第九章 闇に葬られた真実と偽り
前日は雨が降っていたが、その日は明るく晴れていた。雨上がりの湿気の匂いが、僅かに開いた窓から入ってくる。
前略、
グリザベータ家は、政治家の一家ではない。周囲の地域の政治を行っているのは、少し離れたところにある別の家である。
アストラルの仕事は、医療と教育の統括だ。父は、仕事のほとんどを部下に任せていたので、申請書や報告書に判を捺すだけだった。父が学問に没頭していられたのも頷ける。
だが、アストラルは、その部下との連絡を密に行い、定期的に学舎や医者を訪問する方針を打ち立てた。彼には没頭したい学問もない。子供ができたら変わるのだろうが、それまでは仕事に没頭するのも悪くはない。不馴れながらに懸命に打ち込む姿は、見る者に好感を与えた。
それから、アストラルはミザリーンとの婚約を発表した。具体的な予定はまだ未定であり、現在は先方の両親――義両親となる、フィレニウス家の当主夫妻と話しているところである。婚礼は、夏が終わった頃になるだろうか。
忙しい日々を送り、ようやく落ち着いてきたのが、この
アストラルは、手記を読んでいた。
「大賢人パレファディア、か」
読み終わってまず始めに呟いたのが、それだった。この手記を持っていた母の旧姓と、同じである。
「お義母様が、大賢人の子孫だと考えるのが自然なのかしら?」
目の前にいるミザリーンが、呟いた。
「古代語って現代語とは文字の形が違うだけなんだよな」
「そうよ。だから翻訳って言ってもそのまま書き写しているだけ。多少言い回しが奇妙なところだけは直しているけれど、どうかした?」
アストラルは、少し回答を躊躇った。あまりに、話が飛びすぎている自覚があったからだ。
「……お袋とこの大賢人は、数千年経た血縁にしては似過ぎている」
大賢人パレファディア。
彼女はあまりにも母セイルに似過ぎていた。
雪のように白い髪に、端正な顔立ち。尊大だがどこか憎めない物言い。全て、母と一緒である。あくまで文章での表現であることには間違いないのだろうが。
「大賢人は、自分の身体の時間を止めて何千年も過ごし、俺たちの母親になった。さすがに、ちょっとぶっ飛んでるか」
若しくは手記が、セイルの創作物である可能性なのだが、ミザリーンはそれを指摘しなかった。
この羊皮紙の年季の入り方が、数十年でできるものではないことは、遺物を調査する彼女が一番良くわかっている。それに、セイルは生涯一度も自画像を描かなかったのに、自分を創作物に出すとは考えにくい。
「もしそうなら、凄いわね。あなた、白魔術が使えるかもしれないわよ」
「使い方すら知らないって」
「全て、この手記を解読したら分かるのかしら。言っとくけど、私は解読が終わって結婚式が終わったら、すぐにでも遺蹟に遠征に行くわよ? 遺蹟が私を呼んでいるもの」
「分かってるって」
アストラルは、ただ苦笑した。遺蹟が彼女を呼んでいると言うことがまさか本当にあるとは思わないが、彼女が遺蹟を求めているのは明らかである。
「それじゃあ、早く解読を終えないとな。式の日取りも早く決めよう」
「よくわかってるじゃない」
「言っただろ。子供ができても俺が母親の代わりをするって。俺は、ミザリーンが無事に帰ってきてくれれば、それでいいよ」
姉は尻に敷く、とミザリーンの弟が言っていたが、既に敷かれているような気がしてならない。優柔不断なところのある自分には、これくらいが丁度いい。
一度決めてしまえば、まっすぐ進めるがそれまでの過程が無駄に長いことは彼自身が一番よく知っている。
そもそもミザリーンに結婚願望があったのかは定かではないが、尻に敷かれる程度の覚悟ができない男でないと、彼女の夫にはなれないだろう。むしろ、はじめから彼女に振り回される気でいなくては。
母も、父を振り回してはいなかったが相当に気が強い自由人だった。自分を産んだ直後、助産婦にキャンバスを持って来いと言ったそうだ。そして産後の疲れも見せずに、アストラルに乳を与えながら、マリウスが持ってきたキャンバスに、絵を一枚描きあげた。助産婦は大層驚いたそうだが、マリウスと父はただ苦笑しただけらしい。
『存じ上げてはおりましたが、本当に気がお強い奥方を娶られたと思いました。それと、きっと強い子が育つであろうと』
当時のことを回想したマリウスは、笑った。弟の時は、早産で病弱だったこともあり、さすがに育児に専念したらしいが。
女性の好みまで、父に似てしまったのだろうか。
時刻はもうじき十八日になろうとしている。前日から降っていた雨は、止む気配がないが、穏やかなものだった。
ハディートとその妻セイルの名が刻まれた墓標の前に佇むのは、一人の青年だった。
(父さん)
アクレイア・グリザベータは、雨に身体が濡れることを気にすることもなく、刻まれた父の名前を見つめていた。
兄がいたら、早く室内に行けと諌めただろう。あれが無駄なお節介というものである。雨に濡れて風邪を引くのは、身体が弱いのではなく自己責任ではないのか。
世話焼きな兄が、いつからか疎ましかった。勉学の優秀さと端正な顔立ちを羨むのであればもっと嫌えばいいものを、馬鹿みたいに気にかけてきたのが、どこか癪だった。
「これで、正しいよね?」
彼の呟きは、雨に溶けて消えた。
遡ること三年前。母の葬儀の日のことだった。
その日、アクレイアは、父に呼び出されていた。葬儀場から少し離れた、海がよく見える岬である。
父はそこに静かに佇んでいた。そこにいないのではないかと思わせるほど静かに、そしてどこか諦念を滲ませる表情で。
「ああ、来てくれたか、アクレイア」
声をかけると、父は振り返った。穏やかな顔つきだった。これほど穏やかな表情を浮かべた父を、見たことがなかった。
「どうしたのさ、父さん。母さんを、見送らなきゃ」
「いいんだよ、私は」
父は、海を、空を眺めた。父が、一歩、前に進んだように見えた。瞬間、アクレイアは父の腕を掴んでいた。
「駄目だ、父さん。死ぬのは、駄目だ。父さんは、まだ死ぬときじゃない」
直感だった。父は、死のうとしている。母のところに逝くから見送る必要はないと、言っている気がした。そして父は、否定もしなかった。
「父さん……」
「なあ、アクレイア。知ると言うのは、罪ではないか?」
学問や研究に従事した父が、知ること、つまり新たな知識を得ることを罪とする。理解ができない。
「罪なわけがない。新たな知識を得てそれを喜びとするのは人間にしかない素晴らしい感情だって、父さん言ってたじゃないか」
「世の中には、知ってはいけないことがあるんだ」
そんなはずはなかった。知的欲求も、知識を得られたことへの快感も、それにより更なる進化を求めようとする欲求も、全て、人間の素晴らしい一面だと言うのが、父の教育だったからだ。
そして、アクレイアは、いや、兄弟はそれを疑うことなく育った。
国や宗教によっては知ることが罪とする神話もあるが、その罪を犯したからこそ人の歴史は始まったと言う内容だ。知ることを否定することは、人間の歴史を否定することでもある。
身体は弱かったが勉学は好きだったアクレイアを、父はいつも褒めて育てた。
そうか、おまえは医者になりたいか。素晴らしい夢だ。おまえは物覚えがいいから、きっと医者になれるだろう。大きくなったら、父さんと一緒にみんなが幸せになれるように色々なことを考えてくれないか。
そんな父の絶対的な言葉が、希望が、夢が、崩れ去っていく。よりにもよって、同じ父の言葉で。その絶望を、アクレイアはどう例えればいいのかがわからない。
「父さんの書斎に、古代語で綴られた手記がある」
唐突に、父が呟いた。
「その手記を読むことは許されない。あれには、我々が知ってはいけない真実が、綴られている。母さんがあれを守っていたが、病気になってから預かり、読むなと言われていたものを読んでしまったのだ。……誰にも読まれぬよう、おまえが守ってくれ。そしておまえも、読んではならん」
知ってはいけないことを知ってしまった。だから、死ぬことで自らの口を封じようとしている。そこまでは、わかった。しかし、それは本当に死ぬ必要のあることなのだろうか。
アクレイアは、何も言えなかった。
兄ならば何と言っただろう。『何も知らずに知ってしまったことが罪になると言う道理がどこにある。それは道理じゃない。理不尽だ』きっと、こうだろう。あの兄は、勉学は確かにいまひとつだったが、正直でまっすぐな男だ。
だが、彼には何も言えなかった。初めて、兄の強さを認めたような気がする。
「頼んだぞ、アクレイア」
ハディートは、息子の腕をそっと振りほどき、崖からその姿を消した。
それは、本当に、空気に溶け込んでいたように見えた。だから彼は、兄に嘘はついていない。
崖から海に飛び込んだ上に、失踪したことにしていたので、父の遺体を捜せる訳がなかった。
アクレイアは、母の遺灰を分けてもらっていた。その遺灰を、彼は父が飛び込んだ岬に撒いた。灰が、風に乗って哀しいほど美しく舞い、海に吸い込まれていった。
四十二歳も、死ぬにはまだ早すぎた。
手記を、父が処分しなかった気持ちは、わからなくもない。母の形見なのだ。アクレイアは、それが父を死に追いやったのだと知っていても、処分することはできなかった。
父が自分の死をもってして触れさせるなと言った手記を、兄が手にしてしまった。アストラルには古代語は読めぬだろうからと、父が途中まで解読を残してしまったのが、誤算だった。兄には、古代語は読めないが好奇心がある。そして、古代語が読める、今となっては婚約者の幼馴染がいる。
しかし、全ては今夜、終わる。
父が死んで解決しようとしたことを、同じように死で解決してしまえばいいのだ。それが例え非合法だとしても、彼にとって父は絶対だった。
本当は医者になることなどどうでもよくて、父と幸せになれる研究をしたかったのだ。父が学者としてならば、自分は医者として。兄は将来当主として地域の医療を統括するのだから、何か変えるべきことがあるのなら兄に訴えればなんとかなる。兄は、頭は悪いが道理は知っている。
それは、なんて幸せな日々だったろう。しかし、父はもういない。だから、二度とそんな日は訪れない。だから、もうどうでもいいのだ。
アクレイアは踵を返した。振り返ることなく歩き出す。何時の間にか雨が止んでいた。少し衣服が乾いた頃に、彼はある屋敷の離れに辿り着いていた。
助手として、合鍵を、持っていた。彼は離れに忍び込むと、持って来ていた空の酒瓶を握り直す。ミザリーンの研究室。ここで彼女は、手記の解読を進めているはずだ。
ミザリーンは好きだったが、もう諦めはついていた。彼女が手を取ったのが兄だったのだから、出る幕がなかったのだ。今更、好きだ惚れたと言う気はない。ただ、彼女の助手として働いていた間、好きな人といられたのは悪くなかった。
しかし、ミザリーンのことは好きでも、消えてもらわねばならない。
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