『所感』
矢口晃
第1話
ここは都内にあるとあるライブハウスである。まだ開演には三十分ほどの時間があるが、会場の中はすでに主人公Aを始め数十人の人手でざわざわとざわつき始めている。主人公Aはその会場に一人で来ている。周りはおよそ十代か二十代と思われる若者たちで占められている。その中に彼一人、上下スーツで柄の冴えないネクタイを締め、足首の見える短い靴下にニスの剥げた革靴を履き、頭は薄毛で縁のついた眼鏡をかけた四十歳の男が混ざっているのである。彼が会場に入ったときから、会場の全体には何か彼に対する排他的な空気が漂っていた。確かにその格好だけでも、彼はこの会場において注目されうべき存在であるに違いなかった。ところが彼の余計衆目を集める原因となったのはそればかりではない。彼は会場に入るや空いているパイプ椅子に座り、持参した弁当を何食わぬ顔で食べ始めたのである。それも西洋風の弁当であったならまだしも救うべき余地はあったかもしれない。しかし彼の食べているのはのり弁である。恐らく白米には醤油がたっぷりとかけられているのに違いない。彼は開演前の気分を盛り上げるためのBGMが会場中に鳴り渡る中、黙々と一個ののり弁と勇敢な戦いを挑んでいるのである。周囲には彼の弁当から発せられるのりと、白米と、おかずの唐揚げの匂いが早くも芬々と漂い始めた。若者たちの彼に対する顰蹙の眼差しは一層強くなるばかりだ。彼はそのようなことは我知らず、あくまでも真剣にのり弁と向き合うのである。たくあんを噛む音さえ勇ましい。
やがて会場の一隅ではひそひそとした声で、それでも幾分かは聞こえよがしに彼に関する品評が持ち上がる。茶色い髪をライオンのたてがみのように四方八方へぼうぼう伸ばした若い男が隣の男に囁く。
「おい見ろよ、あのおっさん。のり弁なんか食ってるぜ。正気かよ?」
そう言われて、やはり主人公Aを侮蔑を含んだ目つきで睨みながら答えるのは、耳にも唇にもたくさんの銀の輪をぶらさげた、自傷癖があるのか、はては土着の先住民の血液を濃くひきついだのかしたこれも若い男である。
「へっ。宇宙人なんじゃねえ?」
二人の彼に対する噂は、これ以上発展しなかったようである。なぜならそのころ主人公Aは、弁当箱の中をすっかり空にさせ、満足そうな表情を満面に浮かべていたからである。
さて、それからおよそ三時間の後、主人公Aはライブハウスからほど近いビジネスホテルの一室で、なにやらパソコンに向かって熱心に――あののり弁に対していた時のような熱心さをもって――ひたすら文字を打ち込んでいた。それもそのはずである。彼は今ある使命を果たすために懸命の努力を費やしている最中なのであるからだ。
彼の作成しているのはどうやらEメールの文面のようである。
彼、すなわち主人公Aはその後やっとEメールを送信し終わると、ビジネスホテルの柔らかな椅子の上に座ったまま大きく背伸びをした。その顔色には使命を果たした達成感と安心感とがありありと見て取れる。彼は明日からも、まだしばらくはこの報告を続けなければならない。しかしその倦怠感も、この時ばかりは一時忘れさっていたようだった。
さて、彼の送信したEメールの内容であるが、それは概ね以下の通りであったらしい。
「報告します。私の降り立った国は地球でも文明の大いに発達した部に入る、日本というところでした。地球でも指折りの文明国とかねて聞き及んでいた私は、その国家に住む人々はどれほど学識に富み体力面でも秀でていることかと大きな期待をもって観察したのですが、私の見たところによると日本という国家に住む人々は、残念ながらそれほど知力にも体力にも見るべきところはないようでした。
彼らの話す内容に私は耳を傾けたのですが、取り立てて報告に値するようなことがらは一つも含まれていないようでした。話す言語も一人一か国語に限るようですから、三日もあれば地球に存在する概ね八割の言語を理解できる我々惑星の民族とは知力は比べるところはないようです。
身体も全体的に非常に細く、握力も弱くできているようです。なぜなら彼らは、我々の惑星ではもろ過ぎて食器などにはとても使えないガラスでできた杯を、握って割ってしまうこともなく恒常的に扱っているようでしたから。
彼らは夜間暗い室内に集団で屯し、我々の惑星では二千年前くらいに滅びた民族楽器に大変よく似た楽器を用い、取り留めもない音楽を奏で、それに合わせて腰や頭を振る踊りを非常に愛好しているようです。その動きは、フライパンで炒られる蜂の子の動きに酷似しているようです。
そして彼らは一様にアルコールを好んで摂取しております。アルコールを水素と同等の劇物として慎重に扱っている我々の惑星とは、これが大きく異なる点かと思われます。
とにかく、日本という大国の民ですらこの程度ですから、その他の民族については言わずとも知れた気が致します。我々がその気になれば、この程度の惑星を侵略するのに三日も要さないことでしょう。何しろ新鮮な塩が大量にほしい我々にとっては、豊富な海水を有するこの惑星は侵略にうってつけだと言えましょう。
できるだけ早く――地球人が、アルコールで爆弾を作ることを発明する前に、この惑星を我々の所有に収めたいというのが、地球にきて一日目の私の所感であります。
ただし、最後に付記しておきたいのは、この星の『のり弁』なるものの、すこぶる美味であるということであります」
『所感』 矢口晃 @yaguti
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