第5章 法の裁きの名のもとに
― 1 ― 白と黒の激突
この二人が交わした単語の意味が咄嗟にはわからなかった。
互いに告げ合う呼称は、二人が肉親に他ならない事実を示している。
それも道理だ。顔色こそ白黒と明確な差があるが、面構えは瓜二つなのだから。
ソフィーにしごかれて考える余裕を失っていたとはいえ、その可能性に行き着かなかったのは
そろそろ朝焼けが始まる頃合いだった。月下の騎士は
「お前から
南部峯も負けじと言い返す。
「信じる者は己のみよ。失業者対策も兼ねて
「それで……同じ日、同じ時に母の胎内から生まれ出たお前は、この兄をどうしようというのだろうか?」
双子である事実をカミングアウトした月下の騎士に対し、
「月下の騎士こと
カラスの親玉を連想させる男は、余裕たっぷりな笑みを見せると、
「それは
だが、必ずしも評価とは結びついていない現実はわかっていまい。執政家としての手腕は評価されているが、裁判官としてはどうだ? 意外と悪評が聞こえているのではないかな。
死刑執行率が他の都市と比較しても群を抜いて高いのが原因だぞ。即決裁判の弊害だな。捜査も不充分では、冤罪も皆無とは言えないだろう」
「大の虫を生かすためには小の虫を殺さねばならんときもある。自由を謳歌させるだけでは民衆は落ち着かぬ。法による統治は必要悪なのだ。だからこそ
「大の虫に認められる者はいいさ。だが小の虫にカウントされた者はどうなる? それも自らが望まぬのにだ。
平和だと? それが意味する真意をお前がわかっているとは思えない。バカバカしい城壁で周囲に垣根を張りめぐらし、タコ壺に自閉した世界で何がわかる?
いや、何もわかりゃしないさ。外に出てみろ。差別と貧困と殺人だけで満たされた世界が広がっているぞ」
「そんな世界に首まで染まりきった奴が何を語ったところで説得力など皆無。外に出なければならんのはそちらであろう。窓を開けて余が統治する
「それはそうだろう。娼館と賭博場を公共事業にしているのは国広しといえども
「どんな金でもないよりずっといい。少なくともここ数年、
「なるほど。では、善良な市民になろうとしても、最初から標準規格外にされた私のような者には、幸福になる権利はないわけだ」
「あたりまえではないか。悪党に情けばかりかけているから、弱者ばかりが常に泣かねばならんのだ」
「過信の道を歩めば、お前もその悪党というカテゴリーに分類されてしまうぞ。いや、その兆候はもう出ている。知っているか?
「知らぬ」
「〝トランプの女王〟だよ……」
長々と続く二人の会話は、ナオミにとって難解なものであったが、最後の単語だけは何を意味しているかすぐわかった。発掘童話の
トランプの女王を承知しているか否か――それは南部峯の表情からは推測できなかったが、彼は間髪を入れず、こう言い返してきたのだった。
「市民の幸せのためならば泥を甘んじて被ろう。ならば大衆の期待に応えようではないか。余は悪党を滅ぼすためならば何万回でも叫んでやるつもりだ。『首を切れ!』とな」
知っているとは意外だったが、月下の騎士が次にとった行動はもっと意外だった。笑みを誘うまでに巨大な拳銃を取り出すと、ナオミのこめかみに銃口を添えたのだ。なんの
「まだ縛り首になるのは御免こうむる。悪いが逃げるぞ。この娘を人質にしてな」
「ちょっと!」
「やるがいい。どうせ余の女ではない。贖罪中のメイドが一人死んでも貴様を逮捕できればお釣りがくるというもの」
「ちょっと!」
「強がりを言うでない。
「ちょっと!」
「
「ちょっと!」
「では兄として
「ちょっと!」
「何を言っているのか理解できない」
「ちょっと!」
「思い出せ。九年前だ。栄光あるジェイホーカー団の使いっ走りをさせられていた頃、田舎の村を丸焼きにしたことがあっただろう。ホーリー・ウッズ村だ。あれが原因でジェイホーカー団は
「ちょっと……」
頭でパズルが繋がった。
そういえば横顔もなんとなく似ているような気がする。
(……違う違う違う! 私の〝
ナオミは落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせた。ホーリー・ウッズ村の惨劇は国中に噂として伝わった。昔の事件とはいっても知らない人はいないはず。この男は逃げるためならあらゆる嘘を舌に乗せるだろう。
だが
「余の人生における汚点を思い出させるでない。あれは大人の世界が濁りきったものである現実に頭をぶつけた日だ。月下の騎士よ。思えば、あれが最後であったな。そなたと意見が一致したのは……」
「そう。このナオミ・デリンジャーこそ、あの夜に我らが成しえた唯一の善行の
「虚言を弄すな!」
「我らが助けた〝
「ちょっと!」
置いてけぼりにされたナオミの耳に、
「真偽を検めるまでもなし。貴様と女を奪い合う愚は二度と御免こうむる!」
すぐさま月下の騎士も、
「そうだ。我ら兄弟は異性に接近せぬほうが好ましい結果を生むらしい。なにせただ一人の女すら幸せにもできぬのだから。ソフィー・ホチキスがここにいなくて本当に幸いだった。我らが奪い合ったあの娘の顔を見れば、また惨劇が勃発していただろうから」
驕りの中に油断が垣間見えた。
ナオミは自由な右手を神速の勢いで伸ばす。指先が狙ったのは月下の騎士が愛銃としている〝
これは銃の構造を知る者ならではの行動である。
瞬時にこっちの意図を見抜いたのか、月下の騎士は銃を構える腕をあげようとした。だがナオミの指は微動だにしない。
「空中ブランコやっている女の子の握力と指圧をバカにしない方がいいわ。私の
嘘ではない。命を貨幣にして鍛え上げたナオミの指は長く、そして太い。握力計で調べたことはないが、かなりの値になるのは確実だった。
「ナオミ、離すのだ。このままでは私も君も撃たれてしまうぞ。体ならポンチョで致命傷は防げるが、さすがに顔面に直撃を喰らえば助からない」
「いや。離してはならぬ。そなたの身を守る唯一の手段を自ら放棄する愚を冒すな」
相反する二つのリクエストを耳にした彼女は、まず流血阻止を第一に考えた。彼女は月下の騎士を見上げ、そして
「
「しかと承知した」
そう語った直後、
苦悩も後悔も懺悔もなしに。
まるで肩についた
乾いた激発音と光が室内に充満した。
眩しさに眼を閉じるしかないナオミだった。
しかし、奇妙だ。いくら待っても
頑張って瞳を開けてみる。そこに展開していたのは意外すぎる光景だった。
まず室内には光が溢れていた。拳銃の火焔でもなければガス灯でもない。天然のライトだ。間違いなくそれは太陽光線だった。
さらに驚愕すべき事態がナオミの視線に飛び込んできた。月下の騎士である。不死さえ予感させた強靱な男が、猫背をさらに猫背にし、床にうずくまっていた。
「撃たないって言ったのに!」
ナオミの詰問にも、
「余は、そなたも月下の騎士も撃ってはおらぬ。狙撃したのはカーテンレールにすぎない。約束を違えてはいない。若干、説明不足だったのは認めるが」
「うごががぅうぅ!」
途端に月下の騎士は野獣のようなうなりをあげた。大事にしている巨大拳銃さえ投げだすと、両手で顔面を覆った。
鉄塊が床を叩く。ナオミは転がった〝
さほど強いとも言えない日溜まりの中で、月下の騎士は低く呻く。
「今日は夜明け前から豪雨のはずだ。早刷りをやっているアモーウ
南部峯は無表情のまま、こう断言したのだった。
「天気予報とは戦略的武器たりえるわけだ。それを読み切れなかった御自身の甘さを恨むがよろしかろう。
そう告げた
その数、一三人。
「この者を捕縛せよ。両手足に手錠と鉄輪を忘れるな。犯罪者と虎を縛るのに遠慮は無用。情けはこちらの命を縮める結果を生もうぞ」
唐突に辺りには静寂が訪れた。まだ興奮さめやらぬナオミに、
「銃をこちらへ渡すがよい」
戸惑いはあったが、信じるしかなかった。
彼女は指示に従った。巨大な鉄塊を手渡すと、なんだか月下の騎士との縁が切れてしまったかのような感覚が押し寄せてきた。
後悔に支配されかけたナオミだったが、
「君が餌になってくれたお陰で何もかもうまくいった。
平手打ちをしたい誘惑を必死にこらえるナオミだった。けれどその前に問い糾さなければならないことがある。お伽噺のような可能性だが、否定できるのは
「……月下の騎士は、もしかして
「文明人がそのような迷信を信じているとは嘆かわしい。しかし当たらずも遠からずの意見ではある。奴は世が世なら、
あの男は重度の皮膚病なのだ。
太陽光線を浴びると肌に激痛が走る。特大の火膨れが生まれ、それは命さえ奪いかねない。よって夜しか自由に活動できないのだ。〝
そんな特異体質だったとは。ナオミは驚きを禁じ得なかった。超人以外のなにものでもない体力と反射神経を見せつけた月下の騎士が、そんな内憂を抱えていたとは。
戸惑う彼女に
「忠告する。その足で
「そんな。私には座長としてサーカスの公演をする権利と責任が……」
「口にするのは苦い現実であるが、申し伝えねばなるまい。月下の騎士こと私の兄は、義賊という美称が罷り通っている。悲しむべきことに
そなたは逮捕に力を貸してしまった。可能な限り情報操作はするが、人の口に戸は立てられない。下手をすれば恨みを抱く者も出てこよう。興業は成功しまいし、危害を加えられる可能性さえある。悪いことは言わぬ。荷馬車をたため。必要ならば警護もつける」
被害者になるのはまっぴら。泣き寝入りはもっとごめん。
流転する運命に翻弄され続けたナオミ・デリンジャーは自らの意志で運命を切り開くのをモットーとしていた。彼女は背筋を伸ばし、生意気な王侯貴族に相対するかのような態度で、こう言い切ったのだった。
「流言飛語で客入りに悪影響が出るほど、プリティ・ズーは不甲斐ないサーカス団じゃありません。契約どおり、興業は打たせていただきます!」
「そうか。そなたの性分では止めても聞くまいな。では許そう。時間を見計らい、余も観劇させてもらいたく思う」
「残念ですが貴賓席はありません。チケットを自腹で買ってくださいな」
「……経営者としては正しいが、処世術としては間違っておるな。余としても特別扱いは望むところでないが、
聞きようによっては厚かましさ炸裂といった物言いだったが、あらゆる状況をポジティブに生かすのがナオミの信条である。彼女はすぐさま交換条件を持ち出したのであった。
「砂かぶりのいちばん良い席を用意してあげてもいいわ。けど一つだけ教えて。月下の騎士はどうなるの?」
その単語に、
「知れたこと。即決裁判にかけて縛り首にしてやる所存なり!」
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