― 3 ― アタック・オン・フェンス

 城壁の内側からも、一定間隔で設けられた灯りは眩しさに満ちていた。


 それは闇を追っ払うのにそこそこ役立っていたけれど、やはり夜は手強てごわい相手である。所々には光が届かない仄暗いスポットがあった。


 無遠慮な爆発音は光の届かないその狭間から聞こえてきた。

 視線を向けると、人間より大きめの蒼白い炎がいくつも破裂していた。まるで巨大な人魂ひとだまのようだった。


 人為的にそれを発生させているのは、月下の騎士ナイト・アンダー・ザ・ムーンその人だ。城壁で侵入者を追跡していた番兵たちが、桁違いの炎に驚き、ひるむのがはっきり見えた。


 けれどもナオミにはわかった。その火柱はこけおどしにすぎないと。


(あの火花は綿火薬だわ。硫酸と硝酸の混合液に浸した繊維素を水ですすいで作る有機化合物。ただの手品だわ!)


 推測に間違いはないようだ。炎は派手だがすぐ消える。燃えても煙も臭いもススも全然出さない。舞台の仕掛けで何度も使った経験のあるナオミは、商売柄しょうばいがらそれを知っていたのだ。


 あれならちっとも危なくない。怖くもない。追いかけない理由なんてない。


 ナオミは大通りを走り始めた。時間が時間であり、人通りはまばらだった。歩幅コンパスは短いが、足はけっして遅くない。彼女は駆け足を続けながら顔を城壁に向ける。


 目標の位置はすぐわかった。歓声と爆音と怒号がいっしょくたになって移動しているのだ。大騒ぎの中心に絶対いるはず。


 あいつが。月下の騎士が。


 まず防塁と城内を繋ぐ設備を捜した。どんなに相手が強靱な肉体を持っていたとしても、人間であるのはたしか。あの高さから飛び降りれば怪我をしてしまう。ならば降りる場所を探すはず。そこへ急がなきゃ。


 自分でも動物的だと自覚している視力を駆使し、裸眼でそれらしきモノを求めた。だが梯子はしごもなければ階段らしいモノも発見できない。


 当然だろう。こうした城壁では、昇降設備はとても少ないのが普通である。

 外壁とは敵の侵入を防ぐために造られている。高さが確保されているのはそのためだった。たとえ相手が乗り越えてきても、簡単には城内に突入されないよう、下へと続く足場は最少限に押さえられている。加えてこの恵殿エデンでは水路も要害になっているのだ。


 けれど皆無というのは考えにくい。城壁が要害ならば、食料や弾薬といった物資を補給する必要があるはず。それを上にあげるための仕掛けがどこかに……


 あった。あれだ。


 ナオミはそれを彼方に発見した。城壁内側――水路の上に設けられた木製の土台に、なにやら怪しい機械が鎮座ちんざしている。


 一台ではない。よく見ると同じモノが定間隔で複数存在していた。

 オブジェにも思えるそれは箱状の物体だった。表口だけは金網が張られているが、残りはやはり木でできている。単体ではなく、いくつかのメカニズムが組み合わされた機械装置のようだ。


 川面かわもに設置された水車。

 そこから伸びるロープらしきモノ。

 見え隠れする武骨なる歯車の一部。


 数々のヒントを確認したナオミは、思わず口走った。

昇降機エレベータだわ!」


 正解だった。東部では蒸気を利用したタイプもあるらしいけど、これは完全な水圧式だ。サイズもかなり大きい。人間なら一〇人は乗れそうだ。

 なるほど。これなら荷揚げは楽だろう。しかも操作員がいなければ動かない。もし奪われたとしても、下で待ち伏せができる。敵の侵入を防ぐには理想的手段の一つだ。梯子や階段がないわけだった。


(……でもよ。月下の騎士あいつがそれを使うとは考えられないわ。一人じゃ動かせそうにないし、このぶんじゃ降りたって逃げられないでしょ!)


 走り続けるナオミの耳に甲高い笛の音が聞こえてきた。警報だろう。すでにあちこちから保安官カウンティとその助手ヘルパーらしき格好のガンマンが現れ、城壁へと急いでいる。

 彼らは法と秩序の番人である証拠――銀星バッジティンスターも胸につけていたが、それよりも印象的だったのはユニフォームだ。全員が薄黄色シャンパンイエローのジャケットに袖を通し、同色の照明器具を手にしている。どうやらそれが制服と装備らしい。


 嫌な色合いだ。ナオミは故郷を焼き尽くした炎を連想し、ちょっと重苦しい印象を抱いた。

 相手は警備隊か自警団だろう。警官としての役割を果たす保安官カウンティが足りないとき、治安を守るために編成される独立組織だ。


御用アレスト! 御用アレスト!」


 彼らは一定のリズムでそう叫びながら防壁へと急ぐ。その視線は月下の騎士に釘付けにされたままである。全員が全員、黒尽くめの怪人を追いかけてくれるのは助かった。ナオミも犯罪者一歩手前といった立場なのだから。


 彼女は関所破りの現行犯である。逮捕される可能性だって強かった。そうでなくても初めての街なのだ。余所者よそもののこっちが歓迎されるはずもない。


 爆発音は散発的に続いていた。発生源は月下の騎士だった。よくあれだけの爆発物を仕込んでいたものだ。騒然としていた街はそのボルテージを上げていく。

(このまま昇降機エレベータに行っても乗せてもらえないわ。自分で言うのもどうかと思うけれど、私の風貌ふうぼうはかなり妙だもの。舞台衣装なんか脱いでおくんだった!)


 そう後悔したけれど、誰を責めることもできない。団員たちに衣装を着ておけと命じたのはナオミ自身なのだから。

 明日のエデン到着の際、『プリティ・ズー』一座はモコモコを先頭に街内へ行進マーチする予定だった。新しい公演地に乗り込む際は、派手なパレードを実施して宣伝効果を稼ぐ。それはエンターテナーとしての定石セオリーであり、新しいお客さんに対する礼儀でもあった。


 しかし今は真っ赤なジャケットとミニスカートが恨めしい。リーダーの色が赤だと決めつけた奴に憤怒ふんぬを感じながら、ナオミは別口の足場を捜した。


 それは意外にも早く見つかった。

 水路と街路を挟んだ場所に位置する三階建ての家屋だった。その一角から防塁の上までは、見るからに丈夫そうなロープが張ってあるではないか。


 洗濯物を干すための綱かと思ったが、滑車つきのバスケット・ケースが吊り下げられているのがわかった。きっと荷物をやりとりするための創意工夫に違いない。

 その長さは六〇フィート(約一八メートル)くらい。これなら平気だった。彼女は建物の裏に階段を見つけ、それを一気に駆け上った。


 途中で地味な看板が見えた。それにはこう刻まれている。


染み抜きリムーブ・ステインズすっぱ抜きイクスポウザーはアモーウ洗濯屋ランドリー新聞店ペイパー


 多角経営に乗り出した個人商店かなにからしい。ナオミの鼻は敏感にも洗濯のりとインクの匂いを嗅ぎつけていた。

 すぐ屋上に到着したナオミは、そこで洗ったばかりと思われるシャツの束をうんざりした顔で干している少年に出くわした。サンバイザーを被った小さな男の子だ。


「な、なんだい。お姉ちゃんは?」


 一三歳前後と思われる彼はびっくりした様子でそう訪ねてきた。ナオミは相手の言い分を無視し、質問に質問で返した。


「あなた新聞記者?」


 これでも一応ナオミはサーカスの座長である。子供――特に年下の男の子を操縦する方法はよく知っていた。きちんと目線を合わせて、けっして子供扱いしないこと。それさえ守れば相手は言うことをきいてくれるものだ。


「まだ見習いなんだよ。親方から今は副業に専念しろって言われてるんだ」


「じゃあスクープをあげる。写真機カメラを用意しておきなさい。うまくいけば新聞に載せられる面白いが撮れるかもよ。ちょっとこれ、借りるわね」


 そう言うとナオミはかたわらにたてかけてあったコウモリ傘をつかみ、それを開きながら軽くジャンプした。

 新聞記者見習いの少年からすれば投身自殺に思えたかもしれないが、もちろん違う。彼女は外壁へと続くロープの上に着地し、そのままバランスをとりながら前進を始めたのだ。


 綱渡り《タイトロープ》――それはサーカスに在籍している者ならたいていマスターしている基本技ベーシックである。

 ナオミはステージではいつもそうしているように、右手に傘をさし、左手を腰の位置で伸ばして平衡を保った。


 ブーツの底と足の裏を一体化すれば、ロープの網目まで感覚の域におさめられる。体勢を整えたナオミは勢いをつけ、一気に駆け始めた。

 幸いにも無風だった。ロープは防塁に設けられた松明ではっきりと見える。

 これなら転落する危険はゼロ。彼女は傾斜のある隘路あいろをものともせず、たちまち外壁の上に到着した。


 両脇には板で作られた四フィート(約一二〇センチ)ほどの遮蔽しゃへい柵があり、足もとは赤煉瓦あかれんがで造られた通路になっている。幅はかなりあった。馬車一台なら通れるだろう。いざという時には、補給物資を運搬する通路になる仕組みだろう。


 唐突に背後から声が飛んできた。

「いたぞ! あっちだ! あの烏帽子えぼしだ!」


 振り返ると薄黄色シャンパンイエローのユニフォームを着込んだ男たちが見えた。彼らは左手から現れ、ナオミの方へ突進してくる。目の色が違っていた。獲物を狩るハンターのそれだ。


御用アレストだ! 神妙にいたせ!」


 それが彼女自身に投げかけられた恫喝どうかつであると気付いたのは、数秒が経過してからだった。詰め寄る自警団の迫力に負けたナオミは、思わず反対側へ逃げた。


「なんで私を追いかけてくるのよ!」


 叫んでから気付いた。かぶっている帽子だ。

 無理やり交換させられた黒色のテンガロン・ハットが目印となり、月下の騎士だと勘違いされたのだろう。

 あっさり脱ぎ捨てればよかったが、気が動転してそこまで考えつかなかった。関所破りという兇状もちでもあるナオミは、反射的に逃げ出してしまった。


 身軽なナオミは健脚の持ち主である。追っ手の中にも足の速い奴が一人いたため、仕方なく借りた傘をバックハンドで足もとに投げ込んでやった。相手はそれに膝下を絡め取られ、仲間数人を巻き込んで派手に転倒した。


「ごめんなさーい!」


 許してくれないだろうが、とりあえず謝るナオミであった。

 しかし、彼女はすぐ天罰に直面する。城壁を一定のスパンで区切るゲートが前に見えたのだ。

 それは一種のトンネルだった。やっぱり煉瓦を組んで造ったアーチ状の物体だ。高さは馬がやっと通れる程度。

 トンネルには扉がついていることがわかった。これもまた防御設備だろう。敵が城壁を越えてきたとき、安易に通行を許さないための遮蔽柵ストッパーに違いない。

 冷静に観察している場合ではなかった。トンネル中央の部分に影が差した。上から鉄扉シャッターが降り始めている!


 後からは足音に加え、物騒なことに発砲音まで聞こえている。今しがた耳元を掠った熱波は流れ弾ではないだろうか。


「止まれ! さもなければ撃つぞ!」


 現状を理解していない警告に対し、ナオミは叫び返す。

「もう撃ってるってば!」


 停まったって撃たれない保証はない。ここは逃げの一手あるのみ。

 鉄扉はどんどん下がっていく。でもあの向こうに逃げ込めば、とりあえず助かる。


 相対距離を把握したナオミは、いけると判断した。

 体勢を低くしつつ駆け足の速度を上げる。鉄扉と床の間隔はあっという間に縮まっていく。本当に間に合うのか?


 躊躇ちゅうちょしたらだめだ。舞台でも同じ。危険な技を披露するときは、絶対の自信がなければ、絶対に失敗するのだから。


 分厚い門が閉じる一瞬前――


 彼女は仰向けになり、足からすべり込んだ。

 女を完全に棄てたかのようなダイナミック極まるハードなスライディングだった。


 膝が、腰が、腹が、そして控えめな胸と整った顔が空間を抜けた。

 だがそこまでだった。床の煉瓦は滑り止めとしての効果が非常に高く、彼女の体は頭の部分で止まってしまったのだ。


 感覚したのは背中の疼きと、眼前に迫った分厚い鉄扉。それはまるっきりギロチンだ。身をよじろうとしたけれど、とても間に合いそうにない。


 自分でも不思議なことに、ナオミは怖さを感じなかった。人が死の間際に目撃すると言われている走馬燈そうまとうも見えなかった。


(……そりゃそうでしょう。苦労してプリティ・ズーの座長を務めているナオミ・デリンジャーを、神様がこんな所でこんなバカな死に方をさせるはずないもの)


 そう思った彼女に向かい、救いの手が唐突にやってきた。

 ただし助け船を出したのは神ではなかった。限りなく悪魔に近い相手だった。


 足首に圧迫感が走った。すぐ背中が摩擦熱で燃えた。

 誰かがナオミのくるぶしをつかみ、力任せに引っ張ったのだ。


「きゃあぁあぁあぁあぁー!」

 安堵できたせいだろうか、やっと叫び声が出た。


 ナオミはまさしく紙一重かみひとえで人体切断という惨劇から免れた。門と床との最終的な高さはハーフフィート(約一五センチ)なかっただろう。


 だが、万全とはいえなかった。髪が門扉にちょっと接触したのだ。大きすぎるテンガロン・ハットがショックで脱げ落ち、扉の向こう側に転がった。

 とても駄目。もう間に合わない。諦めるしかない。


(……別にいいわ。どうせ押しつけられたものだし。あんな趣味の悪い真っ黒の帽子なんて)


 わずかな喪失感を自己欺瞞でごまかそうとした彼女だったが、そうは問屋が卸さなかった。どうしても帽子を必要とする者が、無謀極まる行動に出たのだ。


 少女を惑乱させるダークな魅力を秘めた魔掌ましょうが見えた。

 カラスの濡れ羽のような、黒い、手袋――


 本当に一瞬であった。横からすべり込んできた影は、男にしてはあまりに細い右手を伸ばした。今にも床面と接しようとしている鉄扉の境目に肩口まで突っ込むと、神速の勢いで肘を曲げる。あわやというタイミングで引き戻された指先には、巨大なテンガロン・ハットがしっかり握りしめられていた。あと一秒でも遅かったら腕が噛み切られていただろう。


 腰が抜けたままのナオミは、首だけをねじ曲げて高みを見た。トンネル内部にもガス灯は点っており、薄暗いながら視界は確保できた。

 恐ろしくも美しい素顔が見えた。爛々らんらんと金色に燃える瞳が中空に浮かび、紅を塗った女性のそれを思わせる唇が動いている。


「人様から預かったモノを粗末に扱うのは感心しないな」


 漆黒の男――月下の騎士ナイト・アンダー・ザ・ムーンは、黒褐色のテンガロン・ハットをナオミの頭に乗せながら、張りのある声でたしなめるようにそう言った。


「この帽子はとてもとても高いのだよ。チタニウムとテクタイトを練り込んだ繊維で編み上げてあるだけでない。王水甲虫アシッド・ビートルの力さえ拝借している。木っ端のような弾丸ならはじき返せるほど強靱なのだ。目利きが調べればマンモスはおろか、巨亀メガ・ストゥペンデミスでさえ即金で買える代価をつけてくれる」


 見下しているわけではないが、明らかに一段高い場所に自分を置いている口ぶりだった。それがしゃくさわった。ナオミは座り込んだまま、


「その見栄の張り方には負けたわ。でも勝負じゃ負けないんだから」


 彼女はポンチョの下から刃渡り二〇センチを超える細長いナイフを取り出した。先は鋭利に尖り、両サイドに刻まれた刃先は波を打っている。


「これは47番〈純粋なピュア・破壊者デストロイヤー〉。殺傷能力に特化した50番代フィフティーズには劣るけど、銀貨くらい串刺しにできる。テンガロン・ハットなんかエメンタール・チーズみたいに孔だらけよ!」


 相手は刃物を向けられたまま、一歩も引かず、一向に臆せずに告げた。


「気丈な女の子は嫌いではないぞ。大西部グレート・ウェスタンを生き抜くには腕白わんぱくでもいいからたくましく育たねばならないからな。

 けれどね……君は幼いとまでは言わないが、あまりにも若すぎる。口のきき方を誰からも教わらなかったに違いない。首がもげるところを助けてもらった命の恩人に対する物言いではないね。

 君も営利団体たるサーカスの経営者なのだろう。礼儀を知らぬままでは、組織を運営していくのは難しいぞ」


「余計なお世話! 御年輩の蘊蓄チップスを聞くほど暇じゃないわ!」


 生白き顔からは年齢が読み取れない。シミやしわがまったくないから、かなり若く思えたけれど、一六の自分よりは遙かに上だ。言葉遣いや雰囲気は大人のそれだった。


「こちらが年長者だとわかっているのであれば、敬老の精神を発揮してもらいたい」


「先に生まれただけで偉そうにしないで。敬老ってだいたいあんた何歳なの?」


「生まれてからの年数で能力を推し量るほど愚かではないつもりだ。ただ母親の世話になってから今日で六六〇四日が経過している」

 素早く暗算したナオミは、それが一八歳ちょっとを意味する日数であると気づいた。自分とあまり差がない事実に驚いた彼女へと、月下の騎士は問いを放つ。


「それで君は何歳なのだ?」


「女のガールに年齢は聞かないでよ」


「そうか……〝女の子ガール〟と口にしても違和感を覚えぬ年齢だということだな。二十歳過ぎた年増女が自らを女の子ガールと呼んでいるのを聞くと回れ右したくなるが、君ならばかろうじて許されよう。


 それにしても私を追ってくるとは素晴らしい度胸ではないか。保安官カウンティ予備隊リザベーションズのむくつけき男共に追われるのはぞっとせぬが、女のガールに追われるのは嬉しくなくもない。たとえそれが賞金稼ぎであったとしても」


「私は賞金稼ぎじゃないわ!」


「ではなぜ私を追うのだろう? 自慢ではないがこっちは兇状持ちなのだ。国内の一二州で死刑判決を受けている。金銭目的以外に追われる理由はないと思うのだが。

 まさかとは思うが私に惹かれたとでも? そうだとすれば光栄だ。私は見ての通りの恐ろしげな容貌だからな。追いかけてくるのはもっぱら商売女ばかり。さきほど移動サーカスの女の子たちに騒がれた時には、心が躍った」


 どんな商売なのかは想像できたのであえて聞かなかった。また反論するのもためらわれた。まんざら間違いでもなかったからである。


 胸の動悸を激しくし、足を駆けさせた衝動がなんらかの感情の高ぶりであるのはわかっていた。しかしそれが異性への渇仰かつごうだと簡単に認めるわけにはいかなかった。


「勘違いしないでよね。私の唇を奪った大罪人に罰を喰らわせたいだけなんだから。痛みと血で贖わせてあげないと気がすまないだけなんだから。ここで黙って引き下がったら、女の子たちに示しがつかないだけなんだから!」


「これは驚いた。純情な生娘のようなことを口になさるのだな。まさか初めてだったというわけでもないだろうに」


 健康的な小麦色に焼けていた頬が、収穫して四八時間が経過した慣熟苺いちごのように真っ赤になった。


 ナオミ・デリンジャーは、一六にもなって異性経験が極端に乏しい自分を内心で恥ずかしく思っていた。大人からすればそれは的外れな常識でしかないが、若すぎる彼女に他人との違いを個性として受け入れるのは、まだ無理だった。


 月下の騎士は微かに笑うと、

「どうやら図星だったらしい。少々言葉が過ぎたかもしれないな。失言を撤回するから許してはもらえまいか? ダメか?」


「ダメに決まってるでしょうに! 私はファーストキスを〝灰かぶりのサンドリヨン王子プリンス〟にあげるつもりだったの。命の恩人に。あんたは永遠にその機会を奪った。絶対に許さないんだから!」

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