泣き顔隠しのクローゼット

 ドアを開け家に入ると、電気は点いているものの彼女の姿はどこにもなかった。

 ダイニングに着くと、テーブルの上にはサランラップが掛けられたごはん、味噌汁、肉じゃが、それから手書きのメモが置かれていた。


“落ち込んでいるので一緒にごはんが食べられません。申し訳ないけど、温めて食べて下さい。ごめんなさい”


 手に取り見ると、丸っこいけれど大きめではっきりとした彼女自筆の文字でそう書かれていた。


 僕はそのメモを読み終えるとテーブルの脇に遣った。そして寝室に行き仕事用鞄を置き、スーツを脱ぎ自分のクローゼットのハンガーに掛け、ネクタイを緩めた。


 ネクタイを取り、ワイシャツのボタンを二つほど外して着崩した後、僕は隣にある彼女のクローゼットの前へと足を進める。


「中、入ってますか?」


 クローゼットを僕は数度ノックした。


「……入ってます」

 少し間を空けて中から彼女の小さな声が聞こえてきた。普段はきはきと元気にしゃべるのに、今はぼそりと消え入りそうな声音で応答した。かなり傷つき、落ち込んでいるようだ。けれど返事をするということは、ある程度気持ちが落ち着いてきているということだ。


 彼女は何らかの原因で傷つき弱っている時、決してその姿を他人に見せようとしない。しかし、それを隠して普段通りに振る舞い続けられる程強くないという彼女は、今みたいに自分のクローゼットの中に引きこもるのだ。


 そんな狭い場所に閉じ篭らなくても見ないようにするからと言っても


「狭くて真っ暗な方が落ち着くの。あなたがいなくて見てなくても、ここに入っているから気にしないで」


の一点張りなため、彼女の好きなようにさせていた。


 鼻をすする音がクローゼットの中から聞こえてきた。今回もまた一人で泣いていたのだろう。


 彼女と同棲し始めてから何度かこういうことがあった。嗚咽を漏らしながら現在進行形で泣いている声が聞こえて来る時は、外から声を掛けたって決して反応は返ってこなかった。今は一度、鼻をすすったもののそれ以降は静かだし、だいぶ彼女も落ち着いてきているのだろう。少し時間を置いて再度声を掛ければ出てきてくれそうだった。


「まだ出てこられないのかい?」


「……メモに書いておいた通りです」


 彼女は丁寧語で答える。クローゼットに引きこもっている間はいつもこの調子だ。距離を置かれる。


「君は夕飯、もう食べた?」


「食べました。だから安心して下さい」


「ならよかったよ。じゃあ、僕は一人で食べてくる。落ち着いたら出ておいで」


 それだけクローゼットに告げると、僕は返事を待たずにダイニングへと向かった。











 ごはんを食べて後片付けをして寝室に再び戻ってくると、彼女は相変わらずクローゼットの中に引きこもっていた。いやに静かで少しだけ不安になった僕は、クローゼットに耳を当てた。中からはかすかに彼女の息遣いが聞こえてきた。


「だいぶ立ち直ってきたみたいだね」


 僕は中へと声を掛けてみた。


「……うん」


「そろそろ外に出てきたらどうだい?」


「駄目。ひどい顔になっているもの。あなたに幻滅されちゃう」


「幻滅しないよ。どうしても見られたくないんだったら見ないようにするからさ」


「……」


 彼女は黙り込む。こうやって同棲までして、彼女のあらゆる面を見てきた上でなおも愛しているのだから今更幻滅しようがない。


「お風呂沸かしておいたから、化粧崩れが気になるんだったらリフレッシュついでに落としてくるといいと思うよ」


 僕はそう付け加えた。夕飯を食べるついでに風呂を沸かしておいたのだ。


「……ごめんなさい。あなたに気を遣わせて」


「別に気にしなくていい」


「ありがとう。あなたの好意に甘えてお風呂に入ってくる」


「ここから離れた方がいいかい?」


「ううん。あなたが幻滅しないのだったらそこにいてもいいわ」


 そう彼女が言うのと同時にクローゼットが開き、中から彼女が床へと降り立った。目を真っ赤に充血させ瞼を腫らし、鼻柱を赤くした彼女。メイクも落ちてパンダ目で肌もガタガタになっていた。彼女が言う通りひどい顔だったが、そんな姿もまた愛おしかった。


「ごめんなさい、こんな顔を見せて。お風呂から出たら、普段通りに戻るから」


 俯き一方的にそう僕に告げると彼女はパジャマ類を手に取ると寝室から出ていった。











「一体何があったんだい?」


 深夜、就寝時間になり二人でベッドに入った時、僕は彼女にそう訊いてみた。


「駄目。それは言いたくないの。私が弱いだけだから。それにあなたに愚痴るのはお門違いだと思うの。自分の真っ黒な部分は知られたくないの。あなたにも、他の人にも。それが私のプライドだから」


 彼女はまっすぐ僕を見つめ、はっきりと言い切った。その凛とした目差しは澄んだ水のような清らかさと鉄のような強さを持っていた。こういう表情をする時の彼女は決して自分の意思を曲げない。


 僕は彼女をそっと抱き締めた。何も言葉は口にせずに、その見た目よりもずっと華奢な身体を包み込むように腕を回して引き寄せた。彼女もまた、無言のまま僕の背中に手を回す。そして僕の胸に顔を押し付けた。


 彼女は絶対に自分が泣いていた理由を話してはくれない。だから僕にはその気持ちを共有してあげられないし、掛けるべき言葉だって見つけられない。けれどせめて支えてあげたいという想いだけでも伝えてあげたい。


 強く僕の胸に顔をうずめ、ギュッと腕に力を込め抱きついている彼女。そんな彼女をただ優しく抱き締めるだけの僕。


 また明日になれば、きっと彼女はいつもと同じように元気な姿を見せてくれるだろう。そして僕はそんな彼女に普段通り接するのだ。今日のことは最初からなかったかのように。


 何もなかったように、見なかったことにする。それが僕らの暗黙の了解なのだから。


 しかしそれで構わない。傷つき落ち込んでいる様を知られたくないと彼女が望むのだから。僕はクローゼットと同じように、そんな彼女の居場所のような存在になれればいい。


 抱き締め合ったまま、僕らは眠りについた。










END.

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彼らの日常風景 七島新希 @shiika2213

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