― 3 ― 第2の少年とナオミとマンモス

 ひとりぼっちになってしまったナオミは、クルップ爺さんの言葉を思い出し、裏山へと急いだ。死なないためには、今は逃げるしかない。


 パインが群生するそこはナオミの遊び場所だ。丘や岩陰も多く、隠れる場所には不自由しない。中腹には女の子たちが秘密基地クラブハウスにしている洞窟があった。


 あそこには皆が持ち寄った毛布と缶詰が隠してある。あそこに避難しよう。

 無理やり元気を出し、夜の荒れ地へと脱出した彼女だが、そこが昼とは表情を一変させる場所であることに初めて気づき、急に心細くなってしまった。


 寒かった。

 凍えそうだった。

 死んでしまうかと思った。


 環境の激変に、慣れた裏山に足を踏み入れていることにさえ、なかなか気づかなかった。折悪おりあしく雨まで降ってきた。ずぶ濡れになったナオミは暖炉と太陽を恋しく思いながら丘陵をさまよい、やがて洞窟にたどり着いた。


 壁が橙色に照らされている。誰かが焚き火をしているのだ。

 機転がきく子が先にたどりついたに違いない。ナオミは光と暖を求めて中に駆け込んだ。


 そして――彼女は見た。


 自分とそれほど年齢の変わらない少年が、黒くてモフモフした物体に背中を預け、焚き火に手をかざしている場面を。


 さっきの男の子だ。灰かぶりのサンドリヨン王子プリンスだ。


 そう思ったナオミだったが、よく見ると違和感がある。顔はよく似ているが、着ている服が奇麗すぎた。薄い青色のポンチョは、おろし立てみたいに光沢を放っていた。なによりも美しい黒髪ブルネットには一欠片の灰も残っていない。いつのまに着替えたのだろう?


 端正な顔立ちに一瞬で心を抜かれたナオミに、相手の声が飛んだ。

「逃げてきたんだね。いや、逃がしてもらったんだろう? 僕の弟に。違うかい?」


 びっくりした。声も出ない。


 けれども相手は穏やかな、それでいて強い意志を感じさせる口調で、こう続けた。

「安心していい。君を売ったりはしない。僕たち兄弟は二人で一人。意をわかつことはない。弟の意志にそむけば、兄である僕の身も危なくなるのだから」


 死の淵を歩いたナオミの頭に、そうした言葉はうまく流れ込まなかった。幼すぎるナオミはこう理解してしまった。

 この人もまた〝灰かぶりのサンドリヨン王子プリンス〟なのだと……


 彼は火の側にナオミを招き、串に刺して焼いたマシュマロを渡してくれた。その甘みは舌から消えることなく、今も記憶に残っている。空腹だったナオミは、感謝と共に生きている実感を味わった。


 火とマシュマロがなければ、力尽きて死んでしまったかもしれない。感謝したナオミは、男の子にこう告げたのだった。


「あなたにお礼をあげる。私が大人になったとき、最初のキスをあげる」


 彼女は照れ隠しに背中の柔らかなモノに身をうずめた。なぜか獣の匂いがした。

 伝わる暖かさの正体を知ったとき、ナオミは思わず叫び声をあげそうになった。

 野獣だった。

 それは地上最大と呼ばれる長鼻目の哺乳類だった。象だ。その中でも最強と称されるではないか。


 ナオミも野生の巨象がいかに危険な存在であるかは承知していた。

 クルップ爺さんが寝る前に聞かせてくれたおはなしでは、野良マンモスは巨大な人食い象マンイーターらしい。悪い子は牙で串刺しにされて食べられてしまうと。


 そう。マシュマロみたいに。


 思わず悲鳴をあげかけたナオミであったが、男の子はこちらの口を塞いでから、言葉を選んだ。

「こいつはいい奴。心配はいらない。常識がこびりついた耳を塞ぎ、純粋な心のみで聞けば、その言葉がわかるはず。穢れなき思いを持っていれば、誰でも会話はできるんだ」


 疑う余地も余裕もなかった。

 それに経験もある。ナオミは過去にも、馬上でポニーの台詞を聞き、牧場で牛の詩歌を耳にしたことがあったのだ。

 極限状況に置かれているせいだろうか、巨大な草食獣は、意外にすんなりと心を通わせてくれた。

 優しげで大きな瞳を見据えるうち、おぼろげながら相手の気持ちがわかってきた。やがて頭の中で言葉が組み上げられていく。


 純粋な子供の心でいると動物の話がわかる。クルップ爺さんもそう言っていた。哺乳類と言葉を交わすなど、冷静に考えればありえないが、ナオミはサンタクロースを本気で信じるまでに幼い少女である。彼女は頭に流れ込む言葉を戸惑いつつも受け入れていた。

 そのマンモスは今まで肉を食べたことがないと語り、私の背中で寝ればびしょぬれの服も乾くだろうと申し出てくれた。それから、寝返りは絶対うたないから心配しなくていいと。

 マンモスと会話ができた奇跡に今更ながらびっくりしつつ、ナオミはたずねた。どうして寝返りをしないの?


 彼女は答えた。お腹に子供がいるからだよと。


 不意に襲ってきた安心と疲労と絶望が目蓋まぶたのシャッターを引き下ろした。ナオミはこっちの名前をたずねる男の子の質問を子守歌にして、夢の世界へと墜ちていった……


 そして数時間後――


 名前を大声で呼ぶクルップ爺さんの声で、ナオミは目を覚ました。

 もう夜は明けていた。いつしか〝灰かぶりのサンドリヨン王子プリンス〟の兄らしい男の子は消えていた。彼女は恩人の姿を追い求め、すっかり仲良くなったマンモスといっしょに洞窟の外に出た。


 悪夢は悪夢のままだった。焼き討ちされたホリー・ウッズ村は、直視できない悲惨な状況を曝していた。クリスマスの朝日は犠牲者を遠慮なくライトアップしている


 一つだけ心強かったのは騎兵隊キャバリーが到着していたことだ。ブルーの制服に黄色いリボン、ツバ広帽子にサーベルというトレードマークで全身をかためた兵隊が、馬に乗ったまま周囲を見回っている。少なくとも三〇人はいるだろう。

 安全が確保されたらしく、銃声は途絶えていた。ジェイホーカー団と名乗った無法者は、全員逃げるか死ぬかしたようだった。


 息を切らしながら山腹まで昇ってきたクルップ爺さんは、無事だったナオミの姿を認め、そして腰を抜かさんばかりに驚いていた。

 無理もないだろう。守るべき少女が巨象の背中にまたがっていたのだから。慌てて鋳造したばかりの携帯型加農カノン砲でマンモスを吹き飛ばそうとしたが、ナオミがそれを押し止めた。

 この子はお腹に赤ちゃんがいる。撃ってはだめと。


 アミマミと名乗ったその母親マンモスは、それから流行病はやりやまいで死んでしまったけれど、子供はまだ生きている。野生の血は脈々みゃくみゃくと受け継がれているのだ。


 そう。血脈が途絶えることは絶対に許されない。生物が誕生と同時に抱く使命――それは自分の遺伝子を後世に残すことに他ならないのだから。


 とりわけ名門と呼ばれる家に生まれた者は、それが至上義務とされることが多い。たとえ傍流ぼうりゅうであっても、由緒正しい家に生まれた者は簡単に死ねないのだ。本家が潰れるのは、よくある話ではないか。


 だからこそナオミ・デリンジャーは生き延びねばならなかった。

 たとえどのような境遇に身をやつしてでも……

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