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「なァ、鳳介ほうすけさんや」

「なんだィ、奏太そうたどん」

 薄暗い教室の中、整然と並べられた椅子の最後列に座っていた伊澄奏太いすみそうたは、ぼんやりと正面に視線を投げかけながら言った。

「これ、面白いか?」

 二人のひとつ前の椅子に座っていた黒縁メガネの男子生徒が振り返って、憎しみで人が殺せそうな目を向けてきた。

「奏太はホント、清々しいほどに人でなしのクソ野郎だ」

 隣で行儀よく椅子に腰掛けていた長身のイケメンがため息混じりに小声で言う。

「面白さの尺度は人それぞれだろ」

「もちろん、当然だ」

 と奏太は素直に頷いて、

「だから、そういう鈴木鳳介すずきほうすけさん的には、どうなんだよ」

 鳳介はうんざりした顔で正面を見つめて、

「けっこう楽しめる」

 と答えた。

 前の席の眼鏡が満足そうに頷いて前に向きなおった。

「へェ、どのあたりが?」

「そうだな」と、言葉を吟味するように少し悩んで、

「ストーリーはさておき、衣装デザインが興味深い」

 前の席から咽たような咳が聞こえた。

「ああ、なるほど。それは確かに、鳳介らしい」

 奏太は納得したあと、興味を失ったように、正面のスクリーンに視線を戻した。

 カーテンを締め切って電気も消した薄暗い教室の中、黒板の前に張られた大きなスクリーンでは、五人の美少女たちが短いスカートを翻して、惜しげもなくナマ足とパンツを晒しながら、手に握った楽器をじゃんじゃかかき鳴らして、敵らしき何かと戦っていた。

 彼女たちは今まさに仲間の絆を深めあってさらなるパワーアップを遂げると、ついさっきまで手も足も出なかった敵の総大将をぐるりと取り囲んで、フルボッコにしはじめた。

 ちなみに同様のパワーアップはこれで五回目を数え、隣近所三軒の平穏を守るのにいっぱいいっぱいだった少女たちは、宇宙の平和を脅かす異次元生物たちをけちょんけちょんに蹴散らすまでになった。仲間がもたらす友情パワーとやらはかくも偉大らしい。

 奏太はもはや何度目かも分からない欠伸を浮かべた。

 はばかりもせず、大口を開けて、あまつさえ気の抜けた声まで喉から出ると、さすがに教壇近くで監修していた先輩が剣呑な目で睨んできた。

「出ようか」

 鳳介が気を利かせて腰を浮かせた。

 奏太も、再三のあくびを浮かべながら、あとに続いて、教室を出た。

 すでに日は傾いていて、窓から射す光が廊下を橙色に染めていた。

「思ったよりは時間を潰せた」

 奏太は両手を上げて思い切り背伸びをしたあと、ぷらぷらと両の手をもみほぐした。

 後ろ手に教室の戸を締めながら、鳳介が苦笑交じりにため息をつく。手にした通学鞄から冊子を取り出して、赤ペンで何やら書き込み始めた。

「さァて、次はどうすっかな」

 差し込む日に手をかざしながら奏太がぼやくと、鳳介が手にした冊子を差し出してきた。

 折れ目のついたページには、部活の名前がずらりと並んでいた。今出てきたばかりの映像文化研究会の頭には、すでにバツマークがついていた。

「ダメとは言ってねェよ」

「じゃあ、入部するか」

 奏太は少し考えて、

「寝ながら見るにはちょうどいいな」

 鳳介は呆れ顔で冊子のバツじるしを三角に書き直す。それを横から覗き込んで、奏太はざっと一覧を目で追うと、

「これでだいたい全部か」

 とつまらなさそうに言った。

 鳳介はまだしるしの付いてない部活動??合唱部、吹奏楽部、弦楽部、軽音部、ピアノ同好会など??を見て、苦々しさを噛み殺しつつ、冊子を鞄にしまった。

「さァて、マジでどうするか」

 奏太は腕を組んで頭をひねる。

「無難なところで、図書室はどうだ」

「さすが、新入生代表は目の付け所が違う」

 わざとらしく感心して見せる奏太を、鳳介がチラリと横目で見て、

「学習館って手もあるが」

 奏太が絞め殺されたカエルみたいな顔をする。

「お勉強は、もう一生分やった」

「あと二年半もすれば、また始まるけどな」

「考えただけでゾッとする」

 奏太は心底イヤそうな声で言った。

「まァ、今日のところは図書室で我慢しとくか」

「それも毎日となると辛そうだが……と、悪い、俺はそろそろだ」

 スラックスのポケットから携帯を取り出して、鳳介が言った。

「親の代わりに幼稚園のお迎えなんて、オニイチャンは大変だな」

「奏太も今に分かるようになる」

 鳳介の確信的な言い回しに、奏太はうんざりした顔で手を振った。

「奏太も来るだろ? 妹達も喜ぶ」

 あー、と奏太は唸りながら首を回して、

「麟子さんはどうだ」

 鳳介が気まずそうに目を逸らす。

 奏太もそっと目を伏せる。

「まだダメか」

「まだダメだ」

「マジで身に覚えがねェんだけど」

 ため息混じりの奏太を見て、鳳介は何とも言えない顔をする。

「まァ、姉貴は今日も学習館だから、夕飯までは平気だ」

「ニアミスして迷惑かけなきゃいいけど」

「ウチは問題ない」

「なら頼む」

「飯はどうする」

「さすがにそこまで甘えられねェよ。コンビニで適当に済ませる」

「いいから食っていけ、と言いたいところなんだけどな」

 鳳介がため息をつく。

「せめてマシなものを食えよ」

「オニイチャンは心配症だな」

「デカい弟がほっとけなくて」

 話しながら二人は、校舎の端まで行き着く。

 突き当りの美術室はまだ部活動の最中だった。空いた扉の向こうに、イーグルに向かう部員たちの姿が見える。

 その中の一人に、奏太の目が留まった。

 スラリとした居ずまいに、背中にかかる長い髪が日に透けて、日本人離れした金色を放っている。

「アイツ、美術部だったのか」

 奏太のぼんやりとした独り言を聞いて、鳳介が隣りに立つ。美術室を覗いて、盛大にため息を吐いた。

桜井さくらいは中学の時から美術部だ」

「そうだったか」

「そうだったよ」

「よくご存知で」

 ニヤつく奏太に、鳳介はもはや軽蔑に近い目を向けて、

「入賞した絵を一緒に見せてもらっただろ。ついでに、ちょっとした事件まであった。アレを忘れられるお前の神経が理解できない」

 奏太は首を90度までひねってから、やがて、おお、と手鼓を打って、頬をさすった。

「アレは痛かったなー」

「俺は初めて見たよ、本気のビンタってやつ」

「俺も初めて食らった。母親のはいつも避けてたし」

「コメントしづらいな」

 教室を除きながら二人で話していると、声を聞きつけたのか、件の女子生徒が振り返った。

 細く長い髪がたなびいて、夕日の射す中で金色に光った。

 白い艶やかな顔立ちに、すっと鼻梁が通って、色素の薄い大きな瞳は金毛に縁取られている。

 東洋人の顔のパーツで西洋美人を作ろうとしたら、こんな顔になるに違いないと思ってから、奏太はそれが何の比喩にもなってないことに気付いた。

 鳳介が軽く手を上げると、日本製ビスクドールの少女はそれを一瞥して、次に隣の奏太を見て、天使のような笑顔を浮かべた。

 やおら差し上げた右手の、親指を突き立てると、首のあたりを真一文字に切って、そのまま地の底へと突き下ろす。

――地獄に落ちろ。

 鼻息の音まで聞こえてきそうな剣幕だった。

「熱烈だな、奏太」

「やっぱり身に覚えがねェよ」

「こっちに関しては余罪だらけだ」

 話しながら、にこやかに手を振る鳳介を無視して、少女はさっさと視線を切る。

 隣りに立っていた小柄な女子生徒と、何か話し始めた。

 二言三言と話した後で、小さな背中がチラリとこちらを振り向いた。

 キッチリと切りそろえられた濡羽色の黒髪がかすかに揺れる。

 しばしの間、奏太を見て、やがてまた背中を向けた。

「誰だろ、アレ」

「最近、一緒にいるのをよく見かけるな。美術部ではなさそうだが」

 ビスクドールの少女が制服の上着を脱いで、前掛けまでしているのに対して、黒髪の少女は上下制服を着たまま、絵の脇に立って見ているだけだった。

「雰囲気ある」

 と奏太が呟くと、鳳介が興味深そうに尋ねる。

「ああいうのが好みか」

「夜の学校で会ったら、トキメキで死にそう」

「それと暗い帰り道は、背中に気を付けろ。きっと奏太はいつか刺されて死ぬ」

「そういう役はイケメンに譲る」

「代われるもんなら代わってやりたいくらいだ」

 鳳介が階段を降り始める。奏太も後に続いた。 

「美術部はどうだ」

 鳳介が尋ねる。

「オレの絵心は壊滅的だって、知ってんだろ」

「桜井が手取り足取り教えてくれる」

「そして、あのヘラで刺されるのか」

 かもな、と鳳介が笑う。

 その背中を見つめて、

「鳳介こそ、どうなんだよ」

 と奏太が尋ねた。

 少し間があって、踊り場で振り向いた鳳介が、苦笑いで答える。

「そこまでの時間はないし、姉貴の手前、それもちょっとな」

 奏太は、そうか、とだけ答えて、あとは黙って階段を降りた。

 廊下に落ちる影はだいぶ色濃くなっていたが、校舎のそこかしこにはまだ生徒たちの活気が残っていた。

 一階突き当りの調理室からは美味しそうなスパイスの匂いが漂っている。

 化学室の中をのぞけば、所狭しとビーカーやら試験管やらを並べて、それらしい風景を作っている。

 昇降口で靴を履き替えて外に出た。

 駐輪場の脇ではバレー部の先輩たちがユニフォーム姿でビラを配っていた。

 長身の鳳介にむらがる先輩たちの横を素知らぬ顔で素通りして、自転車の鍵を外していると、ほうぼうの体で鳳介が追いついてくる。ニヤニヤ笑う奏太に恨みがましい目で返して、自転車の鍵を外す。

 駐輪場から出て、学習館の前の小路を抜けて、旧校舎の向かいに出る。

 広場の一本桜は、すでにまばらだった。

 それを二人、見上げて、どちらともなく歩みが止まる。

 自転車にまたがった女子生徒が二人、脇を通り抜けていく。

「うわ、汚ーい」

「満開の時はキレイなのにねー」

「散るならいっぺんに散っちゃえばいいのに」

 通りしなに落としていった会話に、奏太と鳳介はどちらともなく顔を見合わせて、

「汚いって」

「ですって」

 二人で肩をすくめて、まだらな桜の花びらと葉を見上げた。

「明日はここでスケッチをするか」

「こういう時、絵をかけるやつが妬ましい」

「奏太もどうだ」

「どうしてもオレを笑い者にしたいのか」

「絵よりも良いものがあるだろ」

 と鳳介が言う。

 奏太はぼんやりと緑の芽吹く桜を見上げて、

「駅前のストリートミュージシャンじゃあるまいし」

「音楽室でも借りたらどうだ」

 そう言って、旧校舎の端から向こうに、特別棟の音楽室を眺める。

「借りられるもんなのか」

「ダメってことはないだろ。部活でも使ってるんだし」

「使ってるんなら、どのみちダメじゃねェか」

 奏太が自転車ごと体当たりをしかけると、鳳介がするりと避けて先を歩き出した。

 一本桜の脇を抜けて、並木の緩やかな坂を下り、旧正門へと向かう。

 その後を追おうとした奏太の足が、ふと、止まった。

 先を行く友人の背中を眺めながら、その場に立ち尽くした。

 瞬きもせずに、じっと、耳を澄ませていた。

 ついさっき聞こえたものを、息を殺して探る。

 聞こえた。また。

 風に乗って、音が聞こえた。

 気の抜けた音が、どこからか聞こえていた。

 鳴りそこないの弦の、下手くそな響きが、どこからか聞こえてくる。

 たどたどしい音の羅列は、流れを追うにつれて、辛うじてそのメロディを伝えてきた。

 聞き覚えのない旋律、ステップの危うい音の舞踊が、奏太の意識に入り込んでくる。

 違う。これは、違う。

 自転車の取っ手を握った指がもどかしげに動く。

 違う、間違っている。

 眉間に皺を寄せながら、苛立たしげに体を揺する。

 違う。そうじゃない。

 足先で地面を叩いてリズムを取りながら、音の流れを頭の中でなぞる。

 ほんの少し、あともう半歩なのに。

 思わず振り返って、音の発生源を探した。

 風に乗ってやってくる音を辿って、奏太の視線が旧校舎の一角に止まる。

 窓が開いていた。

 見えるのは古びた木製の内壁と黒板の端だけ。しかし、音は確かにそこから聴こえてくるように思えた。

 音が聞こえる。

 咬み合わない。あとほんの少しで、また踏み違えた。

 一歩、奏太は足を踏み出しかけて、

「どうした、奏太」

 はっと、我に返った。

 何をやっているんだ、と。

 今さら、なんて下らないことをしているんだ、と。

 奏太は頭を振って、こびりついた音色を意識から追い出した。

「何を――」

 口を開きかけて、鳳介も気付いた。しまった、という表情がその顔に浮かぶ。

「行こう」

 鳳介が何かを言うより先に、奏太が自転車を押して歩き出した。まっすぐ裏門へと並木道を下っていく。

 決して振り返ろうとはしないその背中を見て、鳳介は強く歯噛みをした。

「くそ、失敗した」

 小さく自分を罵る。

 旧校舎からは、あのたどたどしい旋律がまだ聞こえていた。

 いや、まだだ。機会はある。きっと、必ず。

 祈りに似た気持ちで旧校舎を振り返って、すぐさま奏太の後を追った。

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ISM 砂部岩延 @dirderoi

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