終章 晩年の魔術師
暑さの残る、
アストラルは、手記と冊子をミザリーンの母親に手渡された。
何者かに、ミザリーンが襲撃されたのは、三日前だ。
彼女は、鈍器で後頭部を殴られた。診療所からは離れていなかったが、夜中だったこともあり、グリザベータ家に情報が渡るまでに時間がかかったのだ。
「俺は、記憶を失った彼女に、どう接してやればいいのかわかりません」
ミザリーンは一命を取り留めたが、記憶を失っていた。知能にも欠陥があり、以前のような古代語の解読どころか、現代語の識字も期待できない。介助がなければ生活はできないだろう。
アストラルのことも、覚えていなかった。
「そうよね。仕方ないわ」
正直に心境を吐露した彼に、ミザリーンの母は諦念の混じった嘆息を漏らした。
「あの子のことは気にしないで。あなたはまだ若いのだから、きっと他にいい
「いいえ、お義母様。俺は、向き合い方がまだわからないだけです」
娘の結婚を諦めているミザリーンの母親とは違い、アストラルは、婚約破棄を頑なに拒んだ。
「俺は、ミザリーンとの婚約をなかったことにするつもりはありません。どうなろうと、俺は彼女が好きです。俺には、彼女よりもいい
「ねぇ、アストラル……私は、あなたのことを思って言っているの。あなたが、一生あの子に振り回されることになるわ」
「お義母様。ミザリーンが俺を振り回すなんて、今に始まったことではありません」
その返答に、ミザリーンの母親は束の間目を丸くした。しかし、それから笑い出した。
「そうね、そうだったわ」
その笑顔は優しく、暖かかったが、何処か切なくもあった。
アストラルの憐れなまでの馬鹿正直さを思ったのか、これからの彼の人生を思ったのか。彼は今からでも、別の女性を見つけられると言うのに、自分のことさえ忘れ去ってしまった幼馴染への恋情に一生を捧げようとしているのだ。
それは高潔と言うべきか。純粋と言うべきか。或いは、馬鹿と言うべきか。
「またいらっしゃい」
「はい。今度は、ミザリーンが好きな焼き菓子でも持ってきます」
アストラルはそう言って、ミザリーンの母親に見舞いで持ってきた紅茶の茶葉を渡すと、家路についた。馬車は用意していなかったが、必要な距離でもなかった。
人気の少ない通りを歩いていると、立ち塞がるような影があった。
「アクレイアか」
遠目にも、彼はその影が弟であることがわかった。アクレイアは、何も言わずに近付いて来た。その手には、酒瓶があった。その瓶の持ち方は、兄弟で一緒に酒を飲みたいなどという平和的なものでなかった。
「ミザリーンをやったのは、おまえか」
その言葉が、口をついて出てきた。アクレイアは答えない。答えなど、必要でさえなかった。
「次は俺、か。なあ、せめて動機だけは聞かせてくれないか?」
「読んではならないものを読んだのはおまえらだ。おまえを殺して、僕も死ぬ」
弟の声は、暗いものだった。冷え切ったどころか、凍り付いている。
読んではならないものは、手記だろう。何故読んでいけないのかは、わからないが。
「あの手記は読んだら死なないといけないものだったんだな。知らなかったとは言え、それで、殺されるのか」
ミザリーンが一命を取り留めたことは黙っておくことにした。言えば、彼女の身に再び危険が迫る。
「なあ、アクレイアってさ、古代語読めるよな」
「は?」
「実は、最後まで、まだ読んでないんだ。ミザリーンが、全部は残してくれてなくて。残りを、訳してくれないか」
何を言っているのだ、こいつは。そう言いたげな表情を、アクレイアは露骨に浮かべた。無理もないなと、アストラルは自分で苦笑する。心のどこかで、婚約者に謝りながら。
「よくわからないけど、どっちみち死ぬなら最後まで読んでから死んだって変わらないだろ。だったらせめて、最後まで読ませてくれ。ああ、でもおまえが死ななきゃいけなくなるなぁ。さすがにそれはいただけない」
しばらく沈黙が流れた。秋が近いのか、涼しい風が流れ込んでくる。
アクレイアが歩き出した。本邸の方角である。アストラルはそれを肯定と捉え、共に歩くことにした。ここで逃げることもできたはずなのにあえてそうしなかった兄に、アクレイアが少し困惑した表情を浮かべた。
少し歩くと、アクレイアが訥々と語り出した。父の死と、その経緯を。
「父さんが死んだのは、僕のせいなんだ。僕が止められなかったから、何も知らずにこんなことになってしまった」
「そうか。俺は馬鹿だから、任せられなかったんだな」
アストラルは、ぽつりと呟いた。
三年。なんて長い間、たった一人で、弟は自分を責め続けていたのだろう。人間の一生のうち三年は些細な時間だが、弟の三年は、本来なら幸せな青春を送るべき若者の三年間だ。
「俺は出来損ないでもおまえの兄貴だ、たまにはちょっとくらい頼れ、なんて、言えないな」
彼はそう呟き、十年以上振りにアクレイアの頭を撫でようとして、その手を引っ込めた。そんな資格は、ない。
「俺が馬鹿なせいで、おまえに辛い思いをさせた。俺は、駄目な兄貴だ。謝ったってどうにもならないのはわかってるけど、本当に、すまなかった」
「凄いところで話を切ったな」
冊子を読み終えたアクレイアが、呟いた。
「おまえのせいだろ」
「兄さんのせいでもあるでしょ」
「それもそうだな」
アクレイアは、呆れて息を吐いた。殺されると宣告されているはずの呑気者を前にすると気が抜ける。それと同時に、遠いどこかに棄てたはずの探究心が戻ってくる。
「確かにこの先は、興味深い」
「おまえのその顔、久々に見たよ」
アストラルは肩を竦めて見せた。
父が知的欲求を否定しても、知りたいと思う心を止めることはできない。知識を得た快楽が人間だけのものだとしても、それがまさしく罪になるものだとしても、欲求は、生物としての本能なのだから。
「読むよ。大体なんとかなる」
次の瞬間、目の前は草原が広がっていた。
ヴァレクセイ平野と名付けられたトシュレードの領土を思い出す光景だった。
「くそ、あの小娘、どんな悪魔と契約した」
大賢人が吐き捨てるように悪態をついた。
大賢人パレファディア。吟遊詩人の少年。ジークリンデ姫。そして、私とルー=エザ。
そこにいたのは、この大陸に残されたのは、そのたった五人だけであった。
私たちは負けたのだ。
黒魔術師が契約した悪魔に。権力者が取り憑かれた野望に。
世界は消えた。歴史もまた消えた。もう、戻ることはない。過去が全て消えたら、残るのは現在と、未来だけである。完全な無から始まる、それは、まるで生まれたばかりの赤子のような未来だ。我々はまさに、神話に出てくる人類の始祖のような状態なのだ。
戦いが産み落としたのは何だったのだろうか。そこには、勝利でもなく、敗北でもなく、ただ、残酷なまでの喪失だけがあった。
黒魔術『隠蔽術』が罪だとしたら、消された世界で未来を築くのは罰なのだろうか。罪を犯したものと罰を受けるものが異なる理不尽は、往々にしてあるものと切って捨てていいのだろうか。
「姉上、いえ、――セイル姉様」
吟遊詩人が、静かに告げた。
「僕は、これから旅に出ようかと思います。なかったことにされた歴史から生き残った僕らは、新しい歴史を築かなくてはならないので。これから、白魔術を僕が扱うことは、恐らくないでしょう」
「そうか。ならば、未来を創ることは、おまえたちに任せよう。私は、その未来を、今しばらく見守ろうと思う。……達者で過ごせ、アクレイア」
それが、私の知る限り大賢人の姉弟が互いの名を呼んだ、最初で最後の瞬間だったように思う。
私は、ルー=エザと二人で旅立とうと考えていたのだが、この手記のことで彼女と口論になったことを記録しておこう。
私は後の世において魔術の文明が再び発達したときのために、魔術の素晴らしさと恐ろしさを伝えるためにこの手記を残しておくべきだと思っていた。
しかし、ルー=エザは魔術を子孫に伝えなければ魔術は誕生しないと主張するのだ。彼女は消えてしまった世界とともに、魔術自体を消し去るべきであると考えていたのだ。そのためには、この手記も存在していてはいけないと。
私たちは互いに一歩も譲らなかった。それは、どちらも正しいからだと、理解していたからだろう。
その時に割って入ったのが、大賢人であった。
「私は貴様らより遙かに長寿だ。体内の時間を止めている人形のようなものだからな」
大賢人は、そう言った。
「その記録は私が預かろう。未来のことは私もわからぬのだ、貴様らにわかるはずがなかろう。この先魔術を貴様らが伝えずとも、魔術が再び出現する可能性も捨て切れぬ。魔術が文明の礎の一つとして発展し、この記録が必要になるとき、私がこれを世に流布しよう。必要がなければ杞憂に終わるだけのことだ」
私たちはこの、間を取るような意見に賛同し、この手記を大賢人に預けることにした。
吟遊詩人の少年――アクレイアは、ジークリンデ姫とともにどこかへと旅立っていった。
海を越えた先にあるという別の陸地を目指していったらしい。その大陸で魔術が存在しないことを、願いながら。私などより遙かに長く生きているアクレイアが、どこかで幸福に安住出来ることを祈るばかりである。
もう間もなく、私はこの手記を大賢人に預け、ルー=エザと旅立つことになる。おそらく、大賢人とは二度と会うことはないだろう。新たに家を建て、世界を創ろうとしている私たちとは違い、身体の時間を止めることで食うことも眠ることもしなくても生きる大賢人は、ただ放浪を続けるというのだから。
大賢人セイル・パレファディアやその弟アクレイアが使っていた、不老不死の白魔術は、本人の言葉通り時間を止めるものであり、それによって心臓をはじめとする身体の機能が停止したまま生きるものだ。人形のようなものとは、まさに正しい表現である。
死ぬことがないのもそうだが、身体の機能が停止しており、生殖機能もその例外ではない。当然、魔術を解除しない限り子が出来ることはない。歳をとらないから、普通の人間よりも多くの子を為せるということではないのだ。それであれば、ふたりはとうの昔に白魔術師の一族の復興を成功させていたはずで、そもそも一族は滅びていないだろう。
願うことは、彼女が大賢人としてではなく、一人の女性として限りある人生を送ることである。限りがあるということは、儚いことではあるが、実はとても尊いことなのだから。
この先の未来で、この手記が必要なくなることを私は願っている。
魔術師より、未来に願いを込めて
アストラル・グリザベータ
読み終えたアクレイアが手記を閉じた後、沈黙が流れた。
夏の虫が鳴いていた。暑い、と感じたがアストラルは汗を拭おうとも思わなかった。
アストラルは様々なことに思いを馳せていた。長かったのか短かったのかもわからない、沈黙を突き破ったのは、アクレイアだった。
「兄さん、母さんの日記を見たことがある?」
「……いや」
「少し見ただけだけど、古代語で書かれてるんだ。古代語が読めたとしても、わざわざ古代語で日記を書く必要はないよね。母さんが現代語よりも古代語に親しんでいた可能性が高いってことだと思うんだ」
「じゃあ、やっぱり」
アクレイアは、頷いた。
母は、学がないから、読み書きが苦手なのだとよく言っていた。しかしそれが、現代語に限られているとしたら。
「母さんは、大賢人セイル・パレファディア自身なんだと思う。この手記を読めば、僕らには手記を書いた人物と自分の弟の名前を付けたことが、わかる」
三千年の文明の後、魔術が発展することはなかった。それは、手記の著者である魔術師アストラルと、大賢人の弟アクレイアが魔術を子孫に広めようとしなかったからだ。
魔術があった文明は、確かに現代よりも便利だったかもしれない。
魔術がどう言うものなのかわからないが、馬車など使わなくても会いたい人にすぐ会えるだろう。魔術が使えない者でも、それに準じた技術が発展し、魔術と共存あるいは競争して、現代より遙かに優れた生活を送っていたかもしれない。
だが、その文明を封じることで、彼らは勝者でも敗者でもある皇帝ジークムントが野望によりしてしまった全てをなかったことにした。あの日の孤児を救った魔術の存在を、犠牲に。それは、最後の『隠蔽術』だったのかもしれない。
父は、当初妻の形見として手記を受け取った。その手記を読んでしまった心理は理解できる。
そして、息子たちが白魔術を使い得ることと、それは母が望むものではないことを知り、魔術と言う文明の真実は知ってはならないことだと、思ったのだろう。父は、白魔術を知りたいと、願ってしまったのかもしれない。魔術が再現される引き金を引くのを、止めたかったのかもしれない。
母は、未来に安心して、歳をとることを選択したのだ。数千年もの間、魔術がない世を、手記だけを手に生き続けて。
それに比べたら、父と出会い、夫婦になり、二人の息子に恵まれ、歳をとり、病に倒れて死ぬまでの二十数年間の人生は一瞬のようなものだったかもしれない。手記の著者と同じ姓を持つ父と出会ったのは、母に与えられた最後の運命だったのかもしれない。
しかし、その一瞬の間に産み落とされた自分たちは、生き抜くべきではないのか。知ってはいけないことを知ったから死ねとは、母は言わないはずだ。
母が手記を破棄しなかった理由は、理屈とは違う部分で、わかるような気がした。
「母さん、晩年は幸せだったかな」
アクレイアが、呟いた。
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