― 2 ― 55本のナイフ
実際の話、自信はあまりなかった。
悪漢を倒すのは簡単だったけれど、殺人はどうも後味が悪い。プリティ・ズーは子供相手の商売なのだ。たとえ相手に非があっても、ダーティなイメージが先行しては客入りに響く。
特に明日から〝エデン〟という新開地で興業を打つ予定だ。小高い城壁に囲まされたその街は、ここからたった五〇〇ヤード(約四五七メートル)。いま死体が出るのは大いにイメージを損ねるし、商売に差し支えるだろう。
深紅の衣装をトレードマークにしているナオミ・デリンジャーはそう考えた。
彼女はナイフ投げの達人だった。自らが座長を務めるプリティ・ズーの公演でも、目隠しした状態でそれを
ナイフを生涯の友とし、刃の放つ輝きに魅せられたナオミにとって、当たりもしない拳銃を振りかざす
だが、拳銃の発射機能を食い止める
そう思いつつ、彼女はエッジソードの04番〈
遠目には
相手を激高させる下品な歌が終わると、彼女はそれを狙い澄まして相手に叩きつけた。
当たるかどうかは、投げた瞬間にだいたいわかる。今回も手応えは大いにあった。日々の練習を怠らなかった成果が出たのだ。
月下の騎士を騙る男は引き
(やった! 計算どおり!)
投げつけた〈
ナオミは相手に向かい、こう言い放った。
「いいことを教えてあげます。その状態で撃てば、指が全部吹き飛んでおしまいよ。あんたも拳銃を振り回してるんなら、暴発の怖さは知っているでしょう」
相手は凶器を封じた刃物を抜こうと四苦八苦しているが、びっちりと目詰まりしているため、微動すらしない。
こうした機会を逃してはだめ。西部で生きていくには情けは邪魔でしかない。
ナオミは脱ぎ捨てたポンチョを
「ではプリティ・ズー座長ナオミ・デリンジャーが、あなたを捕縛します。エデンで
横から曲撃ちと綱渡りを得意とするニーナ・カレルが鋭く指摘する。
「
ニーナは博学で知られる才女だった。プリティ・ズーの実質的なナンバー2である。経理にも強く、補佐役として得難い人材だったが、物事に細かすぎるのが難点だった。
「ようするに政府に雇われた公務員でしょ。じゃあお
相手は銃を棄てて背中を見せた。逃走に移った男にナオミは叫ぶ。
「甘い! 私のナイフの輝きからは絶対に逃げられないわよ。エッジソード12番〈
ナオミは商売道具兼自衛武器としてナイフセット『カトラリー・ファミリー』を携行していた。
世話役のクルップ爺さんから両親の形見だと聞かされているそれは、01番から55番まで一本一本が細かく異なり、用途に合わせて使い分けるようになっている。
その収納先はポンチョの裏だ。ナオミは五五本すべてにいちいち名前を付け、公私にわたって愛用していたのである。
10番台のエッジソード・シリーズはいずれも外科用のメスに酷似していた。ただし、切断を主眼としてはいない。投げつける際の命中率を重視したものだ。
それをつかんだナオミの選択は正しかった。
三本のナイフは男のテンガロン・ハットを飛ばし、ナイロン製のネッカチーフを刻み、ガンベルトを切断した。すべて狙いのままに。
哀れなペテン師はほうほうのていで幌馬車にたどりつき、その影に隠れようとしている。
「39番〈
新たに射出した一撃は、相手のベストの肩口と幌馬車の側面を縫い合わせた。
『カトラリー・ファミリー』の30番台は破壊力に重きを置いた形状をしている。その中でも39番は先端が三つに裂け、しかもそれぞれに返しがついている。板などにいちど刺さると、男の力でも抜くのは難しい。
「それではチェックメイトです。正義の一手をくらいあそばせ。使用してさしあげるナイフは7番〈
相手は急に態度を変え、片手を振りながら叫んだ。
「ま、待ってくれ! 無礼な口をきいて悪かった。紅茶を棄てて悪かった。月下の騎士の名前を騙って悪かった。いいことを教えてやるから
「……内容次第ね。話してみたらどう?」
「本物の月下の騎士の居場所だ。奴はエデンに潜伏してるって噂だぜ。娼館に馴染みの女がいるらしいんだ。なあ、俺に小銭を握らせてくれよ。あんたたちには行きにくい場所に行って、情報を仕入れてきてやるからさあ」
この状況でさえ、あつかましい提案しか口にしないとは。ナオミは不快度をパワーアップさせてしまった。
「それっぽっちじゃ駄目。憧れの
50番から最後の55番までは、敵をしとめることを優先して鍛え上げられたシリーズだった。
つまりは殺人用である。
50番の〈
もちろんナオミには相手を殺すつもりなんかなかった。耳の横にでも命中させ、気絶させてやればいい。
右手が跳ねた。切っ先を磨きに磨いた50番が飛ぶ。
だが――
当たるかどうかは、投げた瞬間だいたいわかる。
ほんの僅かな気の緩みと迷いが指先を狂わせたのだ。
いけない。このままじゃ左胸を直撃する!
だが対処法なんかない。いったん手から離れた以上、ナイフは与えられた運動エネルギーに従って飛翔する。神様でもないかぎり、それを引き戻すのは無理だ。
その直後、一発だけ銃声が響いた。
過去に聞いたことのない
絶対に拳銃ではない。ライフルや散弾銃に似てはいたが、そんなけばけばしい響きでもなかった。優しさと儚さを同時に感じさせるような、えもいわれぬ高鳴りであった。
一瞬だけ光輝が闇をはぎ取った瞬間、ナオミ・デリンジャーは目撃した。
投げつけた凶器が、不埒者に突き刺さる寸前、あらぬ方向に弾き飛ばされる場面を。
「そこにいるのは誰!」
暗闇に第三者が潜んでる。そう悟ったナオミは反射的に叫んだ。
だが返事はない。代わりにバシュッというノイズが響いた。
燐マッチの香り。煙草の微かな匂い。
間違いない。何かがいる!
一連の現象に続いたのは、後ろの女の子たちが発した小さな悲鳴だった。ナオミは彼女たちが指差す方向を凝視し、そして息を呑んだ。
夜の闇に乳色の顔が浮かんでいた。
体はまったく見えない。きっと黒づくめの衣装をまとっているに違いない。顔だけが虚空に浮遊しているように思えたのは、多分そのせいだ。
唇にくわえた紙巻き煙草の灯りに照らされたそいつは、足音も
そして不意にこんな言葉を発したのである。
「……最後の一投は胸に突き刺さるコースだった。ナイフ投げでそれだけの腕を持っているなら結果はわかったはず。あやうく君は殺人者になるところだった。怒りは何も生み出さぬ。人の生死を左右するモノを扱う際には、物言わぬ
顔面蒼白というフレーズを具現化した存在は、焚き火に近づくにつれ、その姿を明確にし始めた。
思ったとおりだった。頭のテンガロン・ハットから足のライディング・ヒールまで、相手は黒一色のコーディネイトで固めていた。そのせいで白い表情がより際だっている。
かなりの大男だ。背は六フィート(一八〇センチ)を軽く越えていた。そのくせ猫背なのが印象的だ。
傘の代わりになりそうなまでにテンガロン・ハット。小さな頭をより小さく見せる効果をもたらしている肩幅。けれども手足はやけに細い。まるで女のそれみたいだ。
弾は
正直な話、それ自体はあんまり惜しくなかった。
55本のナイフコレクション『カトラリー・ファミリー』は完全セットというわけでもない。欠番こそないけれど、傷だらけだし、装飾品としての価値は薄い。壊れたら新しいもので埋めればいいだけだ。
けれども引き下がるわけにはいかない。身内の少女たちが見ている。彼女たちを一座に引き留めているのは団長への敬意のみ。弱みを見せれば結束が乱れる。たちまちプリティ・ズーは解散だ。闘って敗れるのならまだしも、戦わずに逃げるのは許してくれないだろう。
「私の宝物を打ち砕くとはいい度胸をしているわね」
自分の勇気を絞り出すため、ナオミはあえて
だが相手は――
「ナイフは作り直せばいい。だが命は作り直せない。壊してから悔いるのはいいが、殺してから悔いても意味は薄い」
怪人物はすぐナオミの至近距離に迫った。炎にあぶられた顔がはっきり見えた。
目といい鼻といい口といい、すべてのパーツが女のように小さかった。男らしいのは四角い顎だけ。しかし髭はきれいに剃り落とされている。
西部では顎髭こそ大人の男の
譲り受けたサーカス一座を切り盛りし、一八年の人生を
けれどこんな不気味な相手は初めてだ。
いや、不気味なだけではない。
美しいのだ。
男を見て
髭がないせいか、年齢はわからない。一五歳といっても三五歳といっても通用しそうな気がする。
(……何者?
そう思ったが、やはり違うようだ。大抵の博打打ちは白いドレスシャツを着ている。こんな葬式帰りのような黒尽くめの博打打ちはいないだろう。
なら当てはまるものは一つしかない。
(つまりは……殺し
羽さえ追加装備すれば悪魔に酷似している相手だが、臆してはだめ。ナオミはなけなしの勇気を結集して言い返す。
「その不埒者は私の得物。焼こうが煮ようが私の勝手。よけいな
「ほう。なかなかに強情なお嬢さんと見える。しかし本当に
やばい。ぜんぶ見抜かれている。
「その顔色から推察して私の想像は的中していたようだ。ならば授業料を頂戴しよう。代価として奴の身は私がいただく」
彼は幌馬車に釘付けにされたままの不埒者を指差した。
「奴の名はグレゴリー・ゴンドルフ。中西部で暴れたイカサマ専門の賭博士なのだ。私は彼を追ってきた
焼こうが煮ようがと言われたが、それは大いに困る。奴はたしかに賞金首だが、生きたまま
最後の一言に背筋が凍った。この男は自分もまたお尋ね者であると白状したのだ。ナオミが言うべき台詞を捜しているとき――
幌馬車のすみでゴトリという異音がした。直後、銀色の輝きが飛んできた。
あいつだ。ゴンドルフとかいう卑怯者が、壁に打ち込んだ39番〈
気づくのが一瞬だけ遅れた。それが致命傷だった。
刃先がナオミの眼前に迫ってきた。素人が投じた凶器だ。どこに命中するかはわからない。伏せるのもかわすのも間に合わない。
けれども――
唐突に、視界が丸くて黒い何かに覆われた。
それは巨大なテンガロン・ハット。怪人物は帽子を取り、片手でナオミの前にそれを差し出した。回転する39番はその中央部にぐっさり突き刺さった。
完全停止。ナオミは間一髪で惨劇を免れたのだ。
寒風が吹くなか、冷や汗がだらだらと噴き出してきた。黒衣の巨人を見上げると、テンガロン・ハットに押し込んでいた髪がはらりと崩れるところだった。
あまりにも長すぎる
それがナオミの頬をかすかに撫でた。硝煙と石鹸が一緒くたになった匂いが彼女を襲った。初めて経験する男の香りだった。
「後ろからの闇討ちとはなかなかに卑怯だな」
長髪の殺し屋は振り返りもせずに語りかけた。
「だが背中に目がある私には通用せぬ。知恵があれば逃げよ。勇気しか持ち合わせていないなら銃を抜け。もう一挺隠し持っているのはわかってるのだから。
スタールのダブルアクションだろう。ダージ・シティで借金のカタにご婦人から巻きあげた逸品だ。頑丈な
返事はない。しかしナオミには見えた。ゴンドルフが後退りを始める場面が。黒衣の男はなおも語りかける。
「抜く気はないらしいな。それでいい。私としても女の子の前で殺人という行為に及びたくはないものでね。
ゴンドルフは泣き出しそうな声で尋ねた。
「……き、貴様はそれを持っているのか?」
解答の代わりに、黒衣の怪人は背中に収納してある巨大なホルスターから、これまた巨大な兵器を取り出した。
ナオミはそれを散弾銃の一種かと錯覚した。拳銃とは思えないほど銃身が長かったためだ。普通は一〇インチ(二五・四センチ)前後だが、それは軽く一八インチ(四五・七二センチ)はある。けれどもグリップと引き鉄は拳銃のそれだ。あれはいったい……
緩やかに振り返りながら、男は語る。
「これぞ男の銃。ショットガンのような野蛮なものではない。千挺に一挺の割でしか完成に至らない優雅な武器だ」
「そいつは……」
ゴンドルフが唾を飲み込む音がここまで聞こえた。
「白亜の
「正解だ。私こそが元祖であり本家でありオリジナルである〝
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