第1章 サーカスの少女
― 1 ― 無頼漢、荒野をさまよう
暗い
手綱を片手で握りしめているのは壮年の男だった。
彼は飢えていた。もう二日も水しか飲んでいない。さっさと適当な宿場に転がり込んで、腹を満たしたいところだが、それは許されない。
理由は簡単。彼はお
あちこちの州で追放命令を受け、追いかけてくる
もっともこの男、殺人や強盗といった大罪を犯したわけではない。やったのは寸借詐欺とイカサマ賭博だけ。中部に位置するバッファロー狩りの
首に懸賞としてそこそこの額をかけられた事実を知ると、彼は大急ぎで逃げた。
西へ。
そこは無法と拳銃と拳骨が
太洋に面した西部はここ十年で開拓も進み、他の大陸からやってきた異民族も多い。当然、法律などあってなきような場所へと姿を変えつつある。
無分別な移民の結果として生じた〝人種の
しかし例外もあると聞く。
この男が目指しているのはその街だ。
法と秩序が絶妙なバランスをみせる自治都市が最近勢力を拡大している。そんな話が中部の
なんでも異人に
街の名前は〝エデン〟――ふざけた名前だ。
(……ならそこへ向かうとしようか。
希望的観測で頭をぱんぱんにしながら彼は進んだ。なにか楽しいことでも考えなければ、寒さと不安で行き倒れてしまいそうだった――
* * * * * * * * * * *
荒野を灼熱地獄のような場所と考える人もいるだろう。
しかし、それは間違いだ。夜になれば温度は下がり、凍える寒さとなる。冬になれば雪さえ積もる。
そして今は九月。降雪こそまだだったが、体感温度はずいぶん下がっていた。
冷え切った風が冷え切った頬に突き刺さってくる。
その時――
彼の愛馬はアパルーサと呼ばれる品種だ。白と黒のまだら模様に彩られたそれは、北西部で
馬は何かを見抜いたようだ。何度か頭をふったかと思うと、唐突に駆け始めた。
「ええいっ! どこへ行く気なんだ!」
そんな主の台詞を無視しながらアパルーサは進んだ。
やがて馬上の男にも向かう先が見えてきた。
灯りだ。焚き火らしい光源が山の裾野に幾つも
かすかにヒッコリーの
接近するにつれ、にぎやかなメロディが聞こえてきた。ハントエオリーネとギターの調べだった。歌も聞こえる。それも女の声。誰かが火の側で憂さ晴らしをしているみたいだ。
なんだか急にムラムラと腹が立ってきた。
(……こっちがこんなに寒くて
強きを助け、弱きを
強者にのみ媚び
この男のポリシーはそれだった。
弱肉強食――これもまた
しかし彼は気づいていなかった。感じた苛立ちは、羨望を活力に昇華できない小物だけが抱え込む卑屈な考えであることに。
そして彼は知らなかった。女が集団になれば、男などは及びもつかないほど凶暴な生物に進化することを。
さらに距離を詰める。不用心にも見張りはいない。プレーリー・スクーナー型と呼ばれた典型的な
なんだこいつらは? 牛追い《ローハイド》の集団だろうか?
いや、それにしては肝心の牛の姿が見えない。中部からのロング・ドライブだと、数百頭単位を連れ回さないと元本割れするし、だいたい秋口に牛を引き回す馬鹿もいまい。
では豪商のたぐいだろうか?
それも怪しい。幌馬車はずいぶん使い込まれていたし、
正解を求め、彼は幌馬車の周囲を
不思議なことに独特の動物臭が漂っている。
馬や牛ではない。いったいなんだろう?
やがてもっとも大きな馬車にたどりついたとき、正解が見えてきた。くたびれかけた幌には流麗なイタリック体でこんな文字が躍っていたのだ。
【
次回公演はエデンを予定。日時調整中。
猛獣使いと踊り子さん常時募集。委細面談。
移動サーカスの
プリティ・ズーの名は聞いたことがある。
(……連中は西部の大都市を根城にしているはずだ。どうやら巡回コースにぶちあたったらしい。俺にも運が向いてきたのかもな。相手は女ばかり。こいつらに紛れ込めば楽にエデンに到着できるじゃないか)
よく見ると他にも布製のポスターがべたべたと貼り付けられている。いずれも極彩色の派手なものばかりだった。
『銃と正義で街を守れ! カノン砲から懐中拳銃まで武器のご用命はレーガン銃砲店まで』
『百人乗っても(
『ひ弱な男はこれで変身! 女性には
『基本使用料〇セントの電報集荷サービス開始。ただいま家族割引実施中。州営電信公社』
『強盗撃退率一〇〇%! 大切な財産は信用と実績のブルースカイ・バンクへどうぞ』
『基本使用料〇セントの電報集荷サービス開始。ただいま家族割引実施中。州営電信公社』
『プロイセンからやって来た歯が白くなる歯磨きセッチマン。お買い求めはパインブック・ドラッグストアにて』
……どうもサーカスとしての経営は苦しいようだ。スポンサーからの広告料で糊口を凌いでいるのが現状なのだろう。これなら
腰のホルスターに装着した拳銃を確かめる。よし。こいつが真価を発揮するときがきた。女が相手だ。まず最初に強みを見せなければ。
馬から降り、手綱を近くの幌馬車に巻き付けた。その影から身を踊らせ、
こっそりではない。堂々とだ。
ピー・ウーズと呼ばれた流行物のブーツの
相手は三〇人弱。全員が女の子だった。
つば広の真っ赤なカウボーイ・ハットを被り、顔を隠している奴が一人だけいたが、
すぐ歌声がやんだ。やがてギターも沈黙した。のちに誕生するアコーディオンの原型ともいえるハントエオリーネの音色が止まると、周囲は静寂に包まれた。
残ったのは焚き火が
「どうしたのかな。続けてくれよ」
彼はそれなりに整った笑顔を見せると、勝手に焚き火に近づき、どっかり腰を降ろした。
当前、誘われる方にも礼儀は必要である。
だが彼は余裕しゃくしゃくだった。
相手は女の子ばかりじゃないかと。
この男は、過去の人生において、ずっと女を見下して生きてきた。
彼はこのあと、認識を改める必要性に駆られ、大いに後悔することになる――
沈黙と共に彼を迎え入れた少女たちは、凍りついたまま彼を見つめるだけ。リアクションなき相手に向かい、彼は再び荒い言葉を投げつけた。
「ずいぶんと冷たい隊商ですな。難儀している旅の者にコーヒー一杯いれてくれる度量すらないとは。そんなことだから広告収入に頼らなきゃいけないんじゃないかね。ええ? 違いますかな。プリティ・ズー御一行さまよ」
人種も年齢も様々な少女たちは、楽器を携えたまま、不審と不安が入れ混じった目を向けてきた。やがて彼女たちは一人また一人と視線をそらし、角に座る人物を見据える。
注視の的となっているのは、馬の鞍に背を預け、緋色のカウボーイ・ハットを
眠っているのか死んでいるのか身動き一つしない。体が冷えるのだろう、ブーツまで届くポンチョを羽織っているのが印象的だった。体のラインを隠す
全員の視線を感じたのか、そいつは面倒くさそうに帽子の端をつまみ上げた。
やっぱり女だ。
尖った顎と赤黒い唇。これで空気が吸えるのかと驚くほど小さい鼻。そして眼光鋭い左目がちらりと見えた。
かと思うと、そいつはまた帽子の
それが指示だった。すぐに二人の少女が立ち上がり、焚き火から
暗くて中味は見えないが、夜営中の隊商から出てくる飲み物といえば、
途端に舌と喉を違和感が焼き尽くした。熱さはどうということもないが、味が
「なんじゃあこりゃあ! 紅茶じゃねぇか。しかも砂糖か蜂蜜が入ってるぜ。こんなモン男は飲みゃしねーんだよ!」
それまでの
やがて深紅のポンチョを纏った相手は、ゆっくりと立ち上がると、こうつぶやいた。
「食べ物を大切にしない人は悪党。恵んでもらったのを粗末にする人は大悪党。紅茶を棄てる超大悪党よ」
生意気な言い草に、自然とホルスターに指が伸びる。
「俺は男なんだぜ! 女子供が飲み食いするモノに興味はねぇ!」
「女じゃなかったら男? そんな消去法は通用しないでしょうね。紅茶という嗜好品に興味も理解も示さないあなたは、いったい何様でございますか?」
「俺は俺様だよ! 聞いて驚くな。天下に聞こえた大泥棒〝
彼はこの一言でダイナマイトを投げつけた気になっていた。もしも真実なら、思ったままの効果が得られたことだろう。
発した
その名は、泣く子を子供を黙らせるほどの効き目を持ち合わせており、大人でさえ耳にしただけで裸足で逃げ出すような魔力を秘めているのだ。
だがしかし――
娘たちは黙りこくっていたが、やがて赤い帽子の女が細長い棒状のなにかを取り出すと、全員がすぐに楽器を構え直した。
リーダーがそれを軽やかに振る。
途端に哀しげなメロディが流れ始めた。
二拍子で短調。聞いていて気が滅入る旋律だった。
「辛気くさい
彼が怒鳴った直後だった。
相手の女は真っ赤なカウボーイ・ハットを投げ捨て、ポンチョを一瞬で脱いだ。
驚いたことにその下は膝上のミニスカートだった。これまた赤。ポンチョや帽子と色彩を
やはり赤で長めのウォーキング・ヒールが、リズミカルに打ち鳴らされたかと思うや、彼女はこんな台詞を叫んだ。
「それではお客さまのリクエストに応じましょう! 移動サーカス〝プリティ・ズー〟の座長こと私――ナオミ・デリンジャーが歌と踊りを相務めます! お気に召せば幸いです」
顔も上玉だった。あきらかに白人系だが、微妙に有色人種の血も混じっているようだ。闇に輝くのは金髪。長いそれは二本のおさげに編み込まれており、頭と一緒に空を舞う。
すぐ彼女はハスキーボイスで唄い始めた。
それは月下の騎士を讃える歌詞であった――
『 噂に響いた
闇を友とし、闇を統べる
吸血鬼なの? 狼男なの?
いいえ違うわ、彼こそ紳士
奪ったお金はポケットにいれず
すべて貧しい民衆へ
貧困層から義賊と呼ばれ
支配層から悪魔と呼ばれ
尊敬と恐怖を独占する
首に懸かった賞金は
その額なんと5万$
日々報奨額は倍増し
こいつは本物、彼こそ本物
まさに
事実と虚構がごちゃまぜになった
『 泣く子も黙る
けれど本当にこの人かしら?
嘘を友とし、嘘を騙る
いいえ違うわ、彼こそ偽物
奪ったお金は
紅茶の味さえ理解できない
貧困層から泥棒と呼ばれ
支配層は存在も知らない
侮蔑と無視を独占する
首に懸かった賞金は
一座のたしにもなりゃしない
日々報奨額は減り続け
こいつは違うわ、絶対違う
ただの
2番はうってかわって猥雑な歌詞だった。嘲笑が少女たちから溢れ、演奏が乱れた。
いわれのない自信で
「ほざけ!」
「それほど赤が好きなら、貴様の血で衣装を染め上げてやろう!」
相手の手がすっと空を切った。銀色の輝きが走った。
(……ナイフか! もう容赦しねえ!)
反射的に人指し指に力を込める。
だが……しかし!
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