écriture Ⅰ

「あれ、彼は?」


「お坊ちゃんなら今日はお風邪を引いてしまわれたそうで、しばらくお部屋でお休みなされております。お嬢様のお世話はわたくしめが行いますので、その間のうちはどんなことでもお申し付けください」


 侍女はそう言って部屋を出て行った。


 ドアを閉めた後、急ぐような足音が聞こえた後、やがてなにも聞こえなくなった。


 そういえば下の階が騒がしく、慌ただしく動いている。カーテンを開けて下を見ると、馬車の中から出てくる人影。おそらくお医者様か薬剤師。広い庭を使用人達が駆け回っていた。


「ふう」


 私は寝台に座って部屋を見渡した。


「今日は来ないのか」


 彼。自分の執事である彼は風邪でお休み。


 侍女がさっき「お坊ちゃん」と呼んでいたこの家の養子であり、唯一の後継ぎだ。なぜ、養子である彼が唯一の後継ぎかという説明は、一言では言い表せない。訳があって外に出され、この家から十四年も離れていた三男坊の彼が、再び戻ってきたのは、一年ほど前のことだ。養子と表向きには言っているけども、実際は正式な三男坊であり――、後継ぎである。


「風邪……ね」


 お兄様二人は流行病で死んだ。


「そりゃ使用人達が大慌てなのも分かる気がする」


 彼が死んだら、この家を継ぐ者はいなくなるのである。


 私は幼い時から体が弱く、外に出ることはおろかこの部屋を出ることも難しい。だから、私の世話は彼がしていた。


「今日は暇になりそうね」


 私は寝台に横になって、本を開いた。彼が大好きな英雄様の伝説の本。いつもなら私が起きる時を見計らって彼が部屋に来てお茶請けや食事の世話をするのだが、今日は誰が来るのだろう。


 暇で暇で気が狂いそう。


「大丈夫かしら……」


 たいした風邪でなければいいのだけれど。もし流行病だったとしたら、彼のお世話をしている周りの人達にも移ることになる。


 そうなればおしまいだ。


「こんな時、私が動けたら看病できるのに……」


 いつも優しい彼を、看てあげることもできない自分の不甲斐なさに呆れ、私は目を閉じた。




 ◆◇◆◇◆




 昔からこんな夢を見る。


 熱でうなされ寝台へ横になっている時、薄らぐ意識の中ぼんやりと天井を眺めている時か。頭がぼうっとして息が上がっていて、息をすると咳き込んで苦しくて堪らない時だ。


 幻覚なのか天井がぐるぐる回っているような気がして、ぐにゃりと空間が歪んで見える。心臓の鼓動は早く、全身が心臓になったような感覚だ。それほど心拍数が早い。


 バッコンバッコン。


 そんな奇妙な音がする。


 目を瞑ると楽で、このまま目を覚まさなければ本当に死ぬのではないかと思うのだ。


 いや、それで楽になるならいいのかもしれない。


 もちろんこれが夢でないことは分かっているし、自分は幻覚も見ていない。自分の身体が弱いのが風邪という身体異常によってより酷い症状が出ているだけ。これが現実で、いま実際に起きていること。死ぬと錯覚するほど苦しいのは、風邪のせいだ。風邪のせいだから、気が滅入った訳ではないのだ。


 本当に死ぬなら苦労はしない。


 天井をじっと見つめ、負けてたまるものかと堪えて耐え抜く。


 絶対に負けてたまるものか。


 普通の人にとってはただの風邪だろう。貴族の跡取りでなければ風邪ぐらいで騒がれることもない。流行病みたいな恐ろしいものでなければ、普通に治るだろう。


 でも、多分、私は違う。

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