エピローグ 人形の嘘

 ラディシンの駅から駅馬車に乗り換え、二時間ほど揺られて漸く、僕たちはアパートメントに帰りついた。

 既に、辺りは真っ暗。等間隔で並んだ月光石の街灯が、その名の由来よりも明るく足元を照らす。

 正確には馬車を降りた後、一時間ばかり歩いたわけだが、詳しく話したくはない。


「はー、疲れたわね」


 リズの一言が、僕らの感想の全てだ。

 帰りの列車はほとんど寝ていた――僕はと言うべきだろう、たまに目を覚ました時、リズはまるで普段と変わらず本を読んでいた。


 吸血鬼は眠らないのか、それとも彼女が眠らないだけなのか。答えを知るためにはもう一人吸血鬼に出会うという天文学的な確率が必要になるだろう。少なくとも今のところ、吸血鬼は眠らないようだとしか言えない。


 久し振りの夜空を見上げながら、僕は荷物を持ち直した。

 トランクを二つも抱えて登るには、アパートメントの階段は狭く、急だった。二階なのがまだマシで、もしこれが四階だったら、さすがに僕はトランクをリズに持たせただろう。

 というか、そもそもリズに持たせたって一向に構わないのではないか。人知を超えた力持ちだし。


「あら?私は今回、必要なだけの肉体労働をしたつもりよ?どこかの誰かさんが、不注意にも護身用の武器が入ったトランクを置いていったせいでね?」

「あんなに早く事態が動くとは思わなかったんだよ、もっとじっくり探るつもりだったんだ………リズ、鍵開けて」

「はいはい」


 バキッという不吉な音がして、ドアが開いた。

 リズは振り返ると、花のように微笑む。


「『鍵を使って』とは言わなかったでしょう?」

「察してほしかったよ、そのくらい」


 また鍵をつけ直しだ。僕はため息を吐いて、慣れ親しんだ自宅兼事務所に荷物を運び入れた。


 ………………………


「夕飯はどうするの?」

「君、お腹空いてるかい?僕は空いてないんだけど」

 寧ろ、早く寝たい。

 向こうではあまり熟睡は出来なかったし、いくらアークトゥルス号の客室とはいえ、ベッドと同じとはいかない。


「私も特には。ワインでも飲もうかしら――以前の貰い物が残っていたわよね?」

「多分ね。それより、シャワーは?僕から浴びていいの?」

「良いわよ。夜はまだまだこれからだもの」

「今はじめて、相棒が吸血鬼でありがたいと思ったよ」


 ジャケットをソファーに放り投げる。一週間以上ほったらかした代償に埃が舞い、リズが迷惑そうに眉を寄せた。


「ねえ、あの街は、うまくいくかしらね?」

「どうだろうね」

「あら、意外ね。もっと楽観視しているかと思ったわ」


 面白がるような口調のリズに、僕は肩をすくめる。ブラウスのボタンを外しながら、ゆっくりと僕は話し出す。

 正直、まだまとまってはいない。感じたことをなるべく伝わるよう心掛けて、ゆっくりと。


「………人形たちは、今回、彼らにあるまじきことを覚えてしまったからね」

「ヒトを素材と見ることかしら?ヒトは喋るワインボトルだと思うように?」

「その考えは是非とも改めてほしいけれど、そうじゃあないよ。………人形の思考回路に、ヒトの保護を組み込むことはないよ。彼らは彼らの仕事をするだけの道具なんだからね」


 床を掃く箒に、『ヒトを殴るな』と命じることはない。『床を掃け、ごみを集めろ』と命じるだけだ。他の複雑な指示をする必要はないものだ。

 今回は特殊なケースだろう。彼らはヒトのように、無駄なことはしない。

 だから、問題は別だ。


「問題はね、リズ。

「………嘘?」


 ブラウスをどうするか少し悩んで、僕は結局ジャケットと添い遂げさせた。

 洗濯する気分ではない。

 明日できることは、明日やればいい。


「代替ユニットは、自分をシュトローマンだと嘘を吐いた。自分や仲間を騙すことを、覚えてしまったんだ。そして、恐らくは仲間たちもね」

「仲間も?どういうこと?」

「人形たちは、どうやってヒトを襲ったと思う?彼らにはセンサーがあって、ヒトかゴミかを判別できるんだ。代替ユニットがシュトローマンでないことは、すぐにわかる。けれど、彼らは従った。騙されることを、選んだんだ」


 それは、ヒトを殺すよりも恐ろしいことだった。

 現実を曲げ、事実を弄び、真実を歪める。それが本当よりも良いと判断してしまう能力を、彼らは学んだのだ。

 ヒトは数多の罪を犯して生きてきた。その最も原初の罪は、嘘だ。

 それは禁忌の知恵なのだ。人形とヒトとを分けるのは肉体ボディーの材質ではない。周囲に、そして自分に嘘を吐けるかどうかだ。


「あの街の人形は、境界線ボーダーラインを踏み越えた。もう、戻れないかもしれないよ」

「………嘘、ね」


「………?」


「………え?」


 リズの呟きに、僕は慌てて振り返った。

 何と言っていたか聞こえなかった。


「………良いわ、後で話しましょう。シャワーを、浴びるんでしょう?」

「そうかい?うん、そのつもりだよ。皮の下まで砂だらけだ」


 僕は右腕で左腕を握り、。むき出しになったシャフトと回路骨と肉の隙間に、ガラスの破片のように細かい砂が幾つも見える。

 全く、と僕はため息を吐いた。


「吸血鬼は肉体を組み換えられるんだろう?【霧】になれば、砂だけ身体の外に弾いたり出来るのかな?」

「不可能じゃないわ。というよりも、その辺の事は意識してないもの」

「羨ましいな」


 やれやれ。どれだけ羨んでも、、面倒でも、


「それじゃあ、お休み、リズ。騒ぎ過ぎないでくれよ?」

「えぇ、お休み、ロディア。よい夢を」


 僕は事務所奥のドアから研究室に入る。ドアを閉めて服を脱ぎ、身体の各部を分解しながらふと、僕は首を傾げた。

 さっき、リズは何を言い掛けたのだろうか。

 戻って尋ねるか、少し悩んで、止める。

 明日また聞けば良い。何せ僕たちには――時間は永遠にあるのだから。


 ………………………


 閉じたドアを見詰めながら、私は暫く無言だった。クラリスの造り出した最高傑作、【嘘吐人形ロディア】の閉ざしたドアを。


 

 初めてそれを見たときは、何よりもその炉心――記憶を受け継がせるという新たな魔石、【魂継石ソウルリンク】こそが彼女の最高の発明だと思ったものだ。


『新たな魔石の創造なんて、それこそ【幻想種】、絶滅した魔術師ウィザードの所業ね。凄いじゃない』


 ロディアではないが、私だって記憶力くらいはある。そう言った事を忘れたことはないし、言われたクラリスの苦笑めいた微笑みだって、ボン遺跡の壁画くらい鮮明に刻まれている。


 あの表情の意味を、私は全く理解できなかった――今夜までは。


 嘘は禁忌の知恵だと語った【嘘吐人形】。その言葉が他の誰でもない、彼女から発せられたとき、私はようやく理解できた。

 彼女は――。ヒトにその果実を与えた、蛇竜のように。

 或いは、神のように。


「………本当に、貴女は天才だわ。魔術師マギアクラリス」


 私はグラスを二つ取り出すと、ワインをボトルから注いだ。

 赤々と燃えて流れる、血のような飲み物。

 ヒトはこうして、肉体の代わりさえ造り出す。世界を騙そうとして、世界から騙されている。

 この香りに騙されないのは、血の味を知っている自分だけなのかもしれない。


 酔えもせず、眠れず、騙されない。それが、孤独というものだ。


 私はそっと微笑んで、グラスとグラスを口づけた。それから、私も口づける。

 赤い水は、血のような味が。

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