盛り土

一齣 其日

盛り土


彼が仕事の合間を縫って、そこに来たのはとある夏、蝉の鳴き声が盛りになっていたころだった。汗に濡れるワイシャツのボタンを一つ開け、うちわをハタハタと仰いで、ようやく凉みを得ている。

しかしながら、太陽はいつまでもジリジリと地を焼いていくので、たまったものではなかった。

アスファルトで舗装された道路からも熱気が反射されて襲いかかる。真夏日に来たのは失敗だったかと男は思うが、それでも行かなければとある種の使命感に駆られていた。

できうる限り日陰を辿って歩き、帽子をかぶって日を遮る。


あの日もこんな暑い日だったか。

男は思い出す。あの日のことを。


彼は刑事である。署内ではちょっと有名な敏腕刑事と言っても良いだろう。ただし、彼が敏腕なのは、逮捕力以上に、その取り調べ力にあった。

その日、彼が取り調べたのは誘拐殺人犯の男だった。頬はこけ、目はぎょろりと飛び出し、生気の無い人間だ。いや、むしろそれは何処となく人間離れとも言えた。

「僕は……女の人が苦手でした」

その切り出しから話は始まる。

元来顔のよくなかった彼は、男性はいざ知らず、女性からもいじめを受けていた。それは、幼少期から小学校までだったが、それがトラウマとなり女性が苦手となってしまった。話すのにも、緊張して声が震えるほどに。

「で、それと今回の事件がなんか関係あるのか?」

「……いや、身の上話をしたかっただけなのかもしれません。ただ、僕という人間をしっかり知って欲しかった。こういう人間だったと仮定して、僕の罪を聞いて欲しかった」

あなたは、僕を見てくれたから。

そう彼は言うと、にっこりと笑う。誘拐殺人犯と言うには、あまりにも優しい笑みだった。

彼が誘拐し、そして手をかけたのは、小さな、小さな女の子だった。写真を見る限り、可憐で、純真な瞳を持った女の子。

「あの子は、僕を見てくれたんです。たまたま何をすることなく、公園のベンチで座っていた僕に、『顔色が悪いよ、大丈夫?』って、声をかけてくれたんですよ。女の人だったのに、怖くはありませんでした。小さかったから、そうかもしれません。でも、僕が本当に安らげたのは、久しぶり感じた、手のぬくもり、真っ直ぐでよどみの無い瞳、それらのおかげだったんです」

男は朗々と語る。そこに幸せというものがあったかのように語る。

異常を感じざるを得ない。

そしてその女の子は誘拐されて殺された。

「何故殺したか? 簡単ですよ、彼女が僕をいじめた女の子になる前に、僕のものにしたかったんです。でもダメでしたね。だったらいっそのこと食べてしまえばいいんじゃないかって。そうしたら、僕と彼女は一緒でしょ?」

女の子の遺体は食い散らされていた。

あまりの人間とは思えない行為に、マスコミは猛烈に非難し、遺族たちは今も怒りと悲しみの声を上げている。

「お前、自分のやったことがわかっているのか?」

「わかっていますよ。僕は、いけないことをやりました。やっちゃいけないことを、やりました」

言葉とは裏腹に、何処か淡々とした態度。

そこには、何も無い。空っぽの何かがあるだけ。

男の拳が自然と、机を壊すかの勢いで叩きつけられた。音を立ててわななく拳。

「お前……」

男は言葉が出なかった。何を言おうにも、感情を言葉に出来得なかった。

「わかります」

彼は言った。

「でも刑事さん、僕にはそれしかなかった」

ふっと見せた笑顔は、とても白かった。

「僕は、もうネズミ人間です。死体を食いあさった、ネズミ人間。彼女に対して僕はそれしかできなかったし、それだけしかやらなかった。もう、これ以降のチャンスは無い。女の子を好きになるチャンスは、もう無い。そう思ったら、こうなってしまった。今、僕は凶悪な誘拐殺人犯と報道されているでしょう。その通りです。僕は非人道的な男と言われてるでしょう。その通りです。でも、人間なんです。そして、そんな僕を人間と見てくれたのは、貴方だけでした。だから、ここまでのことを話そうと思い、ました」

彼は大きな深呼吸をして、男に目を向ける。


「ありがとうございました」


彼は頭を下げて、そういった。とても、綺麗なまでの挨拶だった。

男は何も言えずに、呆然とする。

さしもの、敏腕な取り調べと評判の男も、目の前の彼には、何も言うことができなかった。

そして彼は死刑判決が下り、ちょうど去年、執行された。

25歳の若さだった。

その彼の墓は彼の故郷の田舎町の外れにあるというのを、男は風の便りに聞いた。そして一周忌になる今日という日にその墓へと訪れることにしたのだ。

だが男が見たのは当然というべき現実なのか、または非情とも言える仕打ちなのか。

彼の墓は盛り土とそこにポツンと載せてある石でしかなかった。

余りにも貧相なそれが、彼の墓だった。墓碑銘はなく、花も一輪も添えられてなく、彼の墓だという証は何処にも無い。それでも、それが彼の墓だった。

余りに手入れされていないので、コケなどがその石に張り付いている。それを男は払いのけ、水をかけて、線香を灯す。煙が目にしみて、視界が歪む。

男はその場にうずくまったまま、立ち上がることができなかった。肩が異様に震えて、雫がほたほたと彼の石へと落ちていく。

「……ああ、ここで眠っている男は、とても凶悪な奴だ。異常な奴だ。俺はそれを、知っている」

それは誰かにとは言わず、語りかけているかのような声だった。

語りは、続く。

「それでも、あいつは人間だったんだ。あいつは、そうするしかできなかった人間だったんだ。決して、人間とは思えない行為したからって、人間で無くなるわけは、無いんだ……」

男は抱きしめた。

抱きしめてらしくもなくおいおいと、泣いた。

濡れた石は、更に涙で濡れに濡れる。留まることは、ない。

あの取り調べの日、彼は軽蔑されるのを覚悟で自分のことを語ったのだろう。誰も、自分の気持ちをわかってもらえないと悟りながらも、自分を人間と見てくれた男だけに、語ってくれたのだろう。

理解し難い。

できるはずもない。

ただの異常。

でも、だからと言って、こんな風に片付けていいのか。

これがまた、一人の人間の人生だった。犯罪者と雖も、人間は人間なのだ。


彼らにしかわからない感情が、そこにはある。


けれども、それを理解する人間は極少数なのだろう。この、墓を抱きしめて泣く男のような人間は、稀なのだろう。


誰にもわかりはしない。盛り土に眠る、男の気持ちは。


『ありがとうございました』


あの感謝の言葉が、何処からか。

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