8月8日 前編

 僕は今日もいつも通り朝早くに家を出た。

 天気は快晴で、ドアから出ると鼻に入り込む空気がとても爽やかだ。

季節が季節で、自転車のサドルに付いている朝露を手で拭う。少し濡れて不快だが、走っていれば乾くだろうと、そのままグリップを握って漕ぎ出す。

 切る風はまだ冷たいが、そのうち暖かくなって暑くなるだろう。農作業を始めている近所のおじいさんやおばあさんにお辞儀をしながら、いつもの河原の上の道に入った。

 僕の目は鹿野さんを探す。今日は結構時間があるので、結構な時間を話していられるのだ。今日は予備校に行くわけではない。電車に乗って、模擬試験を受けに行くのだ。その模擬試験は、いつもの予備校の開講時間よりもニ時間ほど遅いのだ。だから、いつも通りに出て話して行こうと思った。試験開始時刻まで勉強をしていても仕方ないので、数十分前に入れればいいかな、と思っているくらいだ。

 彼女はそこに居た。今日も僕があげた参考書を開いて勉強をしている。

だが、今日はなんだか様子が違う。英単語の参考書を開いているが、その脇に英文法の参考書も置かれていたのだ。

参考書をあげたのは昨日だ。たった一日で、参考書を勉強し終わるなんて考えられない。だが一方で、英単語を勉強していたのなら、参考書を終わらせることはできる。鹿野さんがどうやって勉強をしているのかなんて僕は知らない。単語を一々ノートにスペルと意味を書き取っているとしても、流石に一日では全単語を書き終えるなんてことは出来ないだろう。

「おはよう」

「あ、おはよう」

僕が話し掛けると、鹿野さんは笑顔で答えてくれる。そしてすぐにノートに目線を落とす。

僕は隣に座って、ノートを覗き込んでみた。

「おもしろいね。英語って」

「そう思えたのなら、それをあげた甲斐があるよ」

表面上では平静を装う。だけど、内心は全然落ち着いてなんていなかった。

鹿野さんの書いているノートを見た瞬間、僕はギョッとしたのだ。

「ん? どうかしたの?」

「いっ、いいや、なんでもないよ」

スペルと書いた横に意味を書いているようだ。そしてその横にスペルを三回書いている。僕も同じような単語の勉強をしてきたが、僕がギョッとしたのはそこではない。彼女の書いている漢字だ。一見、漢字にしか見えない。だけど、漢字を使う日本人の僕でも読めない漢字を使っているのだ。

読めないというか、習わないと言った方が正しいのかもしれない。

「そう?」

不思議そうに首を傾げる鹿野さんに、僕は素っ気なく首を縦に振るだけだ。今、僕は考えることで精一杯。

鹿野さんの書いている漢字がなんなのかがやっと分かった。旧漢字だ。

『現代』では使われていない漢字。例えば『芸』。これを旧漢字にすると『藝』だ。旧漢字が分からない僕が何故分かったのかというと、ノートに書かれた単語からだ。

『artist 藝術 artist artist artist』と書かれていた。だから分かったのだ。その後だが、わざわざノートを見なくても、参考書を見れば分かることだ。

最も、こんなことを受験生の僕が行っていて良いのだろうか。ノートに書かれている単語だけで意味を取れなければ、これまで頑張って勉強をやってきた意味がない。

「もうちょっとでキリがいいから、待っていてね」

「うん」

そんな僕のことを露知らず、鹿野さんはブツブツと単語を発音しながら書き取っていく。

 ページの一番下まで到達したみたいだ。鹿野さんは鉛筆をノートに挟んで閉じると、僕の顔を見た。

「そういえば、今日は夜との温度差が激しかったね」

「そうみたいだね。乗ってきた自転車にも朝露が付いていたし」

「さっき川を観ていたのだけど、近くの草にも朝露が付いていて、それが腕についてびっくりしたからねー」

あははと笑いながら鹿野さんは話す。

「そういえば、今日は格好が違うね」

「うん。ちょっとね」

僕の格好を見た鹿野さんはそう言った。

今日の僕はいつもの私服ではなく、通っている高校の制服を来ている。いつもなら予備校で講義を受けるのだが、今日は電車に乗って別の場所に行くのだ。目的は試験。模試を受けに行くのだ。

その為に制服を着てきたのだ。

「懐かしいなぁ……その服」

「そうなの?」

「うん」

鹿野さんは僕の来ている制服を眺めて、そんなことを呟いた。

僕が来ている制服は、一般的な学ランだ。と言っても夏服。上は白い半袖のカッターシャツ。下は薄手の夏ズボンだ。

「でも帽子は被ってないんだね」

「……帽子?」

「うん、帽子」

不思議そうな顔をして、鹿野さんはそう言ってくる。

何故、帽子なんてことを訊いてくるのでしょうか。僕が高校生になるために買った時には、帽子を買うなんてことは学校から言われなかった。それに、制服を買ったところでも、帽子を置いているところなんてなかった上、近隣の高校のどこもが帽子を被って学校に通学するところなんてない。

鹿野さんは一体、何を言っているのだろう。僕はそう思った。

「あ、あはは。なんだか困らせちゃったみたいだね」

「いいよ、別に」

「それでさ。どうしてその格好なの?」

「ちょっとね。今日は試験なんだ。と言っても、本番じゃなくて練習の方」

僕は頭を掻きながら答える。この時期の試験、模試は重要だから皆、真剣に受ける。もちろん僕もだ。そんな真剣な模試に緊張せずに赴くなんて無理な話だけど、僕はこれまで緊張してなかった。だけど、口に出してしまうと、途端に緊張してきてしまったのだ。

「練習? そうなんだ……」

「うん。だから今日は、自転車で街まで行ってから電車に乗る」

正直、どうやって行くかなんて話さなくても良かったのだが、話してしまった。

そんな僕の発言に、鹿野さんは少し間を置く。どうしたのだろう。

「頑張ってね。ここから応援しているよ!」

「ありがとう」

ガッツポーズをして見せて眉を釣り上げた鹿野さんに、僕は頬を掻いて返答をした。

少し恥ずかしくなったからだ。こんな風に応援されたのは初めてだからだ。

頬を掻いている時に腕時計の時間が目に入った。もうそろそろ駅に向かわなければいけない時間だ。

「じゃあ、僕はもう行くね」

「うん、いってらっしゃい」

「いってきます」

今日、初めて鹿野さんにそんなことを言われた気がした。

僕は多分、顔を紅くしているだろう。慌ててリュックサックを背負って、土手を上がっていった。

自転車に跨って、また鹿野さんの方を見ると、彼女はこちらを見て手を振っていた。

そんな彼女に僕は手を振り返す。そして、ペダルに力を入れて漕ぎ出す。

試験会場に余裕を持って到着できるように移動を始めた。

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