三河国に流れついたのである。「……徳の御代に地宗にならせ給ひて、御名を徳阿弥と奉申……」とある。後北条氏の祖である伊勢新九郎(早雲)も浪人とされていたが、現在は室町幕府政所執事伊勢貞親の同族伊勢盛

定の子盛時であることが明らかにされている。さらに、松前藩の祖は家譜によれば「武田大膳大夫国信の養子(実は同陸奥守信賢の男)信広・若狭を去り、陸奥国田名部に至り蠣崎を領し、上国の主・蠣崎氏を称す、のち北海道にわたる。」とある。このように武士達は少しでも「つて」を求めてそこを頼り、生きのびることを考えた。華々しく死を選んだりせずむしろ「しぶとかった」のだ。本稿でとりあげる堀江氏、大沢氏、天野氏もそのような人々である。

 後北条氏が戦国最後の大名であったことは、家臣となった彼らにとっても過酷な運命がまっていた。特に八王子城に籠った人々は悲惨であった。此の城には僧侶、百姓、職人、老人、女、子供までもが籠っていた。このように乱世では近くの城に籠ることが身の安全を計る方法であった。市内の相即寺に残された大善寺檀越者の過去帳(相即寺過去帳)には、様々な階層の人々の名前が記されている。ここに記されたことは幸せな事かもしれない、名も知れず死んでいった人々が多かったのである。


 乱世を記録した公家の前関白、近衛尚通は『後法成寺関白記』(尚通公記)で当時の将軍足利義澄が近江(滋賀県)へ敗走し、あまつさえ強盗団に襲われるという事件を現在は「戦国の如き時である」と嘆いている。この「戦国」とは中国の「戦国時代」を踏まえたものである。

戦国大名後北条氏は、元亀元年(一五七〇)二月二七日北条家朱印状の中で百姓動員を正当化する為に、乱世の時は「その国にこれある者罷り出で走り廻らずして叶わざる」ものという理論であった。

天文元年(一五三二)七月二三日、北条氏綱は相模国三浦郡の一向宗徒を光明寺檀越としている。(相州文書)。北条氏は永禄九年(一五六六)に、上杉氏に対抗するために一向宗の禁止を解除している。その六〇年前、永正十三年(一五一六)七月北条早雲は三浦氏を滅ぼしている。此の時から一向宗の禁令を発したものであろう(光明寺は神奈川県平塚市金目にある)。

上杉家文書によると、大永元年(一五二一)二月、長尾為景は一向宗を禁止している。

 北条氏の領国では北条氏康から氏政への「代替り」が永禄二年十二月二十三日に行われたとおもわれる。翌年の永禄五年(一五六二)には北条氏照の領域、野蔦郷(町田市野津田町)では逃散した農民に対し「人返し」がおこなわれている。市内野津田町河井将次家所蔵の印判状に「御詫言申し上ぐるに就き、当年貢・諸公事一廻り御赦免し畢んぬ。前々彼の郷に候百姓、何方これ有るとも悉く召返し、野蔦の郷に仕付け、田地を打開き耕作致すべき旨、仰出さるる者也。仍って件の如し」とある。当時の農民たちにとって、大名権力の基盤である農業生産力に低下を企図した逃亡・逃散行為は、領主に対する最大の反抗手段であった。映画「七人の侍」で描かれた百姓のようではなく、その武力はあなどれないものであった。『日本の中世12村の戦争と平和』の「武装する村、その武力」によると、嘉吉三年(一四四三)九月、都にあった伏見宮貞成はその『看聞日記』に洛北の一山村を舞台におきた事件の顛末を書きとめている。要約すると、山名教清の家人と市原野の郷民だった。山名教豊(山名宗全の嫡子)は、この一大事に大将として「一家皆数百騎」をもって市原野に押し寄せた。そのほかにも、細川、土岐、赤松、六角らと幕府の奉行衆が加わ(村民)の「口論」から「喧嘩」となり、教清の家人の死者は五人、手負いは数十人となり、郷民らはこの大名連合軍と合戦におよんだ。市原野の郷民は被害を出さず、寄せ手の大名軍に多くの被害が出たとある。この合戦では村人の弓矢が勝るという結果となった。村人つまり中世百姓の弓矢の技術が武士のそれに決してひけを取らなかったのである。


  一 堀江氏

 堀江の語句については『日本書紀』仁徳天皇一一年一〇月条に、「宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。又将に北に河の澇を防かむとして、茨田提を築く」とあるように、河内平野に南流する淀川の氾濫を防ぐため茨田堤を築き、北流する大和川・平野川などの滞水を西流させて海へと抜くために難波の堀江が開削された、と解釈することができる。堀江氏はこのような用排水路や灌漑用水に関係した人々にちなみの深い姓といえる。

  

  1  越前国より移住の堀江氏

 弘治元年(一五五五)堀江兵部は、百姓十八名と共に武蔵国多東郡中野郷に移住してきた。『中野区史上巻』(昭和十八年五月三十日発行)では備前国(一説に越前国ともいう)『後北条氏家臣団人名事典』下山治久編、では「備前国出身または、越前国出身ともいう。」となっている。

堀江氏については、『姓氏家系大辞典』によると「利仁流藤原姓 越前の豪族にして、河口庄司斉藤氏裔也と云ふ。氏人は朝倉始末記に堀江七郎景重とみえ」とある。中野区中野にある、宝仙寺の過去帳に「寛文十三年(一六七三)九月十八日、堀江兵部重次」とある。(寛文は寛永の誤字と考えられる)

大石学氏「武州多東郡中野郷と小代官堀江氏」(『多摩のあゆみ』第四十六号)の論文(史料4)によると「……弘治元年越前国より堀江兵部と申十八人連参り中野郷開発仕、……」とある。本稿は堀江兵部が越前国より移住したとの前提でそれまでの経緯を推察してみたい。

 堀江家に関心を持つようになったのは調査で中野区の宝仙寺の墓地を訪れたのがきっかけであった。墓地の入り口に白く塗られた木製の案内板があり、ペンキがところどころ剥がれ落ちていて、あまり人の訪れている様子がないようであった。堀江家の墓所は二ヶ所にわかれていたが、広く立派な墓石が整然と並んでいた。のちに、友人の古書店で『中野区史上巻』を見つけ格安で購入した、その中に堀江氏についての記述があった。現在、此の墓地は寺の管理になっており、堀江家と寺の繋がりはないとの言である。この墓石群は、墓石の歴史を知る上で貴重な考古資料と考えられる。

堀江氏が最初に、住まいを定めた場所は、中野駅から新宿寄りのJR中央線の南側、中野区中野一丁目四十四番地にある城山公園付近とおもわれる。中世的土豪としての位置づけから、堀江氏の屋敷を推測すると寛延三年(一七五〇)四月に作成された中野村の「村鑑帳」(堀江家文書)には、「……中野村之内ニ九百坪程土手ヲ築から堀ヲほり候処御座候、此所ヲ前々より城山と申伝候、此儀古来名主卯右衛門先祖屋鋪ニテ御座候、------」とある。この城山の土地をめぐっては寛保三年(一七四三)七月の史料に、年季が明けたにもかかわらず堀江家は借金をかえせなかった、本来ならば流地とすべきところ、この土地が堀江家の先祖の居屋敷であり、前々から城山とよばれた由緒ある土地であるので流地とはせず、何百年たとうとも本金(元金)を返済したならば並木ごと堀江家へ返すことが約束されている(大石学)。「八王子城の時代地侍と百姓と人質」(『多摩のあゆみ』第六〇号)で、羽鳥英一氏は『新編相模国風土記稿』所載の、里正(名主)五郎助宅図を紹介されているので参照とされたい。

百姓と武士の関係は古来より対立的に捉えがちであるが、堀江兵部と十八名の百姓との間には強い紐帯があったとおもわれる。兵農は朝倉氏と北条氏共まだ未分離で武士と百姓は共に農業をおこなっていたと考えられる。遠く武蔵国にきて新田開発をするためには、百姓達の協力がなくてはならない。この時代、百姓は専門的職能集団と考えたほうが良い。武蔵と越前では気象条件がかなり違う「雪がない」のである。たとえ未開の武蔵野の地でも開発はしやすかったとおもわれる。越前の百姓は食うや食わずの状態であった。

 天文二十年(一五五一)九月一日、北条氏康は武蔵国市宿新田(埼玉県鴻巣市鴻巣)移住者の諸役を免じ田畠を開発させる印判状を、小池長門守屋敷に発給している。

 堀江兵部たちの行為は戦国大名にとって問題であったろうとおもわれる。朝倉氏側から見れば、堀江兵部は「退転」であり、百姓達は「逃散」となる。北条氏は「欠落」と見ているが、国境越えの「欠落」についての「人返し」は領主間協定でも解決困難な問題であったとおもわれる。しかし、朝倉氏側にとっての百姓十八名の「逃散」は、「郷中明」とよばれ、村人全員であったろうから、朝倉義景にとっても国人堀江氏の動向は注視せざるをえないものと思われる。

 堀江兵部ら一行はどのような経路をとり、武蔵まで移住したのであろう。天文二十三年三月(一五五四)甲斐の武田信玄(晴信、三四歳)相模の北条氏康(四〇歳)駿河の今川義元(三六歳)が駿河の善得寺(富士市善徳寺)に集まり、三氏間の婚姻を媒介とした三国同盟が成立した。生活用具、農具、女、子供も一緒であれば移動は困難がともなう、彼らには幸いであったとおもわれる。たぶん、近江、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、相模を経ての道のりであろう。彼らが一向宗徒であれば、「門徒送り」によって助けられた可能性がより高い。備前の熱心な法華信者として知られる松田氏の臣大村家盛の『日蓮霊地巡礼記』がある。天文二十二年(一五五三)四月、大村家盛の比企・池上・身延参詣の旅往路『大村文書』によれば次のようである。

【近江】坂本―鏡―醒ヶ井―【美濃】垂井―井ノ口―【尾張】岩倉―森山―岩崎―【三河】岡崎―山中―吉田―【遠江】白須賀―今切―引馬―懸川―金屋―【駿河】島田―藤枝―府中―清見関―興津―蒲原―吉原~(舟)~沼津―【伊豆】三島―北条―伊東―網代~(舟)~【相模】小田原―江ノ島―比企―【武蔵】神奈川―池上、となっている。

堀江氏の先祖、堀江三郎左衛門はその父「賢光」と共に越前より遠江に進出し、土着したのち、北条早雲と共に戦っているが、敗戦して没落し、越前にもどった。たぶん堀江城がこの時のものであろうとおもわれる。文亀元年(一五〇一)堀江三郎左衛門尉為清は、北条早雲から三河国(愛知県)における戦功を賞され、同年遠江国引佐郡三ヶ日村(三ヶ日町)金剛寺に寺領を寄進している。堀江兵部は北条氏とこのような所でも繋がっていると思われる。「つて」を求めて武蔵国にきた遠因の一つであるかも知れない。また越前朝倉氏と北条氏の間には近しい関係にあることもしめされている。朝倉氏の一族であるとおもわれる朝倉兵次郎は、江戸城代遠山氏の家臣で、永禄二年(一五五九)頃までには作成されたと思われる『小田原衆所領役帳』によると一二九貫文を知行している。


⑴  朝倉氏の国衆堀江氏

越前朝倉氏に従う国衆のうちで最大の重臣堀江氏は越前国の国人衆の中でも有力な豪族で、平安時代中期の鎮守府将軍藤原利仁流斎藤氏の後裔として越前国生え抜きの名族であった。堀江氏が確実な史料に始めて現れるのは明徳三年(一三九二)八月の「相国寺供養記」に見える「斉藤石見守藤原種用」が堀江氏であることは明白で、その系譜は諸史料・文献を検証すると次のようになる。

  斉藤石見守藤原種用――中務丞種用――利永――石見守利具

 長禄三年(一四五九)八月、越前北部を中心に展開した守護斯波氏方と守護代甲斐氏方との主導権をめぐる争い、いわゆる長禄合戦で主導権を握り中核となって終始戦ったのは石見守利具であったが、父子ともに合戦で討死すると一時に勢力を失った。

 長禄合戦によって没落した堀江石見守家を再興せんがために、堀江加賀に名を変えて再度越前に進出したのが、堀江三郎左衛門道賢の傍系の旧堀江石見守の一族とも関連した加賀国山大荘南郷出身と考えられる堀江左衛門三郎で、やがて堀江南郷家は朝倉氏に臣従して越前平定に協力し、中務丞・石見守と官途を進めていったとおもわれる。ところが、『雑事記』明応五年閏二月十七日(一四九六)条によると、当時すでに堀江南郷家は越前を逐電していて翌五年七月八日条「号坪江殿 堀江左衛門三郎」と見えて復活し、これを最後に堀江氏は『雑事記』の記録から消える。代わって、堀江氏が発給した文書が三国湊の真言宗滝谷寺と性海寺との文書に伝来するようになる。(性海寺は堀江氏とその家臣、滝谷寺は朝倉氏の士族と堀江氏)。永正元年(一五〇四)六月十日付文書で、「中務丞景実」、同十三年九月十四日付文書では「石見守景実・左衛門三郎景用」が見えるから、景実・景用は親子関係であろう。このようにして、堀江石見守(南郷)逐電後、この跡式を継承した堀江左衛門三郎とは時代的に「堀江景実」に相当して左衛門三郎・中務丞・石見守へと、同じように通称や官途名を進めて行ったと思われる。(朝倉氏が越前を支配するようになると堀江氏はその被官に組み込まれていった。例えば、堀江氏は名前に朝倉氏の通字である「景」の一字を冠するようになる。)次に、天文二十二年(一五五三)の文書にみえる「堀江景忠」は景用の子、石見守景実の孫と考えられ、永禄十年(一五六七)に子息の利茂とともに朝倉義景に叛旗を翻して加賀に亡命した。景忠は後に「堀江藤秀」と改名して朝倉氏滅亡後に再び越前に復帰している。

 堀江景忠が朝倉義景に対して反乱を起こした時期と前後する永禄期の堀江一族の動向を知る史料として注目すべきは「河口庄勘定帳」である(松原信之編『朝倉義影のすべて』)。


  ⑵ 越前の門徒と堀江氏

堀江兵部が越前より移住を決断した動機の背景には、一向宗と朝倉氏の争いに関係があるとおもわれる。越前の一向衆徒の勢力は蓮如が、文明三年(一四七一)の初夏から同七年八月下旬まで、坂井郡細呂宜郷内吉崎の地に滞在し布教を行ったことにより、飛躍的に伸張した。のちに加賀は「百姓ノ持チタル国」となった。

 一向一揆の国となった加賀と朝倉氏は厳しく対立し、四代朝倉孝景は絶交状態を続け、また積極的に介入することもなかった。義景も、この政策を続けた。しかし、弘治元年(一五五五)七月二十一日、越前勢は朝倉宗滴(初代、孝景の子)を大将として加賀へ攻め入った。戦いは朝倉勢の勝利に終わったが、八月十五日晩、宗滴が病でたおれ、九月八十九歳で没した。これは朝倉氏にとって痛手であった。この戦いでは堀江氏も微妙な立場に立たされたと思われる。越前の門徒と堀江氏の関係は良好であったと思われる。

 長禄三年(一四五九)越前国河口庄兵庫郷で国人堀江氏は豊原寺を攻めるために土一揆を蜂起させている(『経覚私要鈔』興福寺大乗院門跡 経覚の日記)。土一揆には門徒も含まれていたであろう。永禄十年(一五六七)三月、堀江中務丞景忠・左衛門三郎利茂父子が、加賀の一揆と結んで謀反を起こしたとの噂が朝倉義景の耳に入り、義景の命を受けた山崎吉家・魚住景固の両将は二千余旗を率い金津の溝江河内入道の館を本陣として、堀江館との間の上番一帯で、両軍は激しい合戦を展開した。両者ともに軍略をめぐらして勝敗の決着がつかなかったが、堀江父子を能登に亡命させて堀江の乱を終息させた。これらの争乱が堀江兵部らを武蔵に移住させた要因の一つになっていると思われる。


  ニ  上総国堀江郷より起こった堀江氏

 上総国の堀江氏は、佐藤孝太郎著は「堀江氏居城説」(『八王子物語上卷』)で、堀江氏の系図中に地方豪族として室町戦国期に、八王子城主としての記載があったことから問題となったと紹介された。最近では、椚國男氏が「八王子城の搦手」でこの系図にふれている。そして、北条氏照によって八王子城が深沢山に築城工事を始めた天正六年三月頃(一五七五 大悲願寺過去霊簿)より二年半早くつくられていると、指摘している。本項ではこの系図を中心に考察する形で進めてゆきたい。

「八王子城主」と記されている部分について述べておきたい。時代的に会わないと指摘される方もおられるが、これは、系図を作成した堀江景幸が、自分の先祖はこの地に城を構えていたのだと強調して書いたものと思われる。「八王子」の地名は北条氏照が八王子城の築城に際して「八王子権現」を勧進したことによると云われている。『東久留米市史』に「□州前澤浄牧院記」がある。その中に「……武州八王子城主安祝……中略……」の記載があり、この安祝は栗原仲道氏によれば享徳四年(一四五五)正月二十五日に府中分倍河原の合戦で負傷し死亡した大石氏重仲の子とある。城郭史の立場から考えれば、以前から城が築かれていたとしてもおかしくないであろう。

 この系図によると、堀江氏の出自は越前堀江氏と同じ藤原利仁流とある。堀江籐次郎国成の上総国堀江郷は今の時点では確認のすべがない。たとえば『姓氏家系大辞典』の堀江の項に「 和名抄、越前国坂井郡に堀江郷、餘戸郷を収め、保里江と註す。又武蔵に堀江庄、堀江郷、若狭、越中、阿波に堀江庄。その他、摂津、遠江、下総、讃岐、伊予等、此の地名多し。房総の堀江氏 鴻之台戦記に義明方、堀江氏を載せ、又相州兵乱記に〈小弓勢の先陣堀江〉」とみえる。

 下総国猿島郡若林郷(茨城県境町)は、現利根川中流域東岸の猿島洪積台地のほぼ末端部に位置する低台地型の村落である。若林のほぼ中心部分に土塁を伴った土豪館跡がある。この館主については、堀江という領主が住んだことなどが偽文書に見え、館跡隣接地の台喜八郎家は、堀江氏の家臣と伝える。この堀江氏は、天文三年(一五三四)閏正月一〇日の足利義明書状などから、小弓公方・足利義明に従った「堀江下総守」と思われ、近世に入って古河公方が喜連川に移った際に、これに従って堀江一族も若林を離れたものと考えられる。

 なお昭和二年刊の『猿島郡郷土大観』に、「往昔領主堀江候なるもの、若林に小城を設けて居住せし」とみえ、その姫君を地内の桜塚に葬ったとある。これは「足利家通系図」に、天文七(一五三八)年の下総国府台合戦で討死した足利義明の弟、基頼を「若林ニ葬る」とある部分と、どこかで関係する可能性も考えられる。

 房総の堀江氏について川名登は「堀江頼忠、能登守と称す。天正十五年(一五八七)鹿野山神野寺の棟札の中にはじめてその名がみえる(神野寺文書)。その後、里見忠義時代には家中において最も重きを置かれ、また一門扱いとして里見姓を名乗る事も許されていた」とある(『すべてわかる戦国大名里見氏の歴史』)。

堀江藤次郎国成の子、八郎行朝は保元の乱に源氏方に参加し京都御所内で死亡した。その子を経季といい、堀江太郎を称し、弟に堀江三郎経実があった。

「文治三年(一一八七)鎌倉右大将家御奉公中武蔵高麗郡之内玉川荘園ヲ玉ハル、承久四年(一一九三)八月九日死セラレケル」。

経実の子を盛実太郎、次が実重(堀江八郎、玉川荘居住)次を益実(堀江兵衛尉)そして益実の子に、太郎左衛門常実がある。この人が堀江氏中興と記され、初めての八王子城主となったとされ、それは次のようにきされている。

「新田左中将源義貞朝臣家臣トシテ元弘三年(一三三三)鎌倉攻之刻軍功ヲ立ル其後足利将軍尊氏公ヨリ懇望ニテ新田殿ヨリ足利殿ニ図隋仕シテ高名手柄アリシトナリ、夫ヨリ建武元年(一三三四)十二月二十八日武蔵国郡内八王子ト云処ヲ領地被下置、殊ニ八王子山ニテ一城ヲ築キ申也同二乙亥年(一三三五)九月四日同国松山城攻之討手ニテ討死トナリ、法満寺殿廓山徳征大禅定門」。

 常美の子、綱実は貞治三年(一三六四)六月二十八日死去、その子、国実は康応元年(一三八九)正月十九日死去。綱実と国実も八王子城主であつた。

 国実の次は高実といった。かれは堀江佐渡守従五位下と官位を受けたらしくそのように記されている。

「応永元年(一三九四)始テ鎌倉公方氏満公ヨリ被召出、御盃頂戴、其上ニ関東目代職ニ被仰付トナリ、同五戌寅年(一三九八)五月十日夢中ニ相州江ノ島明神金竜ニ乗ジテ八王子ノ城外ノ池ヨリ出現シ玉ヒ天女ヨリ竜鱗三枚玉ハリケル、依テ今ノ竜沢ノ池ト申、此時ニ名ツクルトゾ、又弁才天社勧請ナリ子孫其事ヲ大切ニ可存ナリト御申伝へ被成下候也、応永十六乙丑年(一四〇九)八月十九日逝去、宝祐院慧山教光大居士」。

 高実の子、実次は下総守を称し野州宇都宮に下向し、戦病死した。その次は貞実で堀江佐渡守八王子城主と明記されている。

「寛正二辛巳年(一四六一)六月二十日武州之内新郷合戦手柄ヲ顕シ公方様ヨリ御感状被下置ト今ニ伝来スル処ノ御墨付是ナリ同三壬午年(一四六二)正月六日逝去御辞世歌ニ〈頼みおく誓のうみに竿さしていそぎ渡れる弥陀の御国へ〉。

次は秦実、芸番介太郎と号し文明年間の人であり、次を章実、左衛門尉出羽守を称し北条氏綱の旗下で各地に転戦した。妻は氏綱息女とし、天文九年(一五四〇)九月十二日死去、光寿院殿相識妙空とある。次の経実は美濃守従五位下とあり、安房国里見氏と北条氏との戦いに従軍している(国府台合戦)。

 北条氏と下総里見氏との戦いは、大永より永禄年代に及ぶ長期作戦とし知られている。北条氏照の旗下が多数、この作戦に従ったことが北条記にしるされ、堀江氏は経実及びその子直郷ともに従軍したとおもわれる。

 直郷は内蔵介と称し式部少輔となっている。妻は武州鴻ノ巣城宇佐美但馬守道経女とあり、「北条殿仰ニテ死も下総国ニ御出陣御供里見安房守殿ト数日対陣軍功勝利ナリ、結城左馬頭殿追手ヲ被付ナリ是モ甚高名ヲ得ラレタリ国人も甚美談申也。永禄二巳未年(一五五九)十二月四日死去」となっている。

 堀江系図の最後は景幸であり「堀江左京亮陸奥守従五位下八王子城主家督妻、遠山肥後守朝影(景ヵ)女」と書かれている。この景幸の代の天正三乙亥年(一五七五)九月十四日図附で作成されたのが堀江氏系図一巻であった。末尾には「南無江島弁天神願者武運長久子孫繁昌万代無窮奉祈念処也」と記されている。

 資料としての系図の価値は残念ながら高くない。その中でも南北朝期に、洞院公定の編纂による『尊卑文脈』(永和三年~応永二年)は比較的信頼できる諸氏家系図とされている。      武蔵国守護代大石氏の動向を知る資料としての、木曽大石系図「八王子市柚木伊藤家所伝」は問題の多い系図である。しかし、この系図でしか知りえない内容もある。これを全て否定してしまうと大石氏研究は先に進まない。堀江氏系図も同様である。江ノ島弁才天に祈念文としてだされたことは、とくに神仏に嘘偽りを言わないのが今の時代と違う処である。神仏に対する信仰の深さは現在と比べようもないほど違う、、堀江景幸は神仏に誓ったのである。このように考えるならこの系図に書かれていたことは全てではないが信じられるとおもわれる。多摩の中世資料が少ない現状ではその点を補うものがあるように感じられ、再評価されてもよいのではないかと思う。


  三  新田氏姓堀江氏

神奈川県伊勢原市(中郡西富岡村)で江戸期のほぼ全期を通じて名主を歴任した豪農堀江家は、南北朝内乱期の新田義貞の後裔で、戦国期に小田原北条氏の客将だったという所伝をもつ。同家は中世文書や、旗本知行所関係などの江戸期の文書を伝える(清和源氏新田堀江家の歴史、新田堀江氏研究、神奈川伊勢原市域医療史概観)。

『姓氏家系大辞典』にこの堀江氏は、清和源氏新田氏族 越前国坂井郡堀江郷より起る。星合系図には「堀江左衛門大夫義藤は、新田義顕六世の孫也。義顕に二子あり、嫡子は越前堀江に居り、二男は同国本庄に居る。故に嫡子は堀江と号す」とあり、中興系図に「堀江・清和源氏、新田越後守義顕の末葉」とある。

 この堀江家の系譜は『堀江家文書』にある墓碑銘から次のように推定できる。

源 満仲―頼信―頼義―義家―義國――新田義重―義兼―義房―政氏―基氏―朝氏ー

義貞―義宗―貞方――堀江貞政〔初代 新田荘司従五位下相模守貞方公正嫡 新十郎 

正長元戌申年(一四二八)没〕―政貞〔二代 十郎 寛正三壬午年(一四六二)没〕

―政武〔三代 庄九郎 延徳二庚戌年(一四九〇)没〕―政貞〔四代 惣七郎 享禄四

辛卯年(一五三一)三月五日没〕―政延〔五代 土着 惣左衛門 永禄五壬戌年(一五六二)四月十七日没 一底常忻居士〕―政邦〔六代 土着 織部 慶長十七壬子年(一六一二)四月十七日没 孝庵道存居士〕……以後略……

堀江家は次のような貴重な品々を所有している

1 鎌倉後期 重代守護の太刀(了戒)折紙

2 鎌倉末期 家宝短刀(国広)折紙

3 室町期 不動明王図

4 南北朝期 家宝短刀(国次)寸法書

5 南北朝期 家伝脇差(備前長船盛光)寸法書

6 室町末期 堀江荘十郎政長所持鎧通し(兼定)寸法書

7 室町期 五輪塔(三基)拓本

8 室町期 家伝槍 寸法書

9 中世~近世 堀江氏邸内旧鎮守氏神祠胴 拓本10 天文十六年(一五四七)六月十二日 北条氏康判物

1 天文年間 天文宝地館(想像図)

12 永禄五年(一五六二)四月 墓碑銘 拓本

   一底時常忻居士 永禄五年四月十七日

   孝庵道存居士 慶長十七年(一六一二)四月十七日

13 戦国末期~江戸初期 墓碑銘(四基)拓本

14 慶長八年(一六〇三)二月 西富岡村検地帳

戦国末期に堀江兵部と堀江景幸、そして堀江織部政邦は北条家の領国内で出会い、それぞれの「家」の由緒や武勇を語り合うことがあったであろうと考える時、誠に感慨深いものがある。しかし、堀江景幸の作成した系図は、昭和五年十一月頃、滋賀県東浅井郡湯田村字八島にある玄隆寺の住職八島隆学氏の所蔵する処となった。堀江景幸やその一族の消息は不明である。

 

二 大沢氏

江戸時代の出自に詳しい『寛永諸家譜』には、藤原頼宗流大沢氏と大沢の二家を載せている。『寛政重修諸家譜』も同様の二家を記している。

 頼宗流大沢氏は、遠江国敷智郡堀江(浜松市)を本拠とした土豪である。先祖は丹波国大沢(兵庫県)を領し、基長―家藤―基秀と続き、基秀の代の貞治年間に遠江国に移り、堀江城に居城した。基秀の子基久の代に大沢氏を称したが、その跡は不明な点が多く、基武―基利―基影―基輝―基房―基相と続いたらしい。(寛政譜)大沢氏は、遠江国敷智郡村櫛荘(浜松市)の領家職を有し、永正元年(一五〇四)と推定される今川氏親書状写(大沢文書)で、同国浜名郡尾奈郷(三カ日町)が領家に宛行われており、同年中に北条早雲から同内容の判物が同郷に発給されている(大沢文書/神奈川県史)。さらに大沢氏は天文四年(一五三五)今川氏輝から村櫛荘の領家方と尾奈郷の棟別銭を免除されている。(大沢文書)。基相の子基胤は、今川氏真方に属して堀江城で徳川家康軍と戦うが、のち徳川方に下り、永禄十二年(一五六九)遠江国敷智郡村櫛荘伊佐地郷(浜松市)同郡吉美荘内山郷(新居町)などの本知行を安堵されている(譜牒余禄)。その後は旗本(高家)として続く。


 家伝に曰く、大沢左衛門佐基久が後裔なり。基久より正信まで其世系を詳にせず。と『寛政重修諸家譜』にある大沢氏の項に次のよう記されている。

 正信 和泉守

  美濃国に住し、天文二十一年(一五五三)閏正月朔日の夜、男正秀と相はかり     

て生駒道壽某が守るところの同国鵜沼(或は宇留馬)城山の城をせめおと齋藤道三これを賞し、采地五千八百四十貫文余をあたふ。其後齋藤龍興織田右府(信長)のために稲葉山を没落せし時、正信もともに流浪し、某年死す。法名祐圓。美濃国鵜沼村の瑞泉寺に葬る。

 正秀 次郎左衛門

  父とおなじく美濃国にあり。のち齋藤道三に属して鵜沼城に住す。ときに豊臣太閤のすゝめにより織田右府(信長)に属せむとて共に清洲にいたりて右府にまみゆ。しかれども右府其変心あらむことをうたがいてこれを害せむとす。太閤いさむれども聞かず。よりてひそかに正秀に告るむねありしかれば。すなはち太閤を質として其難を逃るゝことをえたり。右府事あるの後、太閤及び秀次につかえ、二千六百石を知行し、秀次ことあるのゝち流浪して、美濃国に住し、のち小田原の萬松院にぐ寓居す。このとき

  にあたり大久保相模守忠隣をもつてめさるといえども其翌日頓に病を發して死す。

  年七十六.法名 泰閑(今の呈譜 泰厳宗安)相模国風祭村萬松院に葬る。妻は齋藤山城守正利入道道三が女。


 正重 又三郎 次郎左衛門 母は道三が女。

  慶長年中めされて東照宮に仕えたてまつり、下総国相馬葛飾二郡の内に於て采地六百五十石を賜いて、大番をつとめ、のち大阪両度の役に供奉し、其後組頭となる。寛永二年七月十七日死す。年四十一.(今呈譜五十二)法名 長英。葬地 正秀に同じ。

龍源寺という寺が、八王子市加住町にある。貴重な月待板碑のある寺で、この寺の檀家に現在も大沢家がある。元治二年(一八六五)三月の大沢家文書によると、先祖の由来の概略は次のようである。

「……先祖宇津宮美濃将監藤原安藤与申者五代濃州宇留間之城主大沢次郎左衛門綱安長男将監秀綱……」

この大沢家も、幕臣大沢正秀家と同じように、織田信長によって宇留間城を追われている。その経緯は多少ことなっているが、秀吉の計略によって宇留間城を去っている。そして、関東の北条氏政に仕え、大沢次郎左衛門綱安は鉄砲大将となり、天正七年(一五七九)四月四日病死、孫の勘兵衛安□は天正十八年(一五九〇)六月二十三日八王子城で討死とある。二十八歳であった。

 犬山市東古券にある、大沢山本龍寺住職の大沢氏の系図につぎのような記載がある。

 「正重 次郎大夫、次郎左衛門 羽柴筑前守秀吉と約諾し、天正十年(一五八二)正月九日(永禄ヵ)、織田信長に降る。後濃州郡上郡祖師野に奔り、関東に赴く。」この正重を大沢正秀とする説もあるが、大沢次郎左衛門綱安と同いつ人物ではないだろか。


三 天野氏

 天正十年(一五八二)三月、武田氏が滅亡した。そして、北条氏支配の八王子分国に

遠州犬居城主天野景貫(宮内右衛門尉)は北条氏照を頼り、同月十二月二十七日、当座の

勘忍分として森下の地(八王子市上川町カ)を屋敷地として与えられた。この地域は天文二十二年頃、「武州多西郡由井郷」と呼ばれたと思われ、建長八年(一二五六)七月三日の将軍家政所下文によれば、天野景経に「船木田新庄由井郷内横河郷」等の所領が安堵されている。この所領は永仁二年(一二九四)に景経の子頼政に譲られ、やがてその子孫の顕茂・景広兄弟の間に「由井本郷」をめぐる争論が惹起し、正和二年(一三一三)五月・文保元年(一三一七)六月に争われ和与となった。関東下知状(天野文書)によれば、本来この「由比本郷」は武蔵七党のひとつ西党に属した由比氏の所領であったが、彼らの母由比尼是心が天野氏に嫁したことから天野氏に伝領されるようになった。その後、天野氏のこの所領は次第に失われた。そのような所縁の地に天野景貫・左衛門父子はやってきたのである。

伊豆国天野氏の分流で、鎌倉時代末に遠江国山香荘(春野町他)の地頭であった遠江天野氏は、戦国期には犬居山中(春野町・天竜市)を中心とする北遠地方にあって、いくつかの家筋に分かれながらも惣領家を中心として、強固な国人領主支配を築き、今川氏のもとでその軍事力を発揮していた。犬居三か村などを相伝する景泰―元景の惣領系と、犬居山と宇奈(雲名、天竜市)代官職などを相伝する虎景―藤秀―景貫の庶子系にわかれながらも、天野一族として一体となって今川氏に属していた。天野氏は数多くの「同名・親類・被官」を抱え、その所領支配については、今川氏役人の検断権の及ばない不入特権を与えられ、自立度の高い在地領主支配を維持していた。しかし、義元が永禄三年(一五六〇)に敗死してのちは、惣領家と庶子家の間で亀裂が生じたようで、永禄五年には藤秀知行分をめぐって訴訟となり、翌年景泰・元景は、堀越・飯尾氏などと連携してと思われるが今川氏に反旗を翻し(いわゆる「遠州忩劇」)、惣領家は滅亡する。こののち、藤秀は、宮内右衛門尉として天野氏を引継ぎ、今川氏滅亡後は徳川家康に抱えられることとなる。永禄十二年(一五六九)四月藤秀は徳川家康から本領安堵(五百貫文)されたが、元亀三年(一五七二)頃武田信玄の配下となる。天正二年(一五七四)・四年と二度にわたって徳川氏から犬居を攻撃され、そののち遠江をはなれ武田氏の家臣となった。

 天野景貫の年齢について『八王子市史 下巻』は北条氏照より一〇歳以上年長であり、当地にのがれてきたとき六十歳近かったのではないかとしている。

 天野父子は佐竹攻めに参陣し、下野小山で活躍した。天野文書は天正一三年(一五八五)の氏直の感状と氏照の副状をのせている。

  去廿二日佐竹衆一手小山表敵陣江相移之刻敵両人被討捕、高名之至、誠感悦候、弥可         

  被抽粉骨儀肝要候、如件。       氏直(花押)

    卯月廿七日

      天野左衛門殿

 これとほぼ同文の感状が、恩方の設楽家や五日市舘屋の来住野家にもあるが、天野氏に対しては氏照の家臣の大石四郎左衛門(小田原編年録によれば大石遠江守の養子で小田原の松田家からきたという)が景貫に次の書状を出している(内閣文庫の写本による。「静岡県史料」は別の長文の写本をのせている)。

  去廿二日貴殿御仕合具承、誠ニ心地好儀共候、殊御子息左衛門殿御走廻、敵両人被討捕候由、無比類存候、則御書中入御被見候、一段御感候間、定而可有御直書候、於我等、満足不過之候、爰計モ思召儘之事ハ一昨日モ敵数多被為討捕候、寔可為御満足候、委細ハ御使見届被申候、乍御大儀、御番御勤肝要存候、猶此方御用等候ハゝ可蒙仰候、

  恐々謹言

     卯月廿七日            大四右(判)

      天野宮内右衛門尉殿

 これによれば、現存しないが氏照も天野景貫宛にねぎらいの書状を出したようであり、当時氏照は病気で静養していたのかとも想像される。故郷の遠州を没落して異郷の地で戦い続ける敗残の老将の運命と心情を思いやればこそ、氏照や臣下の大石が、主将氏直の感状の他に父親景貫に宛てた慰労と激励の書簡を残したものであろう。氏照は苦労人であったようである。天野氏は反徳川派であったので近世以後は振るわないが、子孫は前田氏、毛利氏など外様大名の陪臣となっていった(八王子市史下巻)。

        

 四 由井郷の人々

 熊野速玉大社の『熊野山新宮勧進状』の裏面に記載された人々は勧進を取り扱った先達が、覚えのために便宜一筆をもってかきつけたものとかんがえられ、全般の文字の体様から、近世初頭の頃のものかと考えられるようであるらしい。この人々の大部分は一般民衆である。其の覚えの中につぎのような記載がある。

 「 二貫文 武州多西郡由井郷住人 目黒掃部助

   百二十文 関山弥五郎重顕 六百文 右京 」

 武州多西郡由井郷は、現在の八王子市大楽寺町・諏訪町・上壱分方町・弐分方町・西寺方町あたりと考えられる。

目黒掃部助は、天正十八年(一五九〇)六月二十三日、八王子城で討死した相即寺過去帳にある、目黒氏の一族とおもわれる。それにしても、目黒掃部助の二貫文の寄進は大きい金額である。此の地の有力な土豪であろう。

関山弥五郎重顕は、天文十五年(一五四六)に神戸山法泉寺を開基した関山土佐であろう。そして、相模原市当麻の地にあった当麻の関所の文書にある関山弥五郎その人であろう。虎の印判状につぎのようにある。

「 しほ荷弐駄の分、一ヶ月の中、此の如くとほすべき

  ものなり。これは家内のつかひ用の義なり。よってく

  だんのごとし。

    天文五 丙申 八月廿日

        関山弥五郎とのへ  」


 関山氏は相模国東郡当麻郷(相模原市)の地侍。伊予国関山の出身になる河野氏の一族と伝え河野通明の次男福良通豊の七男関山民部丞通安は通明の嫡宗と伝える。一遍上人に従って相模国当麻に時宗の無量光寺を開くと土着した。子孫は伊勢宗瑞の時から仕え飛脚役を世襲して務め、当麻宿の宿場管理と当麻関所の支配を任されていた。

 永禄四年(一五六一)と推定されている、武田信玄が甲斐郡内領上野原の領主加藤丹後守に送った書状に「(上略)然者氏康由井在陣、敵味方之間隔三十里之様(下略)」(諸州古文書甲州一)とある、氏康の由井在陣を可能にしたのは、由井郷の関山氏によるものであろう。

 無量院という寺は由井郷にいた菅沼氏によって、延徳二年(一四九〇)庚戌年五月廿五日に起立とある。この菅沼氏は同地(八王子市二分方町)に現在も居住しておられる。古くからの土豪であろう。下山治久著『八王子城主・北条氏照』所収文書に北条氏照感状写がみられる(奥信濃古文書)。それは菅沼六兵衛丞が永禄七年(一五六四)に、下総国葛飾郡国府台の戦いで与えられたものである。

小林土佐について、『異本小田原記』巻之三「関宿城降参の事」に「其年天正元年(一五七三)十月下旬、関宿の城主梁田中務大輔は逆心して、佐竹と一味す。依之小田原より氏政御出張、関宿へ御取詰め合戦なり……中略……小田原方一同に追懸り、塀へ乗る。陸奥守内津野戸が下人籐五郎一番に乗る間、其時彼津野戸にお尋ありて、小林といふ名字を給はる。……」この名字を給はるとあるのが八王子城で討死した、相即寺過去帳にある「小林土佐守西誉浄運」その人である。

 新陰流の祖、上泉信綱の高弟に神後伊豆宗治がいる。武蔵国八王子の地侍に生まれた。師信綱に従って諸国を遍歴して武技修行に励み、奥義を極めた。信綱が元亀二年(一五七一)、京都で将軍足利義昭に兵法を授けて、のちその師範となった。その後に関白豊臣秀次の師範も勤めたという。元八王子町の通称、峰山にはその道場が有ったという言伝えもある。横山氏から出た慈根寺氏は健保元年(一二一三)五月の和田合戦で討死した。この末裔が神後氏であろうか。神後伊豆は母方の姓を名乗り、鈴木意伯とも云われている鈴木氏は大石道俊の家臣に鈴木中務丞や、大石綱周のちに北条氏照の家臣となった鈴木周広や鈴木弥五郎もいる。八王子城で討死した相即寺過去帳には、鈴木佐渡守、鈴木彦八、鈴木庄三がいる。

八王子城の落城に関して『福生市史』には「戦国時代の福生市域とその周辺」で次のように述べている。

「市内福生の福生山青岩院に残された二冊の過去帳の一三日の条に記された〈玄光院源隣明坻居士〉という人物である。その注記には〈天正十八庚寅六月俗名上野作乃進於八王子討死也〉とあり、上野作之進なる人物が八王子城において戦死したことが知られる。さらに注目されることに、同過去帳の二二日の条に〈天正十六戌子八月上野作之進室河野但馬守養女〉と注記された〈青照院心月桂林大姉〉なる女性が存在することである」。

山梨県上野原町上野原に調査で訪れたときに河野氏系図を拝見した機会があった。その河野通重の箇所に「福生郷を領す」と記されていた。この河野通重は八王子千人同心頭であるとおもわれる。福生市史の河野但馬はこの人物で、『寛政重修諸家譜』に「通重―但馬守」とある。武田家が滅亡後河野通重は北条氏照に仕えたのである。その期間は北条氏の滅ぶまでであろう。 

      

 五 岡田の御厨

 渡辺世祐氏は『国史論叢』の「十三、戦国時代の伊勢神宮」において丁〈岡田の御厨〉と題する項目がある。この内容については従来あまり触れられていないと思われるので次にあげておく。

「東京付近の御厨のことを述べた機会に、今一つ注意しておきたいのは武蔵岡田の御厨である。御厨は学者に残されたる問題であって、今以てその所在は明らかでないが、八王子市の西にある恩方の地がそれではあるまいかと思う。何れにせよ恩方の氏神が八王子権現であるのは注意すべきことである。そこで八王子権現と神宮と如何ような関係にあるかということが問題になって来る。長寛勘文や江談抄などに拠れば平安時代の末期には紀伊熊野社と神宮とは名は異なるもその実相は同一であるとの考えが広く信ぜられていた。そして内宮は熊野本宮、外宮は新宮、荒祭宮は那智社に同じであって神宮と熊野社とは表裏一体を成していると説かれていた。この考え方が基となり熊野社を勧進した八王子権現は矢張神宮を祀ると同様であると信ぜられた。そのために八王子権現が産土神として恩方の地に祭られたのは、これ御厨の中心地であるからである。そして恩方は御厨である岡田が転訛したのであろうと思われる。」

倉員保海氏は「八王子上案下の熊野宮旧蹟について」(『多摩のあゆみ』第二十七号)の論文を発表している。岡田御厨を考察する際の参考とさせていただく。

現在の熊野神社は和田峠へ登る道の右上の小高い所にあり、安下部落の鎮守社として小規模な社殿を残すだけである。しかしこの神社について地元には、往時は恩方全域を支配する大きな神社であったという言い伝えがあり、「明徳二年(一三九一)小沢石見が当所高茶の嶺に祭る、故に社地を本宮と称う、後、慶長年間野火の為焼失す、同十四年社殿を阿奈沢に建設す、老人伝言に、往時一の鳥居が神戸に在りて之を掌る鳥居、神主と伝える者も亦附近に在りしと」記している。新編武蔵風土記稿に次のようにある。

安下熊野宮之禰宜役并二百文屋敷於末代不可

有相違者也 仍如件

   同高茶野丁

   天文廿壱年八月十九日   花押

      禰宜彦次郎

戦国期の天文廿壱年(一五五二)の頃、安下熊野宮と高茶山の重要性を認識した領主(北条氏か大石氏ヵ)の意図を察知することができる。軍事的に考えれば、和田峠の浅間社、高茶の熊野宮、高留愛敬坂の住吉(宮尾)社を結んで安下路の掌握をはかり、本山系(聖護院)の修験者を重用しようとする戦国大名の体制がうかがえよう。東国の本山派修験については道興准后が文明十八年(一四八六)に巡行した記録の『廻国雑記』に記されているが、室町末期から当地方に熊野詣を組織して勢力をはった。

福生半沢坊(福生市今熊)の修験を触頭として、覚円坊は多西の各地の霞下を集合した。そして、八王子城の合戦に人質を取られ参戦して討死した先達もいた。

浅川宮諏訪大明神御縁記は享保拾年(一七二五)乙巳春卯月に、鈴木左京武豊によって書ものである。そのなかに「……西方白虎守護神安下郷熊野大権現とす。……」の記述がある。この安下熊野本宮を通じて由井郷の人々、目黒掃部助・関山弥五郎・右京等は熊野新宮に勧進をおこなったのであろう。

 

  まとめにかえて

戦国期は災害と戦乱の連鎖によって武士も民衆も生存の危機に見舞われた時代であった。其の時代が約百五十年も続いた。「三度の飢饉にあうとも一度の合戦にあわじ」と言はれたのである。一向宗は飢饉に強いと言われ、この時代の人々の拠りどころとなり大きな勢力となってゆく。織田信長は一向宗(本願寺)との戦いに人生の大半を費やした。戦乱の為に人々は国々を流浪することとなった時代である。その様な人々の動向を書いて置きたいと思ったのが本稿である。

過去の歴史から学ぶことは沢山残されている。今や我が国の自給率は四〇パーセントと低く輸入が止まれば飢饉が現実となりうる。そして、地震や異常気象によって我々の生活は崩れ去り、破壊され得るのである。我々の子や孫の代に至るまで平和と人類の繁栄を願いたい。戦国乱世の時代のうねりに埋没した人々がいた。

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「戦国流転」 @19643812

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