成し遂げるには棄てなければならぬ Ⅱ
「とりあえず、私の家に来て。お茶を出すから。もう夕暮れよ」
女の人が言っていた薬という言葉に、ここに来た目的を思い出す。僕は女の人が誘うまま家へと入って行った。
中はこじんまりとしてあまり生活感がない。家具が無く綺麗というよりも無さすぎる。だが、部屋の奥の棚は溢れんばかりに本が散乱している。
なにか違和感があった。
この天井が低すぎる事にも不自然に思ったが――。
「あぁ、ごめんね。まだ引っ越してきたばかりで荷物が無いのよ。先代が亡くなった後、使われてなかったし。本がたくさんあるだけね」
そういうことか。
「天井が低いのは何故ですか?」
僕の身長は高くない。だが、それでもこの天井は低すぎる。普通の大人だったら入れないんじゃないか。
「ここは地下に掘ったからよ。だからそんなに高く作れなかったらしいわ。元々身を隠すための防空壕、といった感じかしら」
防空壕……、僕はその言葉を繰り返す。
何故低いのかは分かったが、何故身を隠す必要があったのか。
だが、それは今聞くことではない。
「あの、引っ越してきた、と言いましたよね? 僕は御主人様に薬を買って来てくれと言われてここにいるのですが、ここではないということですか?」
「いえ、ここですわ」
僕は少し首を傾げる。
「ジャック=フェレッティ様ですわね。私がここの主。店のオーナーです。以後お見知り置きを」
僕の名前は御主人様が言ったから知っていたのかもしれない。前々からここに来ると言いつけてあって。女の人は僕に深々とお辞儀をする。僕は慌てて止めようとした。
「いえ! いえ! 僕にお辞儀をしないでください。僕はただの使用人ですから。様とか敬語とかもやめてください。あと僕はフェレッティ家ではありませんから、それも……」
と、言いかけた時。女の人はニッコリと微笑んで言った。
「いえ。間違いではありませんよ」
その意味がその時は分からなかった。
「ジャック様?」
「え、あぁ……、慣れないよ。様呼びなんて。せめて君で。僕は貴方よりも年下ですし」
それもそうですわね。女の人はそういうと、
「ジャック君。これでいいですか?」
僕は話を逸らすように頷いた。
「あの……貴女様の名前は……」
「いやね、子どもが敬語を使うんじゃないわ。子どもらしく『おばちゃん、名前は?』でいいのに……」
いや、そんなわけにはいかない。僕は仮にも召使いで、主人の命令は絶対なのだ……。例え年上だとしても、敬語を使わない理由なんかない。
それが急に敬語を忘れた庶民の女性だとしても……。
僕が困っていることが分かったのか、女の人は小さく口元で笑い、言葉を続けた。
「そうねー、どうしようかなぁー。リュビでいいわね。遠い場所に預けた私の子なのよ。今はいないけど、きっとそのうち会えるようになるわね」
それはなに一つ答えになっていないのではなかろうか。
名前を聞いて、子どもの名前を出す。なにかからかわれているような嫌な気分だ。
「あの、ですね!?」
「あら。やっと口調が荒々しくなってきたわね」
あ、と思って口を閉じたが遅かった。
「おばさんが僕を馬鹿にすることを言っているからじゃないか!」
言ってしまった後で後悔した。
手で口を押さえ、女の人の顔を見ないように顔を伏せた。
いつもの癖だった。僕は元々孤児で、敬語なんて貴族しか使わないものはここ数年で身につけた。物覚えは良かったが、性格的に口が悪いのは隠せず、ついつい出てしまう。
そうして出るたびに躾役の召使いに叩かれた。
だから……、意識をして耐えていたのに!
「そんな、怯えなくていいから」
女の人はそう呟いた。顔を上げていないから表情は分からない。
「ジャック。私もさっきの事はあの恐い貴族様の息子だからこその敬語よ。でもここでは貴方は子どもで、まだ十五。あら、そういえば貴族様は十六で成人だったかしら? その時になれば分かるわね。貴方の誕生日はいつ?」
ころころと話が変わるのは女の人の表情と同じだ。僕はとりあえず最後の質問に答える。
「……分からないんだ。僕は孤児で、ご主人の息子じゃない。僕はお嬢様の誕生日のために来ただけで……」
「貴方って意外にも強情なのね。あの人の最後の台詞まだ分かってないの」
女の人はため息を吐いて、冷め切った紅茶を流し込んだ。
「……それは」
どういうこと?
そう聞こうとした瞬間、女の人は立ち上がり去ってしまった。
まるで、先を聞くのを遮るように。
「ねぇ、ジャック」
僕はふっと顔を上げる。
「晩御飯は何がいい?」
今までの話が初めからなかったように、女の人はとびっきりの笑顔でそう言った。
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