第4話 女子には必ず敬意を
「トワちゃんの話は飛ばして」
「そうかい? でも十和子さんもポスト美禰子なんて呼ばれてずいぶん人気があったんだよ。まあ、それはこの栗林小巻が許さなかったんだけどね。うふふ」
小巻婆ちゃんはいつの間にか精気の甦った顔で嬉しそうに笑った。
野々宮宗八の妹、野々宮十和子という女性は誰もが驚くような美人だったという。だが、彼女は確かに優れた操士だった。
十和子は日英親善試合のために特別編成された日本代表操士団十人の中にも選ばれている。
しかし彼女にとって、そんなことはどうでもよいことだったろう。
彼女はただ兄の野々宮宗八と一緒にいたいがために、賊軍の子女しか入らないという工作部経由で機科大学に潜り込んでいたのだ。
そして世界的に名前の知られた科学者である野々宮宗八の意匠のちりばめられた機体「ブラックハート」に乗っている限り、彼女は負けるわけにはいかなかった。
十和子が負ければ、兄宗八の名前を貶めることになるからだ。ただ、それだけなのだ。
十和子はその機体の踵に埋め込まれた特殊合金の足蹴りだけで、予選を難なく二連勝する。彼女のピンヒールに踏まれただけで、相手の機体の蒸気タンクはガス漏れを起こしたし、それは相手の機体の機関部ですら貫通した。
そう、彼女は得物を持たなかった。おそらく持ったことすらない。脚長の機体を駆使し、踊るようにして足蹴りを繰り出す。それが彼女の闘い方だった。
私は函館六子よりも野々宮十和子にこそ親近感を覚える。十和子は孤独な愛の戦士なのだ。
けれど誰もそれをわかってやろうとしない。六子もそうだ。
「函館さんの第三奥義、斬宿剣の話が聞きたい」
六子がそれを言うと、小巻婆ちゃんのいつもは柔和な目がぎらっと光った。
六子の本当の目的はそれなのだ。あと何回聞けるかわからない、小巻婆ちゃんの話からその技を盗み取ろうとしている。
「そうかい。そうだね。でも、ものには順序ってものがあるからね」
「でも、もう全部何回も聞いているもん」
「ふふ、わかったよ。でも聞いただけで、会得できるものでもないよ」
小巻婆ちゃんは厳しい顔で云った。もう引退しているとはいえ、栗林流槍術の正統継承者である事実に変わりはない。
「お父さんは、聞いただけで会得した」
「五六は会得したんじゃない。解明したんだよ。あれは三四郎様と同じで学者だからね。それにそれは函館流第二奥義の斬心剣のことだよ」
「あっ、そうだった」
六子は素直に頷いた。
気が強い六子がそんな簡単に人の云うことを聞くのは珍しい。
六子はまだ九歳だ。だが、栗林槍術の稽古を始めるには早くはない。むしろ遅すぎるくらいだろう。それが昨日の夜母の久枝からやっと許可が下りて興奮しているのだ。
その六子の背には昨日まで揺れていたポニーテールがもうない。六子は栗林道場に入るために、小さい頃から伸ばしていた髪を今朝、バサッと切ったのだ。
今日の六子はまるで背中までが希望で膨らんでいるように見える。
小巻婆ちゃん――栗林小巻も第四回大運動会のときは予選落ちしている。
それは今から八十年前、小巻がまだ十四歳のときのことだ。
小巻の予選敗退は、結果として、函館六子を大いに助けることになる。そしてそれは私たちの曾祖父小川三四郎と栗林小巻の馴れ初めの物語でもある。
函館六子のことを語るとき、私たちはどうしてもここから始めなければならない……
あのときの栗林小巻の技の多彩さとスピードなら大運動会の本戦でも十分に戦えていただろう。
だが予選で一勝してから迎えた相手が悪かった。それが昆虫研究会代表の忌部八九朗だ。
八九朗は踏機の内部奥深くに隠れ潜みながら、人の体に卵を産み付けるという肉食蝿をけしかけた。それがどこまで本当の話なのか、今となってはわからない。口三味線を弾くのも戦い方の一つだ。だが、卵を産み付けるという肉食蝿をけしかけられて、恐怖を感じない女性がいるだろうか。
そして小巻の攻撃は軽かった。いくら懸命に撃ち込んでも、踏機の中に深く潜り込んだ忌部八九朗に届くことはなかった。
「降参した方がいい。醜い傷跡が体中に一生残る」
八九朗は囁いた。
けれども小巻はしっかと言い放ったという。
「栗林流正統継承者の名にかけて絶対に退かない。蟲師などに遅れを取ったら末代までの恥になる」
だが、そのとき函館六子がタオルを投げた。
顔をくしゃくしゃにして泣き崩れる小巻に向かって函館は笑顔で云った。
「退くことも大事だ。この次に勝てばいい。そして、それは簡単なことだ。わたしが斬鉄を教えてやる」
以来、栗林小巻は函館六子が目の前で斬って見せた鉄棒と共に寝て、鉄をその肌身でもって理解し、わずか二ヶ月半で函館流第一奥義斬鉄戒慎剣をものにする。
函館六子は見ただけで鉄を理解したというが、それは人それぞれのタイプというものだろう。私はタイプの違いには優劣はないと思う。
小巻は物事を肌身で理解するタイプであり、そして彼女なりの方法で鉄を理解し栗林流槍術に函館六子直伝の斬鉄戒慎剣を取り込んだ。それで十分ではないか。斬鉄を現実に今日まで伝えている事実こそ重い。
そのきっかけとなった鉄棒は今も小巻の枕元に置かれている。
その鉄棒の切り口は見る人が見れば間違いなく惚れ惚れする。
さらに函館六子というかつて存在した剣士の力量まで想像が及ぶ者であれば、それを見るだけで背筋が寒くなるという。
あれから八十年が経った今日でもその鉄棒は輝きを全く失っていない。
しんとする会場に忌部八九朗の高笑いが響いた。八九朗の二戦目の相手に名乗り出るものがいなかったのだ。誰も蟲師などとはやり合いたくない。
「対戦希望者は、前へ」
行司の野々宮がそういいながら会場を見渡した。
「挑戦者がいないのであれば、忌部八九朗は本戦へ。予選会はこれにて閉会となる。
よいか?」
「応」
そのとき唯一人応えたのが小川三四郎だった。暗黒流体という怪しげな術を使う、謎の転校生だ。
本当は特待生は予選には出る必要はないのだが、三四郎はそのことを知らなかった。
官費で賄われている特待生が、予選で一般学生に敗退するようなことなどあってはならない。もし、そんなことになれば退学相当の処分を受けることになる。
三四郎がそのことを知っていたら、予選に出ていたかどうかはわからない。
けれど三四郎はそんなことは知らなかった。颯爽と土俵に駆けあがった。
「男子は女子には必ず敬意を持って接しなければならない」
熊本のど田舎から出てきた転校生は土俵に立つと、いきなりそんな台詞を吐いて、会場の失笑を買った。
それは蟲師のやり口に憤る、三四郎なりの正義感の現れだった。しかし土俵は闘いの場なのだ。男も女もない。いやであれば出場しなければいいし、降参することだって出来る。三四郎の言葉は土俵の上では完全に的外れだった。
だが、まだ十四歳だった小巻のハートはがっしりと鷲づかみにされる。
小巻は三四郎が自分の仇を取るために、退学処分も覚悟の上で土俵に上がったと思ったのだ。
このとき三四郎の胸の中には美禰子がいたのだが、それでも、このときに小川三四郎が私たちの曾祖父になることが決まったといえる。栗林小巻の怖ろしさはこの辺にもあるかもしれない。
相性もあるだろう、三四郎の暗黒流体は難なく人食い蝿を駆除する。ただ、その暗黒流体なるものが人食い蝿以上にえげつないものだったために、正義の漢、小川三四郎の評判は上がらなかった。
それに本人は知らないことだが、三四郎は操士たちの間では「蚤取り三四郎」と呼ばれていた。上京した初日に事務員の幾代の部屋に泊めて貰ったのだが、三四郎は幾代と同衾しながらも、一晩中、蚤取りだけをしていたのだ。それが幾代の口から漏れている。
痛い。すでに亡くなった曾祖父のことながらこれは私も痛い。
八九朗との戦いの後、三四郎の裏の名前に「蝿取り三四郎」というバリエーションが加わったことは云うまでもないだろう。
小巻婆ちゃんは恥をかくよりは死を選ぶほどの人物だが、私たちの曾祖父三四郎様はこのあとも恥をかく。まさに末代まで残った大恥をかいてくれる。
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