真実は陽炎にゆれて

秋口峻砂

真実は陽炎にゆれて

 ずっと一緒にいろよ――そんなの夢でしかないのに。



 三年ぶりに辿り着いた故郷の地に降り立ち、私は久しぶりに懐かしい空気を胸一杯に吸い込んだ。色の褪せ錆びたバス停のダイヤは相変わらずで、一日に数本の便しかない。やはりいつまで経っても田舎は田舎のままだ。

 真っ直ぐ続く農道の左右には、容赦ない夏の日差しに稲穂が揺れていた。その揺れはまるで、今の私の心を表しているようだ。

 決定的なあの事件から三年、私は世間から隔離されてきた。今ではその事に感謝しているものの、あの頃はそれがどうしても厄介払いにしか思えなかった。私に対する裏切りとしか思えなかったのだ。

 私はただの甘えた子供だった。いや、きっとそれは今でも変わらない。世間から隔離されていた数年、私は籠の中で飼われている小鳥のようなものだ。何もせずともエサは与えられたし、きちんとした勉強もさせてもらえた。

 ゆっくりと農道を商店街に向かって歩く。商店街といっても高が知れている。ただ、実家がそっちなので、どうしてもそちらに向かうことになる。

 空気は相変わらずとても澄んでいる。それはあそこに隔離されて初めて分かった。ここで遊んでいた頃は気付かなかった。気付くはずもなかった。私は箱庭で自由気儘に生きていたからだ。

 アスファルトの熱で陽炎が揺れている。道の向こう側から、白い日傘を差した女性が歩いてきた。落ち着いた雰囲気からすると妙齢よりも年上のようだ。

 私は俯いて、顔を伏せ気味に歩いた。あれから三年が過ぎた。いや、まだ三年しか経っていない。こんな田舎町だ。あの事件を知っている人間も多いはずだ。私に何も負い目がなければ、こんな思いもせずにすんだはずだ。いや、根本的な原因は私ではないけれど、そこから先は全てが私自身の意思だった。

 先生は私に「依存症は身体の病気で、意思の硬さの問題ではない」と言ってくれた。隔離された期間に、私もそれについては勉強したから、先生の言ってくれた言葉が嘘ではないと知っている。けれど、どうしても私には、それが言い訳や慰めにしか思えなかった。

 陽炎に揺れる日傘の女性は、ただゆっくりと歩いている。この酷い暑さの中で、彼女だけが妙に涼しげに見えた。

 距離が近づいて来ると、その女性は老女だと分かった。ゆっくりと涼しげに歩いているのではなく、ゆっくりと歩くことしかできなかったのだ。

「こんにちは」

「こんにちは、御暑いですわね」

 日傘を上げてお辞儀をしてくれたその女性の額には、珠のような汗が光っていた。顔には無数の皺が走り、幾つかのシミもある。

 不意に思ったのは、「近付かなければ分からない事があるんだ」ということ。遠くから見ただけでは羨ましいほど綺麗に年を重ねているように見えたけれど、本当は彼女も相当相応の苦労を重ねて生きてきたのだということ。

 擦れ違い様、彼女の荒い息を感じ、彼女の後姿を思わず見やった。よく見ると右足を引き摺っている。あの右足には、どんな人生が刻まれているのだろうか。私もあんな風に、自分に人生を刻んで生きていくのだろうか。

 いや、もう刻まれている。私の身体には、依存症という恐ろしい傷が。

 また視線を道の向こうに向ける。

 誰もいない農道が、陽炎で揺れていた。




 二十分ほど農道を歩き、商店街に辿り着く。商店街といっても、数件の商店が立ち並ぶだけで、後は一軒家の住宅だ。とはいえこの辺りに出てくれば、ある程度の食料品や生活雑貨は揃う。まあ若い連中はこんな寂れた商店街には来ない。バスで一時間ほどの大きな街に出向き、そっちで思う存分遊ぶ。

 小さく溜息を吐き、額と首筋に浮いた汗をタオルで拭った。あの頃は色気づいていて、メイクやファッションには敏感だった。こんなに汗を掻いて歩くなんてことは絶対にしなかったし、何よりもそれがステータスだった。

 離れていた三年間で、そんな考えのほとんどは消え去っていた。メイクも最低限度しかしなくなったし、動き易いTシャツとジーンズ、そしてスニーカーを履くようになった。

 まあ個人的なそんな小さな変化など、きっとこの辺りの人間は考えないだろう。私が誰なのかを知ればきっと冷たい眼で哂うに決まっている。

 商店街は相変わらず閑散としていた。酒屋のお婆ちゃんは、相変わらず店先の椅子に座りながら何かをぼうっと眺めている。八百屋のおじちゃんはどうしたのだろうか。随分と若い青年が店先で野菜を並べていた。この田舎町で唯一の薬局は、この三年でとうとう潰れてしまったらしい。まあこんな寂れた町では仕方がないと思う。いや、あそこのご主人もかなりの老齢だったから、潰れたのではなく辞めたのかもしれない。

「……まるで浦島太郎ね」

 何となくこう思っていた。あの田舎町の時間はきっと、止まっていたかのように三年間、変わっていないんだと。私がいなくなってもきっと、何一つ変わらないんだと。だけど、それは間違いだった。私がいていなくても、時間は容赦なく過ぎていく。私の存在など無視して、全てが変わっていく。

 私はどうして戻ってきたのだろう。

 ここには辛い思い出しか残っていない。実家に戻っても、あの両親が私を受け入れてくれるはずがない。

 隔離から戻った私を、両親は迎えにすら来なかった。当然かとも思ったし、最初から諦めていた。何しろ隔離中、一度も会いに来てくれなかった。

 この田舎町であんな事件になったのだから、両親は面子の全てを潰されたようなものだ。こんな小さな田舎町で変な噂が立てば、間違いなく村八分だ。

 私が戻ってきた理由はきっと、両親に謝りたいからなのかもしれない。いや、かもしれないという表現はおかしい気もする。だけど、今は自分の気持ちが全く分からない。両親には会いたいと思っている。会って謝りたいとも。だけど納得できない部分もかなり多い。両親にとって私は、確かに恥だと思う。

 でも両親は隔離されたとはいえ、私を愛してくれていなかったのだろうか。そして今ではもう愛していないのだろうか。子供の頃に感じていた両親への尊敬や愛情の全てを薙ぎ倒されたように感じていた。

 だからもしかしたら私は、両親を罵りたいのかも知れない。

 商店街の端で立ち竦む。容赦ない夏の日差しが、私の額にまた珠の汗を生んだ。

 とりあえず何か冷たい物が欲しい。私は老婆が店番をしている酒屋に向かい、その前にある自動販売機の前に立った。

 あの頃に飲んでいた缶コーヒーはもう売っていないらしい。苦味が強いのに妙に甘い、出来の悪い缶コーヒーの典型例。ただあの頃はそれが妙に格好良い気がしていた。みんながそれを好んで飲んでいたからかもしれない。

 この強い日差しと強烈な暑さの中で、出来が良くとも缶コーヒーは飲みたくない。今はスポーツドリンクか炭酸飲料が欲しい。

 財布を開けて小銭を取り出し、スポーツドリンクのペットボトルを買った。

「毎度」

 何かを呆然と見詰めていたあの老婆は、昔と変わらない皺枯れた、でも暖かい声でお礼を言ってくれた。

「嫌になるくらい暑いですね」

 思わず愛想笑いをしてしまう。だが老婆はこちらを見ない。ただ呆然と何かを見上げていた。言葉を無視されて戸惑っていると、店の奥から中年の男性が姿を現す。確かこの老婆の息子さんだったはず。

「ああ、すまんね、婆さんもうかなりボケが進んでいるんだわ」

 三年前、お婆ちゃんはよぼよぼではあっても、痴呆症なんてなかった。変わるはずのない現実なんてない。たったの三年で、こんな望んでもいない未来に変わっていた。

「そうなんですか……」

「まあもう八十だしな」

 私はただじっと老婆を見詰めた。彼女は今、幸せなのだろうか。彼女の顔に刻まれた年輪には、農道の老女のように苦労の痕が見て取れた。だけど不思議と老婆の表情はとても幸せそうだった。少なくとも後悔はしていないように見えた。痴呆症に犯されているのだから、その表情の何処までが彼女の人生の真実なのかは分からない。

 けれど、もしも後悔するような生き方をしていたのだとしても、もう痴呆症に犯されてしまった今は、何も感じずにただ幸せなのかもしれない。

 分からない。幸せって一体、どんなものなのだろうか。




 あの日、私は繁華街で友人と、ある男達にナンパされた。友人は断ったが、それにほいほいとついて行った私は大馬鹿だった。

 私は良く分からないセックスドラッグを何本も打たれ、気が遠くなるほどの快楽に浸され、逃げられなくなった。

 自分でも信じられなかった。たった数日、それを打たれ繰り返されたセックスの、私は虜になったしまった。

 ドラッグが切れると襲い掛かってくる、容赦ない強烈なドラッグへの飢え。それ耐えなければならないことを、理屈では分かっていた。でも理屈でどうこうできるモノではなかった。

 耐えられなくなると男達に連絡をし、セックスの代償にドラッグを貰う。金では売ってくれなかった。理由は分からない。

 でも理由なんかどうでも良かった。ドラッグさえ手に入るのならば、その為にどんな酷いセックスをされても構わなかった。だって、それを打ってもらえば、どんな酷いセックスをされても、気持ちが良いのだから。

 そしてそれに気付いた時、私は呆然とした。

 男達に抱かれてドラッグを手に入れ、それを打ち少しだけ落ち着き、何気なく全身鏡に全裸で映った時だった。

 全身にある紅い痣と蒼い痣、濃いメイクが崩れ目の下には酷いクマ、左腕や左足の太股にある幾つモノ注射痕。

 その姿はどう見ても、普通に人生を楽しんでいる女ではなかった。何かに憑かれ囚われ、そして狂っている女の姿だった。

 私は悟った。もう、戻れないと。

 そうなるともう、自分が壊れていく事すらどうでもよくなった。どうせこのドラッグからは逃げられない。ならばそれを貰う為に繰り返すセックスも楽しんだ方が幸せだと思った。壊れてしまうのならば、幸せに壊れようと思った。

 そんな時、その男達が何かの容疑で逮捕された。元々、私はその男達のことを連絡用の携帯の番号以外よくは知らなかった。だが相手はそういう訳ではなかったらしい。

 未成年だった私には金なんてなかった。けれどドラッグを打たれた私は、いつの間にか何枚もの画像や、何本もの映像を撮られていて、それを売られていた。

 両親が私の変化に気付いていなかったはずもない。だけど両親は何も言わなかった。その理由は今でも分からない。だけど分かっていたことは、これでもう見捨てられるということだった。

 警察が自宅を訪ねてきた日のことが、私は忘れられない。私を愛してくれていたはずのあの両親が向けた、まるで落伍者を見る、蔑むような目を。

 逮捕された私は、ドラッグへの依存の強さから、専門施設に隔離入院させられた。もちろん、ドラッグを使用していたのだから私も罪は背負っている。ただ、そのきっかけがレイプだったことから、私は懲役だけは免れた。

 でもその入院は、二年間を超えるとてつもなく長いものになった。救われたとはいえ、私の身体はもうボロボロになっていたらしい。

 内臓の幾つかにも機能障害をきたしていたし、依存の具合も相当酷かった。だからそれから抜け出すのにも時間が掛かったし、何よりもその苦しみは地獄だった。何度「殺して」と泣き喚いただろう。死んだ方が絶対に楽になると思った。そしてきっとそれは間違いではなかったはずだ。

「楽になれば赦されると思ってはいけない」

 担当医の先生は、はっきりとそう言った。

 その言葉はまるで、被害者でもある私を加害者だと罵っているようだった。だけど今ならば分かる。私も加害者なのだ。

 例えば両親を信じていなかったとしても、もっと早くそういう病院に掛かる事は出来たはずだ。自分の姿が鏡に映されて、それが壊れそうだったと気付いたあの時に。

 どうしてそうしなかったのか。それは私がドラッグの誘惑に負けたから。あのドラッグを打って楽しむセックスに夢中になっていたから。

 そして両親の存在なんて、大切に思っていなかったから。それなのに両親から愛されたいなんて、都合が良いにも程があると思う。でもそれでも私は愛されていたのかどうか。それだけでも知りたいと思う。ただ、それでも私はここいる理由が分からない。退院する準備を始めた頃、私は先生に尋ねた事がある。

 両親はどうしているのかを。

 先生は苦笑しながら、「今を生きられています」とだけ言ってくれた。退院の話が進んでも、両親は姿を見せることはなく、何の援助もなかった。その入院期間で生きていくだけの資格は手に入れていたから、国の援助を受けて何とか自立はした。

 ただ、もうハードワークに耐えられる身体ではないから、ある運送会社の事務をしている。

 そして彼に出会った。もちろん、私の過去を彼は知らない。時折酷く体調を崩し会社を休むと、彼は仕事の後に私のアパートを訪れて、色々と世話を焼いてくれる。

 付き合っている訳ではない。いや、男性と幸せになるなんて選択肢は、もう私には残されていないのだから。

 ただ、彼が時折見せてくれるはにかむような笑顔。それがとても幸せだった。もう普通の女の幸せは無理だ。だけど、この位の小さな幸せなら、享受してもいいはずだと思っていた。

 そして先日、唐突に彼が言った言葉を思い出し、私は唇を噛んだ。

 分からない。幸せって一体どういうものなのだろうか。それって、今の私が感じてもいいものなのだろうか。

 私はどうして、ここにいるのだろうか。




 老婆の椅子の隣に座り込んで、私はスポーツドリンクで喉を潤していた。彼女は相変わらず呆然と何かを見詰めている。時折唐突に笑って、一言二言何かを呟く。それを繰り返していた。

 彼女は少なくとも今、幸せなのが分かる。生きてきた人生を幸せかどうか判断するのは、今の自分だ。今の自分が幸せだから、笑っていられるのだろう。

 では、私はどうだろうか。私はどうしても両親と暮らし自由気儘だった過去と、今の質素な生活を比べてしまう。もちろん、今の質素な生活が嫌いな訳ではないし、過去に戻れない事だって理解している。

 でも、どうしても比べてしまう。そして独り身の寂しさを考えてしまうのだ。私にはもう、帰る場所がない。実家に帰って「ただいま、お母さん」なんてことも、今後絶対にない。

 ……そうか、私は両親に謝って、昔みたいに愛して欲しいんだ。逃げ帰りたいんだ、あの暖かい居場所に。

「サキちゃん、何を泣いているんだい……」

 椅子の上のお婆ちゃんが唐突にそう呟いた。私は驚いて彼女の顔を見上げる。そして慌てて指先で涙を拭った。

 サキちゃんとは娘さんかお孫さんだろうか。

「……ちょっと寂しくなっちゃって」

 痴呆症の進んだ老婆にこんなことを言うのは卑怯だろうか。彼女は私をサキちゃんと勘違いしている。でももしかしたら彼女も、サキちゃんに会いたかったのだろうか。

「ごめんね、お母さんが寂しい思いさせちゃって……」

 彼女のその物悲しい言葉に、私は掛ける言葉を失った。彼女の目は限りなく優しく、そして私の髪を撫ぜる手は温かく、頬を伝う涙は彼女の背負う業を表していた。サキちゃんが誰なのか、それは大切ではないのかもしれない。大切なのは、彼女はそれをとても大事に想っているということ。それを忘れる事は決してないということ。

 ならばきっと私が背負った業も、忘れてはならないのだろう。傷は消えても癒えることはない。繋がっていく連鎖の宿業は、どんなに離れても私につながっている。私は罪人なのだから、それを償ったとしても、ずっと忘れてはならないのだろう。サキちゃんは一体どんな人生を歩み、今、どうしているのだろうか。

「あらら、母さん、またサキちゃんのことを思い出したの?」

 酒屋の奥から中年の女性が姿を現した。慌てて私が頭を下げると、女性は私に向かって「付き合わせてごめんなさいね」と苦笑いした。

「あの、サキちゃんってどうされているんですか?」

 気になっていたことを尋ねてみると、その女性は「あはは」と楽しげに笑い、そして自分を指差した。

「サキは私なんですよ。母さん、私が小学校の頃まで戻ってて。その頃、お店が忙しくて私が寂しがってたものだから」

 何となく納得してしまった。陽炎に揺れていた女性と同じように、遠くからでは分からないことがある。実際の距離ではなく、心の距離とでも言おうか、そういう声や熱が伝わる距離。

「私はてっきり、もう亡くなられてるとばっかり……」

 頬を掻きながらの私の言葉に、女性は「皆さんそう仰います」とけたけたと笑った。

 そうだ、心の距離が近くなければ、分からない事が沢山ある。ではあの頃、両親に甘えるだけで何も返していない私に、両親の何が分かっているのだろうか。ああやって私を大切にしてくれた彼の、何を分かっているのだろうか。幸せってもしかして、その距離を縮めることを言うのかもしれない。

「あなたも何か思い悩んでいるみたいね」

「あ、いえ、そんな……」

 曖昧に笑い誤魔化して、私はスポーツドリンクを飲み干した。




「……やっぱり、実家には帰れないか」

 お婆ちゃんとあの女性が教えてくれた。私は両親の近くにいない。元々考えてもいなかったのだから、近くに存在するはずもない。

 あの時、逮捕された私を両親が冷たく見ていたのはきっと、その距離がそれだけ遠くなっていたということなのだろう。ならば、三年間も離れていたのに、私のことをよく思っていてくれるはずもない。私は彼らにとっての恥だ。その恥が帰ってきて喜ぶ人間などいないだろう。

 そうなると行く当てもない。そろそろ陽が翳りつつある。アパートに帰るのならば、バスが少ない都合上、早めに動かなくてはならない。

 でも、両親に謝らなくて、私は後悔しないだろうか。いや、会って謝罪したとしても、きっと後悔はするはずだ。だけど同じ後悔するなら、謝ってしまった方がいいのではないだろうか。

「分からないよ、そんなの」

 分かるはずもない。結果なんてやってみなければ。怖がっていても仕方がないけれど、切れてしまった絆を認識してしまうのが余りにも苦しかった。

 当てもなく歩く。気付くと商店街を離れて、町外れの神社の前に辿り着いていた。考えてみれば、小学校の頃は、友達とよくここで遊んだ。夏場でも不思議と涼しい空気が流れていて、深い緑の木陰には妖精が隠れてそうだった。お祭の日以外で神様にお祈りを捧げたことなんてなかったけれど、ただここはとても神聖で大切な場所だということは、ここの空気で何となく理解していた。

「祈ったら赦してもらえるかな」

 そんな都合のいいことは在り得ないけれど、自己満足だったとしても祈りたいと思った。私の幸せなんてどうでもいい。けれど私が壊してしまった両親と、彼の幸せだけ、それだけでいいから叶えて欲しいと思った。

 ゆっくりと神社の鳥居を潜る。すると深い緑に足を踏み入れる。少し薄暗い木陰はやはり涼しかった。そして空気がとても澄んでいる気がした。この町の澄んだ空気は、もしかしたらここのお陰なのかもしれない。

 木漏れ日の中をゆっくりと歩く。お手水で手を洗い口を漱ぎ、そのまま顔まで洗った。本当はいけないんだろうけれど、綺麗な冷たい水は気持ちよかった。

 賽銭箱に五円を投げ、鈴を鳴らす。二礼二拍手、一礼をし、瞳を閉じて手を合わせた。実際にこうして祈ろうと手を合わせてみると、脳裏には何も浮かばなかった。両親や彼の幸せ、自分の未来について、祈ろうと思えば何でも祈れるはずなのに、何も頭に浮かばなかった。でもそれでも、不思議な安堵感が私を包んでくれた。ここで生まれ育ち、私にとってここはいつまでも故郷なのだろう。でもきっと、今日を最後にもう戻ってくることはない。だからこそ、私はこの景色を心に刻みつけよう。戻ってくることができないのだとしたら、心の中に故郷を持とう。

 寂しくなんかないんだ、きっと。違う、寂しいなんて言ったら、今の私と関わってくれている大切な人々に対して失礼だ。

 彼はどうしているだろう。今の私が、まさかあんな言葉が聞けるなんて思っていなかった。だけど、その言葉は嬉しい以上に悲しかった。だって、私は彼の好意に応える資格がない。どんな幸せも受けることを赦されない。そんな軽い十字架を背負っているはずもない。

 でも、心のどこかで幸せを感じていた。その言葉だけで十分だった。きっと私は意識して彼から離れるだろう。けれど、そんな言葉を聞けただけで、私はこれからも生きていける。

 閉じていた目を開き、神社の境内を見詰めた。ここはきっと、私を否定しないでいてくれた。この町には私がいる場所なんて、もうどこにもない。でも、歓迎はしてくれなくてもここだけは否定しないでいてくれる。

 なら、それでいいんじゃないかな。小さく微笑んで頬を掻き、私は歩き出した。涼しい風が緑の葉を優しく揺らしていた。




 バス停まで歩く。いつの間にか出ていた灰色の雲が空を覆っていた。雨でも降りそうな気配だ。でも今は雨でも何でも降って欲しい気分だった。

 もう来ることはないと心に決めても、ここから離れることを私は悲しんでいた。こんな思いをするのなら、最初から来るんじゃなかった。いや、でもきっとこれが私のけじめなのだろう。この苦しみは私が味あわなくてはならない、そんな贖罪なんだろう。どこかで淡い期待をしていた。町中で私を見かけた誰かが両親に連絡してくれていることを。もちろん、そんな都合の良いことはないと分かっている。

 バス停が見えてきた。もう陽炎はない。真実を覆い隠してきた歪みは存在していない。もしかしたら今ならば、私の真実が見えるのだろうか。世界を燦々と照らしている太陽が陽炎を呼び、その陽炎が真実の姿を歪める。だから人は相手に近付いて、真実を見極めようとする。

 今の私もそうだ。両親の心を知りたいと思っている。でも近付くことが出来ない以上、真実なんて分かるはずもない。

 堂々巡りに近い考えに溜息をついた。バスから降り立った農道を歩く。農道の途中にあるバス停には人影が見えた。どうも若い男性のようだ。近い年齢の人間には会いたくない。もしも知り合いだったとしたら、私を蔑むに違いないから。俯き加減で歩く。顔を上げることができない。今の自分が信じられないほどに矮小に感じた。この農道で出会った老女や酒屋の痴呆症の老婆みたいに、真っ直ぐな生き方はしていない。誇る何かなど在りもしない。だから顔を上げることなんて出来ない。

「……やっと見付けた」

 その声を聞いた瞬間、私の身体が強張った。彼がここにいるはずがない。故郷のことは誰にも話していない。私の過去を知っているのは、会社の社長と上司だけのはずだ。なのに、どうして彼がここにいるのだろう。

 いや、きっと聞き間違いだ。いや、聞き間違いであって欲しい。このことを知っているということは、私の過去も知っているということ。そんなの絶対に嫌だ。絶対に知って欲しくない。心臓が激しく鳴っていた。頭がくらくらする。ゆっくりと顔を上げると、彼が優しい表情で佇んでいた。

「どうして勝手にいなくなるんだよ」

「そ、そんなの……」

「だから迎えに来たよ、帰ろう」

 彼は何も問わなかった。ここに来た理由も、私が隠している過去についても、ここで何を手に入れたのかも。まるで私の罪の意識や葛藤なんてどうでもいいことであるかのように、何の躊躇いもなく手の平を差し伸べてくれた。

「私、料理下手だよ」

「なら俺が作るから良いよ」

「結構ウエストも太いし」

「俺だってメタボ寸前だぞ」

「身体壊してるから、あんまり働けないし」

「俺が働くから何も問題ないだろ」

「どうしてそんな――」

「――一緒にいたいから、理由なんかそれだけでいいじゃないか」

 彼の顔を見詰めた。大好きな、はにかむような笑顔。きっと私の過去について全てを知っているはず。それなのにどうして私を好きだなんて言えるのだろうか。

 帰る場所なんてもうないと思っていた。ここにあるのはもう過去の残骸だけ。アパートに帰ってもそこは、住処ではあっても居場所ではないと思っていた。でももしかしたら、帰る場所や居場所って、誰かと一緒に作っていくものなのかも知れない。もしもそうだとしたら、彼となら作っていけるのかもしれない。

 でも、私は重い十字架を背負っている。依存症だって再発するかもしれない。あんなモノに晒され続けた身体だから、子供だってもう無理だ。彼は理解しているのだろうか。

「……教えてよ、私は馬鹿だから分からない。どうしてここにいるのか」

「――お前がここにいるからだよ」

 すとん、とその言葉は心の奥に納まった。まるでずっと探していた答えを見付けてしまったかのような、そんな感覚。あの事件のことも両親のことも、彼は知っている。知っている上で私がここにいるから、一緒にいてくれる。

 何て不公平な幸せだろう。彼にただ包み込まれるように守られる、そんな不公平な幸せ。でも、何てあたたかいんだろう。

「……だから、帰ろう」

「……うん」

 きっと両親に会うことはもうないだろう。私は彼らの心を裏切った。彼らに会う資格などないし、そしてここにはもう居場所なんかない。だけど、私は全てを失った訳ではなかったんだ。退院してから過ごした日々の中で、少なくとも彼と出会って、そして居場所を手に入れたんだ。

 きっとこれからも後悔すると思う。過去に犯してしまった過ちや、両親に対する罪の意識、そして依存に対して。

 でもきっと、私も幸せになっていいんだ。いや、なっていいのかどうかは分からないけれど、私も彼を好きでいていいんだ。俯いて涙を流す私の肩を優しく抱いて、彼は私の頭を乱暴に撫ぜた。

 農道で擦れ違った老女や、酒屋の痴呆症の老婆のように真っ直ぐには生きられなくても、私は私なりの生き方で歩こう。倒れそうになったらきっと、彼が支えてくれる。

 農道をじっと見詰める。空が翳ったから陽炎はもうない。見えていなかった真実が、今ならば見える。失った何か、そして手に入れた大切な何か。それを胸に私はただこれからを歩く。

「……ありがとう」

 私は小さく呟いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真実は陽炎にゆれて 秋口峻砂 @dante666

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ