「忠直暴走」
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第1話
『忠直暴走』
清水太郎
はじめに
慶長十七年(一六一二)十月十九日、北庄藩越前松平家第二代藩主松平忠直は前日の久世但馬守・半兵衛親子の討滅に続いて「弓木左衛門入道齋安といへるも、但馬が党人なりければ、これをも誅せよ」と藩兵を繰り出した。徳川実記には次のように記されている。
台徳院殿御實記巻二十 慶長十七年十一月―十二月
「……討手の者ども多勢塀を乗越攻いれば。但馬は其ひまに女子子兒をばみな落し。其身主従百餘人討手とたゝかひ。家に火をかけことごとく討死す。本多を但馬がもとに使せられしも。但馬がもとにて本多かならず討れんとの謀なりしとぞ。其翌日弓木左衛門入道齋安といへるも。但馬が黨人なりければ。これをも誅せよと討手をさしむくる。こゝにも家人等よく防ぎ。寄手三十餘人を討取て。主従のこらず討死す。上田主水も自殺し。其家人等も寄手多く討取て。其身もみな討死せり。……」
このとき藩内は戦乱状態に陥り、死者は三百余人にも及んだと言われた。世に言う「越前騒動」である。この弓木左衛門入道齋安こそが、北条陸奥守氏照に仕え、北条氏滅亡の後に徳川家康の二男結城秀康に仕官し、二千石を賜わり、その出頭人となった弓木左衛門尉景盛であった。それは八王子市上・下柚木附近を拠点に中世を生き抜いてきた「土豪」由木氏の最後であった。
一 越前騒動の顛末
北庄藩越前松平家第二代松平忠直は、父秀康の病死に伴って慶長十二年(一六〇七)十三歳にして藩主に就任した。秀康は全国から名ある武人を召し抱えたが、幼年の忠直には、家来を充分に統率することができなかった。とくに慶長十六年(一六一一)、久世但馬守の所領する村の娘が同じ村の百姓と再縁(岡部自休入道という町奉行の所領である石森村の百姓と結婚していたが、石森村の百姓が佐渡へ行って三年間を過ぎても帰ってこないため、ご定法に基づいて他に嫁した)した後、石森村の百姓が佐渡から帰ってきて、今の亭主を殺してしまった。自領の百姓を殺されて立腹した久世は、家来に佐渡がえりの百姓を暗殺させた。この私粉を発火点として、藩内は岡部方(岡部自休入道・広沢兵庫・今村掃部助・中川出雲守・谷伯耆守・清水丹後守・林伊賀守)と久世方(久世但馬守・竹島周防守・牧野主殿・本多伊豆守・由木西庵・上田隼人)の二派に分ける抗争に発展した。今村掃部助(岡部方)の讒言を信じた松平忠直は、慶長十六年十一月藩兵を繰り出して久世但馬守・半兵衛一族を討滅したが、合戦同様の争乱は幕府にも聞こえた。同十七年十一月、幕府は本多伊豆守・竹島周防守(以上久世方)、今村掃部助・清水丹後守・林伊賀守(以上岡部方)の五名を召喚して、本多伊豆守・今村掃部助の両名が家康・秀忠の面前で対決させられ、裁断を仰ぐこととなり、本多佐渡守正信が尋問役になって、今村掃部助・本多伊豆守を尋問した。結果は、久世但馬守をひいきにした本多伊豆守・竹島周防・牧野主殿の三人は無罪となり、岡部自休にくみした連中(今村・清水・林・中川・広沢)は全部有罪とされた。今村掃部助らが家中の紛争をとりしずめようともせず、自らの利益のために火の手をあおり立て、久世但馬守を成敗した上に本多伊豆守を窮地におとしいれて殺そうとした陰謀を家康(家康の二男秀康が久世但馬守を誇っていた)が起こったことは容易に想像できる。本多伊豆守の派を勝ちとしたのは、伊豆守が自分の大忠臣であった本多作左衛門の養子で、骨髄からの徳川党であるためとも思われる。こんなわけだから、家康の下した判決は善悪を証明するものとはいえないようである。この騒動は、別名「久世騒動」ともよばれている(「奥山芳広」)。
忠直の逸話(忠直年譜)
この年(慶長十七年)老臣争論の事について裁断があった。はじめは家老久世但馬守の知行地の民、某(甲)が、故あって町奉行岡部自休の知行地の民某(乙)を暗殺した事が発端であった。そののち、この事件がやっと表沙汰になったとき、この乙の親族が知行主の岡部自休に訴えた。自休はこの事を久世但馬に伝えて犯人の引き渡しを求めたが、但馬は本多冨正・竹島周防守などと協議した結果、犯人を匿い、事件を握りつぶしてしまった。自休は今村掃部助・清水丹後守・林伊賀守らと相談し、中川出雲守から忠直公のこの一件を訴えたが、本多冨正と竹島周防はこのことを忠直に上申しなかった。自休は大いに怒り、「今奸計のために私が訴えても(忠直公の)お耳に入らない。私はこの事を関東に訴え、また家老共の悪を暴いてこの恨みをはらす」と語って直ちに江戸に向かって発足した。牧野主殿助も加勢として従った。忠直公はこの事を耳にし、人を遣わして両人を留め、「このような小事で関東の裁判を仰ぐには及ばない。直ちに戻って但馬と対決すれば、非理は明らかになるだろう。」と論した。両人はこれを受け入れてそうならば何を求めるであろうか、と帰還した。牧野はすぐに高野山に登って悌髪して入道した。忠直公は既に但馬に対して、速やかに対決するようにと命ぜられていたが、但馬は敢えて命に従わず、そのため誅伐をうける事となった。今村・清水・林らはかねてより本多冨正と仲が悪く、この時に乗じて久世と本多が並んで没落することを望んだので、忠直公に対して「今、久世を征伐するのは本多に勝るものはおりますでしょうか。この度の討手は伊豆(冨昌)にお命じになさりませ」と申し上げた。忠直公はすぐに冨昌を召したが、冨昌は危険を感じて府中城を離れなかった。冨昌は人質を賜ることを望み、人質が渡された後に初めて召しだしに応じて北庄城に参上し、十月十八日、命をうけて久世邸に行き、従者を門の外に待機させて但馬と会談した。会談は終わり冨昌が帰ろうとするとき、久世家臣の木村八右衛門が冨昌を殺害しょうとした。但馬はこれをとどめ、「私の最後は今日目前に迫っておる。私の死後、私の存念を語ることができるのはただこの人を頼るのみである。決して手を動かしてはならぬ。」と固く制した。そのため冨昌はわずかのところで免れて門外に出、備え置いた家臣を進めて久世の屋敷に攻め囲んだ。久世方の婦女や老人・子供は前夜全て脱出していたので、精鋭の家臣百五十二人が力を尽くして防戦した。寄手は先を争って攻めたが、屋敷を陥れることはできなかった。翌日になり、但馬は自ら火を放ち、その中に自害して果てた。久世但馬の家臣は討死、あるいは自害して一人も生き残るものはなかった。また、寄手の討死は二百七人出たということである。十九日、忠直公は青木新兵衛入道芳齋・永井善左衛門安盛を使者に立てて弓木左衛門入道齋安と上田隼人に死を賜わった。二人は自害し、家臣は皆戦って討死するものがすこぶる多かった。竹島周防は久世党の頭目であったので、刀を取り上げて北庄城の櫓の中に監禁した。ここに至ってこの越前国内の動乱が関東に聞こえたため、閏十月十八日、書状を遣わして本多伊豆守・竹島周防守を召しだした。今村掃部助・清水丹後守・林伊賀守は本多冨昌が勢いを得てますます権勢を増すのを嫌い、本多らに召しだしの書状が来たのも知らずに三人で大御所(家康)に訴えるべしと、駿府に至った。この時、家康公は猟りで江戸に入ると聞き、江戸に行き武蔵国忍城下で訴状を家康公に提出した。そのとき、既に本多・竹島も召し出しに応じて忍城下に参上していた。たまたま土井利勝が将軍秀忠公の使者として忍城に来ていたので、家康公は利勝に命じて越前諸士の訴えを聞き届けさせた。利勝は今村掃部などの旅館に来て本多などを呼びだし、自らは中央に座して両党を左右に列座させ、訴えの内容を詳しく聞き出して逐一書面に記録し、夜半になってやっと利勝は忍城内に帰ってこれを報告した。家康公は二三行ばかりご覧になって、「この事は江戸で将軍と共に聞こう」とその書面を再び利勝に戻した。十一月二十七日、江戸城西の丸において、家康公・秀忠公は諸士の訴えをお聞き遊ばされた。本多冨昌は「岡部自休が訴える内容としては、私はもとより自休側にその理があると知っていましたが、久世但馬は武名の高い宿老、今農民の訴えにより処罰する事を見るに忍びませんでした。そのため久世の側に立って自休の訴えを聞き入れませんでした。」と述べた。竹島周防に対しては、なぜ先の主人(秀康)の恩を忘れて、幼い主君を軽蔑する但馬に組したことはどのような考えがあってのことか、という質問が発せられた。周防は「私はいままで但馬と親類に縁もなく、交際もありませんでした。ただ、考えると先君(秀康)が越前にお入りになったはじめに、秀康公は『私は国を得て喜んだことが二つある。一つは北陸の要地に拠ることになったことと、二つは有名な士である久世但馬を家臣に迎えることが出来たことである。』と仰って、但馬が佐々成政に仕えて功名が特に多かったことを感心されて他の家臣に比べて厚遇なさいました。先君がこのように愛した人物であったため、私も特に尊敬する心を持っておりました。そのため理非を論ぜず但馬に与して自休の訴えを拒んだことは先君の恩をお慕いする余りに起こったことでございますのでこのために罪を得て重罪になるとも全く悔いることはありません。」と述べた。
その他、諸士の訴えた内容をつぶさには載せないが、私(筆者)が事情を勘案して考えると、久世・本多が権勢を増し、他の同輩を軽蔑する等のことがらを挙げて嫉妬の心から出たことであるので、家康・秀忠両公の考えを動かす者はなかったようである。翌二十八日、今村掃部助・林伊賀守・清水丹後守を処罰し、丹後は仙台伊達正宗へ、伊賀は上田真田信之へ、掃部は岩城鳥居忠政へお預けと決まった。本多伊豆守は今後益々忠誠を誓って国務を指揮し、竹島周防守は今まで通り政事の合議に参加すべき旨を命じられ、各々越前に帰国した。周防は途中駿河鞠子の宿で自殺した。これは以前、城内の牢に入れられて、江戸に行くときも檻のついた車に乗せられたことを恥じ、再び人に対面することが出来ない、との考えからであるという。
旧記に記すには、今村以下の罪を断ぜられてのち、大御所は本多伊豆を召しだして直に厳しく譴責なさった。伊豆はこのことを秘して人に告げなかった。そのために他の人はこのことを知らなかった。
慶長十九年から翌年元和元年(一六一五)の大阪冬の陣・夏の陣に忠直は総数一五〇〇〇余りの兵を率いてこれに参戦した。ことに夏の陣では真田幸村を討ち取った。しかし、両陣の恩賞への不満から乱心したと言われ、元和九年(一六二三)に豊後に配流された。
結城家法度は下総結城の領主結城氏の法典である。弘治二年(一五五六)結城政勝(秀康の養父晴朝の叔父)が制定した。その前文と第三条にはすでに越前騒動の根源があるように思える。
(前文)
そなたたちも御存知のように、(我が身は)老年である上に〔当家にとっての重大事が〕五年にも及び、一日として心の休まることがない。人並の遊山や宴会といった気晴らしさえ好まない性格なので、ましてめんどうな訴訟の裁決などは、もっと〔身にこたえる。〕(こうしたことで)不養生をしていては、命が縮んでしまうものである。その上、当家の〔重臣は、私の裁決について不満な〕時は、道理にあうのあわないのと陰でささやいている。〔ところが一方では、〕あるいは自分の身にかかわること(であるためか)か、親類縁者の訴訟となると、白を黒と言いくるめる。親類縁者または指南そのほか頼もしく思われようとするのか、実際には死ぬ気もないのに目をむいて、刀を抜く様子を見せて、無理を通そうとする。同僚もそれほど多くない中で、(このようなそれに)似つかわしくないさしでがましい行為は、理由があるにしても頭の痛くなることである。このような状態であるので、私個人として、法律を決めた。そなたたちもそのように心得られよ。この新法は、〔代々の当主が〕行ってきた政治、また私が前々より行ってきた裁定を〔まとめたものである。〕今後この法律に随わず、勝手にものを言うような者〔があってはならぬ〕。(そのようなことは、)当家に不忠をはたらき、〔全体の秩序を〕破壊し、(結城氏支配の)重要拠点を奪おうとする行動であろうか。この法律にそむかれた方には、誰であろうともかまわず、軍勢を派遣し、誅伐を加えることにする。(今は)平穏を保っている時(なので)、そなたたちの心得のために条目として明文化したのである。後世に至るまで、この法律に従うべきである。
第三条 ちょっとした喧嘩口論など、どんなことでも、親類縁者を説得して仲間に引き入れ、一ヵ所に集まって徒党を組んだりする者どもは、どちらに理があるにせよ、まず徒党を組んだ方を罰することとする。心得られよ(徒党を組むことの禁止について)。
○越前騒動における由木左衛門景盛に関係する越藩の資料は次のものである。
『国事叢記 一』
武州由木左衛門源利重男
由木西菴武州産。始、左衛門二千石。慶長十七壬子年十月廿一日御成敗。学翁道徹。
墓 淨光院在り。
『續片聾記 二』
御成敗 出頭人 同二千石 由木西安
御成敗 御祐筆 同六百石 上田隼人
『越藩史略 巻之三』
○二十一日攻めて由木西安、上田隼人を滅ぼす(磐城曰、藩翰譜云、二十日弓木左衛門はらきつて死す、寄手うたるるもの三十余人、上田隼人、竹島周防守自害して一族郎党を助く)由木西安は武蔵の人、始は左衛門、秩二千石、上田隼人は遠江の人、仕えて祐筆となる、秩六百石、但馬の親戚なり。
『結城秀康給帳』
由木源左衛門 三百石 伏見御共番衆・(大小姓)生国・本国 武蔵
由木左衛門 二千石 伏見御共番衆・(大小姓御詰衆)・生国・本国 武蔵
「忠直年譜」=「西厳公年譜」(逸話集)―久世騒動(その一)
*台徳院殿御實記巻二十(徳川実記)
*『江戸幕府役職集成』によれば二千石の軍役は次のようである。
侍八人、立弓一人、鉄砲二人、槍持五人、手明一人、甲冑持二人、手替一人、長刀一人、草取一人、挟箱持二人、手替一人、馬の口取四人、沓箱持二人、雨具持一人、押足軽二人、小荷駄四人の計三十八人
二 大悲願寺過去帳について
あきる野市横沢にある金色山吉祥院大悲願寺は、かつて末寺三十二ヵ寺を有した古刹である。建久六年(一一九五)源頼朝の命により、平山季重が建立したといわれている。この寺の過去帳は『福生市史資編・中世寺社』の中に公開されている(四五九頁以下)。戦国期の当地域の貴重な資料でもある。その四七七頁に本稿執筆のきっかけとなった次のような記載がある。
西安信士 同壬子十月廿一日俗名弓木左衛門 北条陸奥守家中也
俗名景盛行年七十歳 於越前国切腹ス
西傾信士 同壬子同日 俗名弓木源左衛門云弓木左衛門子息
也切腹ス
妙法信女 同壬子同日 弓木左衛門妻
妙珠信女 同壬子同日 弓木源左衛門妻
(同壬子は慶長十七年)
この過去帳には由木一族の霊名が各所に記されている。それはこの寺の住持であった海譽法印が多摩郡由木郷の住人由木豊前守の子で、増上寺観智国師とは伯姪の間柄という関係であったからである。
*大悲願寺過去帳の一部を抜粋して次に記す。
高野山宝生院「宥快」法印 応永廿三年丙申七月十七日報命七十二而化寂
『小田原北条ノ元祖』
伊勢新九郎氏茂入道早雲 永正十六年己卯八月十五日寂滅
『早雲殿天岳瑞公大居士』
存孝禅定門 俗名由木豊前守 天文九庚子年 増上寺十二世源誉上人実父
見仏清信尼 天文廿二年癸丑三月十五日 由木隼人興真ノ亡妻左衛門景盛之 母 武州府中高橋氏之女也
栄仏禅定門 俗名由木加賀守 元亀三壬申 由木隼人興真之実父
当国府中花蔵院ニ葬之
法性院機山信玄禅門 天正元癸酉四月十二日 武田信玄ハ参州野田村ノ合戦ニ中鉄砲ニ帰リ陳田口村ノ福禅寺ニ死ス
妙光禅定尼 天正二甲戌三月十七日 由木隼人介興真ノ母ヲキサ子「実全」律師天台宗府中安養寺住 天正四丙子七月七日 当寺住海誉上人俗性之舎兄
妙鏡信尼 天正五丁丑六月七日 当寺住海誉上人妹也於武州府中逝去也
『墓所在当国府中花蔵院』
奥真信士 俗名由木隼人行年七十三歳 天正六戌寅二月廿五日 当寺住海誉之母方ノ祖
ジゴヂノシロッキハシム 父也歌道之達者ナリキ
越後国上杉輝虎入道長尾ノ謙信寿四十九死 天正六戌寅三月十三日逝去 上杉三良景 今 本名 虎ノ養父也
『神護地城築始』当国於油井領神護地山ニ三月比ヨリ新城築始ム横山領ノ古城ヲ移サントスル沙汰ナリ
妙香信尼 天正七己卯 海誉祖父方西蔵ノ姉
玉清大姉 於金色山墓所立宝鏡印石塔 天正八庚辰四月四日 近藤出羽守(介)姉
俗名由木 江戸増上寺源誉上人 『□□信□ 天正九辛巳五月朔日 先祖ノ父
「道竿」信士 俗名由木加賀守 天正十壬午九月六日 府中之由木左衛門ノ亡父
妙珍信女 由木隼人ノムスメ 天正十一癸未正月十九日 高橋甚三郎女房
妙心信女 由木加賀守ノ妻 天正十三乙酉亡日未詳
妙菊信女 由木左衛門旧妻 天正十三乙酉亡日未詳
妙正信女 天正十五丁亥八月十七日 府中ノ高橋新十郎ノ母也
妙空信女 来由木隼人ムスメ 天正十六戌子八月十三日 鹿島田与七郎母公
性金庵主 俗名平子左近将監 天正十六戌子八月十七日 海誉上人父方ノ祖父(ヂイ)
秀吉将軍関東下向 天正十八庚寅三月朔日発足之由弐拾五万騎上杉越後守宰相中将景勝羽柴筑前守前田利家両人ハ其勢三万余騎にて二月十六日に本国を打立て木曾路より下向して関東の諸城せむる風聞承を十月ノ日ニ松枝城候由
妙秀禅定尼 由木豊前妻興真娘 天正十八庚寅三月十七日寂『大悲願寺住僧』海誉母公
大将軍秀吉公三月廿八日ニ伊豆国三島宿江御着陣廿日より箱根之山中城をせめ給城主松田兵衛胎太夫切腹 四月朔日にハ徳川家康公先陳にて箱根山を打越て半腹畑の宿の上下に陣取同二日ニ小田原之城を取巻ときの声あげて攻始め五月中旬比堀際迄攻寄候由
村山領奈良橋岸入道平吉家ハ庚寅六月朔日ニ拝島領ニテ討死
越後守宰相中将景勝 八王子城攻給節当山江従大将 羽柴筑前守利家殿 禁制状被下之候早
奉行木村常陸介殿
蓮照禅定門 俗名高尾備前 天正十八庚寅六月二十三日ニ手ヲイ廿八日ニ死 高尾助六 父草花村ニ住ス
道景禅定門 俗名由木豊前守 天正十八庚寅六月廿三日於八王子城討死『大悲願寺住僧』海誉ヵ亡父
西竿禅定門 俗名由木主水祐 同庚寅六月廿三日於八王子城討死 西蔵実父
道意禅定門 俗名高橋孫三郎 天正十八庚寅六月廿三日於八王子城討死
淨心禅定門 俗名三内中務 同庚寅六月廿三日於八王子城討死
清照禅定門 俗名飯田新右衛門 同庚寅六月廿三日於八王子城討死 伊奈村住人
憲照信士 俗名高尾弥八郎 同庚寅六月廿三日於八王子城討死
道円信士 俗名高尾弥九郎 同年同日於慈根寺城討死 高尾弥八郎ノ舎弟也
○中山勘解由○狩野一庵『実名宗円』○近藤出羽○皆同日切腹又土屋備前嶋村岩見同刑部森播磨貴志五良同与市妙善妙珍道源大悦左京知了西蔵佐渡源祐吉定宗阿蓮阿宗阿五十嵐佐渡浄金妙精高森但馬能登右京等五百人余
青霄院殿透岳宗関大居士 俗名北条陸奥守平氏輝云氏政ノ舎弟也
庚寅七月十一日 於相州小田原城切腹八王子慈根寺ノ城主ナリ
慈雲院殿前左京北勝岩傑公大居士 俗名北条氏政 庚寅七月十一日庚寅七月十一日於相州小田原同切腹氏輝ノ舎兄小田原ノ城主
道音居士俗名大森宮内 梅屋道右俗名小暮将監 普斉浄金俗名畠中丹波 性金居士俗名中島豊前 道照居士俗名高尾近 江草花村住人 徳改居士俗名水野豊後 慶俊信士俗名長野佐渡 道源信士俗名高森弥三 高尾雪斉『高尾村平山氏』 柴田日向 鹿島田隼人 川口歓喜入道 土屋備前 若森藤佐 同丹後 小机藤太 道雄居士俗名三内蔵人 道金居士俗名馬場美濃太郎本ハ当国府中ノ人居住伊奈村移住ス上川口村歓喜坊ト孫左衛門トノ父ナリ 己上打死小田原ニテ
道珠信士 俗名三内蔵人 天正十八庚寅八月八日死於八王子手ヲイ帰リテ死ス
道法禅定門 俗名由木式部 文禄三甲午三月十三日於江戸切腹房子父
暁月宗永信士 慶長十六辛亥六月二日 俗名由木弥之助於越前国逝去
西安信士 俗名景盛行年七十歳 慶長十七壬子十月廿一日 俗名由木左衛門北条陸奥守家中也於越前国切腹ス
西傾信士 同壬子同日 俗名由木源左衛門云由木左衛門子息也切腹ス
妙法信女 同壬子同日由木左衛門妻
妙珠信女 同壬子同日由木源左衛門妻
観智国師「源誉」大和尚『世寿八十』 元和六庚申十一月二日江戸増上寺十二世由木豊前守子息 勅許賜法印当山中興「海誉」大和尚上人鏡意坊 寛永十一甲戌十月三日戌刻入滅在住五十歳世寿八十余也『当国府中由木豊前ノ子息ナリ』
*由木豊前守室の墓 慶友社版『武蔵名勝図会』四六一頁上段「墓碑 近藤出羽介の姉にて、由木豊前守室、当寺住寺法印海誉の実母なり。法号は寺の過去帳に載せたり、文字は剝滅して見えず。観音堂の西の丘地にあり」。
三 由木氏
○由木氏は八王子市上柚木・下柚木・南大沢辺を拠点に鎌倉時代から戦国時代までを生きた武士。源姓。中興系図に「由木 源、本国武蔵由木、左衛門尉利重・之を称す」とある。
本来鎌倉時代の由木郷には横山党系の由木氏と日奉氏(西党)系の由木氏がいたと思われるが、本稿の由木氏との関係は不明である。
○由木豊前守は土屋備前守軍役人數書立(年月不詳)に「由木」とあるが、天正十八年六月二十三日、八王子城で討死した、由木豊前守(道景禅定門)であると思われる。由木主水佑(西竿禅定門)も共に討死しているが、主水佑には、子の西蔵とその姉(妙野禅尼)がいる。主水佑は由木備前守の子か、兄弟であると思われる(大悲願寺過去帳)。
天正五年十一月七日北条氏照朱印状(網代友甫氏所蔵文書・一九五六)では武蔵国網代郷(東・あきる野市)の山作の棟別銭を免除した。奉者は由木某。
右、網代之山作、棟別七間分之所ニ五間之御用捨有之、
二間依無御印判、代官衆及催促、人馬引候、迷惑之段、
依御侘言申、此度二間分御赦免御印判被下候、此上御陣
役幷御印判を以、被仰付御用、聊無 沙汰可走廻候、
少も御公方御用致不足ニ付而者、可被懸過失、為先此御
印判、志ち者ニ引候人頭幷馬取返、御公方御用厳密ニ可
走廻旨、被仰出者也、仍如件、
天正五年
丁 (印文未詳朱印)
十一月七日 由木奉之
丑 網代 山作
年月未詳二十日北条氏照書状(秋山断氏所蔵文書・三九二一)では大石四郎右衛門尉・大石左近丞に加勢衆として鉄砲一〇挺を七人の衆から出させ、その一人に「由木」とある。
(折紙)
加勢衆鉄炮
一丁 石原主膳
二丁 嶋村
二丁 由木
一丁 車丹波衆
一丁大石四郎右衛門衆
一丁同左近衆
二丁大藤手組之内
以上十丁
(北条氏光)
一、 右衛門佐殿御手前、敵之取寄近来候、今夜為加勢遣
候、申端可被仰所、加治左衛門ニ指添可遣事、
一、玉薬二百放可指添候、□□可渡事、加治□□
一、加治左衛門為物主指越候、彼者如申可走候、少も油
断不可致、虎口可走事、
右之条 猶仰所、直ニ可被申付候、
以上
(年月未詳)
廿日 氏照 (花押)
(秀信)
大石四郎右衛門尉殿
大石左近丞殿
○由木左衛門尉景盛 興真の嫡男。武蔵国滝山城(東・八王子市)北条氏照の家臣。奉者を務める。天正六年三月十七日由木景盛奉納状写(昆陽漫録四・四七二六)では紀伊国高野山(和・高野町)龍光院の内の宗忍房に両親の菩提料として金二両と宗国の刀を納入した。「北条陸奥守平氏照内、由木左衛門尉景盛」とある。
由木左衛門状写
北条陸奥守平氏照内
由木左衛門景盛 謹奉頼條々
俗名由木隼人ト号ス吉祥院住海誉上人之祖父也(朱筆)
亡父興真 天正六戌寅年二月廿五日逝去
俗性武州府中高橋氏海誉之祖母也(朱筆)
亡母 見佛 天文廿二癸丑稔三月十五日逝去
依之二親為成佛於高野山月牌奉納之但黄金
弐両京目幷位牌料拾疋者当國之惣社六所宮
之大般若経一部独筆写之法印幻性房賢恵上人奉牌
相渡申所也速に二親成佛得達然則子孫安楽守護必然之事
一 亡父興真之骨筒越奥院江奉納所骨堂之
垂木ニ被為打付毎日入院之時者二親成佛之回向
所仰就中興眞在世之頃如申伝者法華妙典之
内方便品ニ云如我昔所願今者己満足之金文者必
後世之可成回向之由越遺言也右之金文毎日毎日
御回向奉願候事
一 興真者年来触雪月花之興其上扼悪心
勤善心七拾三歳之春遠行兼而如望忌日
二月廿五日導師賢恵上人也朝暮南無天満天神
別而者江州石山寺之大悲観世音菩薩と称
念佛一三味ニ而暮候也仍而速証菩提之心越
筑波山しげき言葉の花の露 景盛
池のはちすの種となるらん
骨奉納とて
春風は浮世の雲越払いつゝ 景盛
月はたか野の山に入るなり
二親え月牌奉とて
玉くしけふたり手向の袖ふれて 景盛
高のゝ山に入の嬉しさ
当世武家無手透処に此春中御暇給わりて
在宿免ニ旅行え御時も袖に取付て六字之
すゝめおも申奉り尤在世之内ハ善ニも悪ニも守□
聊茂背事なく一代孝心之道越専一とせしかは
親子之契約□勿論候一入被加不便たり依之
かくも申伝るへきにや 然則子孫安楽守護必然也
千世の宿かわらし物とたらち男の
草の陰にもさそ思ふらむ
如我昔所願今者己満足之金文之心越もろの願も今はみてるなり
景盛
昔にかへる法の庭人
すてに今ハはや入院安楽の心越
折越得て高野ゝ山のさくら花 景盛
散る夕こそ心やすけり
右六首寔に初心不及是非に候へ共亡父此道
越心にふれたるなれは扼善悪申鎖侍る所也 必不可有御他見事
一 興真一代之善根右一巻に申尽せり即
景盛ハ亡母ニは拾壱歳之春捨られし也
其後者祖母妙光蒙智情成人申候なり
依之興真之如仕置毎日月牌越当國府中之
俗名由木加賀守(朱筆)俗名由木加賀守妻(朱筆)
花蔵院に祖父栄仙と祖母妙光との月牌越 奉る所なり
忌日十七日(朱筆)
一 亡父興真之随下知法華経千部者真言之沙門
浄光坊奉願令読誦所也二世安楽之可願御
祈念之事
一 陸奥守平氏照家人一庵無二ニ興真在世之項歌道之伴にて被渡如親子入懇不浅次第也 仍而六字之名号越句の上にすゑ六首之和歌是あり 二世迄も契り給へきなれハ興 真一巻与一合に被相認可給置事 以上
右之条々申達儀自他之批判越かへり見す
申伝る也抑貴僧者同國同所□仁に御座候へ
し添も御本寺仏法高野御住山乍恐難有
奉存候従下野帰陳砌於府中遂拝面所存
申渡候へき興真遠行え折節貴来父子共ニ
二世成就ニ候此上二世安楽之御祈念無怠慢
御勤行所希状如件
武蔵国多摩郡北条陸奥守平氏照内
由木左衛門尉 干時世寿三十六歳(朱筆)
此景盛ハ於越前國慶長十七年十月廿一日切腹行年七十歳(朱筆)
天正六年戌寅三月十七日 景盛判
拝進 カゲモリ(朱筆)
高野山龍光院御内
宗忍御房
*由木左衛門尉景盛が高野山を訪れている途中に、上杉謙信が脳卒中で倒れ没した。それは三月十三日のことである。(氏康・信玄・謙信と関東の戦国を生きた英雄達は没した。)景盛が完成間際の安土城下を訪れていた頃であろうと思われる。織田家と北条家は信長の父、信秀がすでに北条氏康と接触していることから、両家の関係は良好であったと思われる。天正八年三月九日には氏照の家臣、間宮綱信(間宮林蔵の祖)は氏照の使者として安土城を見学しているので、景盛が安土城の天守を眺めていたことは想像できる。しかし、景盛が帰途に就いた頃には謙信の死は信長にも伝わっていたことであろう。氏照は景虎(実弟)の支援のため越後に出兵したが、景虎は敗死した。
*八王子城の築城は天正六年頃と大悲願寺の過去帳にある。安土城には天皇を迎える施設(御在所)があったらしい。この頃、氏照は古河公方足利義氏を補佐する関東管領であったようで、八王子城も古河公方を迎えることができる城として、縄張りを考えられたとすると広大な城域の謎がとける。しかし、古河公方足利義氏の死(天正十年十二月廿六日)により築城は中断され、豊臣秀吉の関東征伐に備えて、再築城されたが、未完成のままに天正十八年落城となったと思われる。
*この書状は大悲願寺文書「中世・戦国武将関係」に分類された中の写しである。大悲願寺文書は二十四世如環・二十六世慈明の代に整備充実されたようで、この由木左衛門状の写しは、日の出町の古文書研究家、清水菊子氏のご教示によれば二十四世如環の書体であろうと言われた。「(朱筆)」の箇所と大悲願寺過去帳の由木氏の記載より推測すると、天正期(一五七三~一五九二)の北条氏照に仕えた由木氏は由木豊前守系と由木左衛門尉景盛系の二家があったと思われる。また武蔵名勝図会の由木氏についての記述も再検討を要するであろう。
*この書状では天正六年当時の武士の高野山に対する納骨の風習などがわかる資料であるとともに、教養(和歌)や当時の貨幣「京目」につても知ることができる。また、北条氏照家臣としての立場、特に狩野一庵との親しい関係が読み取れる。景盛は子孫安楽守護を強く願っていたが、その思いは叶わなかったのである。
東京都あきる野市の大悲願寺の過去帳には景盛の法名は西安信士、慶長十七年十月二十一日越前国で切腹し嫡男源左衛門も切腹した。この時、両名の妻達も殉じた(越前騒動)。
*景盛は国宗の刀を奉納している。由木氏伝来の家宝であろうか。国宗は鎌倉中期の備前直宗系の刀工で、備前三郎の名で知られ、後に鎌倉に移り、相州鍛冶の基を開いたとされる。
天正七年六月六日北条氏照朱印状(新井巳代治氏所蔵文書・二〇八〇)では武蔵国柏原(埼・狭山市)の鍛冶職の荒井新左衛門等に鑓の穂先を納入させた。奉者は由木左衛門尉景盛。
御書出
右、先年棟別依御用捨、一年鑓卅丁宛打而上可申旨、以
御印判被定置処、九年未進候、今般御改之上、雖可被遂
御成敗、一廻御用捨、然者未進弐百七十丁之所、半分者
御赦免、残者百卅五丁、今来年ニ霜月十日を切而立進
納可申、如毎年横江ニ可相渡、当役如此被仰付上、別ニ
国役之走廻有之間敷候、但大途惣国並之御用欤、無所據
御用有之時者供物を以、可被仰付、此上就無沙汰者、可
被遂御成敗旨、被仰出者也、仍如件、
己 (印文未詳印判) 奉
天正七年 六月六日 由木左衛門尉
卯
新井新左衛門
同 半四郎
同 九郎左衛門
同 郷右衛門
岡五郎右衛門
豊田 入子
○由木利重の子である存応(観知国師)は増上寺が徳川家康の菩提寺となったときの僧。家康に最初に仕えた僧の一人である。後に、金地院崇伝・南光坊天海がいる。
【慈昌】〔じしょう、天文十三年(一五四四)一月十日~元和六年(一六二〇)十一月二日〕は、安土桃山時代から江戸時代にかけての僧。号は貞蓮社源誉存応。武蔵国多摩郡由木の出身。初め武蔵国新座郡の時宗太平山法台寺の蓮阿に師事し出家、一遍の法流を伝えた。永禄四年(一五六一)岩瀬大長寺の存貞に従って浄土宗に改宗した。その後武蔵国川越蓮馨寺をへて、天正二年(一五七四)与野長伝寺を開創し、天正十二年(一五八四)には江戸増上寺の十二世となる。天正十八年(一五九〇)徳川家康の関東入部にともない師檀の関係を持ち、増上寺は徳川家の菩提寺となった。慶長三年(一五九八)増上寺の寺地を現在の芝(東京都港区)に移して、家康の手厚い保護のもと京都知恩院とともに浄土宗の名刹となった。浄土宗法度や浄土宗関東十八檀林制度の議に参加し、また紫衣の綸旨を賜っている。「普光観智国師」の号を贈られた。国師の幼名は「松千代」で武州多摩郡由木村に由木左衛門利重の次男として生まれた。
*一二一 源譽書状(折紙)
(ママ)
尚々能々御様生專一ニ候、委細者口上ニ申條條不具候、
以上、
幸便之間一書令啓候、其以來者、遠境故無音之至ニ候、
仍御煩氣之由、能々御養生可被成候、於其地可然醫者無
之付而者、此方へ御越、薬をも可有御用、萬正的ニ申含候、
恐々謹言、
觀智國師
九月十一日 源 譽(花押)
吉祥院
(奥端書)
「吉祥院 增上寺
源 譽」
(あきる野市横沢大悲願寺所蔵)
*一二二 源譽書状(折紙)
追啓、寒天も近ク御座候間、頭巾一ッ、しゆちんの黑襪一足、御音
敬具 信之首尾迄ニ候、諸余重而可申候、以上、
遠路預使儈候、猶一段之柿幷柚松茸、何茂此口珍物ニ御
座候、就中松茸之事ハ、珍敷賞翫申候、其以來者御物遠
ニ打過候、遠境之條不期便宜、背本意候、何様上様御下
向之時分、御禮可有之間、正的寮も御座候間無氣遣幾
日も可有御逗留候、必々申合候、彼仁をハ五拾石之知行、
寺山屋敷百石餘之寺ニ申付候間、御心易可思食候、委細
期後音時候、万々恐惶謹言、
觀智國師
九月十五日 源 譽(折紙)
吉祥院 増上寺
御同宿中
(あきる野市横澤大悲願寺所蔵)
観智國師と海誉
存応には甥の海誉がいた。彼は大悲願寺の住持であったが、存応が可愛がった一人である。元和三~四年ごろと思われるが、海誉は病気になった。その報を聞いて心配した存応は書状をやり、遠いので無沙汰をしているが、病気の様子はどうか、注意をしてよく養生しなければならないぞ。五日市は田舎であるから、よい医者もいないであろう。もしそうならば江戸に出てきてよい医者にみてもらってはどうか。自分は江戸に出てきてよい薬を服用した方がよいと思っている。使いの正的によく申しつけてあるから、考えて処置をするように。くれぐれも体に注意するように(あきる野市横沢大悲願寺文書)と言っている。
これは何もお世辞ではない。本当に心から出た言葉であろう。気性の強い存応に、これほどの親切心があろうとは、すこしも想像もつかないことである。やはり肉親になると異常になるのかもしれない。それはそうかもしれないが、同病あい憐れむで、自分の病身につまされた彼の真意であったと私は考えたい。たしかに片田舎の五日市には良医も少なかったであろう。親戚の一人や二人の面倒をみる経済的な余裕は多分にあった存応である。しかも彼は国師号をもらい、飛ぶ鳥も落とす勢いである。良医との交際もあったであろう。早く良い処置をして治してやりたい、というのが存応の気持ちであったろう。
このころから存応は忠風であったらしい。忠風の気は前からあったのかもしれないが、悪化したにはこのころであろう。そして余命のないことを悟ったらしい。彼は無性に海誉に会いたくなった。さいわい海誉の病気もその後はよくなったらしい。恢復したとなれば、何とか江戸に呼んでみたかったのであろう。いや自分の手元に置きたかったのであろう。存応は九月五日づけで海誉に書状を出し(あきる野市横沢大悲願寺文書)、遠いところ使僧をありがとう。みごとな柿と柚・松茸、いずれもめずらしいもの、ことに松茸はおいしくいただいた。その後はあまりに遠ので心ならずも無沙汰をしている。秀忠下向のときはお礼もできなかった。正的の庵があるから出てきて長く滞在するように。必ずそうしなさい。正的は五十石の知行寺、百石余の屋敷をもつ寺に入れるようにしたから、安心して来るように。なお、これから寒くなるから頭巾一つ、足袋一足お礼として進呈する。といっている。これは海誉が存応に土地の産物を見舞として贈ったときの礼状である。正的は存応の使僧であったらしいが、どんな人であったのか明らかでない。ともかく存応としては、正的のあとに海誉を入れたかったのであろう。沢山の弟子がいても、どうしても肉親は可愛かったのであろう。それでさかんに誘ったのであろう(玉山成元著『普光観智國師』)。
あとがき
八王子落城の天正十八年(一五九〇)は関東の戦国時代の終焉である。この時、本稿の人々の年齢は幾つ位であったろうか。由木左衛門尉景盛は主人の北条氏照と同年の四十九歳位と思われる。観智国師存応は天文十三年(一五四四)の生まれとあるので、四十六歳位であろう。兄の由木豊前守は氏照や景盛と同年の四十九歳位と考えたい。海誉上人は天文二十三年(一五五四)前後の生まれであるから、三十六歳前後と考えられる。
観智国師存応の存在が徳川実記に由木左衛門景盛の記載をさせたのであり、海誉上人がいたことが、大悲願寺の過去帳に由木氏の人々を記したのである。
歴史は過去にさかのぼって考えることができる。あの時こうあったらとつい我々は考えてしまうものである。しかし、歴史(時間)の修正はできない。この時を人々が、精一杯に生きたことを信じたいものである。
「忠直暴走」 @19643812
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