声を聞くには
λμ
声を聞きたい
そのお姉さんは、病院のとなりにある公園のベンチに、一人で座ってた。うんざりするほど暑い夏の日の午後、他のベンチは親子や老夫婦が座ってる。だから僕が休める場所は、その人の隣しかない。
部活の時間が終わるのはまだ先で、僕はその人に、声をかけるしかなかった。
「あの、すいません、隣、座っても、いいですか?」
自分でも恥ずかしくなるほど、声が出てなかったと思う。しかも、お姉さんは黙って、本を読み続けている。
勇気をだして声をかけたというのに、無駄な努力に終わってしまったらしい。こんなところに立って、お姉さんの麦わら帽子を見てても、仕方がない。ここはあきらめて、次の場所を探さないと、なんて思ったとき。
麦わら帽子が揺れて、顔が上がった。
すごくきれいな優しい目が、見つめてきている。
お姉さんは本を閉じると、左手を右の耳に当てて、イヤホンを取った。つまり僕の声は、そこから流れる音楽にも負けるほど、小さかったってこと。
いまならキミの小さな声でも聞きとれますよ。そう言われているような気分。
でも、その不思議そうに瞬く目を見ていると、もう一度聞いてみようと思えた。
「あ、あ、あの。隣、座っても」
今度は声が上ずってしまったけど。それに残りの言葉も、出なかった。
その人は頬を緩めて、そっと自分の右隣に手を差し出した。白くて細い手だった。
「あ、ありがとうございます!」
自分でもバカだと思うほど、大きな声を出してしまった。
その人の口元を隠した笑顔に、身体が熱くなっていく。夏の暑さのせいだと、思いたかった。
その人を見続けることができなくて、恥ずかしさから逃げたくて、僕は慌てて隣に座った。わざと音を立てて。気にしてませんよって意味で。
いきなり話しかけて、隣に座って、なのにどっかり音を立ててる。だからバレないように、静かに、目だけを隣に向けた。
バレてた。
慌てて僕は自分の膝を見つめた。きっと笑われている。声は聞こえないけど、笑ってるに違いない。どう見たって、僕は不審人物だ。
そうしていることが、恥ずかしいですって言ってるようで、笑ってくださいと言ってるようで、身体が熱い。だから僕は、思い切って、顔ごとその人の方に向けた。
その人は、こちらをずっと見ていたらしい。
そして、ほんとうにおかしそうに、静かに笑った。口は手で隠れて見えなかったけど、目は楽しそうに笑ってる。
顔から火が出る、なんて言い方もあるらしいけど、こんなに顔が熱くなるなんて思わなかった。
なんでこんなことになったのだろう。僕はただ、部活に行っていないのを、誤魔化したかっただけなのに。
街に出れば良かったのかな。でも、他のクラスの奴に見つかるかもしれない。もしかしたら学校に連絡されたりするかもしれない。
家に帰れば良かったのかな。でも、母さんに部活を辞めたいなんて、言えやしない。そんなことをしたら、今日の夜、父さんにどれだけ怒られるか、分かったもんじゃない。
気付けば、ため息をついていた。これから、どうしたらいいんだろう。
そのとき、隣から音がした。
コンコンと響く、ベンチを叩く小さな音。
今度はなんだろうと思いながら、隣を見る。
お姉さんは両手を顔の前で合わせて、何度も頭を上げ下げしていた。多分、謝っているつもり。なんで謝っているんだろう。
でも、謝る仕草を続けるお姉さんの目は、笑ってる。バカにされているわけじゃないのは分かる。ほんとうに悪いと思っているのかは、分からないけど。
いつまでもされていると、僕が悪い人みたいに思えてくる。それは嫌だ。
「も、もういいです! 大丈夫です!」
声は上擦ったままだった。恥ずかしさに負けて、下を向くしかなかった。
またコンコンと音がして、嫌だったけど、そちらを向いた。
その人は僕を見ながら、両手を握って前に突き出して、剣道の素ぶりの真似をしていた。なんで? なにが言いたいんだろう。
また不思議そうな顔をしたお姉さんは、僕が横に立てかけていた竹刀袋を指さして、また同じ真似をした。そして首を、カクンと横に、傾けた。
剣道部なのか、聞いてるのかも。
「え、と……そうです。剣道部です」
ほんとうにそう聞いているのか、不安だった。
でもお姉さんは、口をまん丸に開いて、拍手するような手振りをした。お~、ってことなのかな。
それからお姉さんは、右手に巻いた赤いベルトの小さな腕時計を指さし、今度は腕だけで走る真似をした。これは、練習しなくていいのか聞いてるんだろうか。
だとしたら、どう答えればいいんだろう。まさか正直にサボってます、なんて言うわけにもいかないし、出稽古です、なんて嘘だってぜったいバレる。制服のまんまだし、防具も持ってないし。
どう答えたらいいのか分からなくて悩んでいると、お姉さんが変な方を指さしはじめた。その先を目で追っていくと、病院が見える。
「そ、そうです! ケガで部活! 出れなくて!」
お姉さんの勘違いに乗っかって、咄嗟に嘘をついていた。すぐに目を細めて、ジト目を向けてきた。怪しまれてるっぽい。
お姉さんはじっと見てきて、探偵の真似でもするみたいに、腕まで組んでる。
「……すいません。サボってるんです」
何も言わない探偵に、負けてしまった。なんで言っちゃったんだろう。
腰に手をあて胸を張るお姉さんは、満足そうに頷いていた。
なんだか、物凄く悔しい。なんで初めて会った人に、こんなことを言わされなきゃいけないんだろう。
そんな思いに、お姉さんが気付いたのかどうかは知らない。でも、今度は空を指さしてから、走る真似をした見せてきた。そのあとすぐに、いやそうな顔をして、腕を組んで大げさに頷く。どういう意味だろう。空に、走って……。
お姉さんの仕草の意味がよく分からなくて、僕は言い訳をすることにした。
「僕だって、悪いってことは分かってます。でも――」
途中で肩を叩かれて、全部言えなかった。
何?
お姉さんは顔の前で、手を振っていた。違う違うっていうように。続けて、また同じように、空を指さし……違う。太陽を指さしてる。そのあと今度は太陽を抱くように手を動かしり、目の上に手をかざしたり。日差しってことだろうか。
それから、いやそうな顔をして、肩を大袈裟に上げ下げしながら、息が切れるふり。そっぽを向いて、ベンチの背もたれに肘をついて、開いた左手を太陽に向かってヒラヒラさせてる。
そして僕の目をみて、自分を一回指さしてから、満足そうに頷いた。
まだちょっと分からないけど、今度は、お姉さん自身がそうだって言ってる。
「サボってもいいよってことですか?」
お姉さんは笑って、拍手するような手振りをした。目は悪戯っぽく光ってる。
「あの、学校には……」
お姉さんはすぐに顔の前で手を振った。これは、しないしない、ってことかな。
そういえば、なんでさっきから、お姉さんは一言もしゃべらないんだろう。
「……声、出せないんですか?」
お姉さんは腕を組んで少し首を傾げて、目は上を向いている。何て言おうか迷っているって感じ。
あっちこっちを見まわして、声も出さずに唸ってる。細くて白い首を右に左に傾けて、それに合わせて麦わら帽子の陰がふわふわ揺れた。流れた髪が泳いでる。
なんだかその仕草が可愛くて、僕は思わず笑っていた。
そしたらお姉さんの眉がきゅっと寄って、腰に手を当て、わざとらしく不満そうな顔をした。怒らせてしまったかも。
「す、すいません! なんだかちょっと、可愛いなって、思って」
たしかに、ずっと年上の人に可愛い、なんて思うのは、失礼だったかもしれない。
お姉さんは目を丸くして、ぽけっとしてた。なんで……あ。
顔が熱い。目を見てられなかった。恥ずかしすぎる。なんてことを言ったんだろう、僕は。これじゃまるで、ナンパしてるみたいだ。そんなつもりじゃないのに。
ただ僕は、むかし水族館でみた、ラッコみたいだと思っただけだ。顎に手を当てたりして、あっちこっちをきょろきょろ見てて、可愛いと思っただけ。
頭の上に、柔らかい感触。なんだろう。
手を伸ばして触ってみると、お姉さんの手。
「うわぁ!」
びっくりして、僕は思わず飛び退いていた。ほんとにびっくりした。そして、柔らかい手をしてた。ちょっとひんやりしてたけど。
お姉さんはぽかんと口を開けて驚いていて、でもすぐに、口を押さえて笑いだしてた。しばらくそうして、それからベンチの隣の席を、ポンポン叩いた。座れってことらしい。
どうしていいのか分からない。でも、座らないといけない気がする。気付くと僕はそこに座って、なぜかまた、頭を撫でられていた。
気持ちいい。気持ちいいけど、すごく恥ずかしい。慰められているって感じでもないし、褒められてるってわけじゃないだろうし。
なんで僕は部活をサボって、こんなところで撫でられてるんだろう。クラスの奴に見つかったりしたら、絶対、絶対あとでからかわれる。やめてほしい、やめてほしいけど、やめてほしくない。変な感じ。
そうは思っていても、このままじゃ多分まずい。危険だ。多分。
「あの、もう、いいですか?」
お姉さんは優しくにっこり笑って、僕の髪の毛をくしゃくしゃにするように掻きまわした。なんで。
お姉さんは今度は歯を見せて笑って、茶色の小さな鞄から鏡を取り出し、僕の方に向けてきた。
そこには、髪の毛をくしゃくしゃにされた、子供っぽい僕の顔が映ってた。
もう一学期も終わるっていうのに、なんて子供っぽい顔なんだろう。髪の毛がぐちゃぐちゃになってると、余計に子供っぽくみえる。
必死になって鏡を見ながら髪の毛を直していると、鏡の下から、着物っぽい生地の袋が差しだされてきた。中には、木の櫛が入ってた。使えってことなんだろうか。
鏡の向こうを覗いてみると、お姉さんは僕が手に持つ櫛を指さし、髪をとかす真似をした。予想は合ってたらしい。つまり、使えってこと。
櫛を紙に通すと、初めて感じるような滑らかさで、通す度に髪が整っていく。鏡の中に映るのは、女の子みたいになってしまった髪の毛。櫛になにか油でも塗ってあったみたいに、つやつやでまっすぐ。これじゃ日本人形みたいだ。
結局、僕は櫛をしまって、また手で髪をくしゃくしゃにした。日本人形みたいな髪より、こっちの方がずっといいくらいだ。
それを見ていたお姉さんは、声も出さずに、お腹を抱えて笑いはじめた。
僕の方は、腹が立つような、恥ずかしくてどうにかなりそうな。
でも多分、お姉さんは笑うつもりじゃなかったんだと思う。また両手を顔の前で合わせて、頭を上げ下げしてるから。ごめんねって意味だろう。
そうやって、声も出さずに色んな仕草をしているお姉さんを見ていると、なぜだか僕は、お姉さんの声を、聞いてみたくなっていた。
だから、もう一度聞くことにした。
「あの、声、出せないんですか?」
お姉さんはさっきと同じように、声も出さずに唸り始めて、何かに気付いたように、腕時計を見た。ぱっと顔をこちらに向けて、肩がくっつきそうなほど擦り寄ってきて、時計の盤面を見せてくる。
麦わら帽子の陰に隠れて見る、小さな時計の盤面。でもそんなものより、グレープフルーツみたいな、なんだかすこし胸がざわつく香りが、気になっていた。って、時間! 今度は遅くなりすぎちゃう。
慌てて立って、麦わら帽子の陰から外に出る。
「あ、あの! 僕、もう、帰ります!」
少し驚いたような顔していたお姉さんは、うんうんと頷いていた。
僕は竹刀袋とバッグを掴んで、駆けだした。少し走ったところで、すぐに気付いた。まだ、お姉さんの声を聞いていない。
喋れないのかも、声を出すことができないないのかも、聞けていない。
気付いたら、すぐに振り返っていた。
「あの! 明日も来ても、いいですか!?」
今までで一番、大きな声が出ていたと思う。
本をしまおうとしていた姉さんは、ぱっとベンチの前に立ち上がり、手で大きく丸を作った。そしてすぐに、手を振ってくれた。
「ありがとうございます!」
頭を下げて、手を振り返して、僕はまた、駆けだした。胸が苦しい、息が切れてく。多分、走っているせいじゃないんだと思う。
返事をしてくれたのがうれしくて、しかも、また来てもいいって、そう返してくれたからだろう。
僕は、あのお姉さんの声を、聞いてみたいと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます