第2幕 誰かが誰かを救う頃

 旋律が伸びやかに竜を誘う。

 軽やかな日差しは早朝特有のもので、そんな優しいものでも寝不足の目には突き刺さる。

「何溜息ついてるんだよ? 俺の方が溜息つきたいぞ? 俺何時に起きてると思ってんの? 君らに付き合うためにいつもより一時間も早く起きて、ランニングしてきてるっていうのにその態度なの? いやー、君たちの性格疑っちゃうなあ」

「あんた、ほんと……」

 肩で息をしながら、次の言葉を探して、そして見つけられなかった。

「はい、もう一周、カザくんは音程もうちょっと保ってあと三曲言ってみようか。まず、陣形を 指示する歌は、きちんと音運び考えないと、竜が混乱するからね」

「はい!」

「はい、紅鏡くんは体力なさ過ぎて片腹痛いから走った走った」

 地球圏保安教育東学校、通称圏教東のグラウンドは広大で走って回ると大体二十分はかかる。もうそのグラウンド外周を三周目突入している。こんなに汗水たらして体力をつけるのも久しぶりだ。入学してからいかに体力維持を怠っていたかを紅鏡は悟った。

望長は、まず、葵と紅鏡に大きく二つの問題点を告げた。

「君らはまず、体力がない。基本的なことができてないってことだ。紅鏡くんはとにかく走って、体力をつけること。カザくんは歌い手だから、腹から歌う努力をした方がいい。君の声は旋律云々の前にそもそも、竜に届かない。声量をつけよう」

 にこにこと笑顔で告げられて、カリキュラムを組まれて早朝に呼び出されること今日で十日目だ。放課後ももちろん呼び出されて、ランニングに連れ出されて帰ってくるころには葵も紅鏡もよろよろになっているが、それでもまだ夜は長い。その後に戦術や術式の勉強も叩き込まれて、寮の夕飯前にようやく解放される。泥の様に眠りたいところだが、次の日の課題を無理矢理終えて布団に入る頃には宵も深まり、色々なことを等閑にしてそのまま寝入るという生活を続けていた。

 グラウンドを回ってどうにか戻ってくると、望長は、校舎前花壇の淵に腰掛けて何やら本を読んでいた。光が顔に綺麗に当たって、視線を落としていると彼の瞳に乱反射する。そうすると、彼の瞳が一瞬緑がかったように見える。

「あのさ、望長さん」

 声をかけるとようやく顔があげられる。その瞬間に、不自然に口の端を上げて彼は笑顔を作る。本当は、笑いたくないのだろうなという顔を見て、いつも紅鏡は内心嫌な気持ちになる。そんなに笑いたくないのに、彼はどうして笑うのだろうと思ってしまう。

「走って来たぞ」

 笑顔が手のひらで隠れる。大きな彼の掌で、頭の上を混ぜられるのだ。撫でると言うより、全体的に混ぜる様にする。

「偉い偉い。紅鏡くんは、意外と素直だよね。もっとさっさと逃げ出すかと思ったのに」

 この手のひらに、どうしても抗えないのが不思議だった。別に、落第してこの学校を辞めることになってもいいかもしれないという気持ちにはなっていた。苦労して入ったとしても、結局のところ紅鏡は、家の威光があったからこそ入ったにすぎないと、途中で気づいたからだ。

「別に、たまには、こういうのもいいかと思っただけだ」

「ふーん。君素直じゃないねぇ」

「あのな」

 ははっと笑って、またどこからともなくエネルギーバーを取り出して渡される。これも慣れたのでさっさと受け取ってパッケージを開けて口の中に突っ込む。いちご味のエネルギーバーが紅鏡のお気に入りだと気付いた望長は毎度これを渡してくれるようになった。

「君、手足も長いし造りが大きいし骨も太いから、栄養与えればもうちょっと体が大きくなるかなと思って」

「遠まわしにちびって言いたいのかよ」

 同級生の平均的な身長よりは上回っている自信はあるが、いかんせん望長は長身だった。紅鏡が見上げるほど背が高い。正直、面白くなかった。

「竜使いは大抵、小柄が有利だと言われてるよね、操縦士だから」

 体重が軽ければそれだけの身体的負担も減るし、竜が嫌がらないのだ。祖父も父も、兄も小柄で細身だ。食事も完全に管理されたものしか口にせず、菓子など毒だと祖父が怒り狂ったこともある。

「オルフェウス家って黒髪にとび色の瞳で小柄っていうイメージが強いけど、君は大ぶりの造りになりそうなら、それを伸ばせばいいと思ってさ。……もしかして操縦士になることを想定して、普段からあんまり食べ物食べないとか? せっかく体が伸びたがってるんだから、ちゃんと食べりゃいいのに」

 食いかけのバーを口から出して、そのまま望長に返すように差し出す。

「あんたさ、母親みてぇ」

 口うるさくにこにこ笑顔で、的確に心の隙間に入り込む。その癖、自分は入られたがらない。そう教えてやると、意外そうに彼は片眉を器用に持ち上げた。

「そう言われたのは、初めてだな」

 馬鹿らしいとばかりに、ノルマを達成していないのにジャージの上着を肩にかけて、背中を向けた。

「ちょっと! 僕まだ練習中なんだけど!」

「……うっせ」

 抗議の声をあげる葵を置いて、さっさと歩き出した。それまで朝早く起きていたのがまるで無駄だったように、それ以上の言葉は重ねずに、歩き出す。

 望長は引き留める声も出さなかった。それに、口の中に残ったエネルギーバーが喉にはりつく。彼の特訓を受けてから、酷く空腹を覚えるようになった。竜使いは、小柄でなければならないと思っていたので、そんなものを考えてはいけないのだと思っていた。母親はおやつを出すことも無かったし、余計な小遣いも与えられなかった。才能がないのだと教えられても、母は祖父たちと同じ生活を紅鏡にも与えた。

「あー、くそ」

 売店は、校舎の建物の一階、食堂脇にある。練習場所である校庭から向かうと他の部活をしている練習生を横切る形になる。陸上部が必死に走り抜けている間を横切る気持ちになれず、売店への道はあきらめた。それより、校舎の後方にあるドーム状の建物へと、校庭脇から向かう。校舎後方のドームは、中が植物庭園になっている。蝶や動物も中で放たれて、自然の食物連鎖が中で保つようにされていた。その食物連鎖の頂点に居るのが、竜だ。

「おっ、来たか」

 褐色の肌に、優れた体躯を持った大男がドーム入口の花壇に腰掛けていたのに振り返る。

「お前、やっぱり逃げて来たな」

 このドームの管理人、サヴァランは読んでいたらしい雑誌を置いて立ち上がった。紅鏡の兄より少し年上らしいが、年齢が分からない彼はいつも棒キャンディを咥えている。

「うるせーよ」

 憎まれ口を叩こうとするとすぐににやりと大人の男特有の笑顔が返ってくる。サヴァランは、火星生まれのコロニー育ちで、見事な体躯と竜の飼育へ特別な許可が下りるほどの技術をもつ生物学者だった。白衣こそ着ていないが、技術職員という形で雇用されているため、こうしてドームの管理人としての役割も追っている。

 それから、この学校の中で数少ない紅鏡の理解者だった。

「坊主、良いから中、先入ってろ」

 ドームの中に入るには、解除コードが必要になる。それと管理人しか身に着けていないパスリングだ。サヴァランは右手の人差し指に嵌めていたそれを紅鏡に投げつけると、さっさと雑誌に視線を落とした。

 紅鏡は、手にしたパスリングをすぐにドームの解除ゲートに翳して、中に入る。瞬間に、むわりと温かい風が覆い被さってきた。竜が過ごしやすい様に気温と湿度が高めのこのドームでは、制服のまま入るとすぐに汗をかいてしまう。ジャージの上着を脱ぎながら、ゆっくりと歩き出す。

「黄色」

 ゆっくりと囁くように呼ぶと、彼らは現れる。

 嘶きが聞こえる。この世にこれほど優美な生き物は居ないと人は言う。紅鏡も同感だった。長い尻尾に顔面を覆うふわふわの毛皮、首から胴体にかけての七色に光る鱗が見事で、圧倒的な強大さと荘厳さを見せつけられる生物、竜。彼らは、彼らだけは、紅鏡の世界でいつでも優しく輝いている。

「黄色、お前大きくなったな」

 きゅうと、竜が鳴く。尻尾に黄色い色が交じる雌の竜である黄色は、かつて紅鏡の祖父のパートナーであった橙の娘にあたる。竜は、一度のお産で一匹しか子供を育まない。それも、生涯において何度も子育てをしないので、橙の娘は黄色だけだった。

「白銀は、あっちで元気かな」

 橙の息子である白銀は、兄と共に地球圏保安教育西学校に居ると聞く。会いに行きたかったが、理由がなかった。兄に疎まれているのもあるし、白銀は黄色より紅鏡に興味がなさそうだった。

「黄色、お前、俺の声が、聞こえるか」

 声をかけても、餌が貰えるものだと思って近づいたのに、もらえないことに憤慨しているらしかった。黄色は嘶き、尻尾をぺちりと紅鏡の額に当ててふわりと姿を消してしまう。手加減して当てられているとはいえ、竜の体躯から考えると軽い接触でも猛烈に痛い。額を押さえながら、紅鏡はしゃがみ込んだ。

 幼い頃は、竜の声が聞こえた。聞こえたと思っていたが、とある時期から彼らと全く意思疎通が取れなくなった。橙や浅黄の声が聞こえなくなって、あれほど優しかった竜たちはそっけなくなった。それでも、ずっと一人で生きてきた紅鏡は竜の傍に居ることを選んだ。彼らの傍に居て、彼らの世界を見ることを選んでいた。

「また、性懲りもなくお前は、竜に話かけてんのか」

 煙草の匂いがして顔をあげると、サヴァランが白衣を着こんで気怠そうに見下ろして来ていた。

「おら、立てよ。ここはあいつらの飯用に、なかなかえげつない虫とかも放ってるからな。そんなふうにしゃがんでると危ないぞ」

 先日、ふと向けた視線の先に足ほどの大きさのダンゴ虫が歩いていたのを思い出して、紅鏡はすっと立ち上がる。虫が嫌いではないが、あんなに巨大な生き物に襲われてはひとたまりもない。

「その、……先生、飯は、まだ」

「あー、竜たちの? 定期的に当番が撒いてくからな、もう終わったよ。何お前したかったの?」

「いや、その」

 サヴァランに敬語を使うのはどうも慣れない。一年の初め、行くところもなくしょっちゅうドームに足を運んでいた紅鏡に声をかけたのはサヴァランだ。何かと話を聞いて来たり、望長のように親密ではないが寄り添う様に竜のことを教えてくれる。

「竜の世話がしたきゃ、ちゃんと学科も落とすなよ。二年の成績で、ここの当番に潜り込めるか決まるからな。お前、俺みたいな道を選ぶ気なんだろ?」

 サヴァランはポケットから棒付キャンディを取り出して口の中に運ぶ。長時間舐めていても、なかなか溶けないタイプのものらしい。ドーム内でさまざまな作業や実験などを繰り返している彼は、こう見えて忙しくしているので両手が塞がらずに適当に糖分がとれるキャンディを愛食している。

「お前、小早川先生に聞いたけど、実技は悲惨なんだろ? なら」

 初めから、竜使いになれると思って入学したわけではなかった。竜使いの才能がないと言われ続けていたし、実際になかった。体力テストと学科が合格しただけで、竜使いになれるわけではない。それでも、と視線をあげてドームの天井を見上げる。

「まあ、お前が最後の最後まであきらめたくないのも分かるけどよ。せっかく、竜使い科に入れたんだしな。ここで転科しちまうともう二度と竜使いにはなれんしな。……でもなあ、紅鏡。お前は乗り手にしては大柄だし、食事制限だってしてんだろ? 無理しなくても、お前のすきなように食って、なあ? 学科だとそれなりの成績取ってるんだろ?」

 ドームの天井でどこからか現れた竜が嘶く。まだ幼かった頃、彼らの背中に乗せてもらって、遠くの遠くまで出かけたことがある。祖父は怒り狂って紅鏡の頬や腹を打ったが、それでもあの日の世界を忘れることができない。

「今、無理に実技を続けて留年したら、お前ここの世話も難しくなるぞ」

 八方塞がりだと、思えた。昔からこうだった。閉鎖感がいつも迫っているし、何かしらに将来への展望など見えることはなかった。才能がないからと一人で離れで暮らしていた頃はここまでではなかった。あのころは、竜と話すことができたからかもしれない。

「……うるせぇよ」

「お前なあ」

 伸びてくる手を避けて、ドームの入り口へと向かう。昔の様に、紅鏡を引き留めてくれる竜も居ない。ただ、それでもどうして彼らに惹かれるのか、理由を掴みきれないまま足を左右に動かしていた。

「おーい」

 呼ばれて顔を上げると、そこに特有のへらりとした笑顔が待っている。

「あんた……」

「望長先輩って、ちゃんと呼んで、そこはさ」

 にこにこ笑顔に真意を見せずに、長身を押し込める様に少し背中を丸くして、不思議そうにドームの入り口を見ている。望長は、ジャージ姿ではなかった。着替えたのだろう。彼の横には、葵も立っている。

「あのさー、君がどうしようと勝手だけどさ、君のパートナーは僕なんだよ? 分かってんの紅鏡くんさあ」

 葵はジャージのままだった。彼は実技演習が一限から入っているためだろう。

「反抗したいし、練習したくないのも分かるけど、僕も巻き込むなよ」

 ぶつぶつと文句を言う割に、少し俯いている。謝罪の言葉を口にせずにいると、はいと差し出されたものがある。紅鏡お気に入りのエネルギーバーだ。

「君ちょっと、辛抱しなさすぎ」

 そんなんじゃもてないよと葵は言う。自分は女子部に可愛らしい彼女が居るからと胸を張りながら。そしてさっさと、ドーム横の花壇を通り過ぎて校庭に向かって歩き出す。葵も紅鏡よりは小柄でも男らしい肩幅と背中の広さを誇っている。ふと、エネルギーバーに視線を落として、パッケージを剥いた。


◆第二幕 二場


 竜使い科の科目は、普通科に比べて実技が多く設定されている。その上学科も、普通科に比べて高い水準を求められるので、結果ついていけなくなるものが毎年多数存在する。

「しっかし、学科だけでもきついのに、実技もこんだけ振り落とし方式だと萎えるよなあ」

「まあ、とはいえ竜使いになればエリート中のエリートとして年金なんやらいろいろ優遇されるわけだけどさあ」

「それだけじゃない、名誉もつく」

「名誉で飯が食えたらね」

 実技訓練が行われる圏教東自慢の施設、訓練生用外施設群は、巨大な竜用プールから、竜に乗って実戦さながら宇宙空間に飛び出せる用の無重力空間発生装置から、運動施設から非常に予算を注ぎこまれて作られている。その中の一つ、音声抑制空間が紅鏡が一番苦手とする場所だった。

 施設群の一番奥に存在し、中に入ると体育館ほどの空間に巨大なスピーカーのようなものが設置されて、竜の模型が鎮座している。竜の疑似機だ。流石竜使いの学校なだけあって最新機器が投入されているが、妙にリアルな質感で再現されてきちんと体幹を利用し手順通りに乗らないとあっという間に振り落とされる。ロデオに似ていると、乗馬経験者がよく口にしている。

「おい! 貴様ら! うだうだ口の減らん連中だな! 竜使いになりたいと思うものがそれほど口が軽いとは、まったく笑止! というわけで貴様らのさえずりなど聞きたくないのでスイッチオン!」

 本日の実技教官である小早川が持っていたスイッチを押すと、紅鏡の隣側で喋っていた連中の声が遠ざかる。その名の通り、音声が耳に届かなくなる電波が発生されて、その間竜使いとして重要な声が奪われるのだ。

『竜に騎乗せよ』

 小早川の後ろに指示内容が投影されて、しぶしぶ訓練生はその指示に従う。紅鏡も、このロデオに恐る恐る乗った。そして案の定、振り落とされる。

『竜に騎乗し、十分間静止せよ』

 指示通り動かなければ実技の点数は貰えない。必死によじ登り、竜使いの手順に従い、声を出しながら騎乗しようとする。が、あっさりとまた振り落とされた。左右を見渡すと、ロデオのごとくさっさと振り落とされて呻く候補生は少ない。皆、いい加減に竜の騎乗に慣れているのだ。だが、紅鏡はどうしても、恐る恐るしてしまい、振り落とされる。体幹を鍛えて走り込めとあれほど望長に口を酸っぱくして言われても、ある程度しか指示に従っていなかったのがここであっさりと自分に返ってくる。

 竜は、努力しなければ乗れないのだ。才能も必要であるし、体幹や優れた身体能力も必要だが、それ以上に竜をわがものにし操ると言う気概も必要だと小早川は言う。

『実技訓練を終了する』

 一度も模擬機に乗れないまま、無情にも時はたち、実技の時間は終わる。

「いい加減、貴様らの虫を這う様な騎乗の様子にも私が慣れてきてしまったが、それでは貴様らが一人前になるには到底時間が足りない。紅白戦も近いので、各自自主訓練に励むように!」

 小早川の美しい背中が遠ざかる中、聞こえていなかったはずの周りの雑音が紅鏡を覆う。

「あいつ、騎乗もできないのかよ、オルフェウス家だっていうの、嘘なんじゃねぇの?」

「気の毒、いまだに騎乗できないのあいつくらいだろ? とんだ見た目オチじゃん」

 ひそひそと、聞こえる様に耳を覆う。この後も、実技はまだ続く。心が晴れないまま、より一層惨めになりながら、ただ立ち上がることしかできない。紅鏡は立ち上がり、ポケットから滑り落ちたものに視線をうつした。いつのまにか突っ込まれたのだろう、エネルギーバーと視線が合った。


 むしゃりと、肉を食らう唇の色が女みたいに赤いなと、ぼんやりと思ってしまう。その視線を感じてか葵は不愉快そうに口を歪めた。昼休みの食堂で二人、こうして食事をとるのは戸惑う。ずっと、一人で売店のものを食べながらドーム入り口前で食べてきたので、人と食べるのはいまだに慣れない。そもそも、幼い頃から離れで一人で食事していたのだ、口に何かを入れる最中に人が話しかけてくると返事をするタイミングも掴めなかった。

「あーのさー、紅鏡くんて、実技クソだって聞くけど、見た感じだとほんと酷いね」

 葵は、小柄だが非常によく食べる。昼休みの時間に食べられるだけ食べてやろうという気概があるのか、焼肉定食にうどん、スパゲッティだけではなく、学校指定の鞄からは巨大な菓子パンがはみ出ている。

「お前なんでそんなこと知ってるんだよ」

「えー、実技隣の施設だったの知らないの? 覗かせてもらった」

「……音が聞こえないと、不安になるんだよ」

 言い訳の様に、視線を逸らしながら自分が選んだはずの、カボチャのスープを一口啜る。食べることにあまり執着をせずに今まで過ごしてきた所為か、味も量も適当に過ごしてきた。そのため、言い訳を吐くと味もしなくなるのが不思議だと思っていた。

「いっつも音を聞いて過ごしてたし」

 竜が好んだ音楽を、いつも聞いていた。音を遮断されると不安しか募らず、習ったことも忘れて動揺してしまう。

「あのさ、竜使いの活動場所って宇宙空間でしょ? 乗り手は、無線がきかなくなったら無音の世界で竜に騎乗していかなきゃいけないんじゃん。だから、竜が従う手順をきちんと覚えるための訓練があるんじゃん。いちいち音が聞こえないからって動揺するの、ほんとしょぼいよね」

「お前ら歌い手は良いよな、そうやって歌ってりゃ良いんだから。こっちの苦労も知らずに」

 口にすると、葵は瞬く間にスパゲッティを啜り込みながら、くっちゃくっちゃと口を動かした。

「あのさ、歌うってどれくらいエネルギー消費するかわかってんの? 自分の身体を楽器にするってどういうことか分かってないでしょ。決められた音程を正しく、決められた何百とある歌詞を組み合わせて、決められた戦術を組み立てるのはこっちなんだよ? そっちはただ乗ってるだけじゃん。まあ、乗れもしないわけだけどさ」

 葵の言葉に言い返しもせずに、下を向くと、葵は一つ大きなため息をついた。

「ごめん、言い過ぎた。まあさ、訓練で落ちこぼれてたからっていちいち、そうやって凹むのやめなよ。入った時点で分かってたんでしょ」

 カバンから菓子パンを手に取って豪快に口に運びながら、葵に問われて、また紅鏡は答えられずに下を向く。食堂のテーブルはよく掃除されているが、年月を重ねているためかあちらこちらに細かい傷がついている。その傷の一つを視線で辿っていると、葵が話を変えてくれた。

「あのさ、紅鏡くんはさ、音楽とか好きなの」

「……好きだ」

「ふーん、好きな人の曲とかあんの?」

「グミ・エラト」

「えー、かなり昔の人じゃん。僕の好きなアーティスト、教えてあげよっか? 最近は電子工学をもとに作られる新しい楽器が流行っててさ、電波と一緒に融合する音楽が流行ってるんだよね。声を融合して音が凄く緻密に計算されてるんだ。音楽計算って言われるジャンルだけど」

 差し出されたデータチップを受け取れずに、視線を逸らすとため息をつかれた。

「あのさあ、紅鏡くんはさ、グミ・エラトのどこが好きなの?」

「どこ……?」

「声が良いとか、メロディがいいとか、歌詞がいいとかあるじゃん」

 竜が好きだったから、では理由にならないだろうかと視線を逸らしていると、葵が旋律を追うように小さく鼻歌を歌う。グミ・エラトの初期の代表曲のサビ部分を難なく歌う。流石歌い手科だと思っていると唐突に鼻歌が途切れる。

「んで、どこが好きなの」

 それは、恋人に対する言葉にも聞こえて、紅鏡は視線を外したまま、食堂の窓側を見た。大きなテラス席が設置されている外と中は、巨大な一枚の窓で仕切られている。そこには、外も中も明確な違いが無いように見えるが、テラスに座れるのは学年の成績上位者と暗黙のルールがあった。

 望長は、数か月前までそこでよく食事をしていたのだと、葵は教えてくれた。

「別にどこかと言われても……」

 居場所があるから、竜の傍が好きなのでしょうと母に聞かれても、それは違うと言えなかったかつての記憶が蘇る。ただ傍に居たい、ただ好きだけでは人は納得しないのだ。

「……声、かな」

「声?」

「グミの声は、低音から高音までを跨いで、凄く直線を描いてるイメージがする」

「直線? あの程度の音域なら最近よく聞くじゃん」

「最近が、よく分かんないけど……俺は」

 正体不明の歌姫、伝説のアイドル。緑色の瞳と、緑色の髪の毛がどの惑星圏にも存在しない色彩で、彼女は何者なのだ、もしかしたら人類ではないのかもしれないと騒がれた。突然全宇宙にその名を轟かせた何オクターブも行き来する声は、機械の様に人工的で、小鳥のさえずりの様に心地よく、波の音の様に静かに人々の心に浸透した。その声を聴くだけで興奮作用や鎮静作用があると持て囃されて宇宙を掌握する歌姫を言われていた。だが突然彼女は、姿を消した。アルバムも数枚しか残しておらず、時代の波に呑まれてこうやって葵の様な音楽を愛する者たちにも忘れ去られていこうとしている存在。それでも、あの声が、今でも好きだった。

「好きなんだ」

「ん? 恋とかそういう話?」

 柔らかな低音に問われて振り返ると、食事の乗ったお盆を持ってにこにことまた例の真意が読めない笑顔を浮かべた望長が立っていた。

「あれ、先輩テラス席に行かないんですか?」

 葵の言葉に例の笑顔を浮かべたまま、さっさと望長は紅鏡の隣に座った。焼肉定食に、手製の弁当を乗せている。

「お弁当持ってテラス席で女の子と食べてるイメージだったのに、なんですか? もしかしてお昼も俺たちの監視してるとか?」

「んー、まあ、君らほんとびっくりするくらい成績悪いみたいだし、そういうのも含めてちゃんと見ろって言われてるけど。まあ、抜き打ち調査、かな」

 いただきますと両手を合わせて、焼肉定食からさっさと平らげていく。箸運びも美しいし、食べ方も丁寧だ。

「あのさ、君たちの栄養バランス最低だよね。特に紅鏡くん。何、ダイエットでもしてんの?」

「あー気付いちゃいました? この子ほんと、あほみたいに食べないですよね。その癖、運動頑張ったりするから縦に伸びるんだかがりがりだし」

 ここのところ、やたらと望長からは栄養のことについて問われることが増えた。

「食えりゃ問題ないだろ、こんなもん」

 スープを啜ると、弁当を横に置かれた。

「何だよ」

「あげる、それ。俺のお手製」

「はあ?」

 何を言っているんだと返そうとして、葵がそれを奪い取りさっさと包みを開けて歓声をあげた。

「ふわー。凄いこれ、茶色い系のお弁当。僕大好き、もー。母さんの味とか飢えてるんだよねー、寮生活長いと」

 望長のイメージからは離れた丸っこい小さな弁当の中に煮物や焼き卵、たこさんウィンナーがはみ出るまで詰め込まれている。母親はこんな料理を出してくれることはなく、紅鏡は同級生が遠足でそれらの食べ物が楽しみだと言うのが、不思議でならなかった。

「君さ、エネルギーバーも食べるときと食べない時があるし、せめてお昼くらいちゃんと食べなよ」

 箸も持たされて、食べる様に促される。じっと見られているので逃げられずに、目についた焼き卵を一つ口に入れた。甘くて優しい卵の味だ、ほろりと口の中で溶けていく。

「どうよ、美味しいでしょ」

「その……」

 美味しいと口にしたら、今まで居た場所に戻れない気がした。紅鏡は言葉を探しながら歯を食いしばって、それまでの食べていたカボチャのスープを啜った。卵焼きと違い、まったく味がしなくなったスープが喉を下る。

「ふーん、その子が噂のオルフェウス家の駄目っこちゃん? 何だ、可愛いじゃん。望長、楽しそう」

 望長が作った弁当をどうやって食べればいいか迷っていると、妙に甲高い声が聞こえた。望長の背中側から顔を覗かせた女は豊満な肉体を望長の背中に押し付ける様に腕をまわしてにっこりとほほ笑んだ。はちみつ色の大きな瞳を囲う長いまつげがバサバサと音を立てそうだし、長くて美しい栗色の髪の毛はサラサラで、唇が赤くてぷるんとしている。

「おい、八神」

 いつもの表情が崩れて真顔になるとそれが望長の素なのだと分かった。いつでもにこにこ人に上手に壁を作れる彼にそんな表情をさせる女は、歌い手科の女学生用制服を着こなし、望長の逞しい肩に腕を回していた。遠慮なくべたべたと触れて、微笑んでいる。

「私とパートナー解消したからって、年下に異種替えしたの? なんか、大変そう」

 気が強そうな声だと思っていると、彼女は紅鏡に近づいてお弁当を覗き込んだ。見事な乳がぷるんと揺れているので、思わずそちらに視線が行ってしまう。

「ふーん、望長お手製の、おかあちゃん弁当ね」

 手入れされた指先が一つ、卵焼きを摘まんでぷるんとした唇の中に放り込んでしまう。

「あっ」

 止める間もなく細い喉が動いて卵は彼女の身体の一部になってしまったようだ。

「私にはこんなこと、一回だってしてくれなかったのにね。……ねえ、金髪碧眼のオルフェウス君、良ければ私のパートナーにならない?」

「八神、お前何言ってるんだよ」

「ふーん。望長のそんな顔、初めて見たかも」

 八神と呼ばれた女生徒は、それまで見せていた可愛らしい笑顔をしまって、凛と顔を上げる。

「私から歌を取り上げたんだから、それ相応のことはしてもらうから。それじゃあね、オルフェウスくん」

 額にキスを落とされて、驚いているうちに遠ざかる綺麗な髪の毛に見とれていると、額がごしごしと台布巾で拭かれた。先ほどまで食堂のテーブルを拭くためにと、醤油入れの横に置いてあったものを望長が持ち出して紅鏡の額を拭いているのだ。

「先輩、何で台布巾なんですか」

「紅鏡くんの素直なところが、セレナ・澪・八神という恐ろしい毒牙にかからないように清めてるんだよ」

「だからって台布巾」

「……歌を奪ったとか、ふざけたこと言ってくれるよね。本当に」

 少し悪態をついた後、また例のにこにこ仮面を貼り付けて、弁当の残りを食べる様に勧められる。勧められるまま煮物に口を付けると、たまに、祖父が仕事から帰らない日にだけ出てくる小鉢を思い出した。栄養バランスが完璧な食事の中で、甘めに味をつけられた季節野菜を使った煮物だ。紅鏡は幼い頃、その小鉢が付く日をとても楽しみにしていた。あの小鉢は、母が作ったのかもしれない。

「これ、美味しいですね」

 そう伝えると、葵も少しほっとした顔をして、望長は長い腕を伸ばして紅鏡の頭をぐりぐりと撫でた。

「お弁当箱は、洗って返して」

 強い力でぐりんぐりんと撫でられる感触が嫌いじゃないと気付いたのは、葵には気取られずに済んだだろうかと、下を向いた。


◆第二幕 三場


「あの八神って女の人、望長先輩の前のパートナーらしいよ」

 葵と二人、暗くなった校庭を走りながらとりとめのない会話をしていると、そんなことを言いだした。

「ふーん」

 逃げたり弁当を渡されたり、女学生に絡まれたりしても結局のところ、竜使いになるための訓練からは逃げられないのだと途中で悟り、放課後はおとなしく望長が作ったメニューをこなした。小早川やサヴァランが言う期日がもうすぐそこまで来ているとしても、紅鏡は竜に騎乗すらできずに、居る事実を再認識しただけだった。

「あの二人、竜使いの番としての契約も結ぶかも、なんて言われてたんだってよ」

「ふーん」

 竜使いは、二人で一対だ。祖父にも、父にも歌い手のパートナーが居た。パートナーが異性同士なら大抵の場合は、結婚するか夫婦の様な関係になる。結婚の様な契約を結び番になると、番以外の人間とパートナーになることはできずに、竜使いの力を発揮することはできなくなる。番になるパートナーは少なかった。

「学校始まって以来の、優秀な番になったかもって、言われてたけど」

「ふーん」

「あのさ、興味ないなら相槌打つのやめなよ、感じ悪い」

「打たなきゃ打たないで文句言うくせに、お前うるせーよ」

 文句を言いあいながら走っていると体力を使う。途中で葵が無言になりそのまま、二人で淡々とメニューをこなした。望長は課題があるとかで寮に帰ったらしい。

「お弁当箱、ちゃんと返しなよ」

 ストレッチをしてるとそう言われて、お礼になんかお菓子でもつけろと指示されまでした。

「うるせーよ、お前本当に女子みたいだな」

「あのねえ紅鏡君、君がどれほど対人関係破綻していたのか僕はこの二週間でよっく分かった。君はね、まず常識を知らないのよ、他人を知らないの。人に何かをしてもらったら、きちんとお礼を言う。こういう基本理念、いや常識? を知らないとか本当にかわいそうになるから、いいからほらこれ。洗ったお弁当箱にこれを入れてお返ししてきなさい」

 と手渡されたのは飴玉三つだった。女子の様な心遣いになんかいってやろうとすると、さっさとストレッチを終えた葵は寮に戻って行った。彼女と連絡を取るらしい。一年の男子寮は二棟に分かれていて、葵は第一棟、紅鏡は第二棟だ。女子寮は離れて存在し、警備が厳重だが彼なら突破しそうだ。

言いつけを守らずに帰ろうと思えば帰ることができたが、その飴玉をポケットに仕舞う気にもなれなかった。

「お礼か」

 お礼を言うほど、人に関わったことが無かった。だから、葵の言うことは正しいのだろう。それでも、気が進まずに、弁当袋を持ったまま気づくと竜のドームへ足が向いていた。

「あれ、坊主また来たのかよ」

 いつものように何やら雑誌を読みながら棒キャンディを咥えていたサヴァランが振り返る。乗り手である望長よりも背が高く筋肉ががっしりとついて横幅もあるサヴァランは、闇夜で見ると巨大な壁に見える。

「来ちゃいけないのかよ」

 歓迎していないのかと思ってそう口にすると、彼は鷹揚に笑った。肩を叩いていつものようにリングキーを渡してくれるのかと思ったが、ポケットからごそごそと何かを取り出して手渡される。

「食え」

 手のひらに押し付けられたのは、丸いきらきらした包み紙に入ったチョコレートだった。

「小早川先生から聞いたぞ、坊主、ちゃんと頑張ってるみたいだからな、ご褒美だ」

「女から渡されたものじゃないのかよ」

 サヴァランは優秀な生物学者で若く、堀の深い顔立ちをしている。面倒見の良い性格もあいまって女子生徒に何かと好感をもたれるらしくお菓子や黄色声を良く貰っていた。

「おー、まあ、なんだ。お前頑張ってるだろうから、俺が食わずに取っといてやったんだ。それうまいやつだぞ、食え食え」

 見覚えのある包み紙だなと思っていると、幼い頃、一度だけ母に強請った菓子だと思い出した。兄が優秀な成績を収めた時だけ、お菓子が特別に支給される。見せびらかす様に食べている兄の様子を見て自分も欲しいと母に言うと、どこからかその様子を見ていた祖父に殴られた。床に転がる自分に兄が投げて寄越した包み紙と、良く似ている。あの時は無かった中身が今は手のひらでころんと転がっている。包みをゆっくり開くと茶色いものが入っている。竜使いになるためにはお菓子など悪だ、規則正しい食事だけ人が口にするべきものであるべしと言い切った祖父は、この菓子の味を知っているのだろうか。

「甘い……」

「疲れてるときは、そいつが一番だからな」

 サヴァランは、少し笑って、ふと視線を紅鏡の手元に移した。

「おい、そいつは何だ?」

「ああ、……あー。弁当」

「誰の」

「……俺の」

「おっ、お前―、そういう相手が居るなら早く言えよ。逢引かあ? いやあ、俺はてっきり坊主はそんな派手な顔してるけど女とはまだかと」

「うっ、うっせーよ」

 境遇や人との関わり方が分からない紅鏡は、女の子たちにも遠巻きに見られていた。容姿の良さで近づく者も幾人か居たが、彼女たちは大抵、紅鏡を支えられると思い込んでいた。孤独を理解して傍に居てあげると言ってきた。そんな人間は願い下げだ。

「これは、その、望長先輩が……」

「はあ? 望長って、望長月牙か? あの?」

「指導、してくれてんだよ、パートナーが今居ないとかで」

 サヴァランは少し、瞠目した後に、視線を外して竜のドームを見上げた。

「ああ、あいつか……あいつも不憫な奴だよなあ」

「え?」

「あー、いや。……坊主はさあ、ちーちぇえ頃からの刷り込みみたいに、竜の傍に居たいんだろ」

 その通りだが、むくれて口を曲げると、頭を撫でられる。

「それでいいんだ。こんなめんどくさい生き物、好きだから傍に居たいで良いんだ。十分じゃねえか、動機として。でもなあ、竜の傍に居なければいけない人間だって居るんだ」

 どういうことだと聞こうとすると、ドームの中から竜が嘶く声が聞こえる。ガサガサと中の大きな木が揺れた。

「おお、喧嘩かな。まったく、お前んちから来た黄色いやつは、どうもヤンチャで参るよ。お前にそっくりだ。まあ、でも手間がかかる分、あいつは耳も鼻も人一倍利く。利きすぎるから、力がうまく使いこなせないし、仲間ともそり合いがうまくいかないんだろうなあ。ああいうやつは、似合いの竜使いが決まれば、すぐにこんなドームから出してやった方がいいんだが」

「黄色には、まだ竜使いがついてないのか」

「そうだなあ、まだな。うちの生徒じゃ、あいつを乗りこなせるやつはいないし、今竜使いをしている連中にはもう竜がついちまってるからな……花形職種だ何だというが、竜使いになるには本当に一握りの人間しかなれない。そして、そいつらと心を通わせた一握りの竜だけが外に出れる。繁殖制限もかけられてるし、難儀な生き物だよ……。まあ、生き物とはいえ、元兵器様だ。仕方ないっちゃあ、仕方ないのかもしれないな」

 先の大戦で活躍した竜たちは、少なからず人類を屠った。そのために交配調整された生き物だ。それでも、たとえいまだに生物兵器としての能力は損なわれずいつか牙を剥く生き物かも知れなくても、竜は美しい。

「望長が、お前に弁当作ってくれたんだろ。心配してくれてんだ、ありがとうの一言くらい言えよ」

「俺は、別に……頼んだわけじゃ」

「お礼くらい、減るもんじゃねぇし。あいつがそんなことするなんて珍しいんだ、色々と背負わされてるからな。いつも辛そうにしてたが……そうか。あいつが、坊主の面倒を見てるのか……。坊主、素直に、ありがとうくらい言えよ。それから、少しくらい、心を開いてやれ。お前は、優しい良い子だ」

 出来損ないめと祖父に打ち下ろされた拳の感触が今でも忘れられない。それでも、サヴァランの大きな掌の感触を受け入れながら、紅鏡は、ドームを見つめた。竜が嘶く。まるで、誰かを呼ぶ様に。けれどもその呼び声は、紅鏡に向けてはいないことがわかっていた。足元を見つめて、サヴァランの手から逃れる様に、足を踏み出した。


ドームから帰る途中、弁当は洗って、飴玉を中に仕舞って包みを丁寧に結び直した。それから、着替えを持ったまま二年生寮に足を向けた。

「望長なら四階の一番端だ」

 寮長とやらにそう教えられて頷くと、勉学の時間と点呼までに必ず自分の寮に帰るよう強めに言われて少々うんざりした。何事も色々なルールが縛ってくるのは分かっているが、今まで一人で生きてきた紅鏡にはうざったらしい。煩わしいことこの上ない環境だった。それでも、竜の傍に居られるのならと、選んだのだ。

 寮は比較的新しく白で統一された内装で、また部屋も大きめに作られている。各部屋に風呂とトイレが完備されている。それらが共有の一年とは様子が違うのは、仕方ないのかもしれない。三年になると、専用のレストランが寮についているというから、不思議だ。

「おっ、ちゃんと持ってきたな」

 ノックして誰何の言葉に返事を返せばさっさと開けられた小奇麗なドアの向こうに、スウェット姿の望長が立っていた。まずは、面倒なことをさっさと終わらせようと弁当の包みを渡すと少し口の端だけ落ち上げてから頭のてっぺんをぐりぐりと混ぜられた。

「偉いな、ちゃんと洗ってきたんだな」

 そんなの当たり前だろうともごもごと返すと、いいから入れよと中に招かれた。スウェットの所為で、望長の背中のまっすぐさがよく分かる。綺麗に筋肉がついているし、背中を向けるだけなのに肩甲骨の美しさがよく分かった。均等に美しく盛り上がり、影を作るっている。肩幅は十分で手も足も長い。

「悪いけど、テーブルなんて気の利いたものは無いからベッド座ったら」

何か違和感があると思ったら普段している眼鏡を外しているのだと思った。室内のライトだと、光が当たった両目の虹彩が一瞬、色を変えて見える瞬間がある。

「ん? どうした、紅鏡君、人の顔をじっと見て」

「……いや、あんたの瞳って光に当たると黒じゃない色に透けて見えるんだなって。セピア色っていうのかな、あの色に、似てる」

 それまで貼り付けていた笑顔の仮面が一瞬、解ける。無表情になって、机の上に無造作に置いていた眼鏡を何も言わずに手に取った。取らなくてもいいと、一言添えればよかったと眼鏡をさっさとつけてしまった望長の顔を見て思った。

「それで、お弁当持ってきてくれて、ありがとう」

 一瞬流れた気まずい雰囲気を仕切り直す様に言われて、言葉を探しているうちに自然視線が足元に落ちる。紅鏡はスリッパを履いているが、望長は素足だ。大きな足で、爪の形も美しい。ふと、男なのにとても行き届いた爪をしているなと思った。

「紅鏡君さ、それ、癖?」

「え?」

 問われたので顔を上げると、いつの間にかすぐ傍に立っていた望長から頤に大きな指を伸ばされてぐいと上にあげられる。視線が合って、綺麗な色の虹彩がこちらを見下ろしてきた。

「何かあると、顔を下に下げんの、自信がないのかなあと思ってたけど。癖なら、姿勢悪くなるから止めたらいいと思うよ」

「下を……癖」

 誰も、紅鏡の姿など気にしていないと思っていた。オルフェウス家の鬼っ子、とび色で華奢な身体が特徴の竜使い一族から産まれた金髪碧眼の男児。声変わりになるにつれて、竜たちが離れたのもきっと、体がどんどんと大きくなっていったからだと思っていた。

「いろいろあると思うんだけど、さ。紅鏡君、せっかく恵まれた身体持ってるんだから、それ。きちんと生かしたら? 君がバランス崩しがちなの、自分の身体の使い方、分かってないからだと思うよ」

 両肩にぽんぽんと、両手を乗せられる。その両手は、温かい。こんな温もりを今まで知らなかった。竜の優しい軟毛の中に頭を突っ込んだような、胸の辺りがじんわりと違和感を覚える。

「あの、望長、先輩」

 振り払う様に問うと、セピア色に輝く瞳が、こちら側を映してくる。

「ん?」

「どうして、俺と葵の指導をしてくれてるんだ? あんたみたいに優秀なら、相手も選びたい放題だし、時期的に東西戦の練習もしたいだろ」

 実際、食堂に居る時や練習を見てくれている最中に望長は他の科の生徒から話しかけられていた。皆、歌い手科の連中で、望長がパートナーだった八神と別れたなら次の候補にと連絡先を渡していた。

「小早川教官に頼まれてるのもあるし、それに……。うん、まあ」

 その後に続く言葉が、望んだものであればいいと視線を向けると大きな掌が伸びてくる。

「君ら本当に、酷いよね」

 頭のてっぺんを撫でられるのだと思っていたら、肩をぽんぽんと叩かれた。そしてふっと離れて机の上の資料らしきプリントを一枚持って来る。

「これ、君たちの成績。写しを小早川教官に貰ったけど」

 惨憺たる様であると、コメントが書いてある。筆記は及第点だが、実技はオールD評価、全てにおいて改善が見られず努力ではどうにもならないレベルと追記されている。色々な人間から様々な表現で貶されると言葉を失う。

「カザくんは、多分戦略とかきちんと頭に入ってないから、筆記はどうにかしないとね。あと、君はさ、この紙上だと本当に学校を辞めた方がいいって言われてるけど。俺はそうは思わないんだ」

 どうしてと視線を向けると、いつもの何を考えているのか分からない笑顔は潜ませて少し無表情に近い顔をしてから、眉根や口の端を緩める。どこか悲しげな、幽かに嬉しそうな笑みだった。

「体力テストも、筆記も入学時ではこれだけの成績があるのに、一学期の実技はまったく単位が取れてない。これって才能云々じゃないんじゃないかな」

祖父はいつも、お前の様な生き物はどうしてこの家に産まれたのだと罵った。どこかでそれを、いつも享受していた。俯いてしまうと、少し息を吐く様に、低い声が囁く。

「君に足りないのは、多分基本的なことだ。勉強だって体力だって今まで誰にも何にも聞かずに一人でやってきたんだろ? 見ればわかるよ、普通だったら矯正されてるはずの癖がついたまんまの変な姿勢で走るだとか、腹筋一つでも教科書通りの動きをしたり、多分君は人と合わせることに慣れてないんだね。……助けてくれる人、味方になってくれる人が居ない中で、よく頑張ったね。辛かったよね」

「どうしてそんなこと……分かるんだよ」

 喉の奥に小骨が引っかかったように、言葉がうまく話せない。胸の奥がじわじわと疼いて、目頭が熱を帯びた。慌てて下を向くと、頭の上に手のひらを乗せられて熱を移す様にそのまんまにされる。

「見てればね、分かるよ。君は一つ一つが素直なのに、人の言葉に怯えたり、そうやってすぐに下を向いたり。あと、そう。目の下の隈酷いよね、顔色も悪いし食欲もやっぱりその年にしては少ない。夜、ちゃんと規則正しく眠れてないのかな」

 離れで一人暮らしていた頃から、夜は竜の声に耳を澄ませていた。彼らが一鳴きするたびに布団を蹴って走って彼らの元に向かった。ある日から、急に竜たちは紅鏡の訪問を喜ばなくなったけれども。

「ああ、そうだ。少し寝てったら。人が居る方が安心するよね」

 優しい声で、肩を押されて、ベッドの上に押し倒される。驚いている間に、ころんと転がされてスリッパを脱がされ、布団をてきぱきとかけられたあと、隙間が無い様に肩と首の辺りの布団との隙間をぽんぽんと軽く叩かれる。背中が温かくなって、温かい手のひらに目の上を覆われる。

「俺はしばらく課題やってるから、時間が来たら起こしてあげるよ。大丈夫、安心してよ」

 綺麗な声だ。すっと耳の奥に入り込んで、優しく心を撫でる様な、何もかも安心して預けることができるような声だ。少し、橙の声に似ている。浅黄の声にも似ているかもしれない。彼ら一対の竜たちは、優しく紅鏡を受け入れてくれた。もしかしたら、彼らの様に望長も受け入れるかもしれないと考えて、そんなことは無いのかもしれないと思い直した。彼はあまりにも、心の内を見せてくれない。

「どうして、こんなに優しくしてくれるんだ」

 情けないほど震える声で、ぽそりと聞くと、目の上に乗せられた手のひらから音声が流れてくる。

「紅鏡君、あのさ……いや。いい。……これは、なんていうか」

 温もりの所為で、意識がふいに遠ざかる。幼い頃、竜たちの元に走った記憶が世界を覆い始めて、耳から入る音が膜を一枚張ったように聞こえなくなっていった。それでも幽かに、優しい声音が届く。

「あの日、俺は君に救われたんだよ」

 どの日のことだろう、と思っているうちに意識が遠ざかり、ただ目の内側に温もりだけが籠った。夢の中の竜たちは、いつも紅鏡の訪れを喜んで、歌を聞かせてくれと強請る。だから大抵、彼らの為に用意したプレーヤーで、グミ・エラトの声を流してやる。彼女の歌声は美しく、壮麗で、郷愁を呼び起こしては胸の奥を掻き毟る。どこか泣いているようで、いつも守ってやりたいと思っていた。

 その声が耳の外側から聞こえるのか、内側から聞こえるのか分からないまま、世界は暗転して、身体は弛緩した。

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恋の歌を叫びませ 真瀬真行 @masayuki3312

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