第十章 世界の最期
驚いたのが、グラナアートがこの宿を内密に買収していたことだった。従業員を含め、宿には彼女の息がかかっている者しかいなかったのだ。
聞くと、宿の主人の亡くなった御母堂の形見がトシュレード公国の貴族を泊めた際に渡された耳飾りなのだそうだ。
古く小さいこともあり、確かに他に比べて見劣りする宿であった。客足は少なく、ご息女は既に嫁いでしまったので跡取りもいない。その為、買収の話を断る理由はなかったらしい。吟遊詩人などは、この宿を懐く気に入っていたようだった。
私たちはまたひとつ、帝国を止めねばならぬ理由ができた。
「意外だったな。グラナアート殿が、ここまで頭が回るとは」
私が呟くと、ゲイトルードが苦笑して頷いた。
「俺もだ。姉貴が、宿の買収などという大胆で緻密な策に出るとは」
実の弟が知らなかった一面なのだから、私が知らなくて無理はなかっただろう。
トシュレードの消滅がきっかけだったとは言え、グラナアートの悪いところしかわからない魔術師で終わらずに済んだのは事実だった。私が彼女に対し、非礼な偏見を持っていたことは否定できない。グラナアート自身は、魔術師を嫌ってはいても魔術そのものを認めていないわけではなかったのだ。互いが反目しあっていたのは、古くからの文化にも等しく、彼女はそれを頑固なまでに守り続けていた。その一方で、弟の語る理想に一定の理解を示していた。
「頑固であると言うことは、決して折れることのない刃を持つと言うことでもあります」
話を聞いていた吟遊詩人の少年が、微笑んで言った。
「それは、柔軟であることと遜色のない良いところですよ」
グラナアートが、騎士として優秀たる理由が、わかったような気がした。
事態が動いたのはその二日後のことだった。
私は理由を結婚と銘打って魔術師連盟の宿舎を引き払う手続きを済ませて宿に戻ろうとしていた。そこに、一人の町娘の格好をした少女が訪れた。
「わたくしをあなた方の拠点へ連れて行ってください。急いで」
ジークリンデ姫だった。私は頷き、歩き始めた。
「殿下、いかがなさいました?」
「マレクセイ伯が、ゲイトルードを尾行ておりました。気付いていなかったようなので、撒けたとは思えませんわ」
その言葉だけで、概ねの意味がわかった。ゲイトルードは、私より早く休暇を終えてこの日の朝に出仕していた。
「伯爵は何も知らないはずでは?」
「彼は、次期宰相の地位を餌に兄上に利用されていますの」
マレクセイ伯は、参謀長の三男と言う、低くもないのに跡取りでもない微妙な立場であった。陛下を心酔する彼にとって、祖父の後釜である次期宰相の地位は、あまりにも旨すぎる餌だ。恐らく、彼は本当に何も知らなかったのだ。
「嫌な予感しかしません」
「同感です。わたくし自身が、尾行られているかもしれませんわ」
「申し訳ないですが、もし尾行られていたとして、私には撒ける自信がございません。裏手の目立たぬ路地に入ったら、瞬間移動しましょう。あの術が苦手な私でも、姫おひとりであれば、お連れできます」
私の言葉に、姫は頷いた。
私は自分の想像力の悪さを、呪いたくなった。
グラナアートがゲイトルードと口論をしていたところに私が割って入ったあの時か。或いは私と前後する時期にゲイトルードが休暇を取り、馬車でエスカータ共和国に向かったあの時か。もしくは、マレクセイ伯爵に地図の表記の疑問を述べた段階で報告が上に流れていたか――既に、我々には監視の目がついていたのだ。その状態で堂々と帝国に戻るなど、あまりに迂闊すぎた。
私がジークリンデ姫を伴い、慌てて宿に飛び込むと、誰もが唖然とした表情を浮かべていた。
「姫様」
先に来ていたゲイトルードが、何故ここにと言いたげに声をあげた。ジークリンデ姫が、その意味の絶望に気付き、その美貌を歪ませた。
「まずいことになりましたわ」
私は事情を説明した。この宿は割れてしまっただろう。
宿を離れざるを得なくなった。わざわざ荷物をまとめている暇はなかったので、最低限のものだけを手にした。
「逃げる余裕はない」
大賢人が杖で床を叩き、静かに告げた。「このまま帝国を倒す」
この旨を宿の主人に伝えた。
「あたくしたちの荷物は、買収の契約書と共に燃やしてしまってください」
グラナアートは、契約書らしき紙を渡していた。
「この買収がなかったことになります。あなた方は何も知らずに反逆者を泊めてしまっただけのことになるので、いくらか追及はあるでしょうが、咎められることはないでしょう」
「はい、グラナアート様。このような、襤褸も同然の宿を使っていただけて、最後に光栄でありました」
宿の主人は、契約書を受け取って、頭を下げた。それから、この男の姿を見ることはなかった。
既に事態は逼迫していた。私たちは勝手口から密かに宿を抜け出した。しかし、勝手口などどこの宿にもある。その逃走経路が割り出されるのも時間の問題と言えよう。
「ジークリンデ皇女殿下、手を」
フィス=ロウが声をかけた。殿下は首を横に振った。
「いいえ、走れますわ」
「違うのです、皇女様」
吟遊詩人の少年が口を挟んだ。「あなた様を人質にした形を取れば、何処かで役に立つかもしれません」
「なるほど。わかりましたわ。それが通じるのか、わかりかねますが」
姫は頷き、フィス=ロウが背負った。
これだけの所帯が逃げ切ることは難しかった。そこで二手に分かれて逃げ、少し離れた丘の上で落ち合った。そこまでに、特に難はなかった。街中の人々が私たちの敵になることはなかった。事情が事情だけに、帝国側も私たちの存在を公にすることは出来なかったのだろう。
丘の上から、拠点にしていた宿が見えた。ちょうど、マレクセイ伯に率いられた帝国騎士団が吸い込まれるようにして入ってくるところだった。そこに、何処からともなく炎が上がった。宿の主人が、自ら宿に火を放ったのだろう。
宿が燃え上がる中、主人の姿はどこにもなかった。やがて、宿は跡形もなく消えて行った。そこから、マレクセイ伯や騎士たちが再び現れることはなかった。
私たちはそれを、どこか遣る瀬無い気持ちで見つめた。
世話になった男の死を、長く親しくした友の死を、悼む暇はなかった。
「行きましょう」
ルー=エザが、硬い表情で言った。その場で、彼女は腰に挿さった剣を抜いた。その曲刀の刀身が、晴れた陽光に輝いた。
「血の気の多い女性を選んだものだな、君は」
ゲイトルードが呟いた。呆れのような晴れやかな表情を浮かべ、ルー=エザのものより長い剣を抜いた。
「一緒になったら、尻に敷かれるぞ」
「何を言う。私のような男は尻に敷かれるくらいがちょうどいい」
一緒になるなど、縁起の悪い冗談を言ってくれる男だ。そのような幸福な未来など、恐らく訪れぬとは、わかっていたはずだ。
「戯けていないで行くぞ、若造ども。皇帝は、世界は獲れぬが、滅ぼせる」
大賢人の悪態に答え、走り出した。
帝国の城の抜け道は、何度も抜け出しているジークリンデ姫が知っていた。
城壁を登ると、既に帝国兵が待ち構えていた。我々は構わずに城壁から飛び降りた。武器を手にしたルー=エザたちが着地と同時に斬り飛ばす。数を恃んだ敵が近付く。皇女を人質に利用する方法は通じる気配がなさそうだった。
ゲイトルードの腹部に矢が刺さった。近寄ろうとした吟遊詩人を、彼は手で制した。
「こんなところで油を売っている暇はない。先に進め」
「ゲイトルード」
「構うな。俺は魔術が使えぬ故、この先役に立つことはない。どう転がろうが死ぬのならば、死に場所は俺が選ぶ」
彼はそう言いながら、腹部に刺さった矢に構うことなく剣を振り回した。二人、三人と倒れていった。
あのままでは死んでしまうのは間違いなかった。腹部という危険な場所に矢が刺さったまま戦う彼を敵の中に置いていくなど、出来るはずがなかった。しかし、「どう転がろうが死ぬ」の意味は、我々が一番よくわかっていたことだった。戦いに負ければ死ぬ。勝っても反逆者として死は免れない。皇女が即位できたとしても、変わらないだろう。
「魔術を使える騎士たちの夢は叶えられそうにも無いが、貴殿と話せて、貴殿と友になって……俺は愉しかった」
ゲイトルードは、私にそう言って、笑った。もう、引き留めることは出来ないと、明確にわかった一言だった。
「私も、愉しかった。達者でな、ゲイトルード」
私は、次々に敵を斬り倒すゲイトルードに声をかけ、踵を返し、振り返ることなく走り出した。
「あたくしも、行きます」
グラナアートが呟いて、私たちとは逆の方向、彼女の弟が戦う方へと向かった。私に、彼女を止めることはできなかった。この先、彼女の弟が言うように、魔術の扱えぬ彼女に出る幕がない可能性の方が高かったからだ。
私に、頑固者と名高い彼女を止める能力はなかった。
「あたくし、宮廷一の頑固者だとか、帝国騎士団始まって以来の怪物女などと呼ばれておりますが、怪我をしている弟を放置する外道ではなくてよ」
彼女は、高飛車に笑いながら、剣を手に戦場へと踊り込んでいった。四人、五人と斬り倒していく姿が、最後に見えた。
私たちは、先を進んだ。
向かい来る敵を蹴散らしながら、宮廷を駆け抜けた。駆けると、見知った連盟の魔術師たちが立ちはだかった。
騎士の次は魔術師。姉弟の言っていたことは、図らずも正解だった。魔術を用いた戦いを知らぬ者に、勝つのは難しい。しかし、彼ら魔術師もまた、武器の扱いを知らない。
フィス=ロウが、小さな弓矢を構えた。吟遊詩人が、座標特定の魔術に近いものを施したようで、フィス=ロウは、俄かには信じられぬ速度と正確さで魔術師を葬り去る。魔術師たちが混乱した隙に、ルー=エザが斬り込んでゆく。私が魔術で援護し、大賢人が反撃を阻んだ。
連盟の顔見知りもいたが、私はそれに一瞥をくれてやることもせず、先へと進んだ。
玉座の間に、皇帝ジークムント陛下は待ち構えていた。周囲には黒魔術師と思しき法衣をまとった者たちが数名、立っていた。その中に、レテもいた。
「貴様等」
陛下は、小さな声で呟いた。
「是非とも反逆者どもの処刑を、民どもの見せ物にしてやりたいが、レテ、その邪魔な軍人を先に消せ」
「御意に」
感情の一つも混じらぬ声で、レテは呟いた。手が突き出た瞬間、フィス=ロウが、黒い何かに包まれて消え去っていった。助ける隙もなかった。彼の、苦しそうな悲鳴が響いた。
「兄上」
「ジークリンデか。反逆者など、詰まらぬものに身を落としたな。黙っていれば、新しい婿をつけてやれたものを」
「隠蔽術は、死罪を七度与えても足らぬ禁術ですわ」
ジークリンデ姫は、毅然として言い放った。
「それを使い、歴史と先人が築いた全てに逆らった兄上こそが、反逆者でございます」
「そんなものは、知らぬ。これが裁かれる所以ならば、皇帝たる余が、その法を変えればよい」
「兄上、もしや、即位して三年間行動しなかったのは」
「名君として支持を得れば、法を変えることなど容易かろう?」
孤児や貧困を救済したのは。私をお父上のもとにお連れしたのは。太陽のような笑顔も、なにもかも。
この名君の熱意が、もし他に向かっていれば。私は何度、そう思ったことだろう。
しかし、それも全ては過去で、陛下が父上と叔父上を暗殺したのもおそらくは真実である。二人を殺めたのは、その野望のために、多くの人材と時間が必要だから、二人の死を待ってなどいられなかったのだろう。皇帝と言う、称号が必要だったのだ。
帝国中から慕われた皇帝の正体は、誰の言葉にも耳に貸さぬ死神だった。
陛下は、ルー=エザを指さした。私はレテの代わりに彼女を消そうとした黒魔術師を火だるまにした。黒魔術師の悲鳴があがった。誰も、その男を助けようとはしなかった。
「同じ手に乗るわけがないでしょう」
彼女は、まるで自分が黒魔術師を燃やしたかのように言い捨てた。
「戦場も知らない子供が勝てるなんて戯けたことは考えないことね。勝利が犠牲の上に成り立つことは、私の祖国を犠牲に領土を獲たなら、わかることでしょう?」
ルー=エザが剣を放り上げた。私はそれに応えるように魔術で剣を動かし操った。それにより、軽装の黒魔術師は順番に打ち倒されていった。
「近代魔術師の分際で小賢しい。あのローランドと言う頑固な爺が貴様を弟子にした理由がよくわかった」
「小賢しいのはどちらだ、小僧」
大賢人の言葉に、陛下が眉を顰めた。どう見ても、大賢人の容姿は陛下よりも年下に見える。彼女は長い銀色の髪を揺らしながら、杖を打ち鳴らし、悠然と名乗る。
「私はパレファディアと言う白魔術師だ。貴様より数百年は長生きしておるわ」
陛下が、その名を知らないはずがない。失われた至高の技術と言われる白魔術の復活を望み、大賢人を手の者に捜索させた王は少なくはない。
「百年も生きとらん甘ったれた若造に易々と奪えるほど、世界は甘くない」
「白魔術師、パレファディアだと?」
「残念だったな。私か、ここにいる弟を使った方が、黒魔術などという脆弱な力を使うより容易く世界など手に入ったぞ」
大賢人が、両手を振り上げた。その両手に着けられた指輪や腕輪に、白魔術で用いられる鉱石が多く散りばめられていた。
「消せ!」
怒りに身を任せ、陛下が叫んだ。
彼女の魔力に従うように、吟遊詩人が手を翳した。その力は、我々を囲んだ。大賢人の魔力が、レテや他の黒魔術師たちの放つ魔力と、ぶつかり合った。
ふたつの消そうとする魔力が衝突した瞬間、何かが弾け飛んだ。
それを私はどう表現すればよいのか。
色彩が歪み、陛下の姿がまるで塵芥のように消えた。黒魔術師たちも消え去っていき、最後に一番大きな魔力を放っていたレテが残ったが、彼女もまた消えていった。
足下が歪む。それは、割れているのでも揺れているのでもなく、溶け出すように、歪んでいった。
視界の端に大賢人の指輪が砕け散った、次の瞬間、目の前は草原が広がっていた。
ヴァレクセイ平野と名付けられたトシュレードの領土を思い出す光景だった。
「くそ、あの小娘、どんな悪魔と契約した」
大賢人が吐き捨てるように悪態をついた。
大賢人パレファディア。吟遊詩人の少年。ジークリンデ姫。そして、私とルー=エザ。
そこにいたのは、この大陸に残されたのは、そのたった五人だけであった。
私たちは負けたのだ。
黒魔術師が契約した悪魔に。権力者が取り憑かれた野望に。
世界は消え
そこまで書かれてある、僅かにまだ新しい血痕のある冊子を、アストラルは震える手で握っていた。
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