裏切りの赤い月Ⅱ

 斬られたのか、爆発に巻き込まれたのか。


 綺麗な装飾の壁は無残に崩れ粉々になっていた。その場に残っていたのは礼拝堂のパイプオルガンだけ。


 その上に座って見下ろす人影は、にったりとこちらに嗤う。


「それがお前の本性ということでいいのか」


「そうだね……、皆に見せられないのが残念だけど」


 クローチェはロドルに聞き、ロドルは目を伏せた。


 デファンスとセレネが魔法陣に消えた後、ロドルはその姿をしばらく眺めてから、ぴょいっと飛んでパイプオルガンの上に座ったのだ。


 数メートルを軽々と――。片手にあの剣を持ちながら。それほど人外な運動神経だ。人間の見た目と変わらぬ十代半ばに見える容姿、黒い少しウェーブした髪を後ろに束ねる青年。声変わりをしていない声は少年のように高いまま、端正な顔立ちの魔族。


 左眼の傷、それだけが顔の傷だった。


「まぁ、これは僕の独断だ。なんの指示もされてないよ」


 ロドルは前を向く。真っ直ぐ俺を見透かす瞳。


 この状況、分かっているのか?


 こっちはエクソシスト二十人あまり、向こうはたったの一人だ。


 こっちは教会に集まった精鋭揃い。勝算はある。


 なのになぜ――、この余裕の表情なのか。


「ふぅーん、余裕そうだって? 僕は確かに十字架が嫌いだし、ここが教会で敵だらけだとは思うよ? だけどね……」


 ロドルはフッと含み笑いをした。


「僕が負けるだなんて、思ってないからさ」


「なにっ!?」


 エクソシスト達は、こぞって口々に「こっちの人数の多さを見てないのか!」や「こんなやつさっさとやってしまいましょう!」と騒ぎ立てる。


 ロドルの言葉は完全に挑発なのだ。乗ってしまえば負け。


 でも――、いつまで体裁が持つだろうか。


 そんな中一人が立ち上がる。クローチェは「あっ」と声を漏らした。この場で一番してはいけないこと。


 それを彼はしようとしていた――。


「クローチェ様! 行きましょう、十字架を手に!」


 彼の手には十字架があった。そんなに大きいわけでもない、聖書に挟み込むようなごくごく小さいものだ。


 それは一瞬の出来事だった。


 風切り音が空間に響き、エクソシスト達は一斉に目を見開いた。本当に一瞬の出来事。クローチェの頬にはまだ生ぬるい液体が掠め去る。さっきまでパイプオルガンに座って、こちらを見下ろしていたはずのロドルが目の前にいた。


「だからね? 十字架は嫌いだって言っただろう……?」


 ロドルはあの剣を手に、青年の体ごと十字架を真っ直ぐ貫いていた。ズブズブ、と肉に刃物が突き刺さる。


 剣は深くまで刺さって行く。


 辺りに飛び散る血飛沫、青年は力無く腕を下ろした。


「あーぁ、服が汚れた。殺すの好きじゃないのに」


 どすっ。ロドルが手に持った剣を勢いよく抜いた衝撃で、それは地面に落ちた。


 ロドルの燕尾服は、真っ赤な血の色に染まっていた。


「これで、満足かな」


 ロドルは舌舐めずりをし、クローチェに向き合った。


「僕が魔王ゼーレと違い、人間に復讐したいだけではなく、エクソシストの組織事態に恨みがあるのは知ってるよね」


 ――なぁ、クローチェ?


 足元に従う剣は、赤黒くなった血をそのままにして、彼が歩くたびに滴り落ち、地面に紅い模様を作る。彼の燕尾服の黒と、彼の死人のように真っ白な肌と、返り血の赤。


 思考能力は恐怖心で削ぎ落とされる。


 隙でもあったなら、ここから逃げ出したい衝動に駆られる程の威圧感。だが、逃げることは許されない。


「どうしたの? 倒すんでしょ」


 ロドルは剣を下ろして呟く。人を見る目ではなく、まるで物を見ているかのような冷徹な視線。凍てつくように冷たい瞳には、光など何もない。それはまるで残酷な子どもの遊びのように――、彼はたまに楽しそうに笑うのだ。


 ああ、残酷。それを見て隙ができたと勘違いをし、彼に向かった何人かは――、無残にも切り捨てられた。


 無表情で長剣を振るさまは、どこかの絵画になるほどの荘厳なる景色。けれど、今の心境で言えば言葉に出来ない。


 冷酷、残酷。


 浮かぶのはそれらの言葉のみ……――。


 バタバタと倒れる同胞。ロドルの足元に重なるように落ちていく。地面の蟻を、巣から出てきた順に潰して殺す。そんな子どもの遊びのように。彼に向かえば斬り殺される。


「だから、使わせないでって。そんなんじゃ、僕には顔に傷一つ、つけられないよ」


 そう言って頬についた血を拭う。


 魔術でも使ったのか、シュルシュルと消えていく血痕。


 千年前に書かれたとされる魔導書に、ある一文がある。作者は不明。彼を呼びだすための魔法陣と彼の肖像画。そして彼の悪魔としての名前――。彼の伝え文とはそれくらいで、どこの生まれであるかも、どうして千年も前の魔導書に名前があるのかも、目的も、不明とされている。


 ――ホルド・ルチーフェロ。


 これが本当の名前である確証も何もない。


 ただ、一つ言えることがある。この悪魔は『どんな命令でも遂行し、手段を選ばない』――ただ、それだけ。


「もっと僕を愉しませてよ」


 呪文を一言も口にしない、本物の悪魔の姿がそこにあった。

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