第八章 大賢人

 紫水晶アメジストの月十日のことだった。

 我々を乗せた馬車は、エスカータ共和国の国境を越えた。エスカータが残っていたことに、私たちは安堵した。

 国境を越えようとしたあたりから、雪が積もっていた。雪のために装甲した馬車ならば容易に通れる程度の雪だったので、寒い以外には難儀はなかった。

 驚いたのが、吟遊詩人の少年は、多少寒くなろうと涼しい顔だったことだ。寒いですね、と微笑む本人が一番寒くはなさそうだった。私がそのことを尋ねると、彼は「もっと寒い場所を知っていますから」と答えた。各地を放浪してきただけのことはある。若く見えるが、相当過酷な環境を生き抜いてきたようだ。

「もう少し前ですと、もっと雪は積もっておりました。それこそ、馬では脚がとられてしまうので、人間の脚で歩いてゆかねばならぬほどに。それも、困難な道のりではございますが」

 少年はそう言ったが、彼の口調が穏やかなためかあまり困難そうには感じられなかった。

「ルー=エザはそんな道のりを歩いてのけたのか」

「ええ。音を吐くこともなく、ただ黙々と歩いておられました。女性とはお強いものです」

「全くだ。話を聞く限りでは、の大賢人パレファディアも女性だとか」

「パレファディア様は、少し変わっておりますが、お美しい方ですよ。この雪のように白く美しい、神秘を思わせる髪であられまして」

 彼はそう言って穏やかに微笑んで見せ、御者台のフィス=ロウに次の道の方角を指示する。ルー=エザが通った頃には吹雪だったと言うが、よく方角が分かるものだ。

 真冬の雪の中、五日を経て、我々は小さな集落に辿り着いた。

「放浪の末、ここに根付いたパレファディア様を慕う者たちが徐々に集まっていって、いつしか集落になったそうです。百年ほど前のことです」

 少年はまるでつい最近のことのようにそう言って、馬車を降りて我々を案内した。

 集落の人々は、少年を見て歓迎してくれた。この少年が、この集落の人々と親交が深いのは間違いなさそうだった。それどころか、慕われている雰囲気でさえあった。集落の者たちは私たちが馬車を降り、荷を運ぶのを我先にと手伝い、里の奥にある小さな家に案内した。

「ここが、大賢人がお住まいの?」

「そうです、魔術師の方」

 尋ねると、集落の若者はそう答えた。私たちは、手伝ってくれた者たちに礼を述べて、大賢人の住居を訪ねた。

「パレファディア様」

 吟遊詩人の少年が声をあげると、長い法衣を引き摺りながら、誰かが歩く音がした。

「遅かったな。随分待ったぞ」

 そう言いながら玄関先に現れたのは、少年が言っていた通り、雪のように白く長い髪の女性だった。それは老婆の白髪などとは違い、若々しく美しい白さだった。彼女はどう見ても十五、六の少女のようにしか見えず、数百年を生きたと思える容姿ではなかった。

「お待たせして、申し訳ないです」

「まあ構わん」

 大賢人は尊大な態度で言い放ち、それでも我々を中に導き入れた。ルー=エザがいた。私たちは、互いに頷き合った。それだけで充分だった。

「貴様か」

 大賢人は、私の方に身を乗り出してきた。私が何のことかと思ったら、彼女は話を続けた。

「近代魔術師の分際で、悪魔の契約すら済ませている黒魔術師と戦おうとしている無謀な阿呆は」

 少年が言っていた通り、彼女は少し変わった女性のようだった。しかし、ただ者ではなさそうなのはすぐにわかった。よく見るとその瞳は、若い風貌に合わず老人のような眼差しをしていたのだ。それも、歴戦の老兵のような。

「恐れながら、私が戦おうとしている相手は、その背景にいるヴァレクセイ帝国皇帝ジークムントです。黒魔術師の娘は敵の一人に過ぎません」

「ほう。では何故戦う」

「隠蔽術により導かれるであろう世界の崩壊を、阻止するために。私如きに成し遂げられるとは思いませぬが」

 私がはっきり答えると、大賢人は一瞬目を丸くし、笑みを見せた。

「……弟が導いただけのことはある」

 成る程、と私は思った。吟遊詩人の少年は、大賢人の弟だ。古い知識に関しても博識で、どこか達観しているように感じられた私の印象は、間違ったものではなかったのだ。

 大賢人とは、この姉弟双方のことなのかもしれない。

 白魔術師は、修行と魔術の結果自身の時間を止めることができるのだと言う。よって、姉弟は恐らく数百年を生きているにも関わらず、少年少女のような姿を保つことができたのだ。白魔術は失われた記憶を蘇らせたりなどと言う効果を発揮することもあり、これは、他の魔術では再現できない技術である。

 しかし、それほどまでに高等な白魔術にも弱点があった。同じ血を引き継ぐ一族でなければ操れぬ技術だということだ。かつて白魔術師の一族は、その効果を求めた人々により、栄華を極めた時期があった。だが、あまりに希少な為に、戦争などの歴史の中でやがて絶滅の一途を辿って行った。

 精神性の高い白魔術師たちは、その希少さゆえに滅び去ってしまったのだ。

 大賢人が大賢人たる理由は、まさに唯一の生き残りであるため、その力と共に伝説として語られているからだった。

「なんだ、貴様はこれが私の弟と知っても驚かんのか」

 驚くゲイトルードとフィス=ロウを他所に、落ち着いている私を見て、大賢人は詰まらなそうに悪態をついた。

「彼は古代の知識に造詣が深すぎると思っていたので、見た目よりも高齢であることは気付いておりました。白魔術師であれば納得です。白魔術の一族に、二人も生き残りがいることは驚きですが」

「ふむ。貴様、馬鹿ではないことだけはわかった」

 大賢人はそう言って、杖の先を床に打ち鳴らした。

「貴様らがここまで来た理由は、わかっている。隠蔽術で一国の存在をなかったことにして全てを奪った皇帝が、これを繰り返すことにより、大陸全土を己のものにしようとしている。貴様らは、その皇帝を止めんとしているが、配下の黒魔術師や他の難敵を倒すには、貴様らだけでは足らんと、私を頼った」

 彼女はそこまで話してから、何処か面倒そうに嘆息した。

「全く、その皇帝とやらはどれほどの戯け者なのだ。その程度のことで獲れるほど、世界は甘くない」

「それは、どう言うことでしょう、大賢人様」

 ルー=エザが口を挟んだ。

「何の前触れもなく、完全に消し去るその黒魔術、その作戦は完全なものだと思われます。そう思ったからこそ、皇帝はその策を取ったのでしょう?」

「貴様は消えとらんではないか、消された国の軍人殿」

 大賢人は白魔術に使うらしい赤い鉱石が光る指輪がはめられた指先を、ルー=エザに突き出した。

「その程度でとは、嗤わせる。その綻びが大きくなれば、黙っていても帝国など潰れるさ。まあ貴様らは、そんなに待ってもいられぬだろうがな」

「ならば簡単でしょう。少数で突撃するしかないわ」

 ルー=エザが低い声で笑った。我ながら、恐ろしい女性に惚れてしまったものだ。

「私たちに記憶や存在が残っていたことに、特別な理由があるとは思えない。だから、他にも同じ思いを抱えている人たちが少なくはないことは想像に難くないけれど、仲間を集めるために声を大きくしたら叩き潰されるわ。大軍に攻められた時、この数では対応できない。ならば、突撃するしか手段はないわ」

「俺らでヴァレクセイ帝国を倒せば解決という訳か、大尉」

 フィス=ロウが感心したように頷いた。

「だが、それほど簡単にいくだろうか」

「あら嫌だわ、中尉。貴方、それでも軍人なの。簡単な戦いなんて、命をやり取りしている時点でどこにもないのよ」

 ルー=エザの微笑は、どこか挑戦的でさえあった。それは、私が初めて見る彼女の表情だった。彼女のその様子を見て、大賢人が愉快そうに笑い出した。

「好戦的だな。貴様。ルー=エザだったか、気に入ったぞ」

 大賢人はひとしきり笑い終えると、杖を一度床に打ち鳴らした。その時には、既に表情は引き締まっていた。

「しかし、そうすると貴様らは、一国の皇帝へ危害を加え、或いは殺害するとなると、だ。他国の者ならば暗殺者、自国の者ならば反逆者だ。帝国の法は知らぬが、生きては帰れんだろうな。……その覚悟は、あるのか?」

「元より」

 私は誰よりも先に、口を開いた。

「世界の命運に比べれば、私一人の命、惜しむ価値もない」

 元々、十五で孤児院を追い出された時に、落としていてもおかしくなかった命だった。惜しむ価値も理由もない。

「国家の指導者が誤った道に進もうとしているならば、それを糺すのも家臣の役目だ」

 ゲイトルードが頷いた。フィス=ロウと、ルー=エザも、次々と同意していった。

「僕も参ります、姉上。命などどうにでもなりますし、人々を救い、護ることは白魔術師の本分でもあります」

 吟遊詩人の少年の言葉に、大賢人はしばらく考える素振りを見せ、嘆息した。

「……言っても聞かぬだろう。おまえは私の弟だからな。おまえの姉であるこの私が、守ってやる。だから命はどうにかしてやる故、存分に戦え」

 大賢人が戦った理由が、世界の為なのか、白魔術師の子孫を残す為なのか、弟の為なのか、自分の為なのかは、最後までわからなかった。


 こうして我々は立ち上がることになった。

 敵は、黒魔術師レテとも、ジークムント陛下とも、ヴァレクセイ帝国とも言えなかった。強いて言えば、『権力』と言う強大な存在である。

「それにしても、帝国内部でもう少し仲間を捜しておけばよかったか」

「仕方あるまい。あまり大っぴらに動くわけにもいかないだろう」

「いくら旅立つときに違和感がなかったとしても、やはり俺が内部に残った方がよかっただろうか。姉貴だと少し声が大きすぎる」

 私は思わず苦笑した。ゲイトルードだって声が小さいわけがないからだ。

 しかも石頭の多い宮廷の連中は、彼を異端者を見るような目で見ている。

 ともあれ、無い物ねだりをしても仕方がなかった。私たちは帝国に戻ることにした。

 他国にいては、いつ隠蔽術の毒牙にやられるかわかったものではなかったからだ。そこで自分たちも消えてしまうなど、お粗末でさえない。

 その分消される心配のない帝国は、安全と言えた。既に消されたところは不自然なほど人っ子一人いないような地になっているので、そこを拠点にすると目立ってしまう。

 仮に戦いに勝利しても、私たちは暗殺者なり反逆者なりの理由で裁かれる。大賢人の言う通り、まともに生きることはできないだろう。

 消えてしまったものは戻ることがない。これ以上の消滅を食い止めるために、私たちは戦うのだ。

 この事実を、記録として残したかった。史実と違うと謗られてもいい。異端としてどこか奥深くに秘匿されてもいい。ただ、記録として残すために。

 私がこの手記を記し始めたのは、この頃からだった。

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