声を聞くには
家に帰ってから、僕は少し不安だった。部活をサボったことがバレてたら、どうしようと思って。それに母さんが部活の調子はどう、なんて聞いてきて、どう答えていいのか分からなかった。
「まぁまぁだよ」
嘘をつくのはどうなんだろう、と思いはした。でも僕は、嘘をついていた。
そうでも答えておかないと、明日は公園に行けなくなるかも、なんて心配もあったからだけど。
まぁ、そんな心配は全然いらなかったみたいで、次の日も何事もなく学校に行って、昨日と同じように公園に来ていた。
お姉さんはいるのだろうか。
昨日はたしかに、また来てもいいよ、と頷き返してくれた。でも、いま考えると変な話で、ここはお姉さんの公園ってわけではないし、またここに来る理由があるわけでもない。そもそも昨日だって、たまたま、ここにいただけかもしれない。
そうやって一人で考えながら歩いていると、夏の日差しと公園の土が、足を引っ張ってくるように思えた。いなかったらどうしよう。
もう帰ってしまおうか、なんて思いながらも、あのベンチまで歩いてた。
いた。
昨日と同じように麦わら帽子をかぶって、ベンチに座って本を読んでる。革のサンダルを、ぷらぷらさせて。
お姉さんの姿を見た途端、駆けだしていた。別に走る必要なんて、ないはずなのに。陽炎の向こうで、麦わら帽子が揺れていた。
なかなか息が戻らない。それでもなんとか顔をあげると、昨日見たあの顔。この暑い中でも涼しげで、ちょっと悪戯っぽい目をしてる。
一瞬、腕時計を見たお姉さんは、隣の席のバックをどかし、ポンポンと叩く。
「し、失礼します」
使い慣れない言葉に、噛みかけた。さっきまでバッグが置いてあったベンチがまだ温かいから、無かったらきっと座ってられないほど、熱かったのかも。
隣から視線。笑顔があった。
今度はちゃんと、聞かないと。
「あの、えと、声、出せないんですか?」
昨日と違って、お姉さんはうんうん頷く。喉に左手を当て、隣の病院を指さした。
「えっと、喉を痛めて、病院に行ってる、ってことですか?」
お姉さんは腕組みをして、ちょっと迷うように上を向いて、頷いた。
どうも少し違うっぽいけど、どこが違うのかまでは分からない。どうやって聞こうか考えていたら、僕の肩をつついてきた。
「なんですか?」
大きく丸い目をちょっと細めて、じっと見てくる。何か悪いことを聞いたのだろうか。もしかしたら、声を出せないって話なんて、したくないことなのかも。そうだとしたら、治るかどうか、分からない、とか。
すごく悪いことを聞いたのかもしれない。何て謝ればいいんだろう。知らなかったから、は変だし、ただごめんって言うのも失礼だし。
お姉さんの目を見ていられなくて、下を向いた。
「痛っ」
頭をチョップされた。ちょっと痛い。真剣に悩んでいたのに。
僕は抗議の意を込め、お姉さんの目を見た。
お姉さんは両手を握って前に突き出して、口を丸く開いた。一本ってことかな。
でも、違う。
「あの、左手は下ですよ」
お姉さんはきょとんとしてから、左手で力こぶを作るようにして、右手でそこを軽く叩いた。そのあと左手を僕に向かって、曲げ伸ばし。
多分、左利きだ、って言ってる。右手に腕時計をしているし、そういえば、さっきつついて来たのも、左手だった。
でも違う。
「あの、剣道だと、基本的に左利き用の構えって、ないんですよ?」
お姉さんは腕組みをして、首を傾けた。良く分からないのかな。
なんて言えばいいんだろう。逆手、じゃ同じようなものだし、左に構える人も、いないわけじゃないみたいだけど。面倒くさいな。
僕は竹刀袋を開けて、竹刀を取り出した。
こんなところを誰かに見られたら、面倒なことになりそうな気がする。でも、ちょっとだけなら、多分、大丈夫。
「左手は、こうやって使うんです」
正眼に構えて、お姉さんに見せる。
お姉さんは、ちょっと後ろに身体を引いて、お~って感じ。真似して両手をのばして、素ぶり。何度かそうやって、僕のシャツの袖を引っ張って、また素ぶりの真似。見せてくれって言ってる。
いいのかな。こんなとこで振って。でもまぁ、ちょっとだけなら、いいかな。
習ってた通りに、一歩踏み出し、竹刀を振った。
ぶぅんと、間延びした音。
なんだか変な感じだ。部活以外で、しかも、サボっているのに。
それに一日やってなかっただけで、しっかり合わない気がする。音も少し、変。でもこれは、小手をつけてないのと、靴も履いてるから思い切って踏み込めないから。
お姉さんを見ると、腕組みをして首を傾げてる。
なんでって、そうか。
「えっと、それで、こう、竹刀を逆手に持つと、基本がなってないって――」
首を横に振っていた。違うらしい。
お姉さんは左手で自分の口を指さして、それから同じように両手を伸ばして、素ぶりの真似。口をぱっと開いているから、と~って言ってるふりだ。多分。
そしてまた、お姉さんは口を指さした。声が出てないってことかもしれない。
まぁ、一回くらいなら、いいかな。
ちゃんと構えて、目の前に相手がいることにしよう。誰にしようかな。まぁ、顧問の先生でいいや。
やる気がないなら帰れだなんて。僕はこれでも、三ヵ月も頑張ってやっていたのに、冗談じゃない。先輩たちのせいで、僕は真面目にやってたのに!
「ヤァァ!」
ぶんっ、と今度は、短い音がした。
今のは、さっきのよりは良かった。練習通りに打てたと思う。想像の先生は、あっさり受けとめてしまったけど。
拍手の音。
キラキラした目をこっちに向けて、お姉さんが手を叩いてた。
「ぼく? こんなとこで振ったら危ないよぉ。子供もいるんだから」
突然した声に驚いた。隣のベンチを見ると、昨日と同じ老夫婦。
「す、すいません! すぐしまいます!」
「ちゃんと場所、かんがえてやりなねぇ」
慌てて竹刀をしまっていると、麦わら帽子が揺れているのが見えた。
笑ってる。お姉さんがやれって言ったのに。
お姉さんはまだおかしいのか、ときおり身体を震わせながら、顔の前で手を合わせて、ごめんねのポーズ。でも、目が笑ってる。絶対、本気で謝ってない。
わざとらしく俯いたお姉さんは、上目づかいで僕を見た。そしてちょいちょい指さしてきて、口の前で、手の平を僕の方に向けて握ったり開いたり。
「声が大きかったですか?」
お姉さんは首を横に振る。
「えっと、構えがよくわからないですか?」
やっぱり首を横に振ってる。なんだろう。全然分からない。
困っていると、お姉さんは腕組みをして、声も出さずに唸りはじめた。
あっちを向いて、こっちを向いて、首を傾げて。真剣そうに唸っているけど、あっちこっちに手を置いたりして、やっぱりなんか可愛い。
お姉さんは、ふっとこっちを見て、睨むように目を細めた。なんだか怒ってるみたいだ。なんでだろう。
バッグを引き寄せ鏡を出して、こっちに向ける。だらしなく笑う僕。
お姉さんは自分の口の両端に指を当てて、にゅっと横に引っ張ってみせた。
「笑うなってことですか?」
うんうん頷くお姉さん。
その動きが玩具みたいで、僕はとうとう声を出して笑ってしまった。
お姉さんはそっぽを向いて、膝の上で頬杖をついた。頬もわざとらしく膨らませたりして。これは、ラッコじゃなくて、ハムスターとか、そういうのだ。
まだ日も高いのに、お姉さんの頬は、ちょっと赤くなっていた。話を変えてあげないと、こっちも見てくれなそう。
「ええっと、お姉さんの名前は、なんて言うんですか?」
ぱっとこっちを見たお姉さんは、あっちを向いて、こっちを見てきて。でも今度は、すぐに思いついたらしい。
手を広げて、あたりを撫でるよう滑らせて、目を瞑ってそっぽを向いて、髪の毛をさらさら~っと、流す。なに、それ。
「えっと、ちょっと、良く分からないかも、です」
腕組みをしたお姉さんは、顎に手を当て唸ってみせて、それから太陽を指さした。
「太陽? 陽、よう、ようこさん?」
ぶんぶんと勢いよく、首を横に振る。
もう一度太陽を指さして、さっきと同じように腕を広げて、今度は昨日と同じように、疲れたような仕草をした。
まさか名前で、疲れる、ってわけじゃないだろうし、暑いって感じ? でも名前で、暑、なんて聞いたことない。
あ、もしかして。
「夏?」
お姉さんは両手をギュッと握って、首を縦に振っていた。合ってるみたい。
お姉さんは目を瞑って、顎をクイッとあげて、髪の毛をさらさら~っと。これが良く分からない。
夏と、さらさら~。髪の毛ってわけじゃないはず。それに夏子っていうのも、違いそう。子、だったら、僕を指さしそうだし。
腰に手をあて、ちょっと怒ったらしいお姉さんは、自分の顔を指さした。どういうことだろう。
今度は鏡を自分に向けて何度か頷き、もう一度自分を指さした。自慢げに。
まさか。
「
胸を張り、満足そうに頷く、夏美さん。美人ってことかな。
僕はまた笑ってしまった。でも今度は、夏美さんも笑ってた。
夏美さんは僕の顔を指さして、口を手にやり、握って開く。
あ、そうか。自己紹介しろってことか。
「僕は、
うんうん頷いた夏美さんは、右手を差し出してきた。これはどういう意味なんだろう。
意味を考えていると、夏美さんは首を傾げて、すぐに僕の手を取り、優しく握った。柔らかくて、あの時と同じように、ちょっとひんやりした手。左手を僕の手の甲に添えて、ゆっくり振ってる。
僕は、柔らかくて、思ってたより小さな手だな、なんて思ってた。
そしたら夏美さんは、また頬を膨らませて、握手する手に力を入れてきた。また怒ってるっぽい。でも今度ばかりは、良く分からない。
僕は首を傾げてみせた。
夏美さんは、添えてた左手を離して、口の前でさっきと同じ仕草。話すってこと。あ、そうか。
僕は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
握手していた手は離れ、僕の頭を撫でてくる。どうやら正解だったらしい。
少しずつ分かってきたけど、夏美さん、本当に喋れないんだろうか。なんだかさっきから、ちょっと変な気がする。
声が全く出せないなんて、聞いたことがない。ちゃんと喋るのは無理でも、声を出すだけならできるはず。それに生まれた時から喋れないなら、もっと仕草とかも慣れていそうなのに。
僕は、ちょっと聞いてみることにした。
「夏美さんは、声、出せるようになるんですか?」
きゅっと口をつぐんだ夏美さんは、腕を組んで、病院の方に目を向けた。少し意地の悪い質問だったかも。
「治ったら出せるとかですか?」
夏美さんは、唸るようにしながら、小さく頷く。
「多分?」
夏美さんはにっこり笑って、こくりと頷く。
「えっと、どこの病気なんですか?」
夏美さんはまた唸りはじめる。でも今度はあっちこっちを向いたりせずに、じっと上に目を向けていた。何て示せばいいのか、考えているのかも。
夏美さんは、自分の胸を押さえた。
「胸?」
眉を寄せた夏美さんは、胸を両手で隠して身体をひねった。
あ。
「す、すいません! そういうつもりじゃなくって」
下げた顔が熱い。別に胸がどうとかじゃなくて、ただ胸の病気なのかなって思っただけで、というか、心の中で言い訳してても仕方がないないんだけど――。
「痛っ!」
また、頭をチョップされた。
顔をあげるとあの目だ。楽しそうに笑ってて、今度は胸を両手で抑えて、目を瞑って悩むように眉を寄せ、なよなよ~っとした。胸を押さえて、悩んで、なよなよ。
「こころ?」
夏美さんは、なんだか偉そうにして、首を縦に振っていた。
こころのせいで声が出せないって、あるのだろうか。そういうのって、どうやったら治るんだろう。
「何か僕にできることって、ありますか?」
余計なお世話なんて分かってる。でも僕は、なんとかしてあげたかった。
夏美さんは驚いたような顔をしていたけど、すぐに僕を指さした。その次は口の前でニギニギ。最後に、両手でそれぞれ力こぶを作った。
最初の二つは、分かる。僕に、話せ、と言ってる。最後の力こぶは、頑張る、かな。僕に話すように頑張れってことだろうか。
でもそれだと、質問とかみ合わない。胸を張って、力こぶを作って、それを揺すっているから、これは元気になるってことかな。
「僕が話すと、元気になる、ってことですか?」
夏美さんは片眼を瞑って、顔の前で空気をつまんだ。惜しい、ってことだろう。それかもうちょっと、って感じ。つまり似ているけど違う言葉。
降参だ。考えているだけじゃ、答えは出ない。
「もう少し、具体的にできます?」
ムッて感じで腕組みをした夏美さんは、すぐに両手を打って、僕を指さした。
僕が、話す、笑う、元気。
「僕が、夏美さんを笑わせられるような話をすると、元気になる?」
笑顔になった夏美さんが頷いて、口をぱくぱくさせて、手を広げてみせた。
「元気になれば、声がでるんですか?」
夏美さんは肩をすくめて首を傾げながら、そっぽを向いた。さぁ? ってこと?
「もう! どっちなんですか!?」
口を閉じたまま、にまっと両端をあげた夏美さんは、さっきと同じように、僕に話せとやってきた。またからかわれてる気がしてきた。
でも今度は、ごめんね、のポーズ。のあとに、すぐに僕に話せとやってきた。つまりこれは、ごめんねじゃない。
「お願い、ってことですか?」
満足そうに笑って、夏美さんは頷いた。
その日から僕は、部活なんか忘れてしまった。
僕は、夏美さんの病気を治してあげて、声を聞きたいと思ったから。
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