第8話 いいえ、それは
「そろそろ行こうか」
父の五六が病室に入ってきた。父はまたうつらうつらと眠ってしまった小巻婆ちゃんを見ると六子に訊いた。
「ちゃんと小巻婆ちゃんに挨拶したか?」
「うん、今日からさざれおばさんちに行くってちゃんと言った」
「そうか、婆ちゃん喜んだろ」
「うん」
「でも、さざれ姉ちゃんは小巻婆ちゃんより厳しいぞ」
「それはお父さんにだよ。でも大丈夫。第三奥義斬宿剣は私が会得するって決めたから」
「そうか、それは凄いな。会得したら父さんにも見せてくれな。解明は野々宮先生がしてくれたけれど、父さんも実際に見たことはないんだ」
「えっ?」
私と六子は同時に小さな声を上げた。
「知らないよ、わたし」
「あれ、小巻婆ちゃん話してなかったか」
「うんうん」
私と六子は首を横に振った。
「そうか、小巻婆ちゃんも、もういい年だったからな……」
父は小巻婆ちゃんのことをじっと見ながら云った。
父も私たちも家の中では薙刀や函館六子のことを話すことはしない。それは母の久枝との約束になっている。
「教えて」
私たち二人が頼むと父は「うん」と頷いて、それからそのことを話してくれた。
「父さんがイギリスに留学してたときだ。まだおまえたちが産まれる前だから十年以上も前のことだよ。父さん、イギリスで十和子さんと会ったんだ」
「トワちゃん、イギリスに行ってたの?」
「うん、野々宮先生が日英同盟の改定の条件の一つとして、イギリスに連れていかれたんだ。あの当時のイギリスは暗黒物質の結晶化技術を欲しがってたからね。それで十和子さんも一緒にイギリスに行ったんだ。
十和子さんは簡単に言うと、まあ、スパイだな。あの人は工作部員だったからね。その辺は十和子さんもあまり話してくれなかったんだけど、でも、たぶん、それで良かったんだろうな。野々宮先生と十和子さんは仲が良かったから」
「うん」
私は頷いた。全く同感だった。
「残念ながら、そのときは野々宮先生はもう亡くなっていたんだけれど、十和子さんがいろいろと話してくれたんだ。十和子さん、もう九十に近い筈なのにおどろくほど美人だったなあ」
「それで?」
六子が話の逸れそうな父の言葉を遮って、本来の話の続きを促した。そうだ、あの斬宿剣が解明されていたなんて私だって信じられない。話の先が早く聞きたい。
「うん、野々宮先生は、函館さんの斬宿剣を目の前で見てから、ずいぶんと衝撃を受けていたらしい。イギリス陸軍の科学技術顧問を退任されてからも、精力的に研究なさっていたそうだ」
「それで、解明したの?」
「ああ、見事に解明していた。けれど、それはおまえたちにはまだ難しいかな」
「大丈夫、教えて」
「うん、不確定性原理ってわかるか。わからないよな。簡単に言うと、物事は厳密には決めることはできないって話なんだ。たとえば六子の体重が五十キロだとして」
「私、そんなにない」
「たとえばだよ。じゃあ、四十キロだとして、でもそれは本当は三十九キロかも知れないし、四十一キロかも知れない。というより、それは毎日変わっているだろ。体重をこれと正確に決めることは出来ないんだ。それと同じで、どんな物事にもある程度の自由度というか、幅があるんだ。わかるか?」
「うん、すごいよくわかる。わたしの体重は朝と夜でも全然違う」
「うん。それで、そのことは時間というものにも当てはまる。今という時刻も厳密には決まらないんだ。よーくよーく観測してみると、今という時刻は過去と未来に広がりを持って分布しているんだ。六子さんはね、神経を研ぎ澄まして、今という時刻を観測して、その中に宿っている過去と未来を見つけたんだ」
「わかった。それでその今に宿っている未来を見て斬ったのね」
「そうだ。よくわかったね。でも六子さんは予知だけじゃなくて、ほんの僅かながら過去改変もやっていたらしい。過去の物を斬るというのはそういうこだ。本当におそろしい技だ。それが六子さんの斬宿剣だ。
父さんはその話を聞いとき背筋が寒くなったくらいだよ。野々宮先生はね、それをもっと厳密に研究したんだ。歴史関数と運命関数というのを使ってね。お父さんは野々宮先生が書いた論文を見せて貰ったんだけど、一目で、それが斬宿剣を完全解明していることがわかったよ」
六子は父五六の話を聞くと黙り込んでしまった。狙っていた第三奥義斬宿剣が既に解明されていたことに動揺しているのだ。
それはそうだ。六子は小さい頃から函館六子の伝説を聞かされていた。
六子さんの斬宿剣――この八十年誰も見たことがないという、函館流第三奥義。それは六子が手に入れるべきお宝だった。それを始めに手に入れるのは、六子の名前を戴いた自分以外にはない。六子がそう考えたのも無理のないことだ。
六子が父の実姉で栗林道場を継いでいる栗林さざれに弟子入りするのもそのためだった。それなのに、それが他人の手によって解明されてしまっていたのだ。
六子はじっと考えていたが、しばらくすると、きっぱりと云った。
「いいわ。私は最終奥義斬理剣を貰う」
「おおー、そいつは剛毅だな。いやあ、しかし、あれは……」
今度は父が黙ってしまった。父は何と言っていいか、わからないのだ。
無理もない。斬理剣はこの顕界からあまりにも遠くかけ離れている。斬理剣は、文字通り、理を斬る剣だ。それは現実を超えた向こう側の超現実域にしか存在しない。
父は六子が真剣であることをわかっているので適当なことを言えないのだ。
「いいえ、それはだめ」
私は黙ってしまった父に代わり口を開いた。
二人が私を振り返った。
「斬理剣は私のものなの。私が先に解明するのよ」
「トミカ、おまえ……」
父は私を十美香ではなく、トミカと発音する。トミカではおもちゃのようではないか。せっかく小巻婆ちゃんがいい名前をくれたというのに。
でも父は男でそういうことがわからないのだからしょうがない。私は許している。
十美香とは十の美しいものという意味だ。十人の美しい者といってもよい。そして、それは十和子、美禰子、静香をも意味している。
六子にだって決して引けを取らない素晴らしい名前だ。
「女の子だったら六子という名前にする」
それは私たち二人が生まれる前から決まっていたことだという。けれど、この世界に突然現れた、もう一人の女の子の名前は決まっていなかった。
小巻婆ちゃんは、そんな私のために六子に負けない名前を考えてくれた。小巻婆ちゃんは、私のことをそこまで考えて十美香と名付けてくれたのだ。
「迷っていたの。栗林で行くか、小川で行くか。でも、お宝はあと一つ。もう迷っていられない。六子が栗林で行くなら、私は小川で行く。科学者になる。そして六子より先に斬理剣の秘密をいただく」
私がそういうと、六子が私を冷たい目で見た。いや、熱い目と云うべきかもしれない。六子の心の中で何かがめらめらと燃えているのがわかった。
六子はしばらく私を見ていたが、つんとすると、父の腕を引っ張った。
「お父さん早く、早くさざれおばさんちに連れて行って。ぐずぐずしてられない。私はもう十分待ったのよ」
「うん、そうだな。でも、帰ってきたくなったら、いつでも帰ってきていいんだぞ」
「そんなこと絶対にない」
「わかった。じゃ行こう。トミカは一人で帰れるな。お母さんは家にいるから」
「うん」
私が頷くと父は六子に引っ張られて行った。
けれど出口のところで振り返った。
「父さん、嬉しいよ。おまえが科学の道に進んでくれるなら」
父の五六はそれだけ言って病室を出て行った。
六子はおそらくもう小川の家には帰ってこないだろう。三年もかけて両親を説得したのだ。本当にやるつもりなのだ。私も負けられない。
私だって勉強ではクラスの誰にも負けたことはないのだ。
最後に第四回大運動会の結果について報告しておく。
優勝は里見美禰子。決勝は美禰子と我が小川三四郎の対戦だった。
だが三四郎は善戦も何もしていない。暗黒流体をひり出している最中に美禰子の幻羊体当たりをくらい、瞬殺された。
そのときの三四郎の言葉が残っている。
「瞬殺じゃない、秒殺だ。お花畑で遊んでいたら、いきなり大きな羊に体当たりされたんだ。わけがわからない。夢見てたんだよ。目が覚めたら土俵の下だった」
遺憾ながら、まさに我が一族の恥。
私は小川を選択したことが正しかったのかどうか時々不安になる。(つづく)
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