― 4 ― ナイト・ビジター

 読む暇なんかありゃしなかった。

 ナオミは午後からも文字通り、馬車馬ばしゃうまの如く働かされた。


 特にしんどかったのは午後三時に開始された夕食の仕込みだった。象に食わせるのかと思うほどの玉葱たまねぎの皮を剥かされ、大量のサルディンのはらわたを抜かされた。涙で目がやられ、臭いで鼻がやられた。それ自体が一種の懲罰であるかのようだった。

 これに比べれば洗面所やお手洗いの掃除など段違いに楽であり、心底楽しみにするくらいであった。


 やがて日が暮れた。メイド服は汗にまみれ、すっぱい匂いを発し始めた。すると今度はそれを洗うよう命じられた。また洗濯物との格闘が始まった。どこかの洗濯屋から持ってきたのかと錯覚するほど大量の汚れ物がうずたかく積まれた。


 洗い物の量の謎はやがて判明した。南部峯の私邸は実質的にソフィーが一人で切り盛りしていたのだ。家事万能を誇る彼女であっても、時間の壁は崩せない。洗濯物が溜まるのも、ある程度は仕方のない話だった。ナオミという得難い助手を得た現在、在庫処分を真っ先に考えたのだろう。


 そして時刻は深夜一時すぎ――


 現場監督のソフィー・ホチキスは夜の仕事へ向かった。ようやく一人になれたナオミは、解放奴隷の気分を満喫しながら、体を引きずって脱衣所へ向かう。

 ありがたいことに、使用人控え室の一角にはシャワーがあった。驚いたことにお湯が出た。セフィロトの霊泉をダイレクトに汲みあげているらしい。


 適当に身を清めたあと、指定された寝台ベッドにばたりと倒れ込むナオミであった。全身の筋肉がギシギシと痛んだ。こんなに疲労困憊したのはホワイトライオンの餌付け以来だ。


 できれば半日は眠って体力の回復を図りたいところだが、明日の起床は朝四時三〇分厳守といわれてはそれも叶わない。起きなければ強引に叩き起こしてやると宣言された以上、もう逆らうすべはなかった。


 清潔なシーツに横になったまま、クルップ爺さんから受け取ったシナリオをパラパラとめくってみた。興味を引きそうな単語が踊っている。


 木でできた人形……世話役のお爺さん……化け物魚シーサーペントのお腹……くしゃみで脱出……


 体調がよければ眠気も吹き飛ぶ魅惑的な物語なのであろう。けれどもボロ切れのように疲れきったナオミには、挿絵のない本など単なる睡眠薬でしかない。


 重い重い。まぶたが重い。

 意識が濁っていくのがわかる。脳の回路が閉鎖されていく。


 ナオミ・デリンジャーは三六時間ぶりに夢の世界へとに落下していった……


  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


 目覚めは苦かった。

 うつ伏せで熟睡していたせいだろうか、なんだか胸が痛い。ナオミはベッドの反対側へと寝返りを打った。


 流転する視線の中、背筋が凍る残像が宙を舞った。

 闇の中に練乳のような白い顔が現れ、それが棒状に糸を引いた。まるっきり幽鬼そのものであった。


 怖すぎた。


 喉が枯れ、膀胱が悲鳴をあげた。全身が凝固してしまった。とてもではないが振り返る勇気など用意できない。


 枕の側に誰かいる!

 鬼ハウスキーパーたるソフィーだろうか? そうあって欲しい。


 だが違った。その僅かな希望を否定する声が寝室に響いたのだ。

「木彫りの人形が人生を語るのか。幼子に聞かせるには少しばかり残酷すぎやしないか? 若い頃からどんどん苦労をさせよという教育論もあるが、根性が育成される反面、途轍もない皮肉屋に育ってしまう可能性も否定できないのだがな」


 もう疑う余地なんかなかった。

 あいつだ。月下の騎士ナイト・アンダー・ザ・ムーンだ!

 トレードマークのテンガロン・ハットこそかぶっていないが、やっぱり黒尽くめの衣装であった。伊達男ダンディだろうに、他に服を持っていないのだろうか。


「虜となったお姫様はようやくお目覚めの御様子。だが、私が来たからにはもう心配は無用。それにしても悪党はあの征督府長官コンスルだ。まさか君を幽閉するとはな」


 震えながらナオミは脳の片隅で考えた。

(……あんたの被害届さえなければ切り抜けられたんだけれどね!)


 真実だが、それを言葉にする度胸はなかった。こっちはベッドで震えるだけの存在であり、相手はいつでも襲いかかれる態勢にある。なにをされるかわかったもんじゃない。


 男勝りを自覚し、実戦してきたナオミであったが、体格的な差というものは確実に存在する。瞬発力なら自信があるが、腕力で男に敵うわけがない。自慢のナイフセット『カトラリー・ファミリー』が証拠品として没収されていなければ、まだ話は違っただろうに。


「……どうやって入ってきたの?」


 場違いな疑問だったが、口にせずにはいられなかった。しれっとした声で月下の騎士は答える。

「文明人らしくドアを開けたよ」


「この嘘つきの原始人め。だいたい鍵はどうしたのよ。まさかソフィーが手引きして……」


 その可能性は大いにあった。

 ソフィー・ホチキスは過去に秘密を持つ女。ナオミはそう見抜いていた。言葉の端々から、彼女が月下の騎士と南部峯ナンブミネ憲治郎ケンジロウに関わり合いを持っているのは明白だ。


 しかし月下の騎士はかぶりをふって、

「いやいや。それは違う。あの女、妙なところで堅物でな。私の言うことを聞いてくれるのはホテル〝蒼ざめた馬パール・ホース〟にいるときだけなのだ。

 鍵はもっとスマートに破壊したさ。あんなものは針金一本でどうにでも細工できるんだが、時間を食うから今回は別口の手段を用いた。

 君も奇術や手品に携わる身ならば、王水甲虫アシッド・ビートルの力を借りたこともあるだろう?」


 もちろん知っている。それは自然界の神秘そのものだ。

 外見は銀色に輝くカブトムシにすぎない。サイズはテントウムシよりも小さく、とても愛らしい。外骨格はアルマジロより堅く、大人でも握りつぶせないくらいに頑丈である。

 だが、恐ろしいことに、彼らの体内にはあらゆるモノを腐食させる酸が血液として流れているのだ。滅び去った旧文明が残した合成生命体という噂もあるが、真実は謎のままだった。

 普段はまず実害はない。けれどもさなぎから羽化するときに微量の体液を撒き散らす。その影響で大木が倒れたという被害が数年おきに報告されていた。

 荘厳で、美麗で、希有で、危険な昆虫――それが王水甲虫アシッド・ビートルであった。


「……日暮れ前、苦労して集めたさなぎを鍵穴に仕込んだのだ。王水甲虫アシッド・ビートルは殻を脱ぎ捨てる代償として、彼らだけが使えるテクニックで接合部分を溶かし尽くしてくれた。お陰で簡単にドアは外れたよ」


 ナオミはすぐ把握した。共犯者がいる現実に。

 こいつはお尋ね者だ。いくらなんでも真っ昼間に警戒厳重な四角堂スクウェアには近づかないだろう。ならば、小細工ができたのは一人だけ。


「なんて奴! クルップ爺さんを巻き込んだのね!」


「うむ、正解だな。私は仕事に及ぶとき、単独犯たらんことを心がけているが、臨機応変に動く必要を感じる場合もある。今回もそうだ。幸いにもミスター・クルップは道理のわかる御仁だった。こちらのリクエストに快く応じてくれたぞ。もっとも強欲すぎるのが玉に瑕だがね。私が金貨一〇枚を呈示すると、最低でも五〇枚は寄こせと言い張ったぞ」


 嘘はないだろう。会計を預かるクルップ爺さんは気持ちいいほどの守銭奴だ。相手の足許を見るのは呼吸をするのと同じくらいあたりまえなのだ。


「……なにしに来たの? 目的はなんなの?」

 読破したらしいシナリオを投げて寄こし、月下の騎士はこう返してきた。

「夜、男が女の部屋に忍び込む理由など一つだけではないか。私の先祖が暮らしていた島国では通い婚という制度があったのだが、ご存じないかね?」


 身動きもできなかった。身に迫る危機を予感しつつナオミは覚悟を決めた。いざとなれば喉笛を噛みちぎるくらいの覇気を見せてやると。

 しかし月下の騎士は、急に声のトーンを落とし、意外な台詞を口にしたのだった。


「冗談はさておき、こんな事態を招いてすまない。この私のせいで虜囚の憂き目をみたことを侘びさせて欲しいのだ。征督府長官コンスルが君の自由を奪うとは想定外だった」


 謝罪の言葉だった。もちろん簡単に受け入れるわけにはいかない。ナオミは半身を起こすと、

「おあいにく様。私はサーカスの座長であって聖職者じゃないの。世の中、謝ったって許してもらえないことも多いわよ。それを承知しなさいっ!」


「たとえば?」

「ファーストキスを無理やり奪われるとか」

「他には?」

「故郷の村を丸ごと焼かれるとか」


 余裕を携えていた白面の男は、そこで不意に凝固した。それまで楽々と形作っていたゆとりが表情からかき消えた。やがて彼は真面目くさった声で、

「もしかしてそれはホーリー・ウッズという村ではなかろうね?」


「なんで知っているのよ!」


 肯定の返事に、相手は小さな溜息をついた。男の嘆息が妙に色気のあるものだと思い知らされたナオミの耳に、重低音の響きが伝わる。


「それが本当ならば、私は君に謝る資格すらなさそうだ」


 冷静な状態に置かれていたなら、月下の騎士が言わんとしていた真意を見抜けたに違いない。けれどもナオミは寝起きの頭であり、なおかつ貞操の危機に直面していると思いこんでいた。彼女は短絡的に手近な結論に飛びついてしまった。


「とにかく! 謝罪なんか絶対に受け入れないんだから! 謝らせたら記憶に刻み込まれてしまうもの。あれは事故! 私はまだ純潔なの! そう思って忘れるしかないじゃない! 正確には忘れたふりをしてあげる!」


 月下の騎士は複雑な表情を見せると、

「私の方はとても忘れられそうにない。甘美な想い出も悪しき記憶も、すべてこの身を形作る情報の断片なのだから。それはいずれ語る機会もあろう。

 さあ、そろそろ逃げようではないか。共に手を取り合って。望みとあればもう一度背中を貸してやってもよいが」


「バカなこと言わないでよ。私は罪を償っている最中なの。あと二日だけここで辛抱すれば、出してもらえるんだから」


「なにをお目出たいことを。征督府長官コンスルが本当に君を七二時間で解放すると思っているのか。その純真さには惹かれるが、世の中の道理を学んだ方がよいぞ。どうせ釈放と同時に、別件で逮捕されるに決まっている。下手をすれば、精神が荒廃するまでメイド業に専念させられような。いやいや。たとえ自我が崩壊しても〝蒼ざめた馬パール・ホース〟に二束三文で売り飛ばされるかもしれない。ソフィー・ホチキスが裏の間バックルームを仕切っているのは知っているのだろう?」


 ぞっとするナオミだった。悪人に人権などないと断言した南部峯だ。法を悪用に近いまでに拡大解釈し、好き勝手に動く可能性もあるだろう。


 黙り込んだ彼女に、月下の騎士は耳元でささやく。

「少し脅かしすぎたかな。奴にそうさせないため、私は危ない橋を渡ったのだがね。

 では急ごう。もう時間はない。夜明けが近いのだ。私にとって数少ない味方である闇は、その力を失いつつある」


「ならば余も急がねばならんのう!」

 ナオミの寝室に響いた第三者の声――それは南部峯ナンブミネ憲治郎ケンジロウの発した咆哮だった。

「とうとう追いつめたぞ。月下の騎士よ。もはや逃げられぬものと観念せよ。知恵あらば神妙にいたせ」


 征督府長官コンスルは完全装備だった。衣装はやはり白一色。狙撃の対象にされるのではと心配するまでに目立つ戦闘服バトル・ドレスに、握りしめている銃器が映えている。


 見れば見るほど奇怪な拳銃であった。まず弾倉部シリンダーが見あたらない。後方に瘤のような不格好きわまる突起物がついている。それでいて銃身はスマートだ。


 自動拳銃オートマチック

 次世代ピストルの主流メインストリームになると噂されている新構造の殺傷兵器であった。もっとも銃にあまり明るくないナオミは、まだその存在を知らなかったのだが。


 衣装に合わせたのだろうか、ご丁寧にもその銃は白銀に光り輝いていた。相手の凶器を確認した月下の騎士は、自嘲気味の薄ら笑いと一緒に、こんな言葉を吐き出したのだった。


「こんな形では会いたくなかったぞ。我が弟よマイ・リトル・ブラザー……」


 すぐさま征督府長官コンスルも言い返す。


「同感ですよ。我が兄上マイ・ビッグ・ブラザー……」

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