「歴史二十三夜話」

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第1話

あきる野市五日市にある、大悲願寺の過去帳に記載されていた戒名の日付に気が付いた時から、「弓木再庵」なる人物に興味を惹かれて記した武士の歴史です。


『歴史二十三夜話』

清水太郎

  慈根寺(八王子市元八王子町)と梶原氏


 慈根寺(じごじ)を支えた人々の中に鎌倉御家人梶原氏がいる。梶原氏はこの地と関係が深い。八王子市との合併で市制が変更されるまでは通称慈根寺と呼ばれ、元八王子村の大字であった。慈根寺は梶原八幡宮の神官である、梶原正統氏のお宅附近一帯で現在、本堂跡は中央高速道路が通っている。慈根寺は正暦(990~995)の頃よりあった寺で、藤原氏の京家の出自の元杲が開山となっている。船木田庄内の藤原氏の寺として建立されたと思われる。この寺は明治の廃仏毀釈で廃され今はない。此の寺で活躍した鎌倉末期から南北朝初期の僧儀海については、拙稿「真言僧儀海の足跡」を参照されたい。梶原八幡宮は建久2年(1191)鶴ケ岡八幡宮が正遷座のときに、梶原景時が古い御神体を賜い、この地が景時の所領の地ゆえに、鶴ケ岡に似たところを選び鎮座したという。この時慈根寺は梶原八幡宮の別当寺とされ慈根寺山西明寺となった。慈根寺の所領は景時の母(横山庄の別当横山孝兼の娘)の持参の地であった。この孝兼は和田合戦で滅んだ横山時兼の曾祖父にあたる。梶原景時は正治2年(1200)10月、新将軍源頼家に結城朝光を、異心を抱く者として讒言したことから、三浦・和田その他、重臣の憤りをまねき、景時一族は鎌倉を追放された。景時は源氏の一族武田有義を将軍に擁立を計り上洛を企てたが、駿河国狐崎で在地の御家人の為に殺され一族は滅んだ。景時の長男、景季もこのとき父と運命を共にした。景時の次子、平次景高の子景継は三代実朝嗣職の後、再び召されて鎌倉幕府に仕えた。また景時の三男景茂の子孫は室町時代には近畿、さらに阿波国、讃岐国へも広がっていった。

 その後の梶原氏は足利氏の被官として歴史にみえている。建長6年(1254)、将軍宗尊親王にオウ飯を、足利義氏が献じた時、献上の馬を引いた御家人のうち梶原景綱がいた。景綱は景俊の子で、梶原景時とともに討死した三郎景茂の子孫であった。その後に起こった承久の乱に、梶原一族は幕府方として活躍し、復活をとげたようである。景俊は御家人としてしばしば『吾妻鏡』にあらわれ、やがて、北条一門や足利氏嫡流の被官(御内人)となっていった。

 鎌倉幕府滅亡ののち後醍醐天皇によって建武の新政が開始された。その武者所の所司に梶原景直が登用され、この景直の一族は京都将軍家に仕えた。これに対し鎌倉に残った梶原氏は、鎌倉公方足利氏満の御所奉行人であった梶原道景が知られる。また、暦王3年(1340)足利義詮の病気平癒の祈願を鶴岡八幡宮に寄進し、美作守の受領を得ている。かれは名を景寛といい、美作守を称した道景と同一人物と思われる。道景の一族は「美作守」を称し、至徳2年(1385)、梶原美作守の代官が新田相模守を捕えた。この使者は、相模守が上野・武蔵両国の軍勢に対し謀反を呼び掛けた廻状を持っていたのである。このことから、鎌倉府による関東支配が、新田の残党を忍び込ませる余地のないほど浸透していたことを知らせてくれる。

 鎌倉公方に仕えた梶原氏には、能登守の系統もあった。応永24年(1417)に起きた「上杉禅秀の乱」には、能登守・但馬守らは公方に味方して戦い、但馬守は討死した。但馬守は名を季景といい、常陸国鹿島郡徳宿郷内の鳥栖村を知行したことが知られている。禅秀の乱で、鎌倉御所は焼けてしまい、そのため公方持氏は梶原美作守の屋形に入った。応永25年、下野国御家人の長沼義秀が孫憲秀への遺蹟相続を申請したのに対し、公方と持氏が許可するとの意思を伝えた美作入道禅景であろう。この禅景は先の道景とは父子の関係と思われる。

 応永34年頃、京都東福寺領の武蔵国船木田荘の年貢を押領したと訴えられた梶原美作守は、その地の土豪平山三河入道に率いられた武蔵国南一揆と行動をともにしている。彼も道景・禅景の流れをくむ公方の奉公人であっとみられる。美作守と但馬守は兄弟と思われる。美作守は船木田庄由井郷横河村(八王子市元八王子町)に館を持っていた。

 『系図纂要』の「梶原系図」に持景ー経景ー時景とあるが、持景は御所奉行人として応永年末の史料に見える。その子である経景は系図に「武蔵国荏原郡馬篭」に住むと注記してある。また『応仁武鑑』に、経景について「梶原美作守経景 武蔵国荏原・豊島・多摩三郡内田六百参拾町」とある。梶原氏の所領が武蔵国にあることが確認できる。ただし、戦国時代に梶原氏は馬篭を所領としていることから、それ以前に同地を支配していたことも考えられる。

 永享の乱で鎌倉公方足利持氏は殺害され、公方不在という事態が生じた。そこで、持氏の子で京都にいた永寿王を迎え鎌倉公方とした。このとき、「御奉行人」として佐々木氏らの名が記され、そのなかに梶原美作守もいた。

 このように梶原氏は鎌倉時代から足利氏の被官であり、その後足利政権の成立とともに、京都将軍家に仕えるものと鎌倉公方奉行人となる一族に分かれた。それは、最後の公方足利義氏の時代まで続いていることが知られる。

 『異本小田原記』には大石定久の娘(名を登志という)が太田資正との間に生まれた子を梶原源太政景と名乗らせたとある。この間の出来事については、天正期に書かれたという。異本小田原記抜粋「「ihonn-odawaraki-yori-batusui.doc」をダウンロード を参考にされたい。


 天文15年の川越の夜軍以後大石氏をはじめ、上杉氏を支えた家臣たちの勢力図は大きくかわった。慈根寺の梶原美作守の消息は不明である。この地は北条氏の支配となった。氏照が三田氏を倒し、滝山城に入るのは弘治2年から永禄6年にかけてである。やがて、八王子城が築かれ、慈根寺地域の重要性はますが、梶原氏が関係する資料はない。神官としてひっそりと息をひそめていたのであろうか。今後の研究課題である。


仏教の難解性について


 『日本書紀』第19巻、欽明天皇13年(552年壬申とされる)10月の記事に百済聖明王が送ってきた上表文に「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広がっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」とある。日本で仏教が発達した背景には様々な事情もあると思うが、私は仏教の持つ、その難解性にあると思う。それはまた当時の人々の勤勉性に関係していると思われる。わからないから理解しようとするのだ、易しくてすぐに理解できるなら学問の発展はない。しかしその仏教を隅々にまで理解されるまでには、多くの人々の(最澄・空海・円仁・円珍を代表に)努力があった。それでも現在の私たちの多くが仏教を理解出来ずにいる。拙稿「真言僧儀海の足跡」は鎌倉期までの密教や他宗の成立や事件等を、私なりに東国を中心に展開したものである。だが、間違えないでほしいのは当時の仏教は金ぴかの仏像であり、それは一言でいえば輝いていた力強いものである。そして、弥陀の救いを求める人々がいたことである。それは次第に武士や庶民を動かし歴史を動かした。儀海の属した真義の教学は真義真言宗となつた(江戸時代のこと)が、それは、覚鑁から頼瑜が受け継ぎ、理論化された。覚鑁は密教に阿弥陀思想を取り入れたのである。儀海はその新しい教えを求めて各地を旅し、教典類の書写を続けた。その教えは儀海の弟子達に受け継がれ、日野市の高幡不動にあった。それは弟子の能信が真福寺を開山する際に移され、いま名古屋の真福寺文庫撮影目録(上・下巻)となって残されたのである。その中には『真福寺本将門記』も含まれていたのではないかと私は考えている。此のことについてはいずれ論考してみたい。

いまわたしが見られるのは書写された聖教類の奥書だけであるが、その内容までは踏み込めないもどかしさがある。いつの日か、覗くだけで良いから目を通したいと思う。


  不思議なめぐり合わせ


 大型連休の5月2日に、縣敏夫先生の運転手役で恩方へ拓本を取りに同行させていただいた。最初の目的地は和田峠近くの弘法の水にある碑文であったが、道路の拡張で所在不明であった。次に、辺名の桜にある碑文の拓本をとった。風が強く時間がかかった。最後に観栖寺に行く。本堂の左手の小高い丘に、松原庵熊澤鳥酔の墓の拓本をとった。寺の住職の叔父、森原氏に墓のいわれを説明していただいた。墓の主は熊澤姓で千人同心の10代目とのこと、私はすぐに天正18年6月23日に八王子城で討ち死にした相即寺の過去帳(大善寺の檀家)に記載がある「熊澤土佐浄感・同子息宗信」が先祖ではないかと思い森原氏に尋ねた。「そうである」と言う。縣敏夫先生が拓本をとる間に、隣の墓所の2基の五輪塔と古い墓石に気がついた。近寄って見るとかすかに正保と明暦と読めた。観栖寺は正保の開山で、恩方の心源院の末である。この墓所は下恩方の中島酒造の墓地とのこと。これらの墓地は寺の住職の墓地のすぐ近くにある、たぶん有力な檀家であろう。中島家も八王子城で討ち死にした中島一族の関係者であろうと思う。「中島豊前良岑栄久・同娘某・中島十郎家来道正・中島源右道心・同親兵衛内妙慶」の名が相即寺過去帳に見える。後に水戸徳川家の分家の讃州松平家に中島氏の名がある。『武蔵名勝図会』227頁に「中島屋敷 落合村、字台畑というところにあり。ここにも馬場跡の跡いまに存せり。この人も天正18年八王子城にて討死にす。中島源右衛門某が邸跡なり。」とある。新撰組の中島登はこの中島一族の末裔であろう。私の母方の祖父は元八王子村の中島家より志村家に養子に出たのである。私の母清水タツと中島要氏とはいとこどうしである。その縁で父母は東京から元八王子村に疎開してきた。以前より北条氏照に仕えた熊澤氏と中島氏には関心があった。不思議なめぐり合わせである。               

八王子市叶谷町(華川)の西蓮寺の本堂の裏手に八王子城で討ち死にした富沢道三の墓がある。この富沢氏は『武蔵名勝図会』308頁に詳しい。八王子市元八王子町3丁目にある宗関寺に、北条氏照の医者であつた西川信濃守の墓石があったが直系の子孫が絶えその一角だけ跡形もない。時の移り変わりは激しい、永遠という言葉も虚しく聞こえる今日この頃である。この体験をもとに私の論稿が生まれることを誓いたい。

 

楠木氏の出自について(真言僧儀海の足跡より抜粋)


「…楠正成の出自については、さまざまな説が出され、商業活動に従事した隊商集団の頭目という面が強調されている。一方、楠という名字の地が摂津・河内・和泉一帯にないことから、土着の勢力という通念に疑問が出され始めている。『吾妻鏡』には、楠氏が玉井・忍・岡部・滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、もとは利根川流域に基盤をもつ武蔵の党的武士であった可能性が高い。武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂津・河内・和泉など北条氏の守護国に移住していた。河内の観心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領であったところであり、正成は本来得宗被官として河内に移住してきたものとおもわれる(海津一朗著『楠正成と悪党』)。新人物往来社刊『全譯吾妻鏡』二、建久元年十一月七日条、次の随兵四十二番、に楠四郎とある。海津一朗氏の説を地域的に考えれば新田氏と楠氏の接点はかなり近いと言えないだろうか。越後の新田氏の一族が義貞の旗揚げの日に間に合うのには当時の交通事情からすると、事前に義貞が楠正成と綿密に連絡をとりあっていなければと思われる。千早城攻めから義貞が撤退した時点では、すでに幕府に反旗を翻す計画が正成との間で決まっていたと思われる。…」


藤原朝臣不比等と平清盛の出生について


 藤原朝臣不比等は斉明5年(659)~養老4年(720)生没で、中臣鎌足の次男。母は車持君与志古娘(よしこのいらつめ)(公卿補任・尊卑分脉)。但し『興福寺縁起』によれば母は鏡王女(天智に召され、のち鎌足の正妻となる)

。分脉の不比等伝に「公(おほやけ)避くる所の事有り」(出生の公開に憚られるところがあった)とあり、天智後落胤説の根拠とされている。同母兄に定恵がいる(父を孝徳天皇とする伝がある)。蘇我臣連子の娘を娶って武智麻呂・房前・宇合の三子をもうけ、また天武の未亡人で異母妹である五百重娘との間に麻呂をもうけた。不比等が天智の子であれば、異母娘の五百重娘との婚姻関係に問題はない。また壬申の乱による不比等の特別なはからいにも納得がゆく。そして、以後の藤原氏の発展と栄華も天智の子であったからである。子の麻呂は京家と呼ばれこの系から元杲がでる。慈根寺の開山はこの元杲であり、慈根寺は船木田庄内に藤原氏の寺として建立されたと思われる。

 平清盛も明治26年(1893)になって、滋賀県・胡宮神社所蔵の文暦2年(1235)の日付けを持つ『仏舎利相承系図』が発見されたことで、祇園女御の妹が白河法皇の寵愛を受けて懐妊後に、平忠盛に下賜されて生まれたのが清盛であり、母が亡くなったので姉の祇園女御が猶子ちして養育したという説が有力となった。白河法皇の子であればその後の清盛の異例の出世も納得がゆく。当時の人々は清盛が後落胤であることを知っていた(常識であった)と思われる。我々の日常の普通の出来事はあんがい記録されないものである。


太平記から「横山太郎重真の討死」


 新潮日本古典集成『太平記二』巻第十長崎高重最期合戦の事(135頁)「……されども長崎二郎はいまだ討たれず、主従ただ八騎になつて戦ひけるが、なほも義貞に組まんとうかがうて、近付く敵を打ち払ひ、ややもすれば差し違へて、義貞兄弟を目に懸けて回りけつるを、武蔵国の住人横山太郎重真(しげざね)、押し隔ててこれに組まんと、馬を進めて相近づく。長崎も、よき敵ならばと組まんと懸け合つてこれを見るに、横山太郎重真なり。さてはあはぬ敵ぞと思ひければ、重真を弓手に相うけ、冑の鉢を菱縫の板までわり着ければ重真二つに成って失せにけり。馬もしりゐにうちすゑられて、小膝を打つてどうど伏す。……」横山太郎重真は武蔵七党の一員。『武蔵七党系図』(『姓氏家系辞典』)によれば、左近将監時盛の息。横山太郎重真は和田合戦で滅んだ横山時兼の嫡流であろう。横山氏は八王子市・日野市にまたがる横山庄の主であった(舟木田新庄」)。和田合戦の後、横山氏の動静は知られていなかった。和田合戦の後、横山庄は大江広元に与えられたが、承久の乱に大江親広は宮方に味方した為没収され、横山庄は同族の長井氏に与えられたと思われる。


清水八幡(しみずはちまん)と大姫

 清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。所在地 狭山市入間川3-35-9。義高は源(木曽)義仲の嫡子ですが、源頼朝に人質として鎌倉に送られ、頼朝とその妻北条政子との間に生まれた娘、大姫の聟になっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義高は、自分にふりかかる難を逃れるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(深谷館)がある現在の嵐山町をめざして逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは『吾妻鏡』にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果てた地、入間河原に社を建てたということです。それが清水八幡ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われます(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

 義高が打ち取られたのは元暦元年4月26日(1184年6月6日)である。義高が鎌倉を逃れたのが4月21日であるから、入間河原まで5日もかかっている、この間義高一行は何をしていたのか腑に落ちない、頼朝に謀反を企てる同志を武蔵七党にでも募っていたのであろうか。義高の享年は12歳。大姫は20才まで生きたが、このときのショツクが原因でうつ病になり悲しい短い一生であった。このときの北条政子の悲しみは計り知れない。頼朝は正治元年(1199)に落馬がもとで没したと伝えられるが、その死は謎が多い。このとき政子と頼朝の仲はどのようなものであったろうか。清水冠者と大姫の悲劇は、室町時代に「清水冠者物語」「しみず物語」「木曽義高物語」等の名で物語化されている。清水八幡は国道16号沿いにある小さな社である。私はなぜかこの社が好きで幾度か訪れたものである。


  清水中世史研究所のブログにようこそ


 今日は、当研究所のブログにアクセスいただき誠にありがとうございます。私は清水太郎といいます。東京都八王子市西寺方町で、地域の郷土史、主に中世史を中心に研究しております。66歳の普通の男です。平成21年4月12日に当ブログを立ち上げました。今までの論考はその時のブログに張り付けてあります。ダウンロードして参考にしてください。地域の歴史資料が少ないないというお考えの人が多いと思われますが、私の生まれ住む八王子市は歴史的に見て、その点では豊かなところであろうかと思われます。しかし、中世史の資料はそれほど多くはありません。そのようなとき、中央(京都)の動向や、各地方の動きを知ることによって、それを補うことができると考えています。或る何げない出来事でも必ずどこかで繋がっているのです。中世は宗教の時代です。権門寺社勢力を無視しては通れません、天台・真言・南都等の動きが政治を動かしていました。それは、織田信長による宗教勢力の敗北まで続いたと思われます。中世の幕開けは、念仏によるところが大きいと思われます。永観・法然・親鸞たちの活動は、民衆をめざめさせる働きをしました。貴族から武士までもがその動きに巻き込まれます。とくに、一遍は民衆に大きく支持されたと思います。清水中世史研究所のテーマをあげると、「金剛仏子儀海とその周辺」「武州南一揆と梶原氏」「多摩大石氏」「北条氏照とその家臣団」です。中世を生きた人々をもう一度、現代の人々に知ってほしいのです。とくに、非業の最期をとげた人々についてはなおさらの感があります。どうぞよろしくお願いします。


清水太郎の歴史交友録


 私の郷土の尊敬する人々のうちで、三人の名前を挙げさせていただくと、まず八王子市元八王子村の時代に活躍されていた村田光彦翁である。それは私の中学時代であったが「郷土史の事は村田のおじいさんにきけばよい」と級友に言われていた。其のころ、私の疑問は北条氏照が次男であるのに、「何故切腹させられたか」ということであった。昭和36年頃のことである。今ほど北条氏照について研究されていなかった時代であった。その村田光彦翁と共に、多摩文化を主宰されていた、鈴木竜二氏である。残念なことにこのお二人には生前にであうことはできななかった。そして、縣敏夫氏は現在73歳でお元気に活躍されている。縣敏夫氏の業績はこれから益々評価され続けられてゆくことと思う。研究者の間ではつとに高名である。板碑については、故石井真之助氏に教えを受けられた。石井真之助氏は私の高校の英語の先生であつた。その当時、石井先生の英語の発音は独特で私たち生徒には不評であった。村田光彦翁・鈴木竜二・縣敏夫のこの三人が私の大切な人である。西海賢二博士は娘の大学の教授で、その縁で知り合えることができたが、そのきっかけをつくっていただいたのも縣敏夫先生である。元八王子歴史研究会に所属していた縁で、樋口豊治・沼謙吉・前川實・歴史作家の伊東潤氏とも知り合えた。また、年賀状を差し上げている橋本豊治画伯・峰岸純夫先生がおられる。これらの人々はインターネットのWeb検索でその業績がを知ることができる。元八王子歴史研究会の人々には私の研究を理解して、その機会を与えていただいた。私の高校の後輩で古本屋「さわやか記念文庫」を営んでいる中野悦男氏もいる。中学時代の社会科の先生に小作寿郎先生がいた。私は授業の時に,地域の古い石碑の場所などを記して、提出していたそれを先生は評価して良い点を下さった。今も飾らずに羽村市で「隣人」の発行に携わっている。私が今郷土史の研究に携わっているを喜んでおられるのが小作寿郎先生である。そして、最後に妻の洋子と娘の里美に「自分勝手な私を支えてくれてあるがとう」の感謝を言いたい。プライバシーの問題があるので、このブログに名前を挙げた人々には改めて他意はないことを付け加えお許しを頂きたい。


清水太郎の歴史を見る目


中世の歴史を知りたい。私の場合それが、八王子を中心とする郷土の歴史に重点をおいていることである。私は八王子生まれで、市域から外に出たことのない人生を送ってきた。八王子を愛する男である。父方の先祖は富山県であるらしい。清水清兵衛が、富山市の五福村1番地に明治初年のころ五箇山辺から移住して来たらしい。清兵衛は、水戸田の明徳寺の過去帳にその名がある。その子、石太郎は(私の祖父)母を早く亡くし後妻と折り合いが悪く妹と東京に出てきて、板橋に居住した。私の父は清正と言い、二男である。母は八王子市元八王子村の志村氏の出である。私の父は疎開で母方の縁を頼って元八王子の地に、掘っ立て小屋をたて、母は3人の子を産んだ。姉と妹がいる。不思議な縁であるが、私の生まれた地は慈根寺という古刹があつた本堂の跡である。この寺は梶原八幡宮の別当寺でもあつたが、元杲という僧が正暦(990-995)に開山した寺である。元杲は藤原京家の出自。そして、鎌倉時代後期に真言僧儀海がこの慈根寺の談義所を中心に活躍した(拙稿「真言僧儀海の足跡」を参考にされたい)。母方の志村氏は先祖を志村将監と言い、北条氏照に仕えた家臣である(拙稿「天正期の北条氏照家臣団」を参照されたい)。梶原八幡宮の宮司は梶原景時の後裔である。65歳になってようやく自分の使命が、この地(由井郷)に生きた人々を今の人々に再認識してもらうのが勤めと悟った今日この頃である。それは何か大きな目に見えぬ偉大な力によって導かれているようでもある。偉大な力に感謝する日々である。このブログを開いていただいた人々に、幸あれと願う次第である。


歴史作家と研究者の狭間

 

 最近精力的に作品を発表されている、歴史作家の伊東潤氏が『北条氏照』(PHP文庫定価:781円)を出版された。数件の書店を見てまわったがPHP文庫の棚に置かれてあった。わたしは中学時代からすでに「北条氏照」にひかれていたのだが、その当時は研究している人もすくなかった。それに比べれば現在の「北条氏照」の研究者は綺羅星の如くいる。「北条氏照」の人間性など深く求めると歴史小説の作品となり、今回のような内容になろう。よく書かれていると思われる。なによりも、文庫本でもち運びやすく価格も手頃である。まだ「北条氏照」を知らない人々の入門書となればと願う。是非読んでほしい佐佳品である。私も「北条氏照とその家臣団」を研究のテーマの1つに挙げているので、誰かが私の代弁者となるような作品を発表してくれることをねがっている。より多くの人に「北条氏照」のことを知ってほしと思う。私のブログに、「大石氏ー婿殿達の戦国ー」を書いたがこのような見方から私は「北条氏照」を書いてみたいと思う。そして、「北条氏照」家臣団達のうえに乗った神輿の上が「北条氏照」であるように感じでいる。資料にない部分を補うのが想像である。歴史作家の作品はすべてが真実ではない架空の世界である。清水中世史研究所の看板を背負っている私としてはノンフィクションでなくてはと思うのであるが、今後の伊東潤氏の御活躍を期待するものである。


豊嶋勘解由左衛門尉 平康保・宗忠(兵庫頭)・同人室の墓

     豊嶋勘解由左衛門尉 平康保・宗忠(兵庫頭)・同人室の墓

 

 永林寺(東・八王子市下柚木)は大石氏所縁の寺である。開基は大石定久で、開山は一種長純(大石定重の弟)となっている。寺の裏の区切られた一角に大石定久の墓を中心に家臣達等の暮塔が並んでいる。この人々については拙稿「大石氏関連の永林寺墓碑銘考」で述べてあるので参照にされたい。此処ではその片隅にある豊嶋勘解由左衛門尉平康保・宗忠(兵庫頭)・同人室の五輪塔について記しておきたい。正面に戒名、左右側面に名前と没年が刻してある。

 

 清岳光輪居士(豊嶋勘解由左衛門尉 平康保 永正元甲子年八月十五日)

 心月正印居士(豊嶋兵庫頭 平宗忠 天文二十年辛亥四月十一日)

 華林妙昌大姉(同人室 弘治元年乙卯年三月五日)

 

 豊嶋氏は平姓秩父氏の一族で、武蔵国豊嶋郡から発展し平安時代から室町時代にかけて国人系領主として存続した。長尾景春の乱に豊嶋泰経は与党として組みし太田道灌と対立する。その結果、江古田・沼袋原の戦いに敗れ、文明十年(1478)豊嶋泰経は平塚城で再挙するが、太田道灌の攻撃を受けて落城、小机城に逃れる。しかし、ここも落とされ、泰経は行方知れずとなり豊嶋氏宗家は滅亡した。杉山博著『豊嶋氏の研究』も豊嶋氏本宗家の泰経以後は不明とされている。没年からすると、この豊嶋康保・宗忠の墓はどこにもないとされていたものであろう。

 葛西城の大石石見守の動静とも関連していたことから、豊嶋宗本家は最後には大石定久のもとに身をよせていたとおもわれる。そして、徳川家に仕えた豊嶋氏により供養のためにこの暮塔が作られたと考えたい。


武州南一揆と梶原氏


 一揆とは目的・方法などを同一にする人々の結合とその行動。『孟子』の「揆(道・方法)を一つにする」が語源。中世では寺院における僧衆,中小武士戦闘集団,村落農民の闘争など多様な一揆が存在した。多くの場合,一味神水といって神仏を招き寄せて起請文を書いて誓約し,それを灰にして飲み交わすことによって成立する。南北朝期・室町期の関東では,武蔵七党の系譜をひく武蔵・上野の白旗一揆,秩父系武士の平一揆等が活躍。時代が下るにしたがい同族団的性格から上州一揆・武州一揆という地縁集団に変化していった。

 武州南一揆は平一揆の系譜をひく、「禅秀の乱」「永享の乱」「享徳の乱」などでは時には寝返りや日和見をおこなったりした。勝つ方に付くのがこの時代彼らの生き抜く道であった。しかし、彼らの軍事力はどちらの側からしてもあなどれない勢力であった。とくに鎌倉公方足利持氏は武州南一揆を主力としていた程である。

 武州南一揆は、武蔵国(現在の東京都、埼玉県、横浜市、川崎市)南部に位置する小規模豪族集団の総称で、現在のあきる野にある秋川谷、八王子市にある川口谷、恩方谷を拠点とする平山氏、小宮氏、梶原、師岡氏、川口氏、由比氏らをリーダー的にした組織であった。これに、あきる野市在住の土豪として、貴志、高尾、網野、私市、青木らが加わっていた。現在、あきる野市には、足利持氏が南一揆にあてた書状が14通残されている。

 

 関東管領(上杉憲実)奉行人奉書(「前田家所蔵文書」)

 

  「大石遠江守入道殿(道守・信重)    冶部丞泰規(島田)」

東福寺雑掌申す、武蔵国多西郡船木田庄領家年貢の事、寺家知行相違なきのところ、領主等難渋の間、去年応永卅十三(年)十一(月)二(日)重ねて京都より御教書をなし下されおわんぬ。案文壱通裏を封じこれを遣わす。ここに平山参河入道・梶原美作守・南一揆の輩、年貢を拘留せしむるの間、有名無実と云々。はなはだしかるべからず。所詮御教書を守り、未進と云い、厳密にその弁を致すべきの旨、おのおのこれを相触れ、寺家の雑掌に沙汰し渡さるべきの由候なり。  よって執達くだんの如し。

  応永三十四年五月十三日         冶部丞(花押)

                           修理亮(花押)

 大石遠江入道殿

 

 梶原氏は、梶原景時の孫の景継が家を再興し幕府に出仕している。その子景家の娘は大石憲重の妻となっている。また景時の母が横山孝兼の娘であったことなどから多摩地域との関係が深い。「上杉禅秀の乱」の頃には梶原兄弟(美作守・但馬守)や梶原能登守の三家があり、「鎌倉年中行事」によれば御所奉行の役についている奉公衆である。梶原美作守は船木田庄由比郷横川村(八王子市元八王子町)に館跡があり、近くの八幡社の棟札によれば、寛正四年(1463)十月二十一日梶原修理亮家景、文明十七年(1485)十月十六日梶原修理亮入道道賢の名前を確認することができる(『新編武蔵風土記稿』元八王子村の項)。両氏とも同一人物で、美作守の次の代の人物と想定できる。特に梶原美作守の名は『鎌倉大草紙』などにも見える。応永二十四年(1417)三月鎌倉府の修理がおこなわれた時、足利持氏は梶原美作守の屋敷に一ヶ月ほど滞在したという。この村の奥の小字御霊谷に御霊社があり、鎌倉権五郎景政を祖神として祀っており、この子孫である梶原氏の祭神とかんがえられる。おそらく、武州南一揆の梶原氏の本拠地はこのあたりであったろう。


八王子市の南朝関連古文書「散田村開発記」と鈴木氏

「散田村開発記」は散田寺上の串田家に保存されていた古文書で、大正十五年串田家の親戚に当る小松茂盛氏がその写本を謄写刷りしたものである。

 

 此書は自分家に申伝へあり享保度々古き仁達に聞置候昔の訳相調候分は皆記置也、御水張辺りに有所の字 の訳能に見合得心あるべし、六人の開発主の外は武士也、其の下々は平士足軽家来筋也

      于時天保十三壬寅年二月寫え

      散田村開発本説

散田村は後醍醐天皇御宇元弘元年相模入道高時奢を極め内裏を蔑にし帝を配隠列京鎌倉との大軍起り大乱となり依之天台座主法親王大塔宮征夷大将軍と被為成候程の戦ひ也、其の時忠臣有之隠岐国より御帰参になり萬里小路大納言藤房卿近臣之故、帝之御附申被参候帰参の上伝奏も不行届世を見切遁世勅願所山田広園寺開山俊翁和尚之御弟子沙弥圓心被片倉城主永井備中守大江諸親は妹聟也

藤房の子息を領分の内辺くまん笹の原中へ城主の力を以って切開き家作り、扶持米送り被遺候ての隠家也、場所は御制札の畑也

其の後二十年も打ち過ぎ候所に小山判官殿は天皇の若宮御一方真言宗之座主御室之御所御守護にて御所水の御隠家となる。其の節宮方之近き公家衆四人御つれ被成候。此の四人の方は小浦、田倉、木下、谷合の御先祖也

其の場所に峰尾は御所水を開き、谷合は正の目を開き、木下は黒木下を開き、上散田の小浦は上ノ開戸也、田野倉は椿開戸、笹原の所を各分けとり開発いたし候也、是を散田村六人の主人と言う。

片倉も広園寺も高氏の方にて軍役を致す也、此の六人は寺の且方也御所水は武将之事、ゆえに財宝もあり人数も被持候ゆへ俊翁和尚遷化の時葬礼惣奉行を被成御取持有之候に付寺の旦頭にて毎年三月六日開山堂霊前え詰居候て世話有之候先例也。商人見世迄も支配有之候由

扨又小山判官殿は軍の旗色を見合え処判官様小浦宅へ出御、御病気重り終に上の開戸にて薨す。宅間紀所開戸の内「ほうで」べ葬る、陵の印に楠を植置候事也

当村元来は御制札前の道本道也、山より離れ家作也、水は山きしにある清水を汲み取用候也、堀り井戸の事昔これなし、其のじぶん地むくり風という悪風度々起り家居を吹潰し候ゆへ山わきへ移り候也

上開戸の小浦は上散田へ移る、野崎は同所山きし「かたそ」へ移る、田倉は其のまま、木下は黒木下に移る、谷合は正の目也、如斯に隣も離れて遠し、

 其の頃南方敵にても時宗の坊主に□□□□は不殺旨を聞内庵に福寿院と云う寺を建立し十王堂迄立候事也、隠れ穴を掘り用心を致す程の事なれども高氏公より国中へ御触有之候へば南方方の敵にても時宗坊主になり候ものは、決して不可殺旨御座候、然る所四人の公家方(小浦、田倉、木下、谷合)は御名前御隠し被成十五代の内は忍隠れのゆへ御名前一切相知不申候事、南北天下二つに分れ年号別々也、応永五年迄に漸く一天下に定まる。

中村の内中古より片巣と言うは慈根寺落城之節氏照公の御隠居御二方にて御老母様白雉一羽御持被成夜中忍落御出被成候故其の時より「かたそ」と云う也---時宗寺とはとう場と申事也、時宗なれども福寿院の事は福泉寺と也、寺を八谷戸へ引上げ跡は畠となり中古木下舎人引越市左衛門家は兵次家になり桓兵衛は同家の分地文蔵は、市左衛門分地也、仁兵衛は下谷戸佐五左衛門方之分家也、

北条家の時には八王子十八代官衆あり由木には諸星源左衛門殿被居候屋敷跡也、此仁子安村へ引越に付上り地となる、

源左衛門殿跡諸星万之助殿と申て分は北野村に九拾弐石知行有り御蔵前弐百俵御旗本にて、是は当主の名前也、先年は山入村妙福寺旦方也、

扨て嶋村図書殿之事は慈根寺落城之時奥列之御預り之所相渡本国に帰り親類衆設楽勘左衛門殿え落被参同隠に有之處諸星之上り屋敷跡え被参候様縁者に付源左衛門殿の跡屋敷之招寄候事也浪人にて達人に付名主役相渡候事図書殿には男子二人あり総領豊後舎弟は親左衛門分家に成候処之奉行書参り候処親左衛門殿水戸様御用人え被召出備後殿は御制札之北の方は諸星源左衛門殿之手代屋敷也其跡栗之林の処を不残新地迄四角に場所をとり家作引移り長安寺を内庵に取り立て図書の法名を以って寺号となし地所分け拾石之稲荷□親御朱印地に願候事也、氏照公随身の旗本は上散田の河合将監殿、下散田は原主計殿也、中村ほうでは田中氏有り是は甲列にて奥向の旗本也、下散田開発は石川太郎左衛門殿先祖也、瀧山之城主大石源左衛門殿親類内にて娘に眼病人あり名をちようと申候事拝島大日如来信佛にて眼病平癒いたす依之源左衛門殿御開基也、上散田川井淡路殿之事は山田広園寺境内に住居也、

高宰明神は案察使大納言信房卿と申御公家也、京都に悪人の臣下有て賢異故に被憎候ゆへ終に配流と被為成杉山峠に配流あり、橋本の宿の上に御殿と云う所あり、片倉城主、広園寺境内へ引移し古座主明神を祭り也山田の鎮守とあがめ候、鈴木馬之助、川井淡路両人は忠臣之人達内へ附てまわり候、然る処に御寺も高氏十五代引続き軍役を勤め候に付知行を上げ次第に衰へ候に付山田を止て上散田の場末に来り則明神を古明神之所へ引移す、其の時より高宰明神とあがめ村内の鎮守とする也、引時は冨蔵と幸助との脇に道あり是を中打手を古明神に引候事也、神主は鈴木馬之助、其後同人は散田を止て川原の宿へ引越川原の宿にて白山権現を祭り神主にて有り依之鳥居は今宿に有、今社は長房也、川原の宿を止て駒木野宿へ越し鈴木佐次衛門家是也、川原の宿は元長房也、設楽氏椚田村にする、当峰尾家は御所水より甲列え随身被成、信虎公の御行跡悪敷を見て不仕本国摺指之浪人其時子共衆三人あり、次男は案内や、三男は当所也、……以後略

 

 浅川宮諏訪大明神御縁記は享保拾年(1725)乙巳春卯月に、鈴木左京武豊によって書かれたものである。この人の先祖が鈴木馬之助であろう。

 新陰流の祖、上泉信綱の高弟に神後伊豆宗治がいる。武蔵国八王子の地侍の子に生まれた(慈根寺の地)。師信綱に従って諸国を遍歴して武芸修業に励み、奥義を極めた。元亀二年(1571)京都で将軍足利義昭に兵法を授けてのち、その師範となった。其の後関白豊臣秀次の師範を勤めたという。その時、神後伊豆は母方の姓鈴木意伯を名乗っている。のち秋田佐竹家に仕えたとも、尾張徳川家に仕えたともいわれるが生没は不明である。この母方の鈴木氏は大石氏や北条氏照に仕えた人々であろう。鈴木中務丞・鈴木周広・鈴木弥五郎がいる。また、八王子城で討死した人々の中に(相即寺過去帳)鈴木佐渡守・鈴木彦八・鈴木庄三がいる。


八王子合戦と大道寺駿河守政繁

 

 天正十八年(1590)六月二十二日、月明かりを頼りに前田利家・上杉景勝の両大將は上州、武州の降人を先鋒として15000余の軍兵を亥の刻(午後9時から11時)より段々に進め近寄らせて、丑の刻(午前1時から3時)に横山口に至り、黎明に八王子町構えの城戸を破るといえども、城までは遥かに遠きゆえ、是を知らず。守兵少なくして、恣に是を破り入りて城際に押し詰める(『武蔵名勝図会』所収「古戦記」)。八王子合戦の始まりである、あっけなくその日のうちに落城した。名のある首250とも500ともいわれ、討死した者3000と書かれた文書もある。同年4月には豊臣の先遣隊によって三多摩の各地は抑えられている。あきる野市の大悲願寺過去帳には「村山領奈良橋岸入道平吉家ハ六月朔日ニ拝島領ニテ討死」と記載されている。先遣隊に従わなかった土豪の死であろう。

 上州・武州の降人の先鋒その中心にいたのが大道寺駿河守政繁である。天正18年豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、中山道の入口である上野の松井田城を守っていたが、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍の前に開城降伏した。その後、豊臣方に加えられ、忍城攻めの道案内を勤め、5月22日に武蔵松山城、6月14日に鉢形城、6月23日に八王子城攻めと北条氏の拠点攻略戦に加わった。特に八王子城攻めでは、城の搦め手の攻め口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し最も働いたとされている。しかし7月5日に小田原城が陥落した後の同月19日、秀吉から北条氏政・氏照・松田憲秀らと同じく開戦責任を咎められ(秀吉の軍監と意見が対立し讒言された、秀吉に寝返りを嫌われた、小田原北条氏の中心勢力を一掃させたかった、などの諸説あり)、自らの本城である川越城(城下の常楽寺)にて切腹を命ぜられた。享年58。政繁にとって、代々の北条氏に仕えることも大事であるが、大道寺氏の家(家族、家臣団)の存続を考えることも大事であっただろう。彼の裏切り行為を後世の我々がただ責めることは、同時代の武家の当主の生き様からいって不適当であろう。

 大道寺氏は北条氏家中では御由緒家と呼ばれる家柄で、代々北条氏の宿老的役割を務め、主に川越城を支配していた。政繁は氏康・氏政・氏直の3代に仕え、内政手腕に優れ、軍事面では川越衆を率い時々の北条氏の主要な合戦に参加して武功をあげた。氏照は天正18年正月6日に政繁に返書を出している。氏照の八王子分国支配にとっての心強い味方であったろう。『異本小田原記』には「…大石隼人佐の養子に大道寺が子…」とある。

 八王子市下柚木の永林寺に大石定久の墓がある、その両側に家臣たちの墓塔があるがその中に「天正十八年六月二十五日亡 大道寺小太郎 同姓浅五郎 母ふさ 再補之」と刻まれてた供養塔がある。八王子城で深手を負い亡くなったと思われる。この墓塔は大石に養子となった大道寺氏のものであろう。後年復姓したものであろうか。私の小・中学の友人に故大道寺進太郎君がいた、この大道寺氏の末裔であることは確かである。


天正十八年(1590)六月二十三日八王子城討死の人々(其の1)

 

 『多摩文化元八王子の研究』第14号「皇国地誌 多摩郡元八王子村村誌(311頁ー314頁)」を参照としたが北条氏照室大石道俊娘文禄元年(1592)八月廿二日卒となっている。相即寺過去帳である。また『新編武蔵風土記稿』第五巻(雄山閣版)270頁-272頁にも記載されているが、多少の違いがあるので注意されたい。

 

鈴木佐渡守 顕現院門誉道善休劔居士

鈴木彦八 清向院本誉淨念息劔信士

鈴木庄三 聲雲院源誉道香焼劔信士

新野五郎 盛誉道源信士

桜井式部 道清信士

石川土佐守

駿河又左衛門道順

一庵主月山宗円法眼 同 内 妙性大姉

三窪助兵衛秀悦淨安 同 子息秋感

松本豊後 

窪 淨真 同 内 妙慶 同 妙安 

近藤出羽守

馬場対馬守淨感 同 内 妙讃 同 娘 某 同 与八永信

横地与三郎

増島淨専 同 内

高橋雅樂道栄 同 次郎三郎道善

中島豊前良岑 同 娘 某

安田善右衛門淨光

高幡十右衛門道泉

長野伊予守 同 内 某

薄打道正

浜中十郎道讃 同 新五郎淨善

綾野木工頭淨香 同 孫 正運

鈴木庄佐道香 同 庄左衛門道善

水野藤左衛門淨品 同 源七郎淨讃 

渡辺伊賀淨珍 同 十佐淨源 同 又兵衛道西

小林土佐守西誉淨運

志野帯刀淨信

斎藤三右衛門淨信

高橋与三母妙玄

佐藤対馬守淨玄

小野入道淨光

島崎次郎道香 同 兵庵道円

内田河内守月山淨雲

十日市二郎左衛門淨西

吉村三右衛門道円 同 順智 同 銀八郎右衛門淨林

目黒与十郎宗念 同 惣九郎道円 同 与兵衛道善

各辺玄蕃 同 娘 正秋

白井喜三郎道林

大沢母妙源

河井次郎道本 同 聟 道西

山田久右衛門道善

持丸彦五淨蓮

筭和泉宗泉

青木但馬守淨雲

山田主計淨光

佐藤淨信

鈴木出雲守

大竹隼人淨心

山郷被官助右衛門道善 同 周善

大隅西月

桜井彦七道心

富沢道三

駿河中村道円

青木与三淨蓮 同 与衛門淨西

黒谷小左衛門淨香 同 甚左衛門道香

大河三右衛門道本 同 善光

嶺巖淨永 同 安右道心 同 市左衛門道善 同 駿河織部 同 舎弟 道忠

八幡宿助三道香

東主座両親 道善 妙善

平尾藤右衛門道重

駿河二郎兵衛道西

比留間帯刀母妙幸 同 関内妙安 同 帯刀子息両人 同 内妙祐  

駿河被官小八道清 同 太郎父道西

安都城軍

馬場宗念 同 光信

谷内妙巖

熊沢土佐淨感 同 子息 宗信

張田道賢

朝倉示観英珍

大沢蔵人母妙善

井上冶兵衛被官孫右衛門蓮西

御祓四郎兵衛道西

岡崎淨円

中島十郎家来道正

石上新右衛門道善

目黒下甚右衛門道秋 同 子宗忍 同 娘

学助智円

長野讃岐宗円 同内山弥右衛門道清 同 番匠又兵衛道香 同 内 妙貞

弥七宗仙

酒井二郎淨感 孫伊勢秀悦 同 聟僧 宗円

中島下源右道心 同 新兵衛内妙慶

吉川善右淨専 同 与兵衛道光

犬目道因

笛 彦兵衛清範 同 斎五郎道随 同 丹四道香 同 観新淨音 同 岩井下女妙槃

谷被官四郎左衛門道正 同 半兵衛道順 同 新右衛門道西

 

右戦死者弐百八拾人属滝山大善寺檀越者也

 

※相即寺 八王子市泉町にある寺。古くは滝山大善寺末であった。八王子城落城に際し、二世讃誉は戦いの跡をともらい、敵味方に関わらず遺骸に引導を与え、その数実に千二百余人に及んだという。また 「ランドセル地蔵」で有名な寺でもある。

※大善寺 八王子市大谷町にある寺。昭和36年大横町より大和田町に移転、さらに同56年現在地に移転した。

関東十八檀林の一つと数えられた古刹。大横町にあったときには「お十夜」として、八王子城の戦死者の追善法要として古くから境内で興行が行われ、多くの人々があつまった。本堂北側に古くからの大善寺檀家の墓域がある。津戸家の墓域には津戸為守の供養塔があり、背中あわせに新野家の墓域がある。道をへだてた向こう側に山上家の墓域がある。また続いてある霊園には有名人の墓が多くある。


天正十八年(1590)六月二十三日八王子城討死の人々(其の3)


 三ッ鱗翁物語は平成二十年五月三十日に五日市古文書研究会によって全四巻が解読され出版された。その経緯についてはこの本の「あとがき」に詳しいので参照されたい。そして、この出版に携わった人々の御苦労と努力にお礼と感謝を申し上げたい。

「…扨 此度之戦に加賀勢の討死 名有者四十八人 雑兵共五百二拾人 上杦(うえすぎ)家にて者 名高キ勇士三十六人 雑兵共四百十人(四百五十人・山本家本) 其外真田 毛利 并ニ諸方之降人共 寄手乃討死 都合千弐百七拾四人也 城方にて討死の面々は 近藤出羽之介 津戸半右衛門 上久保助兵衛 同兵衛 中山勘ヶ由 松本豊後 狩野一庵 馬場対馬守 同与八郎 高橋雅楽之助 同宇三良 中嶌豊前守 同主計 同五良 安田善左(右)衛門 高幡十右衛門 濱中新吾 綾野木工頭 長野伊豫守 鈴木彦八郎 おなじく庄右衛門 水野藤左衛門 同源七 渡邊伊賀守 同十左衛門 同又兵衛 小林土佐守 志野帯刀 志村将監 星野九八郎 枩田(まつだ)主水 細野彦次右衛門 斎藤三右衛門 同与三郎(高橋与三郎ヵ) 佐藤織部 島崎次良 小野入道 十日市次郎右衛門 嶋崎兵庫之介 同喜内 吉村三左衛門 内田河内守 銀八郎右衛門 目黒与十良 谷部玄蕃 目黒惣九郎 白井喜三郎 筭和泉守 河井二良 山田文右衛門 金子三郎左衛門 持丸彦五良 青木但馬守 鈴木出雲守 大竹隼人 桜井式部 同彦七郎 山田数馬 新野五郎 黒谷小左衛門 青木与兵衛(与三郎) 大彦次郎 大河三右衛門 安石源六 同市右衛門 駿河織之助 平尾藤右衛門 比留間大膳 同じく帯刀 石上新左(右)衛門 熊澤戸三郎 井上冶兵衛 長野讃岐守 内山弥左衛門 酒井次郎右衛門 吉川善左衛門 同与兵衛 笛彦兵衛 浅尾霽五郎 中島源右衛門 尾谷兵部 梶田十良右衛門 望月三蔵 其外平沢 冨沢 窪 長井 増島 中村 朝倉 岡崎 安都城(アトキ) 岩井 大澤ヲはじメとして 忠義鉄石の勇士 おもいおもいに討死しける 中二も 加州之手へ打取首 能武者之首弐十壱 其余三百三十五級 其外毛利 真田 大道寺ヲはじメ 降人江打取首数七十八 ことごとく桶ニ入 首帳に 印済(しるしすませ) て小田原表 秀吉公之本陣へ献ぜらる 殿下秀吉公 御感斜ならずとぞきこへしとなり…」

 相即寺過去帳・大悲願寺・三ッ鱗翁物語に記載された八王子城討死の人々は重複している。そして、多少異なっている所に注意が必要であろう。特に三ッ鱗物語の討死の人々は物語とあるので、その点が今後の研究課題である。そして、これらの人々の中に読者の先祖がおられれば幸いである。


天正十八年(1590)六月二十三日八王子城討死の人々(其の2)

 

 あきる野市横沢にある金色山大悲願寺は、末寺三十二ヵ寺を有した古刹である。建久六年(1154)源頼朝の命により、平山季重が建立したと言われている。この寺の過去帳は『福生市史資料編・中世寺社』の中に公開されている。その過去帳より八王子城で討死した人々を抜粋して記す。

 

村山領奈良橋岸入道平吉家ハ庚寅六月朔ニ拝島領ニテ討死

蓮照禅定門 俗名 高尾備前 天正十八庚寅六月廿三日ニ手ヲイ廾八日ニ死 高尾助六父草花村ニ住ス

道景禅定門 俗名 由木豊前守 天正十八庚寅六月廿三日於八王子城討死 海誉ヵ亡父

西竿禅定門 俗名 由木主水祐 同庚寅六月廿三日於同城討死 西蔵実父

道意禅定門 俗名 高橋孫三郎 天正庚寅六月廿三日於八王子城討死

淨心禅定門 俗名 三内中務 同庚寅六月廿三日於討死

清照禅定門 俗名 飯田新右衛門 同庚寅六月廿三日於八王子城討死 伊奈村住人

憲照信士  俗名 高尾弥八郎 同庚寅六月廿三日於八王子城討死

道円信士  俗名 高尾弥九郎 同年同日於慈根寺城討死 高尾弥八郎ノ舎弟也

 

○中山勘解由○狩野一庵『実名宗円』○近藤出羽○皆同日切腹又、土屋備前 嶋村岩見同形部 森播磨 貴志五良同与市 妙善 妙珍 道源 大悦 左京 知了 西蔵 佐渡 源祐 吉定 宗阿 蓮阿 宗阿弥 五十嵐佐渡 淨金 妙精 高森但馬 能登右京等五百餘人

 

青霄院殿透岳宗関大居士 庚寅七月十一日於相州小田原城切腹八王子慈根寺城主ナリ

俗名北条陸奥守

平氏輝云氏政ノ舎弟也

慈雲院殿前左京北勝岩傑公大居士 庚寅七月十一日於相州小田原同切腹氏輝ノ舎兄小田原ノ城主

俗名北条氏政

道音居士 俗名大森宮内 梅屋道右 俗名小暮将監 普斉淨蓮 俗名畠中丹波 性金居士 俗名中島豊前 道照居士 俗名高尾近江草花村住人 徳改居士 俗名水野豊後 慶俊信士 俗名長野佐渡 道源信士 俗名高森弥三 高尾雪斉『高尾村平山氏』 柴田日向 鹿島田隼人 川口歓喜入道 土屋備前 若森藤佐 同丹後 小机藤太 道雄居士 俗名三内蔵人 道金居士 俗名馬場美濃太郎本ハ当国府中ノ人居住伊那村移住ス上川口村歓喜坊ト孫左衛門トノ父ナリ 已上打死小田原ニテ   


長篠の戦いー戦国の真実を考えるー

 

 近年、「長篠の戦い」は戦国時代の戦法に対する新しい考え方が問われている。我々はともすれば先人の考え方を無批判に受け入れがちである。在野の歴史家、鈴木眞哉氏・藤本正行氏に対する評価は、従来の歴史観に固執する学者達からすれば、自分たちの立場を危うくするものであるから、ことさらに厳しい。新しい考え方を取り入れることは勇気がいることである。自分の頭の中に革命をもたらすようなことは中々出来ない。その点では人間は保守的に出来ているのであろう。自分の考え方を変えることは簡単そうにおもえるがそれが難しいのだ。ましてや人の考えを変えることなどは尚更であろう。

 馬の大きさはどれ位であったろうか。今の競馬のサラブレッドのように大きくない、ポニー程の大きさが、日本の在来種の木曽駒であるという。荷を運ぶには強いが早く走れない、テレビ・映画のように馬の一斉突撃シーン等できないのだ。馬の高さは130cm程らしい。武田・上杉の軍勢に占める馬の割合も10パーセントほどであろうという。これ等から、武田の騎馬隊などなかった。そして、当時の戦いでは「武士たちは馬から降りて戦う」とフロイスは書いている。信長は3000丁の鉄砲を用意していたというのもあやしく、1000丁程であるらしい。「長篠の合戦図屏風」も秀吉が描かせたもので、実際の戦闘は家康が武田を撃破したもので、家康の強さを過少評価させるための秀吉の策略であるという説もある。織田・徳川連合軍6000人、武田家10000人が討死したと云う数字もある。馬は逃げるときには役にたつらしい。この戦では3段撃ちはなかったらしい。名和弓雄氏もこの戦いについて研究されている。

 歴史の真実を知ることは私たちの生活に有益であろう。しかし、戦いの反省などが私たちに役立っこと社会がないことが願いである。机上の空論でありたい。災害はいつやってくるかわからない。北朝鮮のミサイルの先端に核弾頭がつけられて私たちの安全が脅かされそうな今日この頃である。私のブログで中世の研究について「能天気」に書いていられる時が続くことを願うものである。


大石氏ー婿殿達の戦国ー

 

 天文15年(1546)4月の川越城(埼・川越市)の戦いで扇谷上杉氏が北条氏に敗れると大石道俊(真月斎)は北条氏に属し、養子源左衛門綱周は娘(比佐ヵ)と北条氏康の三男藤菊丸を夫婦とし家督を藤菊丸に譲って隠居したと伝えられる。この綱周は憲重(源三・源四郎・源左衛門尉)を称したが、のちに葛西城主の大石石見守となり、永禄4年(1561)の関東幕注文に「一てうのは二葉 大石石見守」と見える人物ではないだろうか。『異本小田原記』には弘治元年(1555)に小田原の海蔵寺で、結城政勝と歌を詠んでいる。

    忘れめや假寐の露の明ぼのゝ消えせぬ雪に庭の卯の花    綱周

 

 綱周の弟遠江守の娘は松田秀信(のち大石四郎右衛門尉)の室となり、下の弟信濃守は松田惣四郎を養子として大石惣四郎(照基)と名乗らせた。大石隼人佐は大道寺が子を養子として一跡を継がしむ(異本小田原記)。この人物は永林寺墓碑に「大道寺小太郎…天正18年6月25日亡」とある人物で、八王子城で深手を負い死亡したと思われる。大石氏はこの聟殿達によって北条氏照の家臣団として組み込まれていった。

 木曽大石系図「八王子市下柚木伊藤家所伝」と芹沢家系図では大石定久には二人の娘があり、伊藤家所伝には「比佐 陸奥守氏照室 」「登志 太田美濃守資正室」とある。「登志」は梶原源太の母であろう。このことから「比佐」については氏照との年齢から考えると、むしろ、定久の養子とされる綱周の娘としたい。そして、大石綱周は大永5年(1525)12月15日の淨福寺再建棟札銘には「大旦那大石源左衛門入道道俊幷子息憲重」とある。遠江守と信濃守が綱周の弟なら、定久との親子関係はどの様に考えたら良いのであろう。以前は氏照も定久の養子としていたのであるが、最近では綱周の養子とする説が有力である。今後の研究課題としたい。

 

船木田庄

 

 八王子市全域と日野市の一部を含む地域(旧豊田・七生地区)に平安期末から、関東の争乱の始まった「上杉禅秀(氏憲)の乱」応永二十三年(1416)までの間は機能が維持されたとされる、藤原氏から東福寺へと領家がつづいた船木田庄という広大な荘園が存在した。九条家家領文書や東福寺文書によれば、摂関家の荘園の歴史は古い記録では「清慎公(藤原実頼)家領文書順孫実資(小野宮流)伝之」と言われている。源頼朝が伊豆で挙兵する直前の治承四年(1180)五月十一日に、古崇徳天皇の中宮皇嘉門院聖子(1122-1181)が甥九条良通と弟兼房に譲った三十九ヵ所の所領郡のうちに、船木田庄と船木田新庄がみえる。建長二年(1250)十一月に船木田庄は本庄と新庄に中文され、本庄は右大臣九条忠家に、新庄は前摂政一条実経にそれぞれ譲与された。南北朝の貞和三年(1364)七月に一条家の船木田新庄は東福寺に寄進された、船木田本庄は至徳二年(1385)に東福寺領になっている。

 八王子市の由木中山の地は野猿峠の真南の多摩丘陵に囲まれた山あいにあり、大栗川の支流の谷戸奥になっているが、ここには平安末期に船木田庄長隆寺という有力寺院があり、現在白山神社のある丘陵一帯に埋経が行われたもののようである。江戸時代の文政年間以来数度にわたって発見され、「東京府史蹟天然記念物調査報告第十冊」として残されている。それによれば十巻の経文は、仁平四年(1154)九月九日より十一日に亘って、僧智弁の勧進の下に、数人によって頓写されたとある。僧智弁は一説によると武蔵坊弁慶の兄弟子であるという。

 船木田庄が八王子市域にあり、仁平四年僧智弁のもとで写経が行われ、小野氏人、清原氏人と書かれた現地の有力者がいたことがわかる。彼らを在地の土豪と考えると、横山党(小野姓)との関係が考えられ、船木田庄の下地で武士団的発展をとげた横山党がこの写経事業に協力したことになる。

 平安期の船木田庄の範囲や規模については不明なところが多いが、多摩川下流の稲毛庄(現川崎市、同じく摂関家領)の平安末期の承安元年(1171)の検注帳を参考にすると、稲毛・船木田庄をほぼ同一条件とみて大胆に対比すれると船木田庄の田地は二百町歩を上回り(稲毛庄は二百六十三町八段)、庄内には寺院・神社があり郷ごとに鎮守社があった。慈根寺もその一つで、藤原氏によって庄内の寺として建立されたと思われる。年貢は絹または麻布で上納したようであるが、絹よりも布であった可能性が強い。庄内にはいくつかの郷があったようで、おそらく川口・由井・椚田その他の郷名は既にあったもののようで、そこに居住した名主たちが、横山党・西党の武士団を形成していたと思われる(八王子市史下巻)。

 船木田庄の中心集落は平山郷で、落川遺跡よりあまり遠くない上流に位置している。在庁官人日奉氏(西党)の有力庶家平山氏の本貫地に想定される場所であり、ここを根拠地としながら浅川を遡って開発していったのがこの船木田庄と言える。古代律令社会の耕地とは異なり、地方の開発領主が重視したのは水利権と、それを掌握することによって確保される勧農権であり、ここにはじめて私営田領主としての農業経営が成立するのである(段木一行著『中世村落構造の研究』)。この船木田庄が現在どの地域に存在していたかを知る手がかりとして「沙弥行恵(藤原道家)家領処分状」によれば、郷は平山・中野・由比野・大塚・南河口・北河口・横河・長房・由木の九ヵ郷、村は豊田・青木・梅坪・大谷・下堀・谷慈・木切沢の七ヵ村 の十六ヵ郷村で構成されていた。

 船木田本庄・新庄には様々な人間模様があった。荘園領主側では船木田庄を号したが、地元や幕府では横山庄の呼称が流通していたと考えられる。その横山庄の主、横山時兼と一族は健保元年(1213)五月七日に「和田義盛の乱」で没落し、横山庄は大膳大夫の幕府宿老大江広元にあたえられた。「承久の乱」(1221)に大江広元の嫡子大江麻親広は宮方に味方し没収され、横山庄は大江姓長井氏へと受け継がれたと思われる。鎌倉幕府の末期には相論が相次ぎ起きていた。天野氏は由比に所領があった。儀海が由井本郷に滞在していたと思われる、文保元年(1317)六月七日の和与によれば、土豪由比氏に養女となって名跡を継いでいた、天野景広・賢茂の妹である是勝が源三郎屋敷などの所有権を主張して幕府から認められた事である。

 「上杉禅秀の乱」後、船木田庄の在地領主たちは領家の東福寺から年貢対捍(たいかん)によって訴えられるという事件が起きている。関東管領(上杉憲実)奉行人奉書に「…平山参河入道・梶原美作守・南一揆の輩、年貢を抑留せしむるの間、有名無実と云々。…」とある。すでに船木田庄は消滅の危機にあった。

 縣敏夫氏著『八王子市の板碑』には「月待板碑」が収録されている。日月、天蓋、光明真言『武蔵名勝図会』に押絵掲載。〔注目すべきは、谷地郷代屋村の廾三人が月待供養の行事をこの地でおこなったことを明示したことである。直接、中世史料になりにくい板碑において中世村落を明記した武蔵板碑の唯一例である。竜源寺近くの谷戸田に沿った小川を谷慈川といい、代屋村は近くの大谷と比定する説もある。関連資料として、「東福寺領、武蔵船木田庄領家方年貢算用状」(延文六年1361)の七ヶ村の中に「谷慈郷 5百文」とみえ、中世において生産性を示唆している〕と縣敏夫氏は記述されている。この板碑には次のように刻されている。

 

 面善圓淨如滿月威光猶如千日月

 月待人数廾三人敬白

    文安五年八月廾三日

 谷慈郷代屋村住人

 聲如天鼓俱

 翅羅故我頂礼弥陀尊

 

 「面(おもて)は善く圓(まどか)にして、淨(きよ)きこと滿月の如し。威光は猶(なお)、千の日月ごとく。聲は天鼓(てんく)倶翅羅(くしら)のごとし。故に我れ弥陀尊を頂礼す」(天鼓=打たずして好音を発する鼓。倶翅羅=インドの美声の鳥)(石井真之助解説)と弥陀尊を礼讃するのもである。なお『板碑概説』では「滿月を彌陀に稱へつゝ、而かも廿三夜の月を拝してゐるのは如何にも無盾である」とのべている。

 

 船木田庄の至徳二年(1385)「年貢算用状」には「大石大井介方一献料」と大石氏が登場する。この谷慈郷代屋村の人々は守護代大石氏に把握された住人であろう。船木田庄の次の時代の始まりである。代屋村の地名はこの板碑以外に確認できない。船木田庄は豊かな荘園であったように思える。また、そのように考えながら、この地を生きている私にとって楽しい毎日であることを感謝する。


戦国残照

 

 伊勢新九郎氏茂入道早雲(あきる野市大悲願寺過去帳)は駿河国守護の今川義忠の正室であった妹の北川殿を補佐して今川家の内粉を調停し、興国城主となり関東への足懸かりをつくり堀越公方を滅ぼし、小田原を手に入れたのは今川氏が室町幕府の関東への抑えとしての軍事行動であったように思われる。早雲の出自は唯の素浪人とされていたが、現在は幕府政所執事伊勢氏の一族が岡山県井原市東方の高越城を拠点にした伊勢盛定の子としてうまれ、青年時代をこの地で過ごし京に登り足利義視に仕えていたというのが定説となっている。早雲の夢は「享徳の大乱」以来の関東の戦乱を鎮め、ゆくゆくは上杉氏に代わって関東管領として古河公方を補佐することであつたろう。子の氏綱が北条姓を名乗ったのもそのためであろう。北条氏は鎌倉八幡宮の再建にも力を注いだ。氏康・氏政・氏直と五代にわたり百年を通じて今川家との間には友好関係が続いた。今川家が滅びると氏真を受け入れている。

 朝倉氏が百年で滅びた過程と北条氏もよく似たところがあるように私は思っている。織田家との間は比較的に良好であったが秀吉とのパイプがなかった。氏政は時代に適応できなかった。それは、弟の氏照と子の氏直の家臣団の対立を調整できなかったことであろう。氏照は古河公方の権威を背景に北関東に進出してゆき、北条家のナンバー2となり、氏照は陸奥守を正式に受領している。今や、北条氏の研究はこの氏照を中心となっている観がある。

 天正の初年の北関東の戦いは佐竹氏側の多賀谷氏と北条氏側の岡見氏との代理戦争であった。小田氏に替って竜ヶ崎地方を抑えた岡見氏はもともと小田氏の一族であった。天正六年頃、この岡見氏の消息を知る氏照の書状がのこされている(岡見文書)。やがて岡見氏は北条氏の家臣化してしまい、北条氏が滅ぶと結城秀康に仕える。結城秀康に仕えたのはこのほかにも、梶原美濃・由木左衛門尉景盛・大石照基(松田松庵)・小田氏冶・守冶親子がいる。岡見文書は江戸時代に整理せれたようで、その中に岡見氏系図がある。そこに、次のような記載がある。

 

○某 岡見五郎左衛門(常陸国河内郡牛久新地城主、子孫新地ニアリト云、)ー女子 常陸国河内郡岩崎城主 大石四郎左衛門某妻・女子 小田原北条家ノ士、大藤兵部某妻

 

○朝冶 小田源太郎、肥後、亨禄二年己丑年小田城内ニテ生ル、故有テ母トトモニ小田ヲ出テ、相州小田原ニ走リ、北条家ニ奇食ス、天正十年壬午十月十三日卒、五十三歳ト云、-朝家 小田源太左衛門、父ト俱ニ北条陸奥守氏照ニ属ス、北条家滅亡後、松平薩摩守忠吉卿ニ仕、卿逝去ノ後、元和四年中山備前守信吉ノ薦ニテ、水戸頼房卿ヘ奉仕、子孫水戸ニアリ、

 

 下山冶久編『後北条氏家臣団人名事典』に次のようにある。

 おだの〔小田野〕 武蔵国多摩郡別所村(東・八王子市)など小田野地区を本貫とした地侍。別所の教福寺が菩提寺。『新編武蔵』多摩郡別所村教福寺の小田野肥後守定久墓の条には「八王子城主北条氏照が家人なり、流浪の後当所に住し、元和二年七月六日寂せり、法諡を白月斎葉山道秋と云、その子源太左衛門は当寺を起立せしよし、この人後に水戸殿に仕え野をのぞき小田と称せり」とみえ、村内の稲荷社は小田野源太左衛門の鎮守。

 

 小田野源太左衛門が小田氏となった背景には、もともと小田氏の出自であったことによると思われる。水戸家の附家老中山氏には多くの氏照の旧臣が仕え八王子衆とも呼ばれていたが、何故か禄を離れている人々がいる。よほどの事情があったのであろう今後の研究課題としたい。


上杉顯房由井(八王子市)自害

 

 『続群書類従』所収、巻百五十三 上杉系図に次のような記載がある。

  上杉顯房 弾正少弼修理大夫 康正元年(1455)正月二十四日。為成氏於由井自害。長源院道光。年二十一.

  

  小山田定頼 小山田三郎左馬助扇谷名代ー小山田藤朝 八郎於夜瀬。顯房同討死

 

 上杉顯房の自害の地については、「三鷹市の夜瀬」「入間市金子の夜瀬」の説があるが、峰岸純夫氏は八王子市の「由井の夜瀬」とされている。 由井は中世多摩の中心地であり、大石氏にとって重要な拠点であったと思われる。八王子市諏訪町の諏訪神社がある一帯には中世の宿があったと推定され、諏訪宿と呼ばれていた可能性がある。近世の宿と中世の宿は大分違うので注意されたい。

 『八王子市の板碑』縣敏夫著の288頁によれば、四谷町の四谷会館・諏訪町の諏訪下町会館・大西昌三家角等には宝篋印塔・五輪塔が多数ある。その中で大西昌三家によって今も守られている五輪塔は、上杉顯房のものではないかと私は考えている。大西家の言い伝えに「この辺り一帯には八王子城合戦の時のものではなく、武者の屍が累々としていた」とある。

 享徳四年(1455)の時点で、歴史上に登場していた人々の年齢は意外と若い。将軍、足利義教41歳、足利義政19歳、この年義政の正室となった日野富子は16歳であった。管領細川勝元26歳、鎌倉公方足利成氏17歳、関東管領上杉憲忠22歳、上杉顯房21歳である。この年、扇谷上杉の家宰太田資清の子資長(道灌)は家督を継いでいる。23歳であろう。伊勢新九郎(北条早雲)はどこにいたのであろうか、まだ歴史上に登場していない。

 永享の乱後、鎌倉公方なき関東府は、扇谷上杉の家臣太田道真と、山内上杉の家臣長尾景仲らが中心となって、上杉憲忠を関東管領に立てて運営されていた。文安五年(1448)頃、持氏の遺児永寿王丸が、信濃から鎌倉に帰還して、翌年成氏と名乗り、鎌倉公方となった。旧持氏近臣らが、幕府に運動した結果であった。しかし成氏の関東における権限は、足利基氏から持氏まで四代かけて拡張した権限より遙かに小さかった。旧持氏近臣らは、永享の乱で失った所領の回復を成氏に期待し、上杉老臣らと対立しはじめた。しかるに享徳二年(1453)と推定される幕府管領細川勝元書状は、成氏が京都に要求することは、すべて関東管領山内上杉憲忠の副状を必要とすると決然たる幕府の意向を伝えている。幕府による関東管領を通じての関東支配の方針に反発する成氏と成氏派は、上杉氏討伐に直進した。享徳三年十二月二十七日、成氏は上杉憲忠を謀殺した。享徳の大乱の勃発である。成氏は翌年正月五日、鎌倉を出発して下総古河へむかい、その途次、正月二十一、二十二日に武蔵立河原(東京都立川市)・分倍河原(東京都国立市・府中市)で上杉氏と戦った。当主を失った上杉氏の対応はおくれており、この戦いで負傷した扇谷上杉顯房は二十四日に夜瀬で自殺した。この時相模守護であったと推定される。さらに上杉氏の重臣大石房重は戦死し、同族重仲も負傷して二十五日に死亡した(入間市史)。

 大石房重が康正元年正月に死亡したことは、京都聖護院の門跡道興が、文明十八年(1486)に関東を巡歴した紀行文の『廻国雑記』で証明される。道興は翌十九年に大石信濃守(顯重)の父三十三回忌にあたり、小経を花につけて贈り、「散にしは三十みとせの花の春 けふこのもとにとふを待覧」との和歌をそえた。

 

慈根寺(八王子市元八王子町)の成立と元杲(げんごう)

 

 慈根寺(八王子市元八王子町)は藤原氏の京家の出自である元杲権大僧都〔正暦三壬辰年(992)没。寿八十二〕によって開山され、正暦頃(990-995)にはあった寺であるという(『武蔵名勝図会』)。慈根寺は船木田庄内に藤原氏の寺として創建されたものと思われる。船木田庄は当時、藤原実頼〔昌泰三年(900)ー天禄元年(970)〕から藤原実資〔天徳元年(957)-永承元年(1046)〕と受け継がれた藤原氏の荘園であった。荘園内には、由比牧・石川牧・小野牧があり、慈根寺は由比牧に近接していたと思われる。そして、推測であるがその成立には「将門の乱」の調伏が大きく関係しているのではないだろうか。

 元杲の兄も僧である。大僧都元真、号延明院。元杲は舎兄弟子号筑紫僧都(尊卑文脈)。元杲の父は雅楽助藤原晨省。

 祖父は従五位上掃部頭藤原貞敏、大同二年(807)-貞観九年(867)の人で参議藤原浜成の孫。刑部卿藤原継彦の六男。若くして音楽に耽愛し、好んで鼓琴を学び、琵琶に巧みであった。承和二年(835)美作掾の時、第十七次遣唐使准判官に任ぜられ、長安で琵琶の名手劉二郎(一説に廉承武)に砂金二百両を贈り流泉・啄木などの妙曲を学んだ。帰国に当り譜数巻と琵琶二面(玄象・青山)を贈られた。承和六年(839)八月十五日に帰国した。この遣唐使船に請益僧である円仁と留学僧円載がいた。円仁撰の『入唐求法巡礼行記』には藤原貞敏についての記載がある。元杲と元真の両人が僧となったのには、この祖父の影響よるものが大きいと思われる。

 元杲は勧学院(藤原氏の大学別曹または諸大寺院が建てた学校)に学んだ後、醍醐寺の元方に師事して出家、また一定・明珍らに学んだ。淳祐・寛空に潅頂をうけ、安和元年(968)内供奉十禅師・東宮護持僧となった。天元四年(981)権律師、天元六年(983)権大僧都に至った。真言宗の小野・広沢両流に詳しく「具支潅頂儀式」など多くの書物を著し、また祈雨法を修して霊験があったという。自伝として「元杲大僧都自伝」(続群書類従所収)を残している。

【淳祐】〔寛平二年(890)から天暦七年七月二日(953年8月1日)〕は、平安時代中期の真言僧。父は菅原道真の子菅原淳茂。 般若寺の観賢に師事して出家・受戒し、延長三年(925)に伝法潅頂を受けた。真言小野流の方を継いだが、足に障害があり病弱であることを理由に醍醐寺寺主を辞退する。その後石山寺普賢院に隠棲した。普賢院では多くの書物を著し、真言密教の事相の発展に寄与した。延喜二十一年(921)十一月、師・観賢が醍醐天皇の勅命により高野山奥の院御廟を訪れたとき、共に御廟に入り弘法大師の膝に触れたといわれる。その際、妙香の薫りが手に移り、一生消えることがなかった。またそれにより、淳祐が書写した経典にも同様の薫りが移った。これを「薫の聖教」という。淳祐の異色の弟子に、天台座主良源がいる。この良源と元杲は同門で親しくなり、他宗でありながら晩年にいたるまで長い交友を続けた。


    儀海

 

 日野市高幡不動尊金剛寺の中興開山権少僧都儀海は鎌倉期の弘安2年(1276)から文和3年(1354)までの生涯の大半を新義真言宗教学の研鑽に情熱を捧げた僧である。儀海の足跡は奥州小手保の甘露寺、下野小山の金剛福寺、常陸亀隈の成福寺、武州横河の慈根寺、同じく長楽寺、相模鎌倉の大仏谷や佐々目、山城醍醐の三宝院、紀州高野山金剛峯寺、同じく蓮華谷の誓願院、紀州根来の大谷院、同じく豊福寺中性院など各地の談義所を繰り返し訪れている。

 儀海についての研究は櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』正・続、細谷勘助氏「儀海の布教活動と中世多摩地方」(『八王子市郷土資料館紀要第一号』)、高幡不動尊金剛寺貫主川澄祐勝氏「儀海上人と高幡不動尊金剛寺」(『多摩のあゆみ』一〇二号平成13年)などがある。それらの著述の基となるのは昭和10年の黒板勝美編『真福寺善本目録』正・続二冊である。現在は智山伝法院編『大須観音真福寺文庫撮影目録上・下巻』(平成9年3月31日発行)がこれを補っている。

 名古屋市大須の真福寺開山である能信は、その伝に「赴東部、謁高幡不動儀海和上、探中性一流之源底、今吾寺武蔵方是也」とある。師主儀海は事相二教の達人で、法脈を「虚空蔵院儀海方」と称し、それは能信に附法され「武蔵方」と言われる。儀海が諸地域で書写した密教経典は能信をはじめとする弟子たちによって書写され、この写本を通じて、また各地方に転写されていったので教学は関東のみならず、広く広範囲に伝わることとなった。また、能信は真福寺を開くにあたり、自ら書写したものを含め、多くの経典を名古屋へ移したが、それはまとまった形で今日に伝えられている。それゆえ私たちはこの経典の奥書を通じて、儀海の行動を知ることができるのである。

 拙稿の儀海についてはそれぞれ次の論考を参考にされたい。

「真言僧儀海の足跡」は「shingonsou-gikaino-sokuseki.doc」をダウンロード

「儀海史料」は「gikai-shirixyou-shiriyou.doc」をダウンロード

「儀海史料真福寺文庫撮影目録(上・下巻)解説は「gikaishiririyoukaisetu.doc」をダウンロード

「儀海年表」は「gikai-nenpiyou.doc」をダウンロード

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「歴史二十三夜話」 @19643812

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