エピローグ

 瑪瑙サードニックスの月二十五日のことだった。

 執務を済ませて茶を飲んでいたアストラルの元に、マリウスがまさに飛ぶような勢いで現れた。

「アストラル様。至急、フィレニウス家の奥様がお会いになりたいと、馬車のお迎えがございます。事情は会ってお話ししたいとのことで」

「わかった。すぐ行く」

 アストラルは使用人に声をかけて、茶を下げさせた。

「行ってくるよ、マリウス」

 彼はもともと持っていく予定でいた、見舞いの品――ミザリーンが好きな砂糖菓子を手に、馬車に乗り込んでいった。

「行ってらっしゃいませ、アストラル様。お気を付けて」

 マリウスが見送りを済ませたとき、どこにいたのかアクレイアが現れた。

「マリウス。兄さんが慌てて出てったけど、何かあったの?」

 老執事はアクレイアが姿を見せたことにはあまり驚かず、首を傾げながら答えた。

「ミザリーン様に何かあったようですが、詳しくは」

「ふぅん」

 アクレイアはさもどうでも良さそうな反応をした。

 母が最後に描いた絵画の隅に、古代語で遺言が書かれていたことを、兄は知らないだろう。

 若人よ。信じる道を、進め。

 アクレイアはふとそれを思い出す。望まれようと、望まれなくとも、信じる道を貫く。それは、あの魔術師のようでもあり、皇帝のようでもあった。

 兄は、気付いていない。父が死んだのは、口にしてはならない知恵の実を口にして、その知恵の再現を望んだからではないことを。それはなくもなかっただろうが、父はそんなことで死ぬような愚かな男ではない。

 何故母が、に、あの手記の著者の名前を付けたのか。自分が母の立場ならば最初の息子にこそ、弟の名前をつけていたと、アクレイアは想像する。母は、最後に誰を愛していただろう。それはきっと、夫でもなく、ふたりの息子でもなく――

 アクレイアは、これ以上考えるのをやめることにした。

 そして、両腕で軽く伸びをして、茶でも持ってこい、と言うような調子で続けた。

「ところでさ、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」

「はい、なんでしょう」

 マリウスもなんでもないことだと想像して、聞き返した。


 フィレニウス邸に着くなり、待ち構えていたミザリーンの弟に、引っ張られるようにミザリーンの部屋に連れて行かれた。

「とにかく、会って欲しいんです、義兄さん」

 アストラルは何の説明もなされるまま、ミザリーンの部屋に入った。とにかくわかったことは、この義弟が動揺していることだけだ。

 彼女が記憶を失ってからは、三度目になる。やはりアストラルのことを覚えてはいなかったし、知力も幼い子供のようだったが、二度目の時に「アストラルだ」と無邪気に声をかけてくれたので、記憶力そのものはあるようだった。

 そのようなことを思い返しながら、ミザリーンの部屋の扉を開く。

「遅かったわね」

 聞き馴れた勝ち気な声に、彼は耳を疑った。

「もっと早く来なさいよ」

 勝ち気を通り越して尊大ではあったが、それは、いつものミザリーンの姿である。頭に包帯が巻かれて怪我のことを生々しく物語ってはいるが、やはり気が強い歴史学者で婚約者のミザリーンである。

「あの、お義母様。これは……」

 思わず、彼女の母親に尋ねた。しかし、義母も首を左右に振るばかりだ。

「私たちにもわからないの。昨日までは変わらなかったんだけれど、今朝、起きた時からこの調子で。お医者様は、これは奇蹟だ、信じがたいって言うだけなの。とにかく知らせなきゃって、あなたを慌てて呼んだのよ」

「はぁ」

「ちょっと」

 ベッドから身を起こしたミザリーンが口を挟んできた。

「あなた、私を誰だと思っているの?」

「ミザリーン」

 窘めるように母親が声をあげたが、アストラルは苦笑しながらそれを手で制した。間違いない、いつものミザリーンである。それだけで充分だ。

「そうだな、俺の婚約者フィアンセだ」

「よくわかってるじゃない」

 彼女は勝ち誇るような笑みを浮かべた。アストラルは彼女のベッドの隣に置かれた椅子に腰掛けた。

 彼女は全部知っていた。書いていなかっただけで、手記の続きの全ても、アクレイアに殴られたのだと言うことも。

 しかし、彼女には彼を罪に問う気はなかった。アストラルには、その理由がわかるような気がした。この奇蹟の正体に、彼女はきっと気付いている。そしてそれを、口にしてはならないことも。確かに世の中には、知るべきではないことがあり、それを知ったとしても他の者に伝えてはならないことがある。

 魔術の素晴らしさと恐ろしさ。

 それは、手記を書いた最後の魔術師アストラルが書いた言葉であった。


 手記は燃やされ、その灰は父が飛び込み母の遺灰が撒かれた海に撒かれて行った。

 アクレイアは、兄が不在の間に地元の公安委員会に自ら馬車を向かわせた。何も知らないマリウスは、彼が何をしようとしているのか考えず、ただ馬車を手配した。

 それを知ったアストラルは、ただ理解し、納得した。

 兄嫁になる人物を襲撃して、兄にまで危害を加えようとした罪を、法的に償いに向かったのだ。こうしてこの事件は、一応の解決を見せた。

 しかし、被害者である彼女自身の計らいもあり、アクレイアの罪は軽いものになった。彼女が回復したこともあり、数日の拘束だけで、弟は解放された。

 弟が釈放されてふた月後に、アストラルはミザリーンと結婚式を挙げた。

 正式に妻となった彼女は十日ほどの新婚旅行から帰ってくるなり、遺蹟へと旅立って行った。甘い新婚生活を楽しむ気がまるでない新妻の様子に、周囲は驚かずにはいられなかったようだが、当の夫は「新婚旅行は遺跡でよかったのに」と笑い飛ばして見せた。

 それだといつ家に帰れるのかわからない、と弟に揶揄されたが、在りし日の父母のようだと年老いた執事は眼を細めて微笑んだとか。

 どこか不思議な関係だったが仲は良好なふたりは、一男一女に恵まれた。

 妻は出産直後から現地から送られてきた古代の金貨の解析など、その場でできる仕事に当たっていた。そして一年と経たないうちに、遺跡へと戻って行った。アストラルは、子供を抱きかかえながら妻を見送るだけだった。彼女は、無事に帰って来てくれればそれでいいのだ。

 アクレイアは結婚せずに、自分の手で孤児院を設立し、多くの『子供たち』を育てる人生を選んだ。アストラルの娘は「わたし、叔父様と結婚するの」と言うほどによく叔父に懐いた。もちろん娘を弟に渡す気はないが、孤児院との交流を欠かすことはせず、資金援助も欠かさず行った。息子も娘も、孤児院でたくさんの友達を作った。

 弟が本当にやりたかったのは、なんだったのだろう。みんなが幸せになることを父と考えるのが夢だったと、アクレイアは時々呟いていた。ひとりで誰かを幸せにすることはできないが、親のいない子供を育てる彼は、充分すぎるくらいにその夢を叶えている。

 父として、時々母のようにも子供の世話をしながら、アストラルは、ふと文明とは何なのだろうと思いを馳せる。

 その進化は便利なものだろう。しかし、その進化は多くの命を塵芥のように奪い去る。それは、素晴らしくて恐ろしい。一人を殺せば人殺しだが、千人を殺せば英雄など、よく言ったものである。

 自分と同じ名前を持つ魔術師は、未来に何を願っただろう。

 魔術のない未来だろうか。発展した文明だろうか。争いのない世界だろうか。それとも、大賢人とその弟の幸せだっただろうか。

 しかし、自分は子供の幸福と、妻の無事だけを祈ろうと決めていた。それは平凡な願いだろうが、他のどれとも遜色ないものだ。

 あの手記を読んでから、弟ともう一度兄弟になってから、母を識って、妻と結婚してから、十数回目の夏が訪れる。自分は三十を過ぎたあたりから多少老けてきたが、ミザリーンとアクレイアは、いつまでも若いままだった。

「アストラル様」

 七十をすぎても現役で執事を続けるマリウスが、息子を連れて現れた。

 息子も娘も、髪と瞳の色は自分のものを受け継いでいるが、母に似て美形である。アストラルは、お互いの悪いところを引き継がずによかったと冗談交じりに苦笑する。両親に共通していて引き継いでいるのは好奇心の強さだろう。

「お父様と星を見たいとのことで」

「そうか、おいで。一緒に見ようか」

 息子が、眼を輝かせて喜んだ。

 母親の代わりをしても、母親にはなれない。だから、母の愛情に飢えている子供達は、できるだけ可愛がってやっていた。もちろん厳しく接することもあるが、甘えていいところは甘えていいのだ。

 息子が、付いて来た。まだ小さい彼には、離れの望遠鏡は少し大きすぎる。息子を椅子に座らせてやり、アストラルは望遠鏡を支えてやった。

「どうだ、見えるか」

「うん! ……あっ。ねぇ、お父さん、見て! あの緑色の星、綺麗だよ」

 息子が、嬉々として言った。アストラルは、今日その星が見えることを知りながら、嬉しそうに望遠鏡を覗いた。

「ああ、あの星は、父さんが若い頃に見つけたんだ。綺麗な色を、しているだろう?」

「へえ、お父さん凄い! ねえ、なんて名前なの?」

 息子が、星のようにきらきらと光る純粋な目で尋ねて来た。

 今はただ、妻と同じ名の星を愛でながら、子供達を愛し、妻の帰りを待つ日々を送ろう。

 文明の発展や人類の栄光などと言うものを考えられるほど、自分は偉大な人物でもなければ頭がいいわけでもない。そんなものは、自分のような小さな人間が考えずとも、刻一刻と変化して行くのだ。それは、進化かもしれないし、退化かもしれない。

 願うのは自分たちの幸せだけでいいではないか。子供達の成長と、妻の無事だけでも、十分すぎるほどに大きな願いである。

 アストラルは、息子の頭を撫でてやった。

「この星の名前はな――」

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晩年の魔術師 桜崎紗綾 @saya_sakura

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