― 3 ― 老人、襲来
体力は残存していたが、時間がまったく確保できなかった。
結局、ナオミがヒャエル・クルップと再会できたのは、それから八時間も経ってからだった。
その間、ナオミは拷問に等しい教育を受けた。かなりの率で私怨が含まれていると思われる熱血指導であった。
より正確に表現するならば、それは教育に似せかけた刑罰だった。ナオミが行き詰まり、戸惑い、困り果てるのを眺めながら、ソフィーは腕を組んだまま首を振り、こうつぶやくのだ。
「まったく。実家でどんな教育を受けておられたのかしら。御両親が今のあなたの姿を見たら、さぞ嘆き悲しまれるでしょうね」
悔しかったが言い返せなかった。ナオミは意地の張り所を心得ていた。
(家を焼かれて根無し草になった実情なんか話したら負けだ。両親がとっくにこの世のものではないと告白したら負けだ!)
家事という仕事が、空中ブランコの特訓よりも難儀である現実に直面したナオミであったが、元来の負けず嫌いの根性を発揮し、必死になって食らいついていく。
それにしてもソフィーは鬼だった。ナオミの実力など無視し、膨大な量の仕事を押しつけてきたのだ。
洗濯では徳用固形石鹸の正しい使い方から人力型洗濯機の回転数、増設されたバルコニーに洗い物を干す順番、乾いたそれを洋品店で
掃除も生半可なものではなかった。モップのかけ方から雑巾の絞り方などは言うに及ばず、手動式掃除機の取り扱いとそのメンテナンスに、暖炉の灰の捨て方まで、いちいち全部に口を挟んできた。
最大の懸案は料理であった。
まずは用途を一発で覚えなさいと命じられた。とても無理だと言うと、分厚いメモ帳と鉛筆を渡された。記憶できないなら記録するのですと。
結局、昼食の前後は食材と鍋の種類を書き写すことに費やされた。任されたのは皿出しと後かたづけのみだ。
気の弱い女の子ならそこで泣き出してしまうだろうが、ナオミは挫けなかった。サーカスで培われた意地だけを武器に、歯を食いしばって頑張った。昼食時間はまったく休みが確保できなかったが、午前中の経験を生かし、午後の掃除を段取りよく進めたため、どうにか時間を捻出できた。
自分の学習能力と要領の良さに感謝しながら、ナオミは螺旋階段を下りる。
捜す相手は意外なところに座っていた。
中庭の池のほとりで大きな石に背中を預けているのは、ミヒャエル・クルップに違いない。爺さんは待ちくたびれたのか、うつらうつら船をこいでいた。なにせ日当たり良好な芝生である。眠くなるのも無理はないだろう。
時報替わりに大砲を撃てば確実に目覚めるだろうが、今はそれも無理だ。ナオミはクルップの肩をつかみ、激しく揺さぶった。
「起きて! 爺ちゃん! 起きてよ!」
途端に相手は背筋をピンと伸ばし、壊れかけた蓄音機のように叫び始めたのだった。
「やあやあ! どうもどうも! 本日皆様にお披露目いたしますは奇想天外にして自由奔放なる軽業の数々! 曲芸に手品に魔術に奇術に星占いとなんでもござれ! これを演じますはうら若き美少女の群れだよお立ち会い! 女だらけの雑技団【
客寄せの前口上だ。何年もヴァージョンアップしてないため、台詞はいつも同じである。そこまで叫び終わると、ようやく頭のスイッチが切り替わったのか、クルップ爺さんはナオミを見据えてから、
「ほう……ワンピースのお嬢を見たのは何年ぶりじゃろう。
「
「お嬢。人様の役にたつのであれば、職業に貴賎などないのじゃ。サーカスの団長とメイドのどちらが上かなど、誰にも断言などできますまいて。それより聞きましたぞ。街で大暴れしたそうですな」
「まあね。月下の騎士を捕まえようとして、逆に強制労働の刑よ。格好悪いったらないわ。皆はどうしてる? 心配してくれてるかしら?」
「それなりにはのう。公演の準備で忙しくさせておるわ。体を動かしておれば心配する暇もないじゃろうからな。団長がいなくなってもきちんと公演はやるから、安心してよいぞ」
それはクルップ爺さん独特の優しさの発露だった。もちろんナオミもそれはわかっている。けれども自分が主役だという誇りと、過多なまでの責任感が彼女の胸を締め付けていた。
「そうだ! モコモコは?」
「心配いらぬ。真っ先に保護したわい。馬小屋の小僧にずいぶんと追加料金をふんだくられたが、大スターを放置するわけにはいかんからのう。奴もお嬢がいなくなって寂しがっておるみたいじゃぞ」
生憎とクルップ爺さんは動物語を理解できない。けれど雰囲気や様子で相手の意志を読み取るのは可能だ。長年猛獣使いをやっていれば、そのくらいはできて当然だった。
「爺ちゃん。とにかく来てくれてありがとう。鬼みたいなハウスキーパーに殺されなかったらあと二日半で帰れるから」
「誰が鬼ですって?」
振り返ると、想像したくない人物が想像のままに立っていた。
ソフィー・ホチキスは巨大な懐中時計をエプロンから取り出し、
「あなたに与えた余暇の時間は四八〇秒です。それはあと一二〇秒で終わり。それまでに台所へ戻っていなければ許しませんよ」
クルップ爺さんはやおら立ち上がると、慇懃な振る舞いで腰を折ると、馬鹿丁寧に言った。
「これはミセス・ハウスキーパー。どうやら座長がお世話になっている様子、このミヒャエル・クルップからもひとつよろしくお願い申し上げる。我が座長ナオミ・デリンジャーは、人の下に立って働いたことがありませぬ。よって扱い難いかと思いまするが、どうぞよしなに。今回はよき経験になると信じておりますがゆえ、足腰が立たなくなるまでこき使ってやっていただきたい」
客人に対する礼儀で頭を下げると、ソフィーはすぐさま舌鋒を弾ませた。
「もとよりその意志。貴殿に何を言われようと手心を加えるつもりなどありません」
「その覚悟やよし。なお、ささやかな依頼がございまする。ミセス・ハウスキーパーの本職たる〝夜の仕事〟には、どうか座長を連れていかないように願いまする」
僅かだがソフィーの顔が恥辱に歪むのを、ナオミは見逃さなかった。
「……私は先に参ります。せいぜい別れを惜しむのですね。三階の玄関で待っていますから、お急ぎなさいな」
スカートを
「あの女、本業は娼婦ですな」
「わかるの!」
「もちろんじゃ。雰囲気や様子で相手の職業くらい読み取れるわい。腰つきを見れば一発よ。お嬢もこの年になればそれくらいの芸当はできるようになりますぞ」
階段を踏み鳴らしていた足音が不意に止まった。面倒な相手に聞こえた可能性がある。ナオミは振り返り、三階への出入口へと走った。強制労働の現場に立ち戻るのは気が進まないけれど、遅れれば何をされるかわかったものではない。
「それじゃね。みんなにはよろしく言っておいて。すぐ帰るって!」
「あ、お嬢! しばし待たれよ!」
クルップは、老人には似つかわしくない速度で小走りに追いかけてきた。冷たいようだが今は無視するしかない。待ったりしたらソフィーに何を言われるかわからない。
だが爺さんは追跡を止めなかった。彼はループ状の階段で乱れた息と脈を整えながら、
「ふう。これをどうぞ。我が輩がここに来たのは刷り上がった
差し出されたのは、東部で買い込んだ謄写版で刷られた薄い小冊子だった。表紙にはこう記されている――
『よい子の人形劇 ピノッキオ』
原案コローディ、脚色クルップ
プリティ・ズーは各種大道芸が取り揃えられており、その中には子供向けの人形劇もある。多才なクルップ爺さんはそのシナリオライターをも手がけているのだ。
「封印遺跡から出土した古文書に書かれておった物語じゃ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます