8月6日

 今日もいつも通りの時間に家を出る。

一昨日みたいにやりかけの数式なんて無いので、普通に自転車を走らせていた。

だから色々と考えている余裕が僕にはあった。あの少女が何者なのかを考えつつ、河原に差し掛かる。前方は見えているが、ボーっとしながら自転車を走らせていた僕は、急に視界に入る人影に驚いて急ブレーキをした。

金切り音が耳を劈き、僕は慌てて自転車を脇に寄せて、尻もちをついている人に声を掛けた。

「すみません。大丈夫ですか?」

「あっ……はい。大丈夫です。驚いて尻もちついちゃったけど」

そう笑いながら言うこの人、否、この少女は、ちょうど僕が何者なのかを考えていた少女だ。

接触してしまったかと焦ったが、そんなことはない様子なのでひとまず安心した。

安心したのと同時に、これとない絶好のチャンスだと思った。朝も夜もここにいる訳が聞けるかもしれない。

だが、僕が口を開く前に、少女から訊いてきた。

「君、毎日土手の上を通るよね?」

「はい……」

僕はおどおどしながら答える。

こちらを見る少女に、僕は視線を少し背ける。こんなに近くで見るとは思ってなかったからだ。

「今日は私がいつもより出てくるのが遅かったからね。君はいつもこの時間だよね?」

その少女は笑いかけてくる。

僕はその笑顔を直視できずに、目線を背けたまま答えた。

「そうですね」

僕が答えると、その少女は土手から降りたところにあるベンチに行こうかと誘ってきた。時間的には問題ないので僕は付いて行く。

 ベンチに腰掛け、リュックサックを下ろして膝の上に置いた。一息吐いた少女は、僕にあることを訊いてきた。

「土手を通る度にこっちを見ていたよね? どうかしたのかな?」

突然、そんなことを訊いてきたのだ。まさか、よりにもよってそのことを訊いてくるとは思ってなかった僕は、少し回答に迷いつつも素直に答える。

「季節に合わない長袖を着ていたからかな? それに、朝も夜もいるでしょ?」

「それで気になっていた、と……」

少女はクスクスと笑う。一方、僕は恥ずかしくなった。結構、見透かされている。しかも初対面の少女に、だ。

「なんだか、初めて男の人にちょっかいを出されたような気がするよ」

「えぇ?! ちょっかいを出したつもりは無いですけど……」

楽しげに少女はそういうが、僕には違和感があった。『ちょっかいを出す』という言葉、何だが意味が咬み合ってないような気がするのだ。

僕としては、『お節介を焼く』みたいな意味だと思っていたのだが、少女の言い方は全然違っていたのだ。『ちょっかいを出す』という言葉には他の意味もあるので、多分そっちの意味で言ったのだろう。だとしたら、それは多分『男性が戯れ心で女性に言い寄る』という意味の方だろう。今風に言えば、『ナンパ』のことだ。

僕はそんなつもりは無かったのだが、そう捉えられてしまったらしい。

「そうなの?」

「僕はそう思っています」

頬を掻きながら僕は答える。

『ちょっかいを出す』の本意を訊いても、変な風に思われるだけだ。

「それで、お名前は?」

考え事をしていた僕に、少女は訊いてきた。

「あぁ……僕は三枝 航一といいます。貴女は?」

「私は鹿野 葉月。なんかの縁ね、よろしく」

鹿野 葉月と名乗った少女は、そうニコニコしながら言う。

僕はまた、その笑顔から目線を逸らして、あることを訊いてみた。

「鹿野さん。訊いてもいいですか?」

「ん? どうぞ」

「どうして、いつもここにいるのですか?」

そう訊くと、鹿野さんは視線を逸らして考える。数秒間経つと、答えを言ってくれた。

「何でだと思う?」

いたずらっ子っぽく言った鹿野さんは、八重歯を見せてニコッと笑った。

なんだが誤魔化された気がしなくもないが、答えたくないのだろう。僕はこれ以上、訊かないことにした。

「三枝くんは何歳なの? 私は一八歳」

突然、鹿野さんは歳を訊いてきた。僕はそれに反射的に答える。別に隠すつもりもない。

「同い年ですよ。僕も一八歳」

初対面で若い人が相手なら、そういう話題を出すのは当然だろう。そんな質問に続けて、鹿野さんは色々と話してくれる。

「同い年なら敬語はやめようよ。とか言っている私は、最初から敬語じゃないけどね」

「そうだね、やめるよ」

「うん!」

敬語をやめたのはいいが、会話が止まってしまった。

数秒間だったが気まずい。鹿野さんも同じことを思っていたのか、すぐに話しを振ってきた。

「今もだけど、そのザックには何が入っているの?」

僕の膝の上に乗っているリュックサックを見ながら、鹿野さんは訊いてきた。ザックという単語はほとんど聞かないが、多分リュックサックのことを指しているのだろう。

僕はそう決めつけて中身を口で教えた。ここで出してもいいのだが、片付けが面倒だからだ。

「テキストだよ。大学入試があるからね」

「テキスト……ってなに?」

鹿野さんは首を傾げて訊いてきた。テキストがなんだか分からないなんて、そんな単語を普段は使っていないのだろうか。

僕は仕方がないので、リュックサックの中からテキストを出した。科目は英語。今日の一限の科目だ。

「これがテキスト。参考書とか教科書って言えば分かる?」

「うんうん! 分かるよ! へぇ~、英語かぁ……。私、習ったことないなぁ」

そんなことを鹿野さんは口走った。

英語を習ったことがないなんて、日本に住んでいる限りあり得ないことだ。義務教育で九年間学校に通う義務があるはずなのに、鹿野さんは習ったことがないなんて。僕には考えられない。だが一つ、習わなかった理由を挙げるとすれば、不登校だ。

不登校で中学校に三年間通っていなかったのなら分かる。だけど、鹿野さんの言動を思い返すと変なところが多い。普段、僕たちが使わないような単語を言うのだ。例はザック。

初対面の人間に僕はそんなことを勘ぐっていたが、失礼だと一方で感じていた。

「それとさっき、大学入試って言っていたね?」

「うん。行かなくちゃいけないからね」

「凄いなぁー!」

何でここまで反応するのだろうか。と、僕は不思議だった。

だが、さっきも考えたように、あまり初対面の人間に訊いてもいけないと思い、違うことを訊いてみることにした。

「そういえば鹿野さんって、この辺に住んでいるの?」

「そうだよ。ここから少し行ったところにある家に家族で住んでいるの」

やはり違和感がある。

この辺りに住んでいて、日陰のない道を昼間に歩き回っているのなら、鹿野さんの肌が日に焼けないのはおかしい。日焼け止めを塗っていたとしても、あまりに色白過ぎるのだ。

「へぇー」

とりあえず、疑問は押し殺して相槌を打つ。その仕草をしたときに、腕時計に自然と目が行ってしまった。時刻としては、家を出てから一○分経ったか経ってないかくらいだ。

そろそろ予備校に向かった方がいいだろう。

僕は英語のテキストを返してもらい、リュックサックに仕舞うと、鹿野さんに伝える。

「ごめんね。そろそろ行かなきゃ」

「うん。そうだろうな、って思っていたよ。私は夜もここに来ているから、そのときにも通るでしょ? 時間に余裕があったらまた三枝くんと話がしたいな」

「分かったよ。じゃあね」

僕は鹿野さんの言った言葉に、少し胸を踊らせながら自転車に跨った。




 予備校に着き、いつものようにタオルで汗を拭きながら冷房の風にあたっていると、アイツが僕に話しかけてきた。

「おはよう。今日は少し遅いじゃないか」

「まぁね。野暮用があったから」

そう言いながら汗を拭き終わった僕は、タオルを首に掛けて制汗剤を取り出す。

「……なんかいいことでもあったのか?」

突然、コイツはそんなことを言ってきた。表情はニヤニヤしているので、多分僕の顔を見て分かってしまったのだろう。いいことがあったのだと。

「どうだろうな」

そんな僕はコイツに教えてやらない。そもそも言ったところで、女の子の話だ。きっと、見に行きたいとか言うに決っている。連れて行ってもいいが、遅い時間にコイツが僕の家の方まで来るとは思えない。

そう考えると、教える必要がないのだ。

「ちぇー。……まぁいいか。あんまり制汗剤つけすぎるなよ」

「分かっているって」

そんな日常的な会話をして、僕は制汗剤を身体に塗る。

少ししてから、リュックサックを持って講義室に向かった。

 今日の講義は昨日とは違う。実践方式だ。講師がランダムで選んだ入試問題を制限時間内に解く、という講義だ。

この講義は正直、有り難い。入試問題は解けば解くほど自分の力になっていく、と僕は考えているからだ。

正解すればより上を目指す。不正解ならば間違いを正す。そして、講師に見てもらうのだ。これを繰り返していき、覚え、自分の糧にしていく。

だから僕の帰る時間が遅いのだ。

本来ならば、この毎日行われている夏期講習も午後四時くらいには終わるのだ。だが僕はそんなことをしているので、大体午後九時くらいに予備校を出る。

 今日も陽が沈んでから帰路に着く。

少し涼しくなった風を切りながら、自転車を走らせていく。明るい街から、段々と街灯が少ない田舎に入っていく。

僕はそんな道を急ぎ気味で走っていた。

そう。帰りに鹿野さんに会うためだ。

もうこの時間には鹿野さんと何を話すかで、僕の頭の中は一杯だった。ほんの数分間しか話せていないけど、鹿野さんと話すことが少し楽しみになっていたのだ。

 自転車を漕ぐ力はどんどん強くなり、姿勢も立ち漕ぎに変わっていく。

河原に差し掛かり、自転車を傾けながら土手に入っていく。そして、目を凝らして鹿野さんを探すのだ。

鹿野さんはすぐに見つけることができた。朝に居た場所と変わらずに、今回は川をしゃがんで覗き込んでいた。

自転車を降り、リュックサックを背負って鹿野さんに近づいていく。街灯のないこの辺りでは、月明かりが街灯の代わりをしていた。

「こんばんは」

僕は鹿野さんに話しかける。朝に約束したから、驚くことはないだろう。まぁ、時間があればと言われていたが、別に急いでいる訳では無いから来た。

それに夜も通っていることを知っていたので、僕がこの時間に来ることは分かっていたのだろう。

「あ、こんばんは。そういえば、朝に聞きそびれちゃったけど」

挨拶を交わした鹿野さんは突然訊いてくる。

「いつもここを通っているよね? 何しに何処へ行っているの?」

そんなことを訊いてくる。

月明かりの下、僕と鹿野さんはベンチに腰を掛けた。

立ち漕ぎをしていたからか、少し出ていた汗をハンカチで拭きつつ、僕は回答した。

「予備校に行っているんだ。すぐそこの街のね」

「そこの街に行っているんだ。へぇ~」

リアクションする鹿野さんが重ねて質問してきた。

「予備校ってなに?」

予想外の質問に、僕は目をパチクリさせる。

どういったものか分からないが、それらしく答えればいいだろう。そう思いながら答えた。

「入試とか試験を受ける人に、知識とか情報を教えてくれる会社みたいなものかな? 最も、僕みたいに通っている人のことを受講生とかって言っているし、学校みたいなものだよ」

「学校みたいな?」

「うん」

ちょうど、リュックサックに入っていた夏期講習のチラシを思い出し、それを鹿野さんに差し出す。

「ほら。学校みたいでしょ? こうやって講義を聴いて勉強をしているんだ」

「そうなんだぁ!」

鹿野さんはニコニコと笑う。とても楽しそうだ。

だけど、鹿野さんはそのチラシに目線を落としては、少し顔を歪めていた。その理由は分からないが、多分、両親に大学進学を反対されているのだろう、と僕は勝手に考えた。

そうでもなければ、こんな風に顔を歪めることなんてない。それに、今思い出したが、鹿野さんは英語を習ったことが無いと言っていた。英語ができなければ、大学には入学することは出来ない。

 そんな鹿野さんの表情を見るのが、僕はなんだか嫌に思った。なので、話を逸らすことにした。

「そういえば、喉乾いた?」

「え? 乾いているけど、どうして?」

キョトンとする鹿野さんに、僕はペットボトルを差し出した。中身は紅茶。ここに来る前にコンビニで買ったのだ。

中身は僕の独断と偏見で買ったものだが、鹿野さんは受け取ってくれた。

「水かと思ったよ。ありがとう」

「どういたしまして」

礼を言われながら、僕は自分のものを開ける。中身はサイダーだ。今日はそんな気分だっただけ。

一方で鹿野さんは、不思議そうにペットボトルを回して見ていた。

どうしたのだろうと思い、訊いてみる。

「どうかしたの?」

「こういうの、開けたことがなくってね。どうやって開けるの?」

そう訊いてきたのだ。

僕は余計なことは詮索せずに、持っていたペットボトルでやってみせた。

「このキャップをしっかりと握って回すんだ。そうしたら音が鳴るから」

そう説明をして、鹿野さんを見守る。

鹿野さんは説明通り、ペットボトルのキャップをしっかりと握って開けた。

空気の抜ける音と共に、ほんのりと紅茶の香りが漂う。

それを口につけた鹿野さんは少し飲むと、あることを話してくれた。

「私ね、こういう飲み物は飲んだことがないの」

ただそれだけを言って、またペットボトルを口につけて傾ける。

結局、それ以降は色々な話をした。

大体は鹿野さんが話していたが、僕には少し引っかかっていることがある。

話す内容は大体がお菓子の話。しかも駄菓子ばかりだ。それだけなら別に『駄菓子好きの女の子』で片付けることができる。だけど、僕が小さい時によく買っていたような駄菓子の名前は1つも出てこなかったのだ。ポン菓子や飴玉とか、そういうものしか出てこないのだ。しかも決まって、飴玉はべっこう飴やドロップスみたいなもの。

それが僕には気になって仕方がなかったのだ。

だが同時に、僕は心の引っ掛かりを有耶無耶にしていた。色々と新鮮だとか理由をつけて。




 鹿野さんと別れる前、家まで送ろうかと言ったら断られてしまった。下心無しで、単純に心配だから言っただけだったが、断るのは当然だろう。今日初めて話をした人にそんなことを言われたら、普通なら警戒しない訳がない。

だけど、断り方がなんだか引っかかる。

『ううん、大丈夫』

言葉だけ聞けば普通だ。だが、表情が違っていた。そんな言葉を言うような表情じゃない。それまでの表情は一貫して笑っていた。だけど、断ったときは笑っていたが違う。話をしていたときのリアクションで出てくる笑みではなく、張り付いたような笑顔。作られた笑顔に見えたのだ。

 変だと思いつつ、僕は家に帰り夕食を食べると、自分の部屋で参考書を開く。深夜になっても、僕は受験生だから勉強をし続けなければならないのだ。

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