Ep.37 鏡の悪魔Ⅰ

 しばらく気を失っていたのだろう。


 ズサっと何かが滑り落ちて我に帰った。血だまり。


 その真ん中に僕がいた。シュルシュルと光が身体に吸い込まれて、また重くなる。この瞬間は気味が悪い。じわじわと流れ込む血の匂い。慣れない。左眼がズキズキと痛む。強い魔法を使うといつもそうだ。床に転んだモノはもう動かない。何度だって慣れない。慣れない。


 慣れてたまるものか。


 ロドルは黙って部屋を出ようとした。汚れた服はもう使えない。服は着替えてきたものの、少し勿体無いことをした気がする。返り血で赤く染まったワイシャツ。真っ黒いズボンは血を吸い込んでじんわり重い。


 もうこの服は着られない。


 屋敷はなんの音もしない。血だまりを踏んづけたせいで、足跡が赤く点々とついていく。靴底の血をカーペットでこすって削ぎ落とした。ああ、嫌だ。今すぐ着替えたい。


 倒れたモノの後ろに鏡があった。ロドルはその前に立って、中で笑みを浮かべるあいつを睨んだ。自分と同じ姿をした鏡の中の自分。鏡を叩き割ろうとした時、慌てた声がした。


「ちょっ! ……割らないでよぉ。割れたら俺が出てこられないじゃん?」


「……出てこればいい。そこから監視ご苦労さん。早く出ろ。でなければ割る」


「怖っ! ちょっとぉ。そんな怖い顔しないで? 可愛い顔が台無しだよ?」


 鏡の中の自分と同じ姿のあいつはケタケタと笑う。何がそんなにおかしいのだ。


「あー、面白かった。ちょっとそこどいてね」


 僕が睨んでもこいつには何の意味も無い。こいつを殺せないのは知っているし分かっているからだろうか。


 ロドルが移動すると、あいつは出てきた。


 自分と同じ姿。忌々しい。


「僕の姿を借りるのはやめろ。反吐がでる」


「口悪いよぉ? ……昔は素直で可愛かったのに」


「やめろ」


 ロドルの剣幕にあいつはやれやれと肩を竦めた。


「依頼ご苦労さん」


 別に頼まれたから殺った訳じゃない。


 あいつは徐々に姿を変えて、自分よりも背が高い、いつもの姿になった。黒いコートに黒い髪、ニヤリと常に嗤う口元。


 あいつは服をくるりと見渡して一言。


「お気に入りだったのに」


「何が?」


「お前の姿が」


「……殺すぞ」


「ちょっ! 剣しまって、しまって!」


 剣を見てもなお笑みを浮かべるその様子を見てロドルは剣をしまった。刺しても死なない相手には「殺す」など脅しにもならない。案の定こちらのその様子を見てケタケタと笑っている。


 緊張感がまるで無くて拍子抜けしそうになる。


「それにしても」


 あいつが急に真面目そうな顔になった。


「殺しても良かったのかい? まだ利用価値はあっただろうし、美人だ」


「……美人かはさて置き」


 ロドルは溜息を吐きながら倒れた女の顔をまじまじと見た。目はカッ開いていたけれど、確かに綺麗な顔ではある。


「中身は悪魔を使ってでも頂点に昇り詰めようとした憐れな女だよ。僕を使い、初めは些細な事。段々エスカレートして壊れていくのは決まって人の方さ」


 会った始めは本当に中身も綺麗だった。いつから変わるのだろうか。それとも初めからそうだったのか。


 僕には分からない。


「……悪魔を使ってでも……やりたかったことなのかな」


 手段を選ばなかった者は皆そうなのか。


「契約したお前も同罪だぞ?」


「僕は悪魔。契約しろと言われたら拒否できないんだよ?」


 ロドルが哀しげにいうとあいつは黙った。


「僕がいま殺さなければ、この女は隣国と戦争を仕掛けるつもりだった。隣国――リアヴァレトとカポデリスの全面戦争。自分の手は汚さずに自分の身に被害が及ばないように。その為に僕に『教会を悪魔のせいに見せかけるために破壊しろ』と『敵を減らすために城を破壊しろ』この二つの命令をしたのはこの女だ」


 二つ。この二つだけで国民はパニックだろう。それを聞いて半分実行したのは僕だった。報告をしに来たのは僕で、それを聞いて大喜びだったのはこの女。僕はそれを見ながら『こいつは堕ちた』と確信した。それと同時に決意する。こいつは殺さねばならない。不和をもたらす悪魔に成り下がったこの女は、僕と同じになってはならない。


 そんなところに舞い込んだ依頼。

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