8月7日

 分厚い雲が空を覆っている今日。僕は昨日よりも少しだけ早くに家を出た。その姿を見た母さんは、『何でそんなに早く出るようになったの?』と訊いてきた。

流石に女の子と会うなんて口が裂けても言えない。だから、『早く行って自習室に篭っている』と答えておいた。それだけで母さんは納得してくれたが、本当はどう思っているのだろう。

 受験で心への負担が普段よりも掛かるこの時期に、僕が非行に走っているのではないか。と、疑っているのかもしれない。だけど、僕の心は至って正常だ。

模試で第一志望の大学の判定はA。九○%の確率で合格する、と言われている。九○%なんて高い数字だが、何が起こるか分からない。僕のモチベーション次第だろう。だから、僕はいつも勉強に励んでいるのだ。一○%で落ちるかもしれない。そう考えて勉強している。

 河原に差し掛かり、ほんの少しだけ涼しい風に当たりながら、昨日居た場所を見る。そうすると、鹿野さんはそこに居た。今日は対岸を見ているようだ。

そんな鹿野さんに、僕は自転車を降りて近づいていく。

「あ、おはよう」

「おはよう」

近づく僕の立てる音に気付かない訳がない。昨日だって気付いていたのだ。

今日の僕の荷物は昨日と同じリュックサックだ。それを見た鹿野さんは僕に訊いてくる。

「今日も予備校?」

「もちろん。毎日行っているからね」

「そっかー。大変だね」

なんだか素っ気ない。そんな鹿野さんに話を振った。

昨日みたいに色々話してみたかった。そして昨日、鹿野さんが『英語は習ったことがない』と言っていたので、僕の使っていない英単語と文法の参考書を持ってきているのだ。

「そういえば鹿野さん」

「なに?」

遠い目をして対岸を見ている鹿野さんに話しかける。

そんな彼女に、僕は参考書を差し出した。

「これ、あげるよ」

「ん? 英語の教科書?」

「まぁ、そんなものかな。それである程度の英語の勉強はできるはずだよ。最初は文法の方をやってね」

そんな風に僕は参考書を渡すが、鹿野さんは僕の想像の斜め上をいくリアクションをした。

「これ、くれるの?」

「もちろん。昨日、やったことないって言っていたでしょ? それ、使わないからさ」

そう僕が言うと、遠い目をしていた鹿野さんは目を輝かせた。そして、中を開いて見始める。

「教科書かぁー! ありがとう! しかもこんなに綺麗っ!」

そう言って参考書を見る鹿野さんだが、僕はその発言にとてつもない違和感を持った。

僕があげた参考書を、鹿野さんは『綺麗』だと言ったのだ。

参考書は確かに綺麗に使っていた。だけどそれでも、傷や折れ目だってついてしまう。かなり使い込んであるから、ページを折った跡もかなりあるし、表紙だって少し黒くなっていた。

普通なら『使い込んだねー』、という感想を言うだろう。だけど、鹿野さんは『綺麗』だと言ったのだ。

僕の頭の中は強烈な違和感に支配されてしまった。

 そんな僕のことを露知らず、鹿野さんはあれやこれやと独り言を言っていた。

「楽しみだなぁー! 勉強するなら鉛筆とノートが必要だよね……。確かまだ使える鉛筆があったはずだし、ページの残っているノートもあったような……。でもこれだけあると、全然足りないんだろうなぁー!」

そんなことを言う鹿野さんへの違和感が上乗せされた。

筆記用具が目のつくところに置いていないような口ぶりで、しかも新しい勉強をするのなら、新しいノートを下ろすだろう。なのに、鹿野さんはいかにも近くに筆記用具がないような言い方をし、ノートは使いかけを使おうとしている。

僕の脳は許容範囲を超えてしまった。もう深く考えることが出来なくなってしまっていたのだ。

「使いかけのノートを使うなんて。鹿野さん、エコ志向だね」

「エコ? ……そ、そうだね。エコだよ! 私!」

なんだか適当に誤魔化されたような気がしなくもないが、喜んでいるのならいいかと僕は思ってしまった。その後は、英語の勉強の仕方を少しだけ教えて、後は夜にでも話すと言って別れた。今日は昨日よりも早く出てきたが、結構長いこと話し込んでしまったみたい。英語の参考書を見ている鹿野さんに、僕は『また後で』と言ってすぐに自転車に乗った。




 塾に着き、いつもの様な会話をアイツと交わすと、僕は講義に集中した。今日は文系科目の講義しか受けない。最初に英語。次に現代文、地歴公民をニ科目、古典の順番で受ける。やはり、文系科目ということもあり、かなりの眠気が僕を襲っていた。今受けている科目が一番酷いのかもしれない。

 今受けているのは日本史Bだ。年代は近現代。今、講師が話しているのは明治の三大改革についてだ。内容を詳しく話している。

僕はもちろん、周りは重要だと思われる単語を必死にメモを取りながら、その場で頭に叩き込んでいた。正直、地歴公民の勉強に回す時間が惜しいのだ。

 そんなとき、僕は講師のある言葉に引っかかった。

「都市部の裕福な家の子どもなら新しい教科書を用意してもらえたらしい。だが、農村部などの貧しい家の子どもだと、近所の年上の子どものお下がりの教科書を使っていたらしいな。そんなことを曽祖父が言っていたよ」

この言葉で、僕は走らせていたペンを止めてしまった。

『お下がりの教科書』という単語が、妙に僕の胸に引っかかったのだ。だが、今は集中しなければならない。無理やり、そのわだかまりを振り払ってメモに集中した。

 眠気と戦いながら、今日の講義を全て終わらせた。

最後の講義。古典の講師が講義室から出て行ったのを合図に、皆が片付けを始める。僕もテキストと筆記用具をリュックサックに仕舞うが、まだ帰る気はない。今日も例外なく、講師に分からないところや解き直した回答を見てもらうのだ。

今日は数学ⅢCの積分と、物理の力学の問題だ。いつもり結構少ない。一応、片付けは終わったので、リュックサックを背負って自習室に向かう。その途中でアイツに声を掛けられた。

「今日も残っていくのか?」

「もちろん。だけど、今日は少ない」

「そうか。じゃあ、また明日」

「あぁ。また明日」

それだけを交わして、アイツは予備校の自動ドアを通っていった。

 僕はそのまま講師待機室の扉をノックする。

「すみません。お時間ありますか?」

「あぁ、三枝か。今日はどの科目だ?」

僕はこうやって毎日講義の後に現れるので、講師の間でも話題になっているらしい。ここまで毎日聴きに来る受講生は居ないと、この前言われたのだ。

「数学と物理です」

「分かった。いつもの講義室にいてくれ」

「分かりました」

言われた通りに、指定された講義室に入る。あまりに質問に来るので、小さい講義室をいつも開けて対応してくれるのだ。

僕がその講義室に入ろうとしたとき、歴史学Bの講師がたまたま通りかかった。

「お、三枝じゃないか。今日も質問か?」

「はい。今日は数学と物理を」

「そうか。文系科目はほとんど訊いてこないから、俺としては寂しいぞ」

「はははっ。英語ならまだしも、地歴公民は先生がおっしゃったことを覚えてさえいれば点数は取れますからね」

「それは嬉しいな。じゃあ、頑張れよ」

「はい」

それだけの会話を交わすが、僕は講師を見てあることを思い出した。

『お下がりの教科書』という単語だ。あのときから今まで忘れていたが、講師の声を聞いたことで思い出したのだろう。

このあとすぐに数学と物理の講師がやってきて、僕の質問に対応してくれた。数学は解き方の分からない入試問題を三つと、こうやって教えてもらって解いた回答の添削。物理は力点の考え方や周りくどい解き方をしたので、もっと簡単に解く方法を教えてもらいに来たのだ。

 数学と物理の質問は終わり、僕はリュックサックを背負って予備校を出た。

今日はいつもよりも少し早く、午後八時半くらいに出たのだ。

ネオンや街灯で照らされた街を走りながら、過ぎゆく店に目移りする。中華料理屋やファミリーレストラン、ファーストフード店から漂う美味しそうな匂いに惹かれるが、家に帰るとご飯が用意されていると、母さんからメールがあったので、なんとか横を走り抜けた。




 僕は河原に差し掛かり、いつものように目線を前方から逸らす。

そこにはやはり、鹿野さんがいた。だが、いつもとは違う。ベンチに座っているのだ。

今日は少し早く帰らなければならないので、少しだけ話して帰るつもりでいる。

「こんばんは、鹿野さん」

「ん? こんばんは」

ベンチに近づいて話しかけると、鹿野さんはノートを傍らに単語の参考書を開いていた。文法の参考書はないので、多分家に置いてきたのだろう。

「今日は急いでいるから、これで帰るね」

「そうなの?」

ベンチに座らずに、鹿野さんと話しをする。

「ちょっとね。お腹も減っているし」

「昨日みたいに話せればいいなって思っていたんだけどなぁ……」

「ごめんね」

そう言って、鹿野さんから離れる。本音を言えば、鹿野さんと話していきたいけど、なぜか今日は早めに帰ってこいと言われているのだ。

名残惜しいが、僕は河原を離れて自転車に跨る。

走りだす前に鹿野さんが座っていたベンチに目を向けた。少し声をかけようかと思っていたのだが、もう鹿野さんは居なかった。僕がベンチから目を離したのは一分あるかないか。

その間に、この辺りから姿を消したのだ。僕は辺りを見渡して鹿野さんを探す。だけど、全然見当たらない。

度々、鹿野さんには変な感覚を感じさせられていたが、ここまでなのは初めてだ。よく分からないことを言うだけに留まらず、行動にもそれが現れた。

額から垂れる汗を拭い、僕は自転車に跨った。たま辺りを見てもきっと、鹿野さんは居ないだろうから。

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